伊勢神宮と天皇①

「式年遷宮」は近代語

『 いまや式年遷宮という語はひろく浸透しているが、式年と遷宮がセットになった「式年遷宮」という語が当初からあったのではなかった。じつは、「式年遷宮」とは近代語なのである。』

武澤氏によれば、20年に一度、宮を造り替えて新しい宮に神が遷る慣行は飛鳥時代から始まったが、「式年」という言葉が登場したのは南北朝時代だという。しかも、中世後期には式年遷宮の中断期間が120年以上続いたそうだ。

『 伊勢神宮は、いうまでもなく皇祖神アマテラスの住まいである。それは皇祖の神威を象徴するものであった。その輝かしい神威を目に見えて明らかにするために、社殿は常に新しく、若々しくあらねばならない。なぜなら、皇祖神の勢いが衰えては、その子孫である天皇の存在基盤が脆弱になってしまうからだ。

定期的に社殿を造り替えて清新さをたもつことは、天皇の存続こそ国の大本と信じる者にとって、ゆるがせにできない一大事だったのである。』

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いつ始まったのか?

さて、そもそも式年遷宮はいつ始まったのか?

『 最初の式年遷宮は女帝持統の下でおこなわれたが、じつは先帝天武の代にいたるまで、歴代の天皇は代替わりのたびに王宮を遷していた。当時の王宮は腐食の避けがたい掘立て柱で建てられていたが、それはまた、建てるのに容易なやり方でもあった。

宮を遷すにあたっては、至近の場合もあれば、かなり遠距離の場合もある。いずれにせよ、代替わりことに宮が変わるのは当時の東アジアでも日本だけに見られた特異な慣行で、歴代遷宮と呼ばれる。

終着点となったのは、狭い飛鳥を抜け出た藤原の地であった。そこに計画されたのが、天武が着手した日本初の碁盤目状都市・藤原京である。この恒久の都の中心に藤原宮が位置づけられた。天武は宮の完成を見ることなく没し、持統天皇が誕生。即位の年に、伊勢神宮最初の式年遷宮が挙行された。そして4年後、持統は藤原宮に遷り、歴代遷宮に幕が惹かれた。

藤原京の建設および式年遷宮の開始が、歴代遷宮の停止をもたらしている。言い換えれば、歴代遷宮の停止を引き取る形で式年遷宮が始まったのである。』

『 遷らないためにこそ、藤原京は構想されたというべきだ。恒久的な宮のあり方は権力安定化の基盤をつくり、その継続性の強化に適していたのである。

しかしながら反面、従来の感覚からすると、「歴代」遷宮がもたらす天皇権威の更新と活性化という効能を失ううらみがあった。安定化にともなう活力低下のおそれである。これを補う代替策として、皇祖神をまつる伊勢神宮の「式年」遷宮が始まるのであった。』

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アマテラスと持統天皇

現代に続く天皇家の基礎ができたのが、まさに天武・持統の時代とされる。そのことは、つい先日、「天皇家の誕生」という記事に書いたばかりだ。

壬申の乱を制した天武天皇が絶対的な権力を手にしたが、それを引き継いだ天智天皇の娘である持統天皇は藤原不比等を重用し「カメレオン的天皇」に変質させたという見方である。

アマテラスという女神を皇祖神と定めたのも持統天皇を神格化しようとした藤原不比等の計画だったのではないかという見方に乗っかるとすると、伊勢神宮の式年遷宮もその延長線上にあるような気もしてくる。

「アマテラス=持統」を計画した者たちからすれば、アマテラスを祀る伊勢神宮の神威が永遠に続くことは持統天皇の系統が永久に続くことを意図したと考えると、ますます面白い。

武澤氏の見方は、持統天皇その人がアマテラスと一体化することを望んでいたというものだ。

『 朱鳥元年(686年)9月に天武天皇が没したが、その翌月、皇位を狙った謀反のかどで大津皇子が死に追いやられる。大津の父は天武であり、母は皇后の姉であった。

皇后は即位式を経ぬまま、実質的に天皇として権力を行使する。大津の死は持統の主導でなされた。彼女にとって最重要課題は、自分の腹を痛めた草壁を皇位につけることだった。そのような状況の下、持統二年に、皇祖神を祀る伊勢神宮の「式年遷宮」の制が定められたのであった。』

ところが息子の草壁皇子が若くして亡くなり、持統の執念は草壁が遺した幼い孫を皇位につけることへと変わっていく。

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