伊勢神宮と天皇①

万世一系

天武天皇の指示により編纂が進められていた「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」には、天皇、皇后および皇太子制が織り込まれていたとみられ、これで直系による皇位継承のレールが敷かれた。これが「万世一系」のイメージの礎となった、と武澤氏は指摘する。

『持統は天武とは異なる野望を持っていたのである。

最初の式年遷宮を遂行したのは持統天皇であった。まさにその年の正月に、持統の即位式が挙行された。「二十年に一度」の式年遷宮だが、第1回目に制約はない。持統は自身の即位と式年遷宮を同じ年に設定したのであった。

そして天皇自身が伊勢の地を訪れたのは、明治天皇以前では持統と聖武天皇だけなのである。』

持統天皇は天武の重臣たちの反対を押し切って初めて伊勢神宮に行幸した。その目的について、武澤氏はこのように読み解く。

『 結論を先にいえば、この行幸は、自分がアマテラスとして振る舞うことを伊勢神宮に報告し、合わせてその許しを得るためだったというのが私の考えである。

すでに神璽を得ていた持統女帝は天皇在期間中、アマテラスが女神であることを最大限利用した。すなわち、みずからアマテラスとして振舞ったと考えられるのである。<アマテラス=持統>説はそう新奇なものではなく、論拠は様々とはいえ従来から根強くある。

持統は、重臣の再度にわたる諫言を押し切って伊勢親祭を強行した。女神アマテラスとして、自身のプロデュースを決意したのである。生ける皇祖神として、我が身を徹底的に演出するのであった。』

持統は32回も吉野行幸を繰り返した。その理由について武澤氏は・・・

『 持統は道教の聖地である吉野への行幸を繰り返すことによって呪術力を秘かに身につけ、その行使を願っていたのではないか。

何の目的で?

自身がアマテラスになるために。

持統が染まった易の思想によれば、吉野に入ることは「天」に入ることであった。持統にとって「天」とは、他ならぬ高天原であり、何よりもそこはアマテラスのおわす聖地であった。このことは、「日本書紀」が持統没後の諡(おくりな)とする「高天原広野姫天皇」によく表れている。吉野行幸の目的は呪術力を身につけて高天原に入ることだった。そこで持統はアマテラスと一体となり、アマテラスであり続けるための秘儀を繰り返していたのではないか。』

天孫降臨神話

天孫降臨神話にも、この<アマテラス=持統>の構図が強く影響している。

『 神である<アマテラス=持統>の産んだ子は当然神の子であり、孫もまた同様。神話の現実化である。直系子孫を皇位につけるのにこれ以上、盤石な設定はない。

持統がみずからをアマテラスと一体化させていた痕跡は「日本書紀」にも残されている。持統は皇位につけようとしていた息子・草壁が早世すると孫を天皇にしようと画策するが、「日本書紀」の天孫降臨のくだりには、アマテラスが息子ではなく孫を地上につかわす話がある。

地上が平定されたとの報告を受けた高天原のアマテラスは「方に吾が児を降ろしまつらむ」といって地上に息子を降ろそうとするが、孫のニニギが生まれるや言をひるがえす。「此の皇孫を以って代へて降さむと欲ふ」といって、子ではなく、生まれたばかりの孫を地上に降ろすのである。

どうみても不自然な展開だが、これなどはまさに孫を皇位につける持統の姿そのものである。持統をモデルとして、アマテラスにこう語らせているのは間違いない。

まさに天「孫」降臨だが、<皇祖アマテラス‥息子‥天孫ニニギ>の関係は、<持統‥草壁‥孫(=のちの文武天皇)>の関係にそのまま移行するのである。同様の話は「古事記」にも見られる。』

「日本書紀」「古事記」が完成したのは、まさに持統天皇の時代。武澤氏の説の真偽はさておき、日本最古の歴史書は、明確な意図を持って作られたことだけは知っておきたいと思う。

日本書紀に収められている「天壌無窮の神勅」で、アマテラスは次のような趣旨にことを言う。

「この国は私の子孫が王であるべき地である。宝祚(=皇位)は永遠に栄え、それは天地に果てしがないのと同じだ」

持統天皇はみずからの直系が皇位を継ぐことに執念を燃やし、そして実際、持統の直系によって「万世一系」の流れが出来上がるのである。

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