🇯🇵 鹿児島県/霧島市&日置市&南九州市 2024年11月24日~25日
鹿児島県は言うまでもなく日本列島の南端、沖縄や小笠原が返還されるまでは日本の最南端だった。
そもそも歴史を遡れば、沖縄の島々は「琉球」であり、1609年に薩摩藩が琉球王国に侵攻するまで日本の領土だったことはなく、鹿児島は古くから南方に開かれた対外的な窓として特異な歴史を歩んできた。
そういう意味では、個人的に行ってみたいマニアックな場所は数多くある存在するのだが、いかんせん団体旅行、地元の幹事が組んだ旅程は一般の観光客が好みそうなポピュラーなコースとなった。
24日の朝8時、「旅行人山荘」を出発した私たちがまず立ち寄ったのは幹事オススメの「丸尾滝」。
流出する温泉が流れ落ちる「湯の滝」で、秋の紅葉が実に見事ということであったが、残念ながら今年はまだ木の葉が色づいていなかった。
丸尾滝は霧島山の噴火により流れた溶岩にかかる滝で、規則的な岩の割れ目は熱い溶岩が冷えて固まる際にできる「柱状節理」だという。
続いて訪れたのは「霧島神宮」。
創建は6世紀、欽明天皇の御代とされ、慶胤(けいいん)上人という僧侶が高千穂峰と火常峰(御鉢)の間の「瀬多尾(せたお)」に社殿を造ったのが始まりとされる。
霧島連山の高千穂峰は「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の孫である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が天上界から地上に降り立った場所とされ、この「ニニギ」を主祭神とする「霧島神宮」も、天皇家は神の子孫であるとする「天孫降臨」神話に基づく非常に格の高い神社なのである。
由緒ある神社だけあって社殿前庭には樹高38メートルを超える「御神木」が立っていた。
幹の周りが6.8メートルもある杉の大木で、樹齢は800年と言われている。
やっぱり巨樹はどんな立派な建造物よりも神々しい。
境内の入り口にある立札には、「国宝 霧島神宮」という文字の後ろに皇室のルーツとされる「日向三代」の神々が祭神として名を連ねていた。
メインとなるのは「天孫瓊瓊杵尊」、地上に降臨した最高神「アマテラス」の孫である。
続く「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」はニニギの妻となった女神で、父は国産み神話に登場するイザナギ、イザナミの間に生まれた「大山津見神(おおやまつみのかみ)」だ。
その後に記されている「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」は「ニニギ」と「コノハナ」がもうけた3人の子供の末っ子で「山幸彦」の通称で知られる神で「豊玉姫」はその妻。
この2神の間に生まれたのが「鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)」で、その妻「玉依姫」との間に生まれたのが皇室の初代とされる「神武天皇」というわけである。
つまり霧島神宮に祀られている祭神たちは、神武天皇の直系尊属であり、高千穂の峰に降り立った「ニニギ」は神武天皇のひいおじいちゃんということになる。
こうして私が天孫降臨の神々に出会えたことに興奮している間に、他の連中はさっさと参道を進んでいく。
標準的な日本人は、神社参りはしても日本の神話などにはほとんど興味がない。
一緒に旅行している友人の中には私よりも右寄りの考えを持つ人間が多いけれど、天皇家のルーツや古代史の謎にはあまり興味がないようだ。
深い森をバックに佇む社殿には随所に菊の御紋が施され、皇室との深い関係を誇示している。
