<きちたび>中央アジアの旅2023🐪 カザフスタン🇰🇿 国立中央博物館で見る「黄金人間」と「クルガン」、そして中央アジアの覇権を争った遊牧民たちの歴史

中央アジアの旅、その最初の訪問国カザフスタンに話を戻そう。

アルマトイ滞在中に訪れた場所の一つが「国立中央博物館」だった。

ホテルから緩やかな坂道を登っていくと、緑豊かな公園の中に立派な建物が建っていた。

正面の重々しい扉が閉じたままなので、一瞬今日は閉館かなと思ったが、扉を押してみるとゆっくりと開き中はちゃんと営業中だった。

このあたりがロシア式の建造物は分かりにくい。

ドームの下は広々とした吹き抜けとなっていて、大型スクリーンが2面、中央に騎馬像が設置されているが誰かはわからない。

この玄関ロビーを入ってまず目につくのは、左手に置かれた4体のマネキンだ。

その中に、有名な発掘物のレプリカがあった。

この全身を金で装飾された人物、一般に「黄金人間=ゴールデンマン」と呼ばれている。

「黄金人間」についてネットで調べると、2019年の新聞記事が見つかった。

中央アジア。広大なカザフスタンは内陸国で世界一の面積を誇る。ソ連邦崩壊後独立、天然資源を宝に今を邁進(まいしん)している。

実はこの国には埋蔵石油に匹敵する宝物がある。東西の草原を駆けた祖先、騎馬民族の雄スキタイ人の一派サカ族の遺宝、「黄金人間=ゴールデン・マン」である。

1969年、南東部のイッシク。王族の墓から発見された。それはいわば、「全身金メダルの人」であった。

今から2400年前。埋葬される際、ほぼ全身に無数の黄金片を縫い合わせた帷子(かたびら)をまとっていた。天を突くトンガリ帽子から爪先まで。出土の黄金総数4千枚。一生を懸けて手にした、誉れにして財であった。

古都アルマトイの国立中央博物館の精巧な復元で観察すると黄金の一々には、カザフのエンブレムにも関係する聖獣などが精巧にデザインされていたことがわかる。

引用:日本経済新聞

スキタイ人は紀元前、カザフ草原をはじめ中央アジアを広く支配し、ギリシャやペルシャをも恐れさせた強力な遊牧民族だった。

「黄金人間」はアルマトイ近郊のイッシク古墳から発掘された。

彼らは亡くなった人を埋葬する際、「クルガン」と呼ばれる墳丘を築き表面を石で覆った。

このクルガンは日本に多く残る古墳のルーツではないかという説に私は強い興味を持っている。

古墳でも、DNAでも、日本人と草原の遊牧民にはなんらかのつながりがあると推察される。

この博物館の展示物に添えられた説明はカザフ語とロシア語が中心で、英語による詳しい解説はないため正直全体像を理解するのが難しかった。

しかしそんな中で、私の目をとらえたのは2階の展示室にあったこの地で興亡を繰り広げた遊牧諸民族に関する展示だった。

正直、中央アジアで暮らす民族について私はほとんど理解できていないため、ちょうどいい機会なので、展示とウィキペディアをもとに各民族の特徴や歴史を勉強してみることにする。

カザフ人

これは現在この地を治めるカザフ人が着ていた衣装。

テュルク系の有力民族であるカザフ人は、20世紀初頭までは人口のほとんどが遊牧生活を行っていたが、ソ連で1930年代に行われた大規模な定住化政策の結果、現在は都市民・農耕民となっているそうだ。

カザフは、ジョチ・ウルスの祖であるジョチの5男シバンの子孫シャイバーニー朝に率いられ、15世紀に南シベリアからカザフ草原あたりに遊牧していたムスリム(イスラム教徒)の遊牧民集団ウズベクから離脱した人々が新たに形成した集団と考えられている。1470年頃、バルハシ湖の南のセミレチエ地方(カザフスタンの旧首都アルマトゥ周辺)で王権を形成したジャニベクおよびケレイとその子孫の政権のことをカザフ・ハン国(1456年 – 1822年)と呼ぶ。

