最近お気に入りのサイクリングコースが西荻窪である。
この辺りの道路は斜めに走っているため、練馬区の新居前の道をただひたすら東に走ると西荻窪に着くことを発見して以来、用事もないのにふらりと西荻まで自転車を漕いでいる。
距離にして片道3キロほど、日々の日課であるサイクリングにはちょうどいい距離なのだ。

西荻窪は知る人ぞ知るグルメタウンで、個人営業の小さな飲食店がたくさんある。
ただ、吉祥寺に住んでいる頃は近くにたくさんの飲食店があったため、お隣の駅なのに西荻窪に行くことは少なく、知っている飲食店も数えるほどしかない。
それだけにこれからは時々、西荻窪でお店探しをしてみようと思っていた矢先、妻が医者と美容院で外出するというので、ひとりで西荻ランチに出かけることにした。
西荻窪駅近くの駐輪場に自転車を停める。
吉祥寺には最初の2時間無料という武蔵野市営駐輪場があちこちにありとても便利なのだが、それに比べて杉並区にはその手のサービスが不足しているようだ。
駅近くの駐輪場は最初の45分が無料、その後は5時間まで100円が必要となる。

北口の路地に入ると、いくつもの心惹かれる飲食店が並んでいた。
しかし、ラーメンの類が多くて、炎天下では今ひとつ入る気になれない。
どうしようかと迷いながら、雑然とした路地を曲がると、一軒の小さな居酒屋に目が止まった。

お店の名前は「大分居酒屋 まな愛」。
3年前にオープンした大分出身の女将さんが切り盛りする居酒屋らしい。
ランチ客にアピールするようにいろいろな張り紙がされていたが、その中にあった『冷や汁始めました』の文字が私を捉えた。
「冷や汁」といえば宮崎だが、暑い夏にはたまらなく食べたくなる。
私はほぼ反射的にお店のドアを開けた。

ところがちょうど12時過ぎなのに、店内はガラガラ、先客は一人もいなかった。
私が入ってきたのに気づいて、奥から女性が出てきたので、「冷や汁ありますか?」と聞いてみる。
「ありますよ」と答えた女性がどうやら店主のようで、彼女は私にカウンター席を勧めた。
店内にはイベントのスケジュールが書かれた黒板や様々なチラシが貼ってある。
「こども食堂もy会っているんですよ」と女将さんが言った。

渡された虹色のメニューを見ると、なぜかそこには私が注文したい「冷や汁」がない。
女将に尋ねると、冷や汁はもともと店のメニューになかったけれど、たまたま常連さんに出したところ評判が良かったので夏メニューとして提供することにしたのだという。
値段は定食スタイルで1200円。
ついでに、大分名物かぼすのドリンクも勧められたので、「かぼすスカッシュ」(550円)も追加してみた。

女将がひとりで料理を作る間、カウンターに置かれていた『西荻観光手帖』というのをパラパラめくってみる。
表紙には『西荻は観光地ではありません。』と書いてあり、冒頭の「はじめに」には次のような文章が綴られていた。
しかしながらその「ふだん着の街」も、見方を変えると観光地にひけをとらない見どころや魅力が湧き出てくるのです。武蔵野台地のやや東に位置し、昔からきれいな水が湧いていたこの地域からは、古代人の住居跡や縄文土器が発見されています。源頼朝や太田道灌のような歴史上の人物が活躍する言い伝えもありますし、たくさんの文学者も住んでいました。野鳥の楽園もありますし、100年タイムスリップしたかのような瀟洒な洋館も点在しているのです。みなさんが住むこの街の、これまで気づかなかった風景や人に出会うためのヒントになればと思い、この「西荻観光手帖」をつくりました。
ちょっと面白い本だなと思い女将さんに聞いてみると、10年ほど前に商店街で作ったもので飲食店にしか置いていないらしいとのことだった。

商店街が作ったにしては中身はかなり本格的で、西荻窪の歴史についても詳しく記されていた。
西荻の北を流れる善福寺川沿岸からは縄文土器が出土し、中には国の重要文化財に指定されている土器もあるという。
室町時代までは石神井を本拠とする豊島氏の支配地域で、太田道灌が石神井城を攻めた時の古戦場が西荻の北に残っているそうだ。
そして江戸時代、この界隈は徳川家とゆかりの深い駿河の今川家の所領だったという。
私は30代のはじめ、一時期西荻と荻窪の間に位置する「杉並区今川」という場所に住んだことがあるが、どうやらこの「今川」は駿河の今川家に由来するものらしい。
私たちは自分の周囲にある地名を何気なく使用しているけれど、昔から続く地名の中にはその土地で生きた人々の歴史が詰まっているのである。

そんなことに感心している間に、「かぼすスカッシュ」が出来上がった。
大分名物かぼすの果汁を炭酸水で割ったドリンク。
ただ期待したほどには、かぼすの清々しい香りが感じられない。

続いて、花型の器に盛り付けられた前菜5品が登場。
夏野菜を主役にした品々で、暑い日にはありがたい。

そして程なくして、お待ちかねの「冷や汁」がカウンターに置かれた。
あれっ? これが冷や汁?
それが第一印象だった。
私が知る「冷や汁」はもう少し濁っていてすりつぶした魚やお豆腐が入っていた。
だが、この店の「冷や汁」は透明感があってまるで冷麺のスープである。

女将さんにそれを問うと、大分県佐伯市の郷土料理である『ごまだし』を使った「大分風冷や汁」だという。
後で確認すると、入り口に貼られていた紙にも「冷や汁」の文字の上にちゃんと『大分風』と書かれていたのだ。
私はこの『ごまだし』というものを全く知らなかったが、これは佐伯市で愛用されている伝統的な万能調味料だそうで、「焼いたエソやアジなどの白身魚のほぐし身に、すりごま、醤油、みりん、砂糖を混ぜ合わせてペースト状にした」ものだそうだ。
女将さんによれば、佐伯の人たちはこの「ごまだし」をご飯のお供にしたり、うどんに入れたり、焼き魚に付けたりして、あらゆる料理に使うのだという。

この『ごまだし』に限らず、店内には大分で作られた食材や調味料が売られていた。
どれも見たことのない品ばかりで、『買い取りすぎました。関東では手に入らない商品ばかりです』という手書きの紙と共に販売されているらしい。
そういえば、大分県に行ったのは中学時代に九州を横断した修学旅行の1回しかないことを思い出した。
久しぶりに大分に行ってみたい、そんなことを思いながら冷たくさっぱりした「大分風冷や汁」をご飯と一緒に全部お腹の中に流し込んだ。

西荻窪探索の第一弾としてふらりと立ち寄った小さな居酒屋。
結局店を出るまで他のお客さんは来ず、女将さんと差し向かいでおしゃべりしながら、郷土愛の詰まった夏に嬉しい「大分風冷や汁」をいただいた楽しいランチだった。
西荻窪の探索、これからも時々続けたいと思う。
食べログ評価3.19、私の評価は3.40。
「大分居酒屋 まな愛」
電話:03-6913-9935
営業時間:11:30 - 00:00
定休日:火曜
https://www.instagram.com/oitalove_manamana/