天皇家の誕生

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平成から令和への改元を前に、天皇関連の本を読んでいる。

一番知りたかったのは、天皇家はどのように生まれ、どのように権力を握ったのかという点だ。

さすが天皇を扱った書籍はたくさん出版されている。これまでほとんど読んだことがなかったので、なかなか興味深い。私が学校で習った歴史が、その後の研究によってかなり変わってきていることも知った。

私の疑問に答えてくれたという意味で、関裕二著『「天皇家」誕生の謎』は面白かった。

その中から、まず「はじめに」の一部を引用させていただく。

 

『 天皇とは何か。

なぜ天皇は潰されることなく、今日まで生き残ったのか。日本史上もっとも重大な謎であるにもかかわらず、いまだに明確にされていない。

けれども、これだけはまずいえるのではないか。すなわち、「天皇はカメレオン」ということである。

いつのことから日本の王は、時の政権の思い描く理想の王たることを求められた。そして天皇は、静かにそれに従ってきた。日本の王=天皇は、その時代の権力者の姿を映す鏡になった。権力者が右を向けば右を向き、権力者が首を縦に振れば天皇も首を縦に振ったのである。「勝った者」「勝つであろう者」には錦の御旗を下賜し、「敗れた者」「敗れるであろう者」に「賊軍」のレッテルを貼った。だから彼らは潰されることなく守られたのである。つまり実際には天皇に実体などなかったのだ。実体がないのに実体を探ろうとするから、するりと逃げがれる。社会そのものの色に染まるだけなのだ。

結局天皇とは、時の政権の姿そのものというほかはない。しかしそれゆえに天皇は日本の象徴なのであり、日本人そのものなのである。』

 

この「天皇=カメレオン」という関氏の説は、明治維新後の天皇を考えると、まさにその通りである。

明治維新では薩長が天皇を担ぎ出したことで勝負が決まった。大日本帝国では天皇は現人神に祭り上げられ、侵略戦争のシンボルとされた。そして戦後、日本国憲法の下で象徴天皇という概念が生まれた。

めまぐるしく変わった天皇の役割。どうやら歴史的に見ると、関氏が指摘するように時の権力者の求める天皇になるというのがその姿だったような気がする。

ただし・・・である。

関氏は次のように続ける。

 

『 ただし、ヤマトの王(のちの天皇)が、最初からずっとカメレオン的存在だったわけではない。

三世紀後半から四世紀にかけてヤマトに生まれた王は、よく知られるように祭司王の性格が強かった。王に強大な権力は与えられず、首長連合の中の盟主に過ぎなかった。いわゆる「天皇」は、「七世紀後半の天武天皇の時代に生まれた」というのが、現在もっとも有力な説である。「天皇」という称号も、「神格化された天皇」も、壬申の乱(672年)を制し強大な権力を獲得した天武天皇によって完成されたという。天武天皇は、皇族だけで朝堂を牛耳る皇親政治という独裁体制を敷いたことでも知られている。

つまり、七世紀後半に強い天皇の力で律令という法体系が編み出され、天皇を頂点とする統治システムの原型が生まれたとするのが、今日的な解釈である。』

 

「天皇」という称号が生まれたとされる天武天皇は、「古事記」「日本書紀」の編纂も命じたとされる。「日本」という国名を初めて使ったのも天武天皇なら、「大嘗祭」という皇室行事を設けたのも天武天皇であろうと言われている。

要するに、第40代の天皇である天武天皇が実質的な天皇家の祖であるとも言えるようだ。

ちょっと話が脱線するが、戦前の日本では、初代神武天皇が即位したとされる2月11日を「紀元節」として祝っていた。「日本書紀」などの研究から、神武天皇が即位した年は西暦の紀元前660年とされ、昭和15年には「紀元2600年」を記念する行事が大々的に行われた。

紀元節は明治6年に定められた。明治政府が天皇を神格化し利用するためだ。明治維新のリーダーたちが、政権運営のために編み出した天皇神格化の悪知恵が時が経つにつれて一人歩きするようになり、日中戦争や太平洋戦争へと繋がっていったことは忘れてはならない。

戦後GHQによって紀元節は廃止されたが、昭和41年自民党中心の議員立法により「建国記念の日」として名前を変えて復活した。こうした動きを支持する政治家は今も数多く存在する。

ちなみに、初代の神武天皇は「古事記」によれば137歳、「日本書紀」では127歳まで生きたとされる。もはや歴史ではなく神話の世界なのだが、それが我が国の建国の日となっていることは日本人として知っておくべきだろう。「歴史の改竄」といって北朝鮮や韓国のことを笑えない話が日本にもあるということだ。

 

関氏の本に戻ろう。

天武天皇によって絶対権力者となった天皇がなぜ「カメレオン天皇」に変わったのか?