カザフ・ハン国はウズベクのシャイバーニー朝が南下してシル川を渡りマー・ワラー・アンナフル、ホラズムに入った後、16世紀前半に西に大きく広がり、残余の遊牧民を取り込みながら現在のカザフスタンの領域のほとんどを支配するに至った。広大な領域を支配したカザフ・ハン国は分権傾向が強く、ジャニベクとケレイの子孫から分かれた様々な家系が全体に散らばって各地の小部族の君主となっていった。やがてカザフはカザフ草原の西部、中部、東部のそれぞれで地方的なまとまりを形成し、それぞれ小ジュズ、中ジュズ、大ジュズという名で呼ばれる3つのジュズ(部族連合体)へと再編される。

19世紀に入ると西部・中部の小ジュズ、中ジュズは完全にロシアの統治下に入り、南のコーカンド・ハン国に服従していた大ジュズもコーカンドがロシアに征服されるに及んでロシアの支配を受け入れた。ロシア帝国はカザフ人の遊牧する地域に州制を引いて5州を置き、草原の間に都市や要塞を築いてロシア人の定住民を入植させた。ロシアの支配下でカザフ人は伝統的な遊牧生活を制限されたものの、帝国内のムスリム(イスラム教徒)の先進民族であったタタール人の影響を受けて、スンナ派のイスラム教が完全に定着し、ロシア人からヨーロッパ文明の影響も取り入れて民族意識を育んでいった。

20世紀前半、ロシア革命が起こるとカザフの知識人たちはアラシュ・オルダを結成して自治運動に乗り出すが、1920年に赤軍の支配下に入り、1936年にソビエト連邦を構成する国のひとつ、カザフ・ソビエト社会主義共和国が形成された。ソ連は遊牧民の定住化を進めたが、定住化が始まった当初、慣れない定住生活と不作によって多くのカザフ人の命が失われたと言われる。

ソビエト連邦の解体によりカザフスタン共和国が独立し、カザフ人は民族国家を持つことになった。カザフ人の間では、ソ連のほかのムスリム民族に比べるとイスラムへの回帰も限定的であると言われ、カザフスタンは中央アジアの中でも特に親ロシア的であることが知られる。

引用:Wikipedia

中央アジアの中で、カザフスタンが親ロシア的だということはこの博物館の展示を見てもわかる。

第二次大戦の展示では、多くのカザフ人がソ連兵として連邦各地で勇敢に戦ったことが誇らしげに描かれていた。

トルコ人

こちらはカザフ人のルーツでもあるテュルク系あるいはその流れを汲むトルコ人の衣装。

テュルク系民族は中央アジアに広く暮らしているが、それは人種的な区分ではなく、テュルク語系を母語とする民族という意味だそうだ。

テュルク系民族の原郷についての定説がないが、ウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力である。モンゴル系民族と近接していた。人種的には同じくモンゴロイドと考えられている。唐代まではほとんどが黒髪・直毛・黒目だった。

しかし唐代の終わり頃東ウイグル可汗国が崩壊しテュルク系民族がモンゴリア―アルタイ地方から移動して天山山脈からタリム盆地全体を支配した。その結果、先住のコーカソイドのインド=ヨーロッパ語族は何世代か後にはテュルク化し、テュルク系言語の話者となった。

現代のテュルク族は匈奴やフン族が自分たちの先祖だと考えている(ただし学説は確立していない)

現在、最も有名なテュルク系国家であるトルコ共和国はアナトリア半島に存在するが、テュルク人の故地から最も離れた位置にあるにもかかわらず、テュルク系最大の民族であるトルコ人が住んでいる。

これは歴史上、幾波にもわたってテュルク人がこの地に侵入し、移住してきたためである。それまでのアナトリア半島には東ローマ帝国が存在し、主要言語はギリシア語であった。

アナトリアへ最初に侵入してきたのはセルジューク朝であり、セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、その地にセルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなどが流入してきたため、アナトリアのテュルク化が始まった。

その後はセルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジューク朝がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーンが中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのテュルク化・イスラーム化は一層進んだ。

14世紀にはオスマン帝国がアナトリアを中心に拡大し、最盛期には古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展したが、18世紀以降、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、広大な領地は次第に縮小してアナトリア半島のみとなり、第一次世界大戦後、トルコ革命によって1922年に滅亡し、翌1923年にトルコ共和国が成立する。

