🇦🇹オーストリア/ウィーン 2018年8月
台風のおかげで急遽モスクワ経由をウィーン経由にした関係上、ウィーンについてはまったく予備知識がなかった。
息子が家の残していた「地球の歩き方 ウィーンとオーストリア 2014~15」だけを持って旅に出たのだが、ウィーンに着いてどこに行こうか検討する際、私の目に留まったのが中央墓地だった。
街の中心部から路面電車71番に乗って、終点の一つ前「Zentralfriedhof 2 Tor」で降りると目の前に共同墓地の第2門がある。
ウィーンの共同墓地はヨーロッパで2番目に広い墓地だそうで、33万のお墓があり、路面電車の停留所だけでも3箇所もある。
第2門を入ると、まっすぐ伸びる並木道の先にカール・ルェガー教会が見える。墓地の中に立派な教会があることからも、この墓地の規模がわかるだろう。
門の脇には綺麗に整備された芝生に大きく育った樹木。その向こうには洒落たカフェもある。
私の妻は、ヨーロッパに行くとよく墓地を見たいというが、確かにこちらのお墓はとても美しく居心地のいい場所だ。
放射状に伸びる参拝道の前には納骨堂だろうか? 煉瓦造りの瀟洒な建築物がある。
そこはもはや墓地というよりも美術館のようだ。
先に進むと、立派なお墓が次々に現れる。
黒い墓石に腰掛け花を手向ける白い女性像。何という美しいお墓なのだろう。しかも、背後に緑の樹木を背負っているのが一層美しさを引き立てる。
私が一番気に入ったお墓。5本の木に囲まれている。
私は、自分のお墓はいらないと思っている人間だが、もし眠るとしたら自然の樹木と調和したこうしたお墓がいいなと思いながら眺めた。
この日は少し暑かったが、涼しければいつまでも散歩していたい素敵な墓地だ。
この中央墓地に、世界中の誰もが知る大作曲家たちのお墓が並ぶエリアがある。
左がベートーヴェン、右がシューベルト、そして真ん中がモーツァルトのお墓だという。
いささか、観光客向けすぎる気もするが、この広い墓地の中を歩き回るのも大変なので、世界中から訪れる音楽ファンのためにこうした場所が作られたのだろう。
56歳で世を去ったルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1827年没)。その葬儀には2万人が参列したという。
当初はウィーリング地区の墓地に埋葬されたが、1888年、シューベルトと一緒にここ中央墓地に改葬された。
生前愛用したというメトロノームの形をしたお墓には、ヘビと蛾の紋章が描かれていた。
これは何なのだろう?
こちらはフランツ・シューベルト(1828年没)の墓。
ベートーヴェンを尊敬しその葬儀にも参列したシューベルトは、ベートーヴェンの死の翌年、31歳の若さで亡くなった。自分が死んだ時はベートーヴェンの近くにとの生前の希望が叶えられ、シューベルトはウィーリング墓地にあったベートーヴェンの墓の隣に埋葬され、ベートーヴェンと一緒にこのウィーン共同墓地に移された。
シューベルトのお墓には白鳥に抱かれたハープがデザインされている。
ハープは音楽家を表すシンボルのようで、ベートーヴェンのお墓にも描かれている。
お墓といえば最も謎に包まれているのが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1791年没)である。
中央墓地にあるお墓のようなものは墓ではない。「記念碑」と呼ばれている。
35歳で亡くなったモーツァルトの墓について、ウィキペディアにはこのように書かれている。
『 遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。
没後100年の1891年、中央墓地に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである。
現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行った。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったものの、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。』
不幸な死を遂げたモーツァルトの遺骨は散逸し、もう残っていないのだろう。