そしてつい最近の令和4年になって、霧島神宮の本殿、幣殿、拝殿が国宝に指定されたという。
鹿児島県内の建造物では初めてとなる国宝である。
火山地帯に立つ霧島神宮は創建以来噴火によって度々消失し、現在の社殿は1715年に島津吉貴公によって再建されたもので、神社の歴史ほど古くはないが、建物内部の写真を見ると彫刻や絵画で装飾され神社とは思えない極彩色の作りとなっていた。
これが琉球貿易を独占し中国文化にも精通した薩摩藩独自の特徴で、南九州の社寺建築を代表する建築群として国宝に指定されることになったのだそうだ。
確かにこんな派手な神社、あまり見たことがない。
参拝を終えてから社務所を覗くと、正面には「天照皇大神」と「霧島皇大神」と書かれた一対の掛け軸がかかっていた。
最高神「アマテラス」と天孫「ニニギ」を並べて床の間に飾るということか。
社務所で目立っていたのが、こうしたお面の数々。
霧島神宮には天孫降臨にまつわる「九面」が秘蔵されているらしく、神楽などで使われるこれらのお面を模して土産物として売られているらしい。
ちなみに右側の赤いお面は、天孫が7人のお供を連れて地上に降臨する際に、途中から道案内として加わった「猿田彦」という神様。
鼻が高く、天狗のルーツという説もあるそうだ。
駐車場に向かって歩いていると偶然、参道をこちらに進む行列に遭遇した。
霧島神宮で結婚式を挙げる新婚さんである。
行列を先導するのは、鼻の高い赤いお面の男。
これは明らかに「猿田彦」をイメージしているのだろう。
お囃子に合わせて一人独特の動きで新婚さんを導いていく。
ひょっとすると参勤交代を先導した奴さんの動きは、猿田彦から来ているのかもしれない。
そんなことを考えた。
霧島神宮の参拝を終えた私たちは、再び車に乗り、近くの「霧島 神話の里公園」というところに案内された。
幹事役がどうしてもこの山の上からの眺めを見てほしいと言う。
山上の展望台までは有料のリフトで登る。
この日は少し雲が出ていたが、確かに桜島を中心として眼下に大パノラマを望む絶景スポットである。
しかし、私にとっては前夜に宿泊した「旅行人山荘」からの眺めの方が印象深く、みんなが桜島の方を見ながら記念撮影しているのを横目に、私の関心はこの展望台の東側に見える高千穂岳に注がれた。
奥に見える三角の山が天孫降臨の舞台とされる高千穂の峰だという。
高千穂峰は標高1574メートルの火山で、霧島連山の中では韓国岳に次いで2番目に高い山だ。
その山頂には天孫が目印として刺したとされる「天の逆鉾」が立っていて、それを模したチャチなレプリカがこの展望台にも設置されていた。
日本で初めて新婚旅行をしたという坂本龍馬は、高千穂峰の頂まで登って、その鉾を引き抜いたと姉に宛てた手紙に記している。
いずれにせよ、天孫降臨の舞台を自分の目で見られたことは、思わぬ収穫だった。
今回の旅は幹事に全てお任せの団体旅行なので、あまり事前の下調べもして来なかったけれど、霧島神宮と高千穂峰は来てよかったと思った。
後で調べると、南九州には「霧島神宮 古宮址天孫降臨神籬斎場」や「高千穂河原」といった天孫降臨にまつわるスポットや日向三代のお墓なども多く点在しているようなので、もしも個人旅行だったらこうした場所を集中的に回っただろう。
展望台からの下りは「スーパースライダー」と呼ばれるソリに乗って、急斜面に設けられたコースを一気に滑り降りる。
飛行機の操縦桿のようなレバーを使ってスピードをコントロールしながら滑るのだが、これはなかなかスリルがあって面白かった。
60代のおじいさんとおばあさんが童心にかえってはしゃぐ姿は、側から見ればさぞ滑稽だったことだろう。
それにしても、なぜ天孫降臨の地が南九州だったのか?