引用:Wikipedia

ウズベク人

こちらは「ウズベキスタン共和国」の主要民族ウズベク人。

彼らもいわゆるテュルク系、それも現在の中央アジアで最大の人口を擁するテュルク系民族なのだ。

ウズベクを率いたシャイバーニー朝が16世紀はじめに南下、ティムール朝を滅ぼしてマー・ワラー・アンナフル周辺に定住して以来、ウズベクとは西トルキスタン南部に住むテュルク系遊牧民のことを指した。一方で、遊牧民から定住化するウズベクも増え、もともとのテュルク語とペルシア語系の言葉とのバイリンガルになってそれまでの定住民(チャガタイ・トルコ人やタジク人)との違いがみられない者も都市では珍しくなくなった。このように定住化したウズベクが担った国家はマー・ワラー・アンナフルのブハラ・ハン国、ホラズムのヒヴァ・ハン国、フェルガナのコーカンド・ハン国の3国があり、総称してウズベク3ハン国と呼ばれる。これら3国は19世紀後半にロシア帝国によって併合もしくは保護国化され、ロシアはこの地方のムスリム定住民を言語に関係なくサルトと呼んだ。また、男系はチンギス・ハーンの子孫(チンギス統原理)で女系は預言者ムハンマドの子孫(サイイド)という点も共通する(ただし、コーカンド・ハン国のみチンギス・ハーンの血を引かないミング部族の出身とされる)。

20世紀に入るとマー・ワラー・アンナフルのサルトの間から民族運動が起こり、彼らのうちのテュルク系の一派が西トルキスタン南部のテュルク系定住民と遊牧民を包括した民族名称としてウズベクの名を提唱した。ウズベク人概念はソビエト連邦のもとで公式に採用され、ソ連の政策的な民族境界確定作業により、現代ウズベク民族が形成された。

ウズベク民族はこのような経緯を経て成立したため、ティムール朝を滅ぼしたウズベクの名を冠した民族がティムールを自民族最大の英雄として賞賛するという矛盾が生じている。

引用:Wikipedia

キルギス人

こちらはキルギス人、現在キルギス共和国の主要民族となった彼らもテュルク系の民族である。

『史記』などの古代中国の歴史書に名前が見られる堅昆(けんこん)が、キルギスの名で記録された最初の民族集団と考えられている。彼らは南シベリアのイェニセイ川上流域で遊牧生活を行い、匈奴に服属していた。

唐代には黠戛斯(かつかつし)として記録され、はじめ突厥(テュルク)、のち回鶻(ウイグル)に服属していたが、840年に決起してイェニセイ川から南下し、回鶻を滅ぼした。しかし、回鶻に代わってモンゴル高原を支配することはできず、その後もキルギスの名を持つ集団はイェニセイ上流域に留まったようである。13世紀にチンギス・カンがモンゴル帝国を建てるとこれに服属した。

現在のキルギス人は天山山脈、パミール・アライ方面に居住している人々を指す。天山キルギスはこの後モンゴル帝国の支配下でモンゴル的要素を受け入れ、中央アジアへ進出後のカザフ・ノガイ的要素、ウズベク、タジクといった中央アジア的要素を受けついで現在のキルギス人形成に至る。

中央アジアのキルギス人は、17世紀頃、近隣の民族の影響を受けてイスラム教に改宗したが、オイラトの立てたジュンガル帝国に服属した。ジュンガルの崩壊後は、最終的にロシア帝国の支配下に入る。

イェニセイ川流域に残ったキルギス人は、現在のハカス人などの祖先となったと考えられている。

キルギス人が独立した民族として一つの自治体をつくったのは、ロシア革命後の1924年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の管轄下でカラ・キルギス自治州が置かれたことに始まる。その後、キルギス自治ソビエト社会主義共和国(1926年)、キルギス・ソビエト社会主義共和国(1936年)がソ連の構成国としてであるが建てられた。

1991年、ソ連が崩壊すると、キルギス人はキルギスタン共和国を建国し、CIS(独立国家共同体)に参加、国際連合にも加盟し(1992年)、名実ともに独立を果たした。1993年には現在のキルギス共和国に改称する。

