<きちたび>アラビア半島の旅2023🕌サウジアラビア🇸🇦 「イスラム世界の盟主」サウード家のアラビア王国はこうして誕生した

サウジアラビアの首都リヤドは、砂漠のど真ん中に築かれた大都市である。

人口は767万人。

海からも遠く離れ、川すらないこんな場所になぜこれほどの巨大都市ができあがったのだろうと疑問を感じる。

サウジアラビアの公式観光サイトによれば、リヤドとは「庭園」という意味があり、14世紀ごろには肥沃な土壌や多くの運河や樹木があることから人々がこの地域を崇めていたとある。

この周辺はアラビア半島内陸の高原地帯なので、かつては運河が流れる豊かな土地だったのかもしれない。

いずれにせよ、ここリヤドがこれほど発展したのは、19世紀にサウード家がこの街を本拠地にしたからにほかない。

サウジアラビアとは「サウード家のアラビア王国」、現在の王族サウード家の祖先たちがこの街を作り、守り、奪い返し、発展させ続けてきたのだ。

リヤドに来た一番の目的は、日本が輸入する石油の3分の1を依存している国、そして「イスラム世界の盟主」と呼ばれるサウジアラビアという国の成り立ちを少しでも理解することである。

メッカ、メディナの2つのイスラム聖地の守護者であり、アラブ諸国の中でも最も厳格に戒律を守ってきた国だが、その歴史は驚くほど短い。

高尾賢一郎著『サウジアラビア 「イスラーム世界の盟主」の正体』という本をベースに、日本にとって死活的に重要なのにも関わらず多くの人がほとんど知らないサウジアラビアの歴史を学んでいきたいと思っている。

現在のサウジアラビア王国は、第一次王国(1744~1818年)、第二次王国(1824~89年)に次ぐ、1932年以来の第三次王国と位置づけられ、その統治体制や政治思想には連続性が確認できる。このため、第一次王国誕生のあらましを無視して同国を語ることはできない。

アラビア半島はイスラーム社会の創成の地である。しかしそれはヒジャーズ地方と呼ばれる半島西部の話だ。サウジアラビア黎明の舞台となるのはナジュド地方と呼ばれる半島中部である。この発端は、ウヤイナという村のウラマー(イスラーム学者)、ムハンマド・イブン・アブドルワッハーブ(1703~92年)だ。

彼は当時のナジュドで広まっていた聖木信仰、聖廟参詣、願かけ、魔除け、まじない、予言などの慣習を、多神崇拝につながる「ビドア」だと訴え、やめるよう人々に呼びかけた。ビドアは字義どおりには「新しく作られたもの」を意味するが、転じて預言者ムハンマドの時代にはなかった新奇なもの、「正しいイスラーム」の実現を阻む考えや制度、慣習などを指す。イブン・アブドルワッハーブは、ナジュドのウラマーはクルアーンとハディースについての知識がないため、さまざまなビドアが社会に根づく事態を放置しているのだと糾弾した。

こうした行動によって故郷でもて余し者扱いされた彼は、メディナやバスラで遊学した後、ウヤイナの隣村フライミラーで再び啓蒙活動に取り組んだ。ここで一時は庇護を受けたものの、その後はウラマー同士の権力争いの余波を受けて、最終的に南方の町ディルイーヤに追放される。

ディルイーヤに居を移したイブン・アブドルワッハーブは、引き続きビドアを廃止するよう人々に説いてまわった。この噂を耳にしたのが、同地の有力部族の長であったムハンマド・イブン・サウード(1697~1765年)の妻と兄弟である。イブン・アブドルワッハーブの庇護者になるよう妻らに勧められたイブン・サウードは、彼を訪れてなにを望んでいるのかを尋ねた。これに対してイブン・アブドルワッハーブは、ビドアを社会から一掃し、イスラームの教えにもとづいた社会を作ること、そうすれば神はイブン・サウードがナジュドの支配者になることをお認めになるだろうと説明した。