それでも、熱烈なモーツァルト崇拝者たちは「墓とされるもの」に参拝し、「頭蓋骨とされるもの」を保管しているということと理解した。
有名人は、死後もゆっくりと眠ることは許されないのだ。
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中央墓地には、他にも有名な作曲家たちが眠る。
ヨハネス・ブラームス(1897年没 63歳)。
ヨハン・シュトラウス(1899年没 73歳)。
まさに綺羅星のような楽聖たち。彼らはみんなウィーンで活躍し、この地で亡くなった。
このようにウィーンが「音楽の都」となったのはバロック時代、その背景にはやはりハプスブルク家の存在がある。
加藤雅彦著「ハプスブルク帝国」から引用する。
『 バロック芸術の開花は、ハプスブルク家が、パトロンとしてまた愛好家として、その発展を支えたばかりでなく、王家自身がその才に恵まれた皇帝を輩出したという意味で、ハプスブルク家の存在をおいては考えられない。
それらの皇帝とは、三十年戦争末期に帝位についたフェルディナント3世から、レオポルト1世、ヨーゼフ1世、カール6世と続く4代の皇帝である。中でもレオポルトは、アリアや歌曲、教会音楽、バレエ、音楽劇など多数、自ら作曲し、その中には今日なお演奏されているものもある。』
そして、フランス革命やナポレオンの激動の時代を経て、再び音楽が隆盛を極めるのが宰相メッテルニヒによる保守反動体制の下だった。
『 メッテルニヒ体制下のオーストリア、ことにウィーンでは、「ビーターマイア」と呼ばれる特徴的な市民生活を生んだ。
もともとビーターマイアという言葉は、当時アイヒロットという作家が、その作品の中で登場させた人物の名前に由来する。ビーターマイアなる人物は、愚直で、俗物的で、自主性のない小市民であった。
ビーターマイア様式は、豪放華麗なバロックとも、また繊細で優雅なロココとも異なり、素朴でシンプル、かつ安楽と快適を旨とした。
これは、バロックやロココ芸術の担い手であった貴族のほかに、新たに裕福な市民階級が台頭しつつあることを示していた。彼らは、メッテルニヒ体制のもとで政治には背を向けた。居心地のよい家に住み、家族と団欒するのを何よりとした。グルメを楽しみ、美酒に酔い、休日はウィーンの森でゆっくり憩いの時を過ごすことに喜びを見出した。
政治からの逃避は、他方において音楽や観劇や舞踏会の盛況をもたらすことになった。それはまた、政治から市民の目を反らせようとする当局者の望むところでもあった。』
私は「ビーターマイア」という言葉を知らなかったが、その記述からは現代の日本社会と重なる印象を受ける。管理社会の中での安定。ちょっとした息苦しささえ我慢すれば、個人の生活はエンジョイできる、そんな時代だったのかもしれない。
この時代を代表する大作曲家はシューベルトだった。
『 シューベルトは、貴族社会よりも市民社会に生きた。彼の手になるハウスムジーク(家庭音楽)は、安らぎと心地よさを求めるビーターマイアの空気にぴったりであった。シューベルトのやさしく感傷的な歌曲の調べは、いかにもビーターマイア時代のウィーンの市民社会の雰囲気を思わせる。
ビーターマイア時代のウィーンで、ことに目立ったのは、熱狂的ともいうべきダンスの流行である。ウィーンの郊外にダンスホールが相次いで建てられ、日夜舞踏会が開かれて、あらゆる階層の市民がダンスに熱中した。ヨーゼフ・ランナーや父ヨハン・シュトラウスらの作曲家は、舞踏会用に数多くの作品を世に送った。
ウィンナ・ワルツが一般に広まったのもこの時代であった。もともとそれは、ドナウ上流からやってきたレントラーという田舎の踊りであった。ウィンナ・ワルツは、貴族社会からでなく、ビーターマイア時代のウィーンの市民生活から生まれたのである。』
私たちが慣れ親しんだ名曲と当時の政治状況。いつの時代も、文化は時代を映す鏡だ。
ウィーンの共同墓地は、「音楽の都」を肌で感じるのにオススメの場所である。
<関連リンク>
②トルコ軍による包囲戦の置き土産?ウィーン名物のカフェをめぐる
⑥絶対オススメ!スロヴァキアの首都ブラチスラヴァへドナウを下る日帰り旅行
<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。
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