引用:Wikipedia

トルクメン人

こちらはトルクメン共和国の主要民族であるトルクメン人。

彼らもまたテュルク系である。

トルクメン人の起源には不明な点が多い。

トルクメン人はテュルク系民族よりも前に中央アジアに居住していた土着の民族との混血によって形成されたと考えられている。

17世紀から19世紀にかけて、トルクメン人はカスピ海沿岸部からコペトダグ山麓やアム川下流域のホラズム地方に移住し、半農半牧の生活を営むようになる。カラクム砂漠の水位の低下による牧畜用水の不足やマンギト、カルルク、カザフなどのモンゴル系民族の圧迫が、トルクメン人の移住を引き起こしたと考えられている。コペトダグではイラン系の定住民、ホラズムではウズベクやサルトと衝突し、次第にトルクメン人はオアシスでの居住地を確保していく。

トルクメン人はイラン人・ロシア人奴隷の捕獲を行っていたことでも知られている。

19世紀半ばからトルクメン人は中央アジアに進出するロシア帝国に圧迫されていく。1869年にロシアがカスピ海東岸にクラスノヴォーツク要塞を建設するとトルクメン人とロシアの対立は激化する。1880年から1881年のギョクデペの戦いを経て、大部分のトルクメン人がロシアが設置したトルキスタン総督府の管轄下に入った。ロシア帝国は支配下に置いていた中央アジアの現地民を徴兵の対象としていなかったがトルクメン人の勇猛さを認め、1885年にトルクメン騎馬連隊を創設した。

ソビエト政権が1924年に行った民族境界画定によってトルクメン・ソビエト社会主義共和国が成立し、これまで複数の国に分かれて居住していたトルクメン人は民族単位で構成される単一の国家にまとめられた。社会主義国家建設の過程で、トルクメン語の表記法の改良、教育制度の改革が試みられた。

1991年にソビエト連邦が解体した後、トルクメン・ソビエト社会主義共和国はトルクメニスタンとして独立し、大統領サパルムラト・ニヤゾフによる独裁政治が敷かれた。ニヤゾフ政権ではプロテスタントの宣教師の弾圧、西洋芸術の否定、トルクメン人の民族衣装の強制といった民族主義的な政策が推進されていた。2006年12月にニヤゾフが没した後、後継者に指名されたグルバングル・ベルディムハメドフはニヤゾフ体制からの脱却、現代化を進めている。

引用:Wikipedia

タタール人

こちらはタタール人。

「タタールのくびき」や「韃靼人の踊り」にその名を残すタタール人は、主にロシア国内に居住するテュルク系民族で、ロシアではロシア人に次ぐ2番目の人口を擁する。

タタル (Татарла, Татар – Tatarla, Tatar) という語は、テュルク系遊牧国家である突厥(とっけつ)がモンゴル高原の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称である。

後にタタルと自称する人々はモンゴル部族に従属してモンゴル帝国の一員となり、ヨーロッパ遠征に従軍したため、ヨーロッパの人々にその名を知られた。ヨーロッパではモンゴルの遊牧騎馬民族が「タルタル (Tartar)」と呼ばれるようになり、その土地名も「モンゴリア(モンゴル高原)」という語が定着するまでは「タルタリー」と呼ばれた。中でもロシア語の「タタール(Татар)」はよく知られているが、ロシアはヨーロッパの中で最も長くモンゴル(タタール人)の支配を受けた国であり、ロシア人にとって「タタールのくびき (татарское иго)」という苦い歴史として認識されている。東ヨーロッパではモンゴル帝国の崩壊後にロシアの周縁で継承政権を形成したムスリム(イスラム教徒)の諸集団をタタールと称した。彼らの起源は、モンゴル帝国の地方政権のうちで後のロシア領を支配したジョチ・ウルスにおいてイスラム教を受容しテュルク化したモンゴル人と彼らに同化した土着のテュルク系、フィン・ウゴル系諸民族などで、これが現在のロシア・東ヨーロッパのタタール民族に繋がっている。

引用:Wikipedia

カラカルパク人

カラカルパク人という名はこれまで聞いたことがなかったが、今でもウズベキスタン西部の広大な土地が「カラカルパクスタン共和国」と呼ばれ、彼らの自治領になっているという。

カラカルパクとは「黒い帽子」を意味し、彼らもやはりテュルク系の民族だそうだ。

カラカルパクの最古の先祖は紀元前1世紀以後、アラル海南岸に住んでいたサカイ,マッサゲタイといった民族であった。2世紀末から4世紀にかけて東方からフン族が、また6世紀から8世紀には突厥が押し寄せ、部分的にテュルク化が始まり、ペチェネグ、オグズといった民族が形成され、カラカルパクの成立も始まった。