そしてイブン・サウードは1744年、イブン・アブドルワッハーブを思想的後見人として自身の一族の名を冠したサウジアラビア王国(「サウード家のアラビア王国」を意味する)の建設に着手したのである。

引用:『サウジアラビア 「イスラーム世界の盟主」の正体』より

サウード家はもともと、リヤドの郊外にあるディルイーヤという小さな町を治める部族長に過ぎなかった。

それがイスラム原理主義を唱える一人の宗教家と出会い、宗教改革の名の下に勢力を拡大する道を歩み始めたということだ。

たとえば盟約の際、イブン・サウードはイブン・アブドルワッハーブに住民からの徴税について許可を求めた時、イブン・アブドルワッハーブはそれを認めず、代わりに新たな征服地から戦利品を得ること、そしてそれが税金よりも莫大であることを説明したというような関係である。

こうしてサウード家の始祖であるイブン・サウードは、「ワッハーブ主義」と呼ばれる過激なイスラム教を武器に周辺部族の征服を始めるのだ。

サウジアラビアは、メッカとメディナを支配してきた歴代のイスラム王朝と連続性を持たない。

首都リヤドがあるアラビア半島中部は、イスラム史でいえば「後進地域」と呼べる場所だった。

18世紀以降、ヨーロッパ諸国がアジア・アフリカ地域に進出し、現在のエジプト、シリア、イラクは植民地支配を受け、中東にもヨーロッパ式の教育システムや都市計画、世俗主義にもとづいた政治体制などが導入された。

しかし、後進地域だったアラビア半島中部にはヨーロッパの制度・慣習が流入しなかったため、サウジアラビアはガラパゴス国家として独自の誕生・進化を果たしたのである。

【第一次王国(1744~1818年)】

1744年の政教盟約の後、王国は二度の興亡を繰り返して第三次王国誕生にいたる。この経緯を簡単にまとめたい。

国家建設を試みたイブン・サウード・アブドルワッハーブは、リヤドを1737年から治めていたダッハーム・イブン・ダウワースに自分たちの野望に加わるよう提案した。しかしイブン・ダウワースからすれば、これはサウード家の配下となることを意味するため、彼は国家建設の提案を拒んだ。1754年に一度はサウード家に降伏したものの、その後フライミラー、マンフーハ、シャクラーなどの近隣の町を舞台に両者の武力衝突は続いた。この間、1765年にイブン・サウードは死没したが、サウード家は1773年にイブン・ダウワースとの戦いに勝利し、リヤドを制圧してナジュド地方の覇者となった。

王国はナジュドを越えて東部のアフサー地方、さらに19世紀には現在のイラクにまで支配地を広げた。これに関して現地で語り草になったとされるのがカルバラー襲撃事件だ。カルバラーは第4代カリフ、アリーの息子であるフサインが殉教した場所である。同地にある彼の聖廟は、多くのシーア派が巡礼に訪れる聖地だ。1802年、このカルバラーでサウード家の配下にあった1万2000人ともいわれる部族民が破壊、略奪を行い、フサイン廟のドームも壊されたという。

ムハンマドの孫にあたるフサインの廟への襲撃は、ともすればイスラームに対する冒瀆にも思われる。しかしここで思い出されるのが、ワッハーブ主義の柱であるビドアの排除だ。メッカやメディナと異なり、フサイン廟もシーア派もムハンマドの時代には認められていない。それゆえに、略奪や破壊の対象ともなった。王国の領土拡大は、ほかならぬワッハーブ主義の宣教であった。