「古事記」「日本書紀」の編纂が行われた7〜8世紀、南九州では先住民である「隼人」による反乱が続き、ヤマトによる支配の正当性を示す必要があったという説が有力だとも聞くが、私はむしろ天皇家の祖先が中国大陸か朝鮮半島から渡来し、畿内に拠点を移す前の一時期、南九州に住み着いたのだと考えている。
日本列島の辺境であった南九州は東北同様、ヤマトによる統一に最後まで抗った地域であった。
いずれにせよこの命題が、天皇家および我々日本人がどこからきたのかという私の一番知りたい謎に深く関わっていることだけは間違いない。
ようやく中央の支配に服した南九州の守護として島津忠久が派遣されたのは12世紀の終わり頃だった。
当時このあたりは五摂家の筆頭である近衛家の所領だったが、鎌倉幕府が成立すると島津忠久は源頼朝によって薩摩、大隅、日向などを統治する守護に任じられ、以来明治維新までおよそ650年にわたって南九州に君臨する。
ただ、島津家の家祖・島津忠久の出自については定かでない。
島津家に伝わる「忠久は頼朝と側室・丹波局の間に生まれたご落胤」という説は怪しいものの、わずか6歳で守護となり、鎌倉幕府有数の大御家人となった背景にはしっかりした後ろ盾があったことは間違いないだろう。
鎌倉、室町時代、守護大名として力を蓄えた島津氏は、戦国時代になると一時期ほぼ九州全域を支配下に置き全盛期を迎える。
しかし1587年、豊臣秀吉の九州平定によりその軍門に下るも、南九州3ヵ国の旧領は安堵された。
そして天下人となった豊臣秀吉に従って朝鮮半島に出兵した島津は、朝鮮から腕のいい陶工を拉致してくる。
この朝鮮人の職人集団によって生み出されたのが「薩摩焼」である。
鹿児島在住の後輩が親しいということで、私たちは薩摩焼を代表する名工・沈壽官さんにお会いすることができた。
「沈壽官」の名跡は代々受け継がれ現在の当主で15代目だそうだ。
鹿児島市の西方、日置市にある窯元を訪ねると立派な登り窯を中心に、工房やギャラリー、カフェなどが配置されていた。
420年の歴史を有する薩摩焼を一躍世界的に有名にしたのは、1867年のパリ万博だった。
薩摩藩は江戸幕府を出し抜き単独で万博に出展しあたかも独立国のように振る舞ったが、その際ヨーロッパの人々に好評を博したのが薩摩焼だった。
欧米で「SATSUMA」と呼ばれ人気を博した薩摩焼は、折柄のジャポニズムブームにも乗って注文が殺到、とても鹿児島だけでは応じられず、日本各地に「京薩摩」「大阪薩摩」「東京薩摩」「横浜薩摩」などが生まれ、地元鹿児島で作られた薩摩焼は「本薩摩」と呼んで区別するようになる。
もともとは素朴な陶器から始まった薩摩焼だが、年代を経るごとに細かな細工を施した精緻な陶磁器へと発展した。
沈壽官窯のギャラリーには息を呑むほど美しい、見事な作品が並んでいた。
『日本に連れて来られた私たちの先祖は朝鮮に帰りたいと願いながら認められなかった。そのかわり、薩摩藩は伊万里など他の地域のように日本人化を強制せず、朝鮮の文化や生活をスタイルを維持することを認めてくれた』
私たちを案内してくれた15代沈壽官さんは、先祖の苦難と薩摩の特殊性をそのように説明してくれた。
そのせいか、薩摩焼にはどこか外国文化を丸呑みするような柔軟さとおおらかさが感じられるような気もする。
旅館「指宿白水館」に併設した「薩摩伝承館」には、欧米からの注文に応じて明治時代に制作された絢爛豪華な薩摩焼の数々が展示されていた。
西洋人のオーダーのままに作られたこれらの薩摩焼は大きくて絢爛豪華、図柄も中国風のものが目立つ。
幕末から明治にかけ、「SATSUMA」は薩摩藩にとって外貨獲得のための貴重な輸出品であり、貧しかった明治新政府にとっても富国強兵政策を支える重要な戦略物資となった。
海外で愛された日本の陶磁器といえば、私の中では伊万里焼や有田焼、九谷焼などを思い浮かべてきたが、その認識を少し改めなければならない。
沈壽官のギャラリーの入り口に並ぶ真っ白な薩摩焼。
『これは全部、不良品。失敗したから絵付けもせずに手元に残った』というのが沈壽官さんの説明だった。
つまり、こうした大型の「SATSUMA」は全てオーダーメイドで作られ、完成品は海外に輸出されて窯元にはまったく残っていないということらしい。
これまでほとんど知らなかった薩摩焼の歴史には、悪名高い朝鮮出兵の強制連行と明治維新の外貨稼ぎの悲喜劇が隠されていた。
こうして戦国乱世を生き延びた島津家は、関ヶ原の合戦でも敗れた西軍に組したため、徳川幕府の下、外様大名として生きるしかなかった。
