🇫🇷フランス/パリ 2024年11月2日
バルカン半島の旅を終えて立ち寄ったパリ。
特にやらねばならない予定はなかったのだが、久しぶりのパリなので30年前、特派員時代に住んでいた界隈がどうなったか見てみたいなどと思う程度で、基本的には完全なノープランだった。

宿泊した安宿に荷物を残しとりあえず街に出たのは午前8時前。
でも、ホテル近くのバスティーユ広場はまだ薄暗く、人通りもほとんどない。
やはりヨーロッパの秋?(冬?)は暗い。

私にはパリでやってみたいことがあった。
路線バスを使って、パリ市内をあちこち回ってみようという計画である。
私が暮らしていた1990年代、まだインターネットも普及しておらず、ましてスマートフォンなどまだ存在していなかった。
だからメトロと呼ばれる地下鉄はよく利用していたが、路線バスを乗りこなすことは至難の業だった。
しかし、スマホが普及した現代ではGoogleマップさえ使えれば、どこに行くにも簡単にバス路線を調べることができる。
30年前にはできなかったことをやってみたい。
私にとってそれはちょっとした冒険だった。

まず訪れたのは、地下鉄バスティーユ駅のチケット売り場。
わずかに覚えているフランス語を捻り出して、「Navigo Easy」を購入した。
「Navigo Easy」は日本のSuicaやPASMOのような交通カードである。

とりあえず、この日1日目いっぱいバスや地下鉄に乗る予定だったので、1日乗り放題込みで10.65ユーロ(約1700円)を支払う。
パリオリンピックイヤーということで大会のロゴマークが入っていた。
これさえあれば、パリ市内、どこにでも行ける。

行き当たりばったりのバス旅のスタートはバスティーユ広場のこちらのバス停から。
行き先はあえて決めず、最初に来たバスに乗ることにする。

やってきたのは91番のバス。
乗る際にカードをタップするだけ、実に簡単だ。
パリのバスは庶民の乗り物だが、アメリカのようにホームレスが座席を占有しているというようなシーンは見れれず、外の景色も眺められて快適だ。

バスはレピュブリック広場、パリ東駅を経由して、20分足らずでパリ北駅に到着した。
この界隈、30年前には場末の怪しい雰囲気が漂っていたが、今ではすっかり整備されて整然とした街並みになっていた。
これもパリ五輪の効果だろうか?

3年半もパリに暮らした割には、北駅には1度か2度ぐらいしか訪れたことがない。
改めてみると、なかなか立派な建築物だ。
パリの玄関口とはいえ、かつては時代がかったターミナル駅だったが、今回駅の構内に入ってみるとその変貌ぶりに少し驚いた。

歴史的な建物の外観はそのままに、新たに現代的な建築を組み合わせ、見違えるようなモダンなターミナル駅に生まれ変わっていたのだ。
フランス国内の都市をつなぐフランス国鉄だけでなく、パリ市内や近郊を結ぶ地下鉄やRERも複数この駅を通っていて、年間利用客数は2億人を超えヨーロッパ最大のターミナル駅となっている。

せっかくあまり知らない北の方向に来たので、モンマルトルの丘に行ってみようと思い立った。
Googleマップで検索すると、北駅から26番のバスに乗り、途中で40番のバスに乗り換えると丘の頂上に辿り着けそうである。

こうして行き当たりばったりに街をぶらぶらしていると、知らない街角で素敵なお店に出会えたりする。
バスの乗り換えのために降りた知らない街の知らない花屋さん・・・いかにもパリっぽいオシャレなお店だ。

モンマルトルの丘を登る40番のバスは狭い路地をぐねぐねと走る。
車窓からはいかにもパリっぽい街並みが現れては消えて、飽きることはない。

こうしてユトリロの絵でもお馴染みのモンマルトルの丘にたどり着いたの頃には午前10時を回っていた。
パリでも指折りの観光地だけあって、この時間にはすでに多くの観光客でごった返している。

丘の頂に立つ「サクレ・クール寺院」の前には長蛇の列。
私も最初にパリを訪れた時に一度入ったことがあるが、特派員時代に中に入った記憶はない。
この教会が完成したのは1914年とエッフェル塔よりも新しい建造物だが、パリを一望できるその眺めの良さもあり、すっかりパリを代表する観光スポットになった。

嬉しいことに、入場料は無料。
内部は天井がものすごく高く、厳粛な雰囲気だ。

サクレ・クール寺院のテラスから見るパリの街並み。
再建されたノートルダム寺院やナポレオンが眠るアンヴァリッドのドームも見える。

石段を使ってモンマルトルの丘を下りる。
この道を歩くのは初めてのことだ。
わざわざ登ってくる人もいるが、みんな息が切れて大変そう。
この瀟洒な石段は降るに限る。

石段に沿って急傾斜を登るケーブルカーが設置されていた。
「フニクレール・ド・モンマルトル」と呼ばれるこのケーブルカー、残念ながら丘の頂までは行かず、途中までなのだけれど、下から歩いて登るよりはずっと楽そうではある。