一方、サウード家の勢力がアラビア半島を越えたことは、王国破滅の序曲でもあった。1803年のメッカ制圧の際、カルバラーと同様に聖者廟や墓地の破壊が見られたことに反応を示したのがオスマン帝国である。当時のメッカはオスマン帝国が任命した太守が統治しており、帝国は聖地の保護国を自認する立場もあってメッカ奪還をエジプト総督メフメト・アリーに命じた。これによってサウード家はメッカから敗走した。そして1818年、エジプト軍によってディルイーヤが陥落し、第一次王国の歴史は幕を下ろしたのである。

引用:『サウジアラビア 「イスラーム世界の盟主」の正体』より

こうして、一旦は敗れ去ったサウード家だったが、その後復活の狼煙を上げたのが、ここリヤドだった。

【第二次王国(1824~89年)】

第二次王国は、イブン・サウードの孫にあたるトルキー・イブン・アブドッラーのリヤド奪回によってはじまる。トルキー国王はリヤドに新設したフクム城(カスル・アル・フクム)を行政の中心とし、ナジュド、また1830年までにアラビア半島東部をペルシャ湾にいたるまで制圧した。

しかし、第二次王国は内紛に明け暮れたことで前王国ほどの領土拡張を果たせなかった。いとこのミシュアルの支持者によるトルキー国王の暗殺、トルキー国王の息子ファイサルによるミシュアル処刑、エジプト軍を後ろ盾としたファイサルの叔父ミシュアルのクーデターとファイサルの追放、ファイサルのクーデターによる王位奪還、ファイサル没後の息子同士の跡目争い・・・矢継ぎ早に起こった「お家騒動」によって、第二次王国は脆弱化の途をたどった。これに乗じたのがジャバル・シャンマル地方のラシード家である。同家は現在のイラク、クウェート、ヨルダンにまたがるアラビア半島北部を領土とし、サウード家と競合関係にあった。ラシード家は1889年にリヤドを制圧して第二次サウジアラビア王国を滅ぼし、サウード家は現在のクウェートで亡命生活を送ることになった。

引用:『サウジアラビア 「イスラーム世界の盟主」の正体』より

湾岸戦争の際、イラクに攻め込まれたクウェートの王族サバーハ家がサウジアラビアに亡命したことがあったが、実はその100年前、両者の関係は逆だったというのは興味深い。

こうして二度にわたってリヤドを追われたサウード家だが、三度このリヤドを奪還した際の象徴として修復されたのがリヤド旧市街にある「マスマク城」である。

土を固めて作られた城塞、これがアラビアのスタイルのようだ。

城内にはサウード家とサウジアラビアの歴史が展示されているが、そのハイライトとなるのが、1902年現在のサウジアラビアの建国の父とされるアブドゥルアジーズ・イブン・サウードがこの城を奪い取った物語であり、その戦闘シーンが映像化され上映されていた。

だが、アブドゥルアジーズの成功を支えたのはイギリスだったようだ。

第三次王国の誕生時にはクウェートとイギリスという「協力者」が存在した。クウェートに関しては、すでに述べたように第二次王国崩壊後に亡命したサウード家を首長のサバーフ家が庇護していた。イギリスは1882年にオスマン帝国の支配下にあったエジプトを占領し、1899年にはクウェート一帯を保護領として、オスマン帝国の遠方での支配権を奪っていた。この状況下、1902年に先述のファイサル国王の孫にあたるアブドルアジーズがリヤド奪回に向かう。アブドラアジーズはフクム城の至近にラシード家が建てたマスマク城を夜襲し、同家の総督アジュラーンを討ち取った。そして周辺の支配を確立した彼は、父でありサウード家の長であるアブドッラフマーンをクウェートから呼び寄せ、王位継承を宣言した。三たびサウード家の王国がリヤドに興ったのである。

その後、オスマン帝国のアラビア半島からの撤退に乗じ、サウジアラビアはイギリスの協力も得つつ半島東部を制圧した。そしてメッカ太守フサイン・イブン・アリーとの雪辱戦に勝利したサウード家は、1924年にメッカ、1925年にメディナとジッダといったアラビア半島西部の各都市を攻略し、1932年に現在の領土を確立した。