それでも薩摩など南九州の領地は取り上げられず、77万石の大大名として国替えを命じられることもなく幕末を迎える。
これは実に稀有な例であり、徳川家といえども島津と事を構えることは望まなかったということだろう。
江戸時代の薩摩藩は人口の4分の1を武士が占め、領内に120もの山城を築き、その周囲に「麓」と呼ばれる武士が暮らす集落を作って泰平の世にも常に警戒を怠らなかった。
薩摩半島の中程、南九州市の知覧に残る武家屋敷もそんな「麓」の一つである。
そんな武士の国である島津薩摩藩が、江戸時代に入ってすぐに断行したのが「琉球侵攻」だった。
徳川家康が江戸幕府を開いたわずか6年後の1609年、薩摩藩は幕府の許しを得て、琉球王国の支配下にあった奄美大島、さらに沖縄本島へと80艘の舟に分乗した兵3000人が攻め入った。
秀吉も家康も琉球に対し臣従の礼を尽くすよう薩摩藩を通して度々要求したが琉球側がこれを無視したためとされるが、この間薩摩は琉球の肩代わりを強いられ財政的に追い詰められていたという事情もあったようだ。
とはいえ、大きな戦もなく琉球を支配下に置いた薩摩は、鎖国政策により外国との交易が制限された江戸時代、琉球を通じて手に入れた砂糖や中国・南蛮の珍品が藩の財政を潤すことになる。
知覧の武家屋敷でも庭園や門に琉球の影響を見ることができる。
そして、知覧といえば「特攻隊」である。
今回の旅行先が鹿児島に決まった時、私は幹事に「知覧にはぜひ行きたい」と伝えた。
その希望が叶って、かつて陸軍の特攻基地があった場所に建てられた「知覧特攻平和会館」を訪れたのは最終日25日の午後だった。
ロビーには甑島の沖合から引き揚げられた旧海軍の零戦が展示されている。
しかし、残念ながら特攻隊員たちの手記や手紙が集められた展示室や陸軍が特攻に使用した「隼」「疾風」などの戦闘機といった主要な場所は撮影禁止。
いつもながらに日本の博物館は頭が固い。
屋外には、全国から集められた若き特攻隊員たちが出撃までの数日を過ごした「三角兵舎」が復元されていた。
空襲を避けるため松林の中に穴を掘って建てられた半地下式の兵舎である。
知覧に陸軍の基地が完成したのはまさに太平洋戦争が始まった1941年12月、当初はパイロット養成が主な任務だった。
しかし戦況悪化とともに本土防衛のための出撃基地となり、沖縄での陸軍が沖縄での航空特攻作戦を開始したのは、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日である。
特攻機は九州や台湾にあった多くの基地から飛び立ったが、九州最南端に位置する知覧基地はその中心を担い、全特攻戦死者1036名のうち、439名が知覧基地から出撃したパイロットだった。
ここに展示されている遺書や家族に宛てた手紙は、この三角兵舎の中で書かれたものだ。
自ら特攻を志願し「国と家族のために勇んで命をすてる」と書き残した若者たちの心の中は、平和な時代に生きる私たちに簡単に理解できるものではない。
安易に自分勝手な解釈をして、彼らの死を単なる美談にしてはいけないとここにきて思った。
自分がもし特攻を命じられたら何を考えるのか?
知覧に来たら、無理を承知で自分事としてそんなことを想像してみるのも無意味ではない。
この施設は、知覧に住む地元住民や行政が中心となって1987年に開館した。
とても貴重な施設ではあるが、特攻隊を生み出すまでに日本を窮地に追い込んだ軍や政治の指導者たちの戦争責任についてはほとんど触れられていない。
明治以来、国家が国民に刷り込んできた「神国不敗神話」。
特攻攻撃というテロリスト的な戦法をなぜ国家指導者から国民までが受け入れ賞賛したのか、その社会的な背景と歴史を学ぶことこそが特攻隊員が残してくれた教訓だと私は考える。
天孫が舞い降りた南九州から、かつて琉球と呼ばれた沖縄の海に向け、国を思う多くの若者たちが飛び立っていった。
日本が西欧列強の餌食とならないために徳川幕府打倒に邁進した薩摩の若者たち。
そして明治新政府を打ち立て実権を握ると、天皇の権威を最大限に利用し、日本を「神の国」に変えたのも薩摩の若者たちだった。
鹿児島には、日本という国が歩んできた歴史が良くも悪くもものすごい濃度で凝縮されているように感じる。
団体行動という時間の制約で、展示内容に全て目を通すことができなかったのは本当に残念だったが、建物を出た際、平和会館の入り口にたなびく日の丸の背後に浮かぶ白雲が、若くして散った特攻隊員の魂のように見えた。
