<きちたび>旅のアルバムから〜マラカニアン宮殿になだれ込む群衆!私はフィリピン革命を目撃した

🔶「旅したい.com」から転載

<フィリピン>マラカニアン宮殿になだれ込む群衆!私は初めて革命を目撃した

🇵🇭フィリピン/マニラ&ダバオ 1986年2月

1986年2月7日。フィリピンで大統領選挙が行われました。

バンコク支局に赴任したばかりの私は、日本から到着した妻と幼い息子2人を迎えてすぐにフィリピンへ選挙の取材に出たのです。

これが長い旅の始まりでした。

マルコス vs アキノ

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1月29、ミンダナオ島ダバオ市で開かれたマルコス大統領の大規模集会を取材しました。

1965年の就任以来20年以上政権を握っていたフェルディナンド・マルコス大統領は、国際的には「独裁者」のイメージが強いですが、国内では地方の開発を推し進めたため、地方に住む貧しい人たちには高い人気を誇っていました。

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この選挙でフィリピンの人たちは、自分がどの候補を応援しているのか、指のサインで示しました。

マルコス支持派は、Vサインを使いました。

対立候補のコラソン・アキノ女史を支持するグループは、親指と人差し指を立てるL字サインで対抗します。

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アキノ女史は、1983年に亡命先から帰国しマニラ空港で暗殺されたベニグノ・アキノ上院議長の奥さんでした。

アキノ氏の支持層は都市部の比較的裕福な人たちでした。本来であれば地方の貧困層の方が数で圧倒的に勝るため、マルコス大統領は勝利を確信していたはずです。しかし、思いもかけぬ未亡人の立候補で選挙戦は異常な盛り上がりを見せました。

黄色をシンボルカラーとしたアキノ陣営は、マニラを中心に国民の人気を集め、「ピープルパワー」という言葉が大流行しました。

欧米のメディアも、独裁者マルコスに立ち向かう民主派の未亡人アキノという善悪の構図でこの大統領選を伝えました。イメルダ夫人の半端ない無駄遣いぶりもメディアで大々的に報道され、国際世論は反マルコスに一気に傾きます。

TBSが撮影したアキノ暗殺の現場映像は、マルコス政権の悪道ぶりを示す証拠として国際世論に大きな影響を及ぼしました。

不正選挙

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そして投票日の2月7日。

マルコス派による不正が予想された選挙を監視するため、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動(NAMFREL)」が結成され、独自に集計作業を行いました。

投票が始まるとフィリピン各地から、投票所での妨害、投票箱の略奪など様々な妨害工作の報告が入ります。そして選挙結果にも、不正が行われました。

NAMFRELは「アキノ氏がほとんど80万票差で勝利した」との独自集計の結果を出しましたが、マルコス大統領の影響下にあった中央選挙管理委員会の公式記録は「マルコス氏が160万票の差で勝利した」と発表したのです。

この選挙結果は、コリー派だけでなく、カトリック教会やアメリカ政府からも強く非難されました。長年反共の砦としてマルコス政権を支持していたアメリカ政府が、メディアの報道と国内世論に押され、マルコス大統領を見限ったのが大きな転換点となりました。

マニラ市内は、黄色いTシャツに身を包んだ市民たちに覆い尽くされました。アメリカメディアが陣取っていた高級ホテル「マニラホテル」前の広場では100万人集会が開かれ、私もホテルの屋上からその様子を撮影しました。

あの日のマニラの熱狂は本当にすごいものがあり、まるでリオのカーニバルに来たようでした。

エンリケ&ラモス決起

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そして、2月22日。

エンリケ国防相やラモス参謀長らが決起したのを契機に、フィリピン情勢は一気に革命へと突き進みました。

幼子を抱えた妻を一人残していた私は、一旦バンコクに戻っていたのですが直ちにマニラに舞い戻ります。いつ軍同士の衝突が起きてもおかしくない緊迫した空気に包まれていました。