10世紀の初め、ペチェネグの一部は西方の南ロシアのステップへ移り、キエフ・ルーシの領内に入った部族はロシアの年代記で「チョルヌイ・クロブキ(黒い帽子)」と呼ばれた。ヴォルガ川とウラル山脈の間に残ったペチェネグはイルティシュ川方面から移って来たキプチャクとまじり、その言語を取り入れた。

16世紀、カザン・ハン国において、チンギス・ハーンの長子、ジョチの末裔であるノガイ系の王族に統率された遊牧集団、すなわちノガイ人と共にヴォルガ川流域に遊牧していた集団として、文献にはっきりと登場する。カザン滅亡後、シルダリア流域に去った。

16世紀から17世紀、カザフ人と共にシルダリアの中流及び下流域に遊牧していた。17世紀初め、ノガイ人と共にエンバ及びヤイカ川上流とシルダリア下流に定住した。これらのカラカルパクはブハラ・ハン国とのつながりをもち、北部のカラカルパクはカザーフのハーンであるタウケ(在位:1680年 – 1718年)に藩属した。[1]

1723年、ジュンガル人による「大いなる災厄」と呼ばれる侵略に遭い、1730年にカザフ・ハン国の小ジュズはロシア帝国の庇護を求めた。しかし、その後もジュンガルの侵略は続き、1743年にカザフ・ハン国の小ジュズから追い出され、17世紀から19世紀初め、カラカルパク人の大多数は、ホラズムの故地であるアムダリアとプリダリア両河川のデルタ地帯に居住した。

1867年、ロシア帝国に征服されトルキスタン総督府の管轄下に置かれた。ロシア革命後、ソビエト連邦に属することとなり、1920年にキルギス自治ソビエト社会主義共和国(現在のカザフスタン、首都はオレンブルク)が成立し、1925年にその管轄下の自治州としてカラカルパク自治州を構成した。1932年にカラカルパク自治ソビエト社会主義共和国に昇格。1936年にウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入された。当時、ロシア共和国以外で自治共和国を構成した珍しい例である。

1991年、ウズベキスタン共和国成立後も、同国内に自治共和国カラカルパクスタン共和国を構成しているが、人口構成としてカラカルパク人は多数派となっておらず、主導権はウズベク人が有している。

引用:Wikipedia

ドンガン人

「ドンガン人」というのもまた聞き慣れぬ名だ。

ドンガン人とはまだ新しい民族で、主にフェルガナ盆地に住む中国系ムスリムだそうである。

19世紀(清代)の1862年に中国西部の現陝西省地区から興った回民の反乱が鎮圧された後、ロシア帝国領であった中央アジアに逃げ込んだ人々の子孫を主体とする民族である。ほかに新天地を求めて移住した現甘粛省周辺の回民の子孫もいる。回民は、清代までに漢族(漢民族)との混血が進んでいたため、形質的には漢族とほとんど異ならず、言語も中国語官話方言西北方言の変種を使用しているが、ドンガン人も同様である。中央アジアのキルギス人など、テュルク系民族との混血は進んでいない。

主にキルギスのビシケクとカザフスタンのアルマトイの間の農村地帯に集中して居住している。他にも地方都市の郊外に集団で住み、野菜作り、果樹園経営などの農業、魚の養殖などに従事する人が多い。

言語は、アラビア語やペルシア語、ロシア語の語彙を多く含み、声調記号のないキリル文字で表記する特異な中国語の一方言、ドンガン語を使用している。

引用:Wikipedia

ウイグル人

中国の人権問題で世界的に有名になったウイグル人も、もともとはテュルク系遊牧民。

古くから中国との関係が深く、一時はモンゴル高原の覇者となった。

袁紇(ウイグル)部は、モンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、4世紀末から5世紀初頭に柔然可汗国に従属した。

390年、袁紇部は北魏の道武帝の北伐で大敗を喫し、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、袁紇部を含む高車諸部族は北魏に服属して漠南へ移住させられた。

6世紀~7世紀、高車は鉄勒(てつろく)と呼ばれるようになり、袁紇(ウイグル)部も中国史書で烏護・烏紇・韋紇などと記され、やがて迴紇・回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に属し最大の構成民族であったが、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88,000、以東に11部・勝兵20,000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200,000)、その中でも回紇(ウイグル)部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀(せつえんだ)部と争った。

