大虐殺記念館③

南京事件をテーマとした「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」のリポートを更に続ける。

この記念館で南京事件がどのように伝えられているかを詳しく書くことを目的にしている。

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前回書いた「集団虐殺」の次に展示されていたのは「個別分散虐殺」という項目だ。その説明を見てみる。

「日本軍は狂気じみた集団虐殺を行うと同時に南京の大通り、路地、庭のある住宅、お寺、尼寺、村落、田野などでほしいままに人を殺したため、南京城内外のいたる処に死体が横たわっている。1946年中国南京日本戦犯裁判軍事法廷の調査立件によると個別分散虐殺は858件、分散して虐殺されたのが確認された。南京の慈善団体によって埋葬された死体は15万体余りである。」

殺害方法で分類されている。最初は「中国人を銃殺する」だ。

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「日本軍に銃殺された三歳の南京児童」

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「日本軍は僧侶を撃ち殺す」

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2枚組の写真で「日本軍部隊に殺害された中国農民」

続いては「中国人を斬り殺す」。

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「日本軍は軍服を脱ぎ、力をこめて中国人を叩き切った。」

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「軍刀で中国庶民を殺している様子」

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「凶暴な日本軍に斬られ、顔中血まみれになった南京青年」

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「日本軍に斬られた中国人の頭部はバリケード上に置かれ、唇にタバコを加えさせられていた。日本軍はそれを楽しんだのであろう。 1938年1月10日発行された雑誌『ライフ』より」

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「中国人を焼き殺す」と「中国人を溺れさせる」。

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「南京で日本軍に石油で焼かれた中国人同胞 『日寇暴行実録』より」

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「処刑された中国兵士は池に投げこまれた。処刑と呼んだのは、被害者が後ろ手に縛られていたからである。これは典型的な方法で、日本人はこの方法で数万人の中国兵士と庶民を処刑した。 米ジョンマギー撮影、独ジョンラーべ注釈」

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「中国人を殺す競技」として南京事件論争で必ず登場する「百人斬り競争」の新聞記事が掲示されていた。その説明書きには・・・

「1937年12月14日、日本『東京日日新聞』掲載新聞記者浅海氏、鈴木氏は南京紫金山麓で野田毅、向井敏明の殺人競争を取材した。その時、向井敏明は百六人、野田毅は百五人を殺していたが、どちらが先に百人を殺したのか判断できないから、百五十人を目標として、競争を続けることを約束した。」

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さらには「楽しみとして中国人を殺す」という項目が登場する。

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「この写真は、捕虜となった日本軍人より没収したもので、日本軍人が殺人を楽しんでいることの証明である。 『日寇暴行実録』より」

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上の2枚は共に、「ひげの生えた日本兵は、次々と中国人を切り殺した後、軍服を脱いだ。 中国第二歴史書類保存館所蔵」という説明がつけられていた。

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「日本軍人が南京で人を殺した後、刀に付いた血をぬぐっている。 『中国抗戦画史』より」

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「中国人を生き埋める」。

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「日本軍は南京市民をいき埋めている  『日寇暴行実録』より」

ここでようやく殺し方別の写真パネルが終わった。息苦しくなってくる。周りの中国人たちも真剣な表情で説明書きを読み込んでいる。強烈な記憶がみんなの脳裏に焼きつくことは間違いない。

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虐殺に関する展示の最後に一人の女性のインタビュー映像が流されていた。

夏淑琴さんだ。

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「私は1929年5月生まれであった。1937年12月13日、日本軍は南京城南中華門東新路口5号の私の家に突入して来た。何の訳もないのに私の母方の祖父聶佐成(70数歳)、母方の祖母聶周氏(70数歳)、親父夏庭恩(40数歳)、母親夏聶氏(30数歳)、上の姉夏淑芳(16歳)、二番目の姉夏淑蘭(14歳)、妹夏淑芬(1歳余り)など7人を惨殺した。母と二人の姉は日本兵に輪姦された。私は当時7歳で、体を三箇所切られて気絶し、後に蘇って、4歳の妹と幸いに難を逃れた。家族と同時に遭難したのは、大家の哈国梁一族4人と、外地から来た名字も分からない避難者2人であった。日本兵が離れた後、妹と少しだけのおこげを腹の足しにして、苦しい14日間を過ごした。安全区から帰った隣のおばあさんに発見され、おばあさんは南京安全区国際委員会に報告した。当時の南京赤十字会国際委員の委員長、アメリカ牧師のジョン・マギーは直ちに新路口5号に調査に来て、現場の撮影記録を取った。その後、私達二人は暫く剪子巷の「老人堂」に住まされた。後に、叔父が安全区に避難に連れて行った。」