戦車の侵攻を阻止するため、反乱軍の基地に通じるマニラ市内の大通りにはバリケードが築かれ、多くの人が道路に座り込み人間の盾も作られました。私たちはホテルで休む時間もなく、刻々と入ってくる情報を追いかけてマニラ市内を走り回りました。

革命の一日

2月25日、コラソン・アキノ氏が大統領就任式を強行。

同じ日、マルコス氏も大統領宮殿であるマラカニアン宮殿のバルコニーに立ち、イメルダ夫人と共に大統領就任式に臨みました。

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事態が大きく動いたのは、その日の夜のことでした。

私は、マラカニアン宮殿近くにいました。宮殿はすでに多くの市民に包囲され、その数はどんどん増えていきました。

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日が暮れて、宮殿の周りでは頻繁に銃声が響きます。誰が撃っているのか、どこで撃っているのかもわからないまま、銃声がなるたびに、市民たちが一斉に逃げ惑うのです。

私は物陰に隠れるようにしながら、こうした宮殿周辺の様子を撮影しました。

夜何時だったでしょうか。マルコス大統領が米軍のヘリコプターで宮殿を脱出したという情報が伝わります。

すると、市民たちが一斉に塀を乗り越え、マラカニアン宮殿になだれ込んだのです。

マラカニアン宮殿

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私も後を追って、塀をよじ登りました。

それまでに撮影したテープをタイ人の助手に渡し、日本に伝送するためホテルに設置された臨時支局に向かわせます。私はカメラに加えて、助手が持っていたVTRデッキと照明機材も一人で持って塀を乗り越えました。

塀の上でたくさんの機材を抱え、どうやって降りようかと迷っている私を見て、市民たちが手を貸してくれました。機材を受け取ってもらい、高い塀から飛び降ります。一瞬、足がつりそうになりました。

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宮殿内は、すでにものすごい人の数で、身動きが取れないほどの状態でした。私は、カメラを頭上に抱え上げながら人混みをかき分けて進みます。

宮殿内の建物の窓から書類が大量に降ってきます。どこにあったものでしょう。マルコス大統領の肖像画が人々に踏みつけられ、燃やされています。

これぞまさに「革命」。

政権が民衆の力によって崩壊した瞬間でした。

そうした光景を一通りカメラに収めた後、素材を送るために現場を離れることにしました。

再びカメラを両手で掲げて、人ごみをかき分けます。宮殿の周辺も人で埋め尽くされていました。どうやって臨時支局までたどり着いたのかよく覚えていません。

通りがかりのバイクを止めて乗せてもらったのか、タクシーをうまく捕まえることができたのか?

しかし、その混乱の中で唯一はっきり記憶しているのは、財布を何者かにすられたことです。中には、バンコクから持ってきた30万円がそのまま入っていました。

おかげで、始末書を書く羽目になりました。

一枚の写真

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ルネタ・パークでの「選挙後のコリーの大集会」とメモ書きされた写真が、私のアルバムに残っています。ルネタ・パークはマニラホテルの前に広がる公園で、今ではリサール公園と呼ばれているそうです。

私の記憶では、革命前の100万人集会を取材した際のものなのですが、3月2日という日付が正しければ、革命後の写真ということになります。革命後の祝賀集会もあったかもしれません。今となっては、記憶が曖昧です。

いずれにせよ、私が目にした最大規模の集会だったことだけは確かです。

ほぼ1ヶ月に渡ったフィリピン取材。まだ若く、経験も浅かったので連日ただひたすらにマニラ市内を駆け回っていました。しかし、写真はこのくらいしか残っていません。デジカメがなかったあの頃は、気軽に写真を撮る時代ではなかったとはいえ、仕事で撮影していると合間に記念写真を撮るという習慣もなかったのでしょう。

今となっては、忘れてしまった光景の方がはるかに多く、とても残念に思います。

それでも、あのマラカニアンで見た「革命」の情景は、今でも私の脳裏に鮮やかに刻まれています。

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