ただし、所要時間わずか2分のケーブルカーだが、料金は1.9ユーロ、しかも乗るにはこの長い行列に並ばなければならない。
やっぱり、モンマルトルの丘に行くなら路線バスを利用するのは正解という気がする。

丘の麓は商店街になっていて、サクレ・クール寺院を見上げる路地にはたくさんの土産物屋さんや飲食店が立ち並ぶ。
この界隈は移民が多いエリアで、売り子たちの顔もさまざまである。

そのまま路地を南に歩くと、すぐに地下鉄「Anvers」の駅に出る。
多くの観光客はここからモンマルトルの丘を目指すまさにメインルートだ。
私はここから再び路線バスに乗り、行き当たりばったりの旅を続ける。

最初に来た54番のバスに乗ると、バスは「マルグリット・ド・ロシュシュアール通り」を西に進み、有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ」の前を通過した。
店のシンボルである赤い風車は今も健在。
若かりし頃、この界隈のいかがわしいお店でぼったくられたことを思い出した。
しかし、あの当時に比べれば、ピガール地区もずいぶん衛生的になったような気がする。

「クリシー広場」で95番のバスに乗り換える。
この広場の名前はもちろん知っていたが、来るのはおそらく初めてだと思う。
3年半もこの町で暮らしながら、実は知らないことだらけなのを改めて感じる。

バスはサンラザール駅を横目に見ながら、パリ中心部のオペラ・ガルニエに到着した。
この界隈は私が勤務していた支局の近くで、日本食のレストランや食材店もあって、私にとってもすごく懐かしいエリアである。
ということで、ここからはバスではなく歩いて支局があった場所まで行ってみようと思った。

高級ブランドが溢れるパリの中でも最も高級店が集まる「ヴァンドーム広場」。
ブルガリやカルティエ、シャネル、ルイ・ヴィトンといった日本人にも馴染みの深い高級ブランドのお店もあるが、この広場がパリの中でも特別なのは、私たち一般人には全く縁のない最高級の老舗宝飾店がこの広場に集まっているためだ。
古い順に「メレリオ・ディ・メレー」(1613年)、「ショーメ」(1780年)、「モーブッサン」(1827年)、「ブシュロン」(1858年)、「ヴァン クリーフ&アーペル」(1906年)。
世界の超富裕層を顧客とした「フランス高級宝飾店協会」に加盟するこの5つの宝飾店、通称「グランサンク」は、全てここヴァンドーム広場に店を構えている。

とはいえ、そんな高級ブランドなど私には縁はなく、この広場に来る目的はもっぱら、広場に面する高級ホテル「オテル・リッツ」の素敵なバーを利用する時だけだった。
宿泊客でなくても利用できる「バー・ヘミングウェイ」は、その名の通りホテルの常連だった作家ヘミングウェイにちなんだものだが、オシャレでいてそれほど格式ばらず、私のような庶民が誰かをもてなす時にちょうどいいぐらいの値段で、大変重宝していた。

ヴァンドーム広場を抜け、パリ中心部を東西に貫く「サントノレ通り」を西へ。
すると、右手にマドレーヌ寺院、左手にコンコルド広場が見えてくる。
30年ぶりのパリとはいえ、この界隈は地図を見なくても迷うことはない。
月日は流れ、お店の様子は多少変わっても、パリの街並みは当時のままだからだ。

ロワイヤル通りを通り過ぎれば、通りの名前が「サントノレ通り」から「フォーブール・サントノレ通り」へと変わる。
フランス大統領が執務する「エリゼ宮」があるこの通りは、世界の名だたるトップブランドが軒を連ねるパリでも一番のブランド街だ。

エルメスとランヴァンの本店が並ぶこの交差点に、私が勤務したパリ支局があった。
もちろん私がここに支局を設置したわけではない。
私の前任の誰かがおそらくブランド好きだったのだろう。
パリ時代ももっぱら、ボスニアやアフリカなど紛争地や途上国の取材をしていた私には「猫に小判」「豚に真珠」と、よく同僚たちから揶揄われたものである。

今では支局は移転してしまったが、建物自体は変わらず昔よりも外観が綺麗になってそこに立っていた。
フランスの石造りの建物は、表面の汚れを削り取ることによって真新しく蘇るのだ。
有名なルーブル美術館も、私の在任中に外観のリニューアル工事が行われ、煤けて黒ずんでいた建物が新築のように美しくなったことを今でも思い出す。