引用:『サウジアラビア 「イスラーム世界の盟主」の正体』より

こうして1932年、現在のサウジアラビアが建国された。

歴史を振り返ってみると、サウード家にとってリヤドは他の町とは違うかけがえのない都であることがわかる。

座っているのが初代国王アブドゥルアジーズ・イブン・サウード、後ろに立っているのが彼の2人の息子、左が2代国王サウード、右が3代国王ファイサルである。

さすが武力でアラビア半島を統一した面々、「仁義なき戦い」にでも登場しそうな迫力だ。

こうして、サウジアラビアでは初代国王の息子たちが代々王位を継承していて、現在の第7代サルマン国王は初代国王の25番目の男子に当たるそうだ。

今やサウジの王族には第6世代まで誕生していて、王族の人数が世界最多としてギネスにも登録されているという。

現在サウジアラビアの実権を握っているとみなされ大胆な改革を断行中のムハンマド皇太子が次の国王となれば、初めて初代国王の孫に当たる第3世代に王位が渡るということになる。

ムハンマド皇太子が権力を握るまでには王家の内部で激しい後継者争いが演じられたと伝えられるが、このようなサウード家の事情を知ることで多少背景が理解しやすくなるというものだ。

リヤド旧市街には、もう1ヶ所、サウジ王室にゆかりのある建物が残っている。

王国を建国後、アブドゥルアジーズ初代国王が建てた「ムラッバ宮殿」である。

中庭を取り囲む2階建ての建物には32の部屋が用意され、大切なゲストをこの宮殿でもてなしたそうだ。

外壁は土壁だが、中に入ると壁は真っ白に塗られ、緑の建具が美しいアクセントをつけている。

この宮殿で撮影された数多くの写真が展示されているが、その中にバーレーン国王を接待した時の写真があった。

テーブルに置かれているのは、サウジアラビアを代表する料理「カブサ」。

レストランでは炊き込んだ米の上に鶏肉や羊肉の塊が載っているのが普通だが、さすが王様、おそらく羊1頭を丸焼きにして大皿の米の上にドーンと置いたのであろう。

こんな料理を目の前に出されると、その迫力だけでもうお腹が一杯になりそうだ。

こうしてリヤドを奪還し、半島を統一し、サウジアラビア王国を再建した初代国王は、厳格なイスラム教に基づいた国づくりを始める。

サウジアラビアが守る厳格なイスラム教は、建国の思想的指導者であったイブン・アブドルワッハーブにちなんで「ワッハーブ主義」と呼ばれる。

このワッハーブ主義について、高尾賢一郎氏の著書の中では次のように説明されている。

イブン・アブドルワッハーブはビドアを排除したイスラームのあり方を説いた。この理由として、彼はビドアが多神崇拝や偶像崇拝につながることを挙げた。すなわち、徹底した一神教としてのイスラームへの希求が彼の思想の根幹にあったのである。これを彼は端的に「タウヒード」(一神論)と表現した。この言葉が指すのは、ほかならぬ神の唯一性だ。

アッラーは唯一の神・・・これは文法さえわかれば誰でも理解が可能な単純な教えである。これをイスラームのアルファでありオメガと位置づければ、イスラームに背く最たるものが多神崇拝であることは明白だ。事実、多神崇拝は「シルク」と呼ばれ、イスラームにおける最大の罪とされる。

しばしば争点となるのは、唯一なる神を置きつつも多神崇拝との疑惑が持たれる、さまざまな信仰実践である。イブン・アブドルワッハーブが聖木信仰や聖廟参詣を批判したのは、人々が木石や聖者、また護符などを救済や恩恵を求める対象としたためである。