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夏さんの家、つまり惨劇の現場が実物大の模型で再現されていた。

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入場者たちは真剣な眼差しで入れ替わり立ち替わり「部屋」の中を覗き込む。

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「虐殺」の次は「日本軍による南京での強姦と略奪」に関する展示が続く。

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「日本軍は狂気じみた大虐殺を行う同時に、南京の至る所で、老若の区別なく多くの女性を強姦した。毎日起こった強姦暴行は数百件ないし千件にものぼった。極東国際軍事法廷の判定によると、日本軍が南京占領の最初の一ヶ月の間、南京市内で起こした強姦輪姦暴行は2万件以上もあった。当時、南京市内に残った外国人たちは日本軍を「野獣集団」だと激しく非難した。日本軍はまた盛んに略奪を行った。個人の住宅あるいは政府機関、商店、倉庫から金銀財宝、文物骨董品、車まで略奪した。また、難民の食糧、病院の布団、民衆の家畜までがみんな略奪の標的となった。たとえ外国住民の財産であっても、免れることはなかった。」

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「女性が日本軍に輪姦された後の苦しげな様子を撮影した写真。日本軍捕虜からの捕獲品。 『日寇暴行実録』より」

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強姦した女性と記念撮影をする日本兵の写真。 『日寇暴行実録』より

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「日本軍に輪姦されたため、重病を負った十六歳の南京少女 『日寇暴行実録』より」

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「日本軍が老婦人の服を無理やり脱がせ、その女性たちを強姦した時の写真。日本軍捕虜からの捕獲品。 『抗戦建国大画史』より」

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「日本軍に強姦され、殺された妊婦の内臓が体外に流れ出た写真。 『侵華日本軍南京大虐殺図集』より」

こうした強姦の対策として慰安所が設立された。

「1938年初め、日本軍側は明確な指示をした。「海外駐留の日本軍兵士の強姦発生率を有効に低減し、同時に、それによって日本軍巡邏隊が被占領国の人民に報復されることを避ける為、各部隊は迅速に作戦の間に兵士に性欲を満足させる機関を設立する事」。日本軍側の指示のもとで、「慰安婦」制度が迅速に南京、上海などの地で実施された。南京駐留の日本軍が多い為、日本軍参謀部第二課はわざわざ南京慰安所を設立することを提案し、軍部で審議の上通過した。南京大虐殺の間に、すでに傳厚崗、鉄管巷等二つの慰安所が南京に設立されていた。」

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「旧暦1938年の正月、日本軍が南京に慰安所を設置した。これは日本軍の将兵たちが、慰安所の門前に殺到した様子。 『上海派遣軍司令部記念写真帖』より」

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被害女性のインタビューがモニターに流される。

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数は少ないが被害者の証言も掲示されていた。張秀英さんの証言。

「1937年、私は23歳だった時に、飢餓のため、家族4人とも南京の近郊まで逃れてきた。それは300人あまりの村だった。ある日、日本軍は4、50人の女性を捕まえて、綿入れのズボンを無理やりに脱がせた。下着だけ着ている女たちに空き地を走らせた。走らなければすぐ銃殺した。彼らは寒くてぶるぶる震えている私たちを見ながら手をたたいて笑っていた。その後、一人の日本兵士が私を陶家行の家に連れ込んで強姦した。私が家に帰ったら、日本軍兵士は私の家を燃やしてしまっていた。次女が無残にも生きたまま焼き殺された。」

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強姦に関する展示は量的には少ない。しかし、若い女性たちが真剣に説明を読み、インタビューに耳を傾けていた。同世代の女性の屈辱をひしひしと感じているのだろう。

 

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

 

 

 

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