かつてのパリ支局を確認した後、すぐ近くの「コンコルド広場」に行ってみる。
凱旋門からまっすぐ伸びるパリ随一の繁華街「シャンゼリゼ通り」の突き当たりにあるこの広大な広場は、フランス革命の際、マリー・アントワネットとルイ16世がギロチンにかけられた有名な場所。
しかし、その地下には大きな駐車場があって、私はいつもそこに車を止めて支局に通っていた。

私の在任当時、広場の中心に立つオベリスクの周りを大量の車が終日慌ただしく往来していたのだが、今回訪れてみると、広場の半分は車両通行止めとなっていて、広々とした石畳を自転車が悠々と走り回り、観光客が堂々と歩いているではないか。
これはパリ五輪後に始まったこと。
オリンピックの際、コンコルド広場は交通を完全に遮断して、スケートボードなど若者に人気の新しいスポーツの会場として利用され、大会後も広場の半分を車が入れない歩行者天国として利用することにしたのだという。

車がいなくなってみると、この広場の広さがすごくよくわかる。
環境意識が高いヨーロッパらしい素晴らしい英断だと感じた。

コンコルド広場からセーヌ川を越えて対岸に渡る。
エッフェル塔の手前に見える橋は「アレクサンドル3世橋」。
ナポレオンの棺が安置される「アンヴァリッド」と1900年のパリ万博の際に建てられた「グラン・パレ」をつなぐ、パリを代表する華麗な橋だが、この鋼鉄製の橋を寄贈したのがロシア皇帝ニコライ2世だということは今まで知らなかった。
ドイツとの普仏戦争に敗れたフランスはロシアと同盟を組み、パリ万博に合わせてロシアが建造したのがこの橋だという。
ちなみに、橋の名前になっている「アレクサンドル3世」は、ロシア革命で処刑された帝政ロシア最後の皇帝ニコライ2世の父親である。

コンコルド橋を渡り切った正面に立つギリシャ風の建造物は、フランスの国会議事堂にあたる「ブルボン宮殿」だ。
パリ中心部は、有名観光地とブランド街と政治の中枢が面白いほど入り乱れて共存している。

ここから再び路線バスの旅を再開。
アンヴァリッド橋のたもとにあるバス停から63番のバスに乗る。

降りたのはパリ西部の閑静な住宅街。
30年前、私が3年半暮らしたマンションはこの界隈にあった。
もちろん会社が借り上げたいわば社宅で、前任者が住んでいた後にそのまま入居した。

かつての「我が家」は、そのまま残っていた。
パリでは統一された石造りの建物が基本だが、そこだけ切り取られたように古い建造物が壊されて、近代的なマンションが嵌め込まれたいる。
30年前からその姿は変わらない。
唯一変わったことといえば、入り口に鉄製のゲートが作られていたこと。
昔は開けっぴろげで鍵がなくても自由に出入りできたが、それだけ治安が悪くなったということかもしれない。

マンションの前の路地をまっすぐ進むと、「メキシコ広場」と呼ばれる小さなロータリーに出る。
建物の隙間からエッフェル塔を望むこの広場は、私と妻にとって一番身近な生活の場であり、思い出の場所だ。
私が通っていた散髪屋は、店名は変わっていたが今も美容室が入居していた。

妻が日常の買い物に使っていたスーパーにも行ってみた。
建物の感じは当時から変わっていない。

中に入ると、店の雰囲気は変わっているものの、パン屋の「PAUL」やワインショップの「NICOLAS」など馴染みの店は今も営業していた。

しかし一番お世話になった「カジノ」というスーパーマーケットは、「オーシャン」というフランスの大手スーパーに変わっていた。
「カジノ行く?」というのが我が家では「買い物行く?」の同義語だっただけに、これはちょっと残念な変化だった。

スーパーを出て、「トロカデロ広場」へ。
セーヌ川を挟んでエッフェル塔の対岸に位置するこの広場は、エッフェル塔の撮影ポイントとしてパリを訪れる観光客が必ず訪れる場所だ。
だから当時からいつでも観光客で賑わっていたが、今では観光客の数はさらに増えたようで、広場を取り囲むカフェはどこの満席である。

我が家からほど近いこの広場からよく地下鉄に乗ったし、当時小学生だった私の子供たちは、この広場からスクールバスに乗って日本人学校に通ったものだ。
時間もそろそろ午後1時、ここらでランチでも食べるつもりだったけれど、空席を待つのも面倒なので、地下鉄に乗って一旦ホテルに戻ることにした。

トロカデロからバスティーユまでは、地下鉄9号線で「フランクリン・ルーズベルト」まで行き、1号線に乗り換える。
地下鉄は路線図を見ると簡単に利用できるため、30年前でも便利な乗り物だった。
「Navigo Easy」の一日券は、路線バスだけでなくもちろん地下鉄も乗り放題である。