【始祖にならう】

イブン・アブドルワッハーブの主張は、彼の名に因んでワッハーブ主義と呼ばれてきた。この呼称は、イスラーム以外をかたくなに拒む「過激主義」の類語として用いられることが多い。サウジアラビアでも20世紀前半にはワッハーブ主義が自国への蔑称と認識され、今日では国内で使用される機会も稀である。しかし、その理由はたんに同語が「過激主義」を示唆するためではない。

ワッハーブ主義の根幹であるタウヒードは、一言でいえばイスラームを誤りのない形に還元するものだ。すなわち、歴史上に存在した多くの「イスラーム」を誤ったものとする考えが背景にある。このこと自体は、特定の人物によって興った創唱宗教というイスラームの特性を考えれば理解が可能だ。明確な起源や教義を持たない自然宗教(神道など)に対して、創唱宗教では創始者が生きた時代を最良とする考えが珍しくない。事実、預言者ムハンマド自身は次のとおり述べている。

『最善の世代は我が世代である。その次はそれに続く世代であり、そしてその次はそれにまた続く世代である。』

こうした考えから、ワッハーブ主義は可能な限り「正しいイスラーム」を実現する方法として、イスラームの黎明期を支えた始祖たちにならうことを訴えた。具体的には、彼らがイスラームの典拠とした無謬なもの、すなわちクルアーンとスンナのみを典拠とするよう呼び掛けたのである。

この始祖をアラビア語で「サラフ」と呼ぶ。サラフが指す範囲はおおむねムハンマドに直接従った人々を第一世代とした三世代である。サラフにならうという意味から、クルアーンとスンナのみを転居とする思想は広義の「サラフ主義」に含まれる。ワッハーブ主義の呼称を嫌うサウジアラビアで代わりに好まれたのもサラフ主義だった。第三次王国のアブドルアジーズ初代国王自身は、これについて次のように述べている。

『人々は我々を「ワッハーブの徒」と名づけ、これを特定の学派と見なして「ワッハーブ主義者」と呼ぶ。しかしこれは悪意を持つ人々が広めた虚偽のプロパガンダによって生じた、忌むべき誤りである。我々は新奇の集団でも、新奇の教義の徒でもなく、ムハンマド・イブン・アブドルワッハーブも新奇の人ではない。我々の教えはアッラーの書(クルアーンを指す)と彼の使徒のスンナから生まれたもので、これは先代より受け継がれたサラフの教えである。』

ワッハーブ主義はクルアーンとスンナのみを典拠とする立場から、特定の学派や宗派を擁立し、権威化することを拒む。このため、ワッハーブ主義自体が学派・宗派のごとく捉えられる事態を強く否定するのである。

引用:『サウジアラビア 「イスラーム世界の盟主」の正体』より

ムラッバ宮殿には美しいアラブ風の庭園がある。

水路が張り巡らされ、ヤシの木が生い茂る。

実に気持ちのいいお庭だ。

今の季節は気候も最高で、直射日光に当たると暑くも感じるが、木陰に入れば湿度もなく本当に心地よい。

厳格なイスラム教に従って生きるという生活は私たちから見ると甚だ窮屈そうに感じるが、生まれた時からそういう環境で育っていると、1日5回の礼拝を行い、金曜日にモスクに行くことは当たり前になり、案外苦もなく規則正しい生活が送れるのかもしれない。

いずれにせよ、サウード家は石油の恩恵にも恵まれて90年間、イスラム世界の盟主としての地位を固めてきた。

サウジアラビアは今も政教一致の絶対君主制である。

建国以来、文字にされた憲法を持たなかったが、1993年に公布された「統治基本法」が現在では憲法の役割を果たしている。

その第1条には「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されているという。

すなわち、聖典コーランと預言者ムハンマドの言行こそが今もこの国の憲法なのである。

そこに暮らす人々がそれを受け入れるのであれば、地球上にこういう全く別の価値観を持つ国が存在するのも面白いし、ひょっとすると重要なのかもしれないとサウード家の歴史を勉強しながら考えたりした。

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