関氏は、鍵を握るのは天武天皇の妻である持統天皇だと推理する。

『 まず注目したいのは、天武天皇がつくりあげた天皇が、誕生直後に別のものにすり替えられてしまったという事実である。

証拠はある。もっとも分かりやすい例は、「天皇家の根っこに屹立する太陽神は女性であった」と『日本書紀』が提示しているところである。もし『日本書紀』が天武天皇から始まる王家を顕彰したかったのであれば、男神でなければならなかったはずだ。世界中の太陽神も多くの場合男神であり、『日本書紀』はあえて女神にすり替えた疑いが強い。

そしてもう一つつけくわえておきたいのは、いわゆる天孫降臨神話は、持統天皇の子や孫の系譜を神話化した疑いが強いことである。』

『 『日本書紀』編纂時の朝堂の頂点に立っていたのが藤原不比等なのだから、『日本書紀』に彼の意向が反映されていたことは間違いない。したがって、持統を「王家の始まり」に仕立て上げ、男神を女神にすり替え、高皇産霊尊を自らになぞらえたのは、この人物だろう。』

『 持統天皇の血統にも注目しておく必要がある。というのも、天武天皇は兄天智天皇の子の大友皇子を殺して天下を取ったが、天武の妻持統天皇は天智天皇の娘なのである。

持統天皇は藤原不比等を大抜擢したが、藤原不比等の父は中臣(藤原)鎌足で、持統天皇と藤原不比等のコンビは、まるで天智天皇・中臣鎌足コンビのコピーだ。

天智天皇とは中大兄皇子のことで、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺して大化改新を成し遂げたことは、日本史の常識である。つまり、蘇我氏の「トヨの政権」を天智と中臣鎌足が潰し、天智と中臣鎌足の政権を武力で潰してしまったのが天武天皇であったわけだ。また、くどいようだが、天武に潰された天智と中臣鎌足の子が、それぞれ持統と藤原不比等なのである。

したがって、壬申の乱でいったん滅びた「天智朝」は、持統と藤原不比等の出現によって復活したという単純な図式を描くことができる。

このあと藤原不比等は、「持統の直系の御子」の即位に固執し、あの手この手を繰り出していく。』

『 持統天皇は、夫天武天皇の王家を継承すると見せかけながら、観念上の「持統(天智系)の王家」を完成させていたのだ。』

 

どこまでそれが真実なのかはわからないが、面白い推理だ。

実際この後、持統天皇の孫である文武天皇と藤原不比等の娘宮子の間に生まれた聖武が天皇となる。藤原家が権力を独占して、天皇は「カメレオンのような王」へと変質するのだ。

天皇家の正統性を裏付ける国書として位置付けられる「日本書紀」だが、それが完成したのは天武天皇の没後かなり経ってからだった。完成時の権力者の思惑や周囲の忖度が、その内容に色濃く反映されていると考えるのは、むしろ当然だろう。

そうした流れの中で、関氏は、大化の改新についても疑問を呈している。

教科書的には、権力を悪用する蘇我氏を中大兄皇子と中臣鎌足が成敗したとされるが、関氏は蘇我氏こそが改革派であり、旧守派の中臣鎌足が中大兄皇子を抱き込んで行ったクーデターとみなす。

蘇我氏は朝鮮半島との関係が深く、渡来人を活用して様々な改革を進めていた。その蘇我氏を支えていたのが、出雲や東国の改革派勢力だったと指摘する。

それに対し、旧守派とされるのは、瀬戸内海の交易ルートを握る吉備の勢力であり、ヤマトという連合体の主流派であったと考えている。

 

『 ヤマトの盆地に王家らしきものが誕生したのは、三世紀後半から四世紀にかけてのことだった。三輪山麓の扇状地に、前代未聞の、政治と宗教に機能を特化した都市が出現していた。それが纏向(まきむく)遺跡である。纏向の登場がなぜヤマト建国に結びつくのか。吉備や出雲、東海、北陸の土器が続々と集まっていたこと、そして、前方後円墳がこの地で誕生したことが注目されるからだ。

前方後円墳は、まず吉備、出雲、ヤマト、北部九州の埋葬文化を習合させることで誕生した。四世紀にいたると日本各地に伝播し、各地の首長層がヤマトに生まれた新たな埋葬文化を受け入れていった。埋葬様式の画一化は宗教観が統一されたことの表れであり、緩やかなつながりで結びついた国家が誕生していたことを意味している。

ヤマトの王は、各地の首長層の総意によって擁立された可能性が高く、巨大な前方後円墳も、各地の首長層が差し出した労力によって造営されていたと考えられる。

この首長層から差し出された人々は、「伴(とも)」と呼ばれていたが、五世紀後半になると、百済の制度を見習ってシステムが更新され「部民(べみん)制度」に改められた。また、渡来人を王家が囲い込んで部民とし、先進の文物を独占的に使役することで、王家の求心力が飛躍的に向上する。

本来力のなかったヤマトの王が、徐々に力をつけていくのである。

さらに六世紀にいたると、王家が直轄領を増やそうとする。これが「屯倉(みやけ)制」で、部民制→屯倉制→律令制という段階を経て、ヤマト朝廷の中央集権化が進められていったわけである。』

 

そしてこの屯倉を拡大する尖兵として王家のために働いたのが蘇我家だった。つまり蘇我氏は、王家を中心とする中央集権化を推し進めた改革派であり、それに対し既得権を奪われた豪族たちを代弁したのが中大兄皇子や中臣鎌足ら旧守派だったと、関氏はみなすのだ。

子供の頃、学校で教わった知識というものはなかなか頭から抜けないものだが、一応ジャーナリストとして人生を歩んできたものとしては、常識を疑うことの重要性は十分理解しているつもりだ。

いち早く仏教を受け入れたのも蘇我氏であり、蘇我氏が改革派であったことはまず間違い無いのだろう。

我々が教えられた日本史は、明治以降の政権の都合で作られている。

特に、天皇にまつわる歴史は、心を真っ白にして頭を柔軟にして疑いの心を持ちながら学んでいく必要がある。

この本から、そのことを強く意識させられた。

私も古代史ファンの仲間入りをするかもしれない。

 

 

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