629年に部族長の吐迷度は薛延陀部を破り、鉄勒の盟主となった。646年には唐に帰順し、回紇部は瀚海都督府とされ、吐迷度は懐化大将軍を拝命し、瀚海都督となった。

682年、東突厥が再興(第二突厥可汗国)すると回紇(ウイグル)部は再び屈従を余儀なくされたものの、734年に東突厥の毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が毒殺されると、バシュミル部、カルルク部らとともに東突厥へ度々攻撃を仕掛け、745年に回紇(ウイグル)部の可汗(カガン、君主)となった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐と組んで最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥可汗国を滅ぼした。

744年、骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国する(744年 – 840年)。回鶻(ウイグル)可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たなモンゴル高原の支配者となった。

以後、彼ら回鶻(ウイグル)の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏によって可汗位が継承された。経済面では唐との絹馬貿易や東ローマ帝国とのシルクロード交易によって莫大な利益を上げた。

755年に唐で起きた安史の乱では、唐の要請により回鶻(ウイグル)軍が反乱を鎮め、763年に終結することができた。

唐が安史の乱の勃発により西域の経営から手を引くと、回鶻(ウイグル)は西域を巡って吐蕃と数十年に渡る戦いを繰り広げた。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的に回鶻(ウイグル)軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利した。トルファン盆地とタリム盆地北部が回鶻(ウイグル)の領国となった。

なお懐信可汗(在位:795年 – 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。

840年、回鶻(ウイグル)可汗国は内乱と黠戛斯(キルギス)族の侵攻を受けて崩壊した。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなり、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝となり、甘粛に移った一派はのちの甘州ウイグル王国となり、東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)に移った一派は天山ウイグル王国となった。

モンゴル帝国、ジュンガルへの服属を経て、18世紀半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「新しい領土」を意味する「新疆」と呼ばれた。その後ロシアが中央アジアに進出し、1881年にトルキスタンを併合すると、清朝は1884年にタリム盆地・ジュンガル盆地を纏めて新疆省を設置した(1884-1955年)。

1911年、辛亥革命が中国内地で発生する。新疆にも革命派が入り、1912年1月、イリの革命派が蜂起し、イリ将軍でモンゴル旗人の広福(グワンフ)を臨時都督とする政府が樹立された。

1933年2月、タリム盆地南部のホタンで、ムハンマド・アミーン・ブグラが蜂起し、漢人官僚を一掃して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月に東トルキスタン・イスラーム共和国を樹立した。

1941年には、アルタイ地区のカザフ遊牧民のケレイ部族出身のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連とモンゴル人民共和国の援助をうけ、アルタイ民族革命臨時政府を樹立した。1944年10月にはイリ渓谷のニルカとクルジャで反乱が発生し、11月12日、東トルキスタン共和国が建国された。

この第二次東トルキスタン独立運動にはソ連赤軍が直接参加した。

1949年、国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収のために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。

12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、統合された。ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族やシベ族、回族で構成された東トルキスタン共和国軍(イリ民族軍)を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル人のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。1950年、伊吾で国民党勢力の残存していた地域へ進軍してこれを制圧した(伊吾の戦い)。これによって新疆は中華人民共和国の帰属となった。

この後、民族名称はウイグル族(維吾爾族)と公式に定められ、現在に至っている。

中国政府は1950年ごろ、新疆ウイグル自治区に漢族を中心とする新疆生産建設兵団を大量に入植させた。

その後、入植当初人口7パーセントだった漢族が1991年には40パーセントになった。

引用:Wikipedia

こうした中央アジアの草原で覇権を争った民族の他に、博物館ではロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、アルメニア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人、クルド人、チェチェン人、朝鮮人なども同様に展示されていて、実に多様な民族がこの地域の歴史に関わったことがわかる。

しかしソ連時代、中央政府の民族政策の下、多くの少数民族が強制的に移住を強いられ、それが今日の中央アジアの基本形を成していることは理解しておかなければならない。

強力なリーダーを持った民族が大帝国を築いた武力の時代ははるか昔に終わり、人工的に民族が管理され整理された近代へと移っているのだ。

それにしても、学校で習った世界史にはこうした中央アジアの歴史はすっぽりと抜け落ちていることに気づく。

こうした自分の知識の歪みに気づかされることも、知らない国をわざわざ訪れる意味であろう。

中央アジアの旅2023🐪

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