シャンゼリゼ通りにある「フランクリン・ルーズベルト駅」には、珍しく日本語の表示があった。
他には中国語、ロシア語、アラビア語。
日本ともアメリカとも違うフランスならではの距離感が興味深い。

地下鉄1号線のバスティーユ駅は、ホームからサンマルタン運河が一望できる絶景の駅である。
パリ特派員時代にはあまり馴染みのない街だったけれど、旅人として宿泊するにはバスティーユは悪くない。

バスティーユのビストロでランチを済ませ、ホテルで一休みした後、再び路線バスに乗る。
今度飛び乗った76番のバスは東に進んだ。
バスティーユから東にはほとんど来たことがない。
パリ中心部の石造りの建物が消え、現代的な建物が増えてきた。

街ゆく人々も移民ばかり。
パリの中心部とはだいぶ様子が違ってきた。
私は「ガリエーニ」という見知らぬ地下鉄の駅でバスを降りることにした。
巨大なスーパー「オーシャン」の看板が見えたからだ。

私はショッピングモールに入ってみた。
パリ支局で働いていた日本人のおばさんが「うちの近くには大きなオーシャンがあるの」とよく話していたことを思い出したからだ。

そこはまさに、彼女が言っていた巨大なオーシャンだった。
「Auchan Hypermarket BAGNOLET」
パリにこんなお店があるとは知らなかったが、この店はパリ特派員時代の30年以上前から存在していたのだ。
知らなかったパリをまた一つ見つけた。

せっかくなので、ワインに合いそうなチーズを少しだけ買い、妻からリクエストのあったハーブと子供たちがよく食べていたチョコビスケットを購入した。
私のように少量の買い物をする客はほとんどおらず、みんなこれでもかというほどの食料を買い込んでいる。

買い物を済ませると、ガリエーニ駅から地下鉄3号線に乗り、リュプブリック駅で8号線に乗り換えてバスティーユに戻る。
パリ中心部を走るメトロに比べ、旧式の車両が使われていた。
パリの中にも明らかな地域格差が存在する。

ホテルで少し休憩して午後6時に再び街に出ると、すっかり暗くなっていた。
ホテルから一番近いバス停から86番のバスに乗って、今度は南に向かう。

車窓から見る夜のパリは、これまた幻想的だ。
サンジェルマン界隈の古道具店に明かりが灯ると、ちょっとしたハリー・ポッター気分が味わえる。

途中でバスを乗り継いで、到着したのはモンパルナス。
パリで最初に建てられた超高層ビル「モンパルナス・タワー」がシルエットで浮かび上がる。

街を歩けば、劇場の前には行列ができ、飲食店は多くの人たちで賑わっていた。
東京に比べてパリの夜は暗いが、かえってその分、電球の輝きが人々を惹きつける。

モンパルナスから82番のバスに乗ると、エッフェル塔のある15区に行ける。
住宅街の路地の隙間から見上げるパリのシンボルは、神々しいばかりに光り輝いて、その存在はまさに圧倒的だ。

エッフェル塔に登るエレベーターの前には長蛇の列ができていた。
私はそんな列に並ぶのは御免だ。
代わりに煌めく塔をバックにバイオリンを奏でるストリートミュージシャンの演奏に聞き入った。
それは夢のように美しい光景で、思わず動画に収めたいと思った。
芸術の都パリ。
昔から人々はこの街をそう呼び、世界中から才能ある若者を引き寄せた。
この街にはやはり不思議な魅力がある。
芸術の才能などない私でも、夜のパリには魅了されてしまう。

エッフェル塔の下をぐるりと回り、セーヌ川にかかる「イエナ橋」の上にバス停を見つけた。
周辺はものすごい人、人、人。
30番のバスに乗り込んで、とにかくこの人混みから抜け出したかった。

バスがたどり着いたのは夜の凱旋門。
1993年、パリで初めて迎えた新年は、ここ凱旋門で多くの人たちと祝った。
あちらこちらから花火が上がり、支局のスタッフはもちろん、見知らぬ人たちとも「Bonne année!」と叫びながら抱き合ったものだ。
私もまだ30代、若き日の忘れ難き思い出である。

シャンゼリゼ大通りの広い歩道をぶらぶら歩く。
11月の夜風は少しひんやりしているものの、まだそこまで寒さは感じず、実に気持ちがいい。
それにしても、「Navigo Easy」1枚で1日たっぷり楽しめた。
懐かしい場所にも行けたし、知らないパリにも出会うことができた。
もしパリで1日フリーの日があったら、「Navigo Easy」を買って路線バスでめぐるパリの冒険。
絶対にオススメだ。