🇯🇵 岡山県/苫田郡鏡野町 2024年5月13日
鳥取県の三朝温泉から岡山の家に戻るルートは、奥津温泉から津山と決めていた。
湯原温泉、湯郷温泉と並び「美作三湯」と呼ばれる奥津温泉は、岡山県を代表する温泉街である。
とはいえ、高校時代に山岳部の合宿でどこかに泊まった記憶はあるものの、ずっとテント生活で温泉に浸かった記憶はない。

三朝温泉から奥津温泉までは中国山地を越える長閑な山道。
かつて日本で唯一ウランを採掘していた人形峠が鳥取と岡山の県境となっていた。
山間の田んぼではまだ5月だというのにもう田植えが終わっている。

奥津温泉に着いたのは正午を少し回った頃だった。
温泉街の中央を岡山県の三大河川である吉井川が貫いている。
前日の雨で水嵩が増しているようで、ゴーという音を響かせて勢いよく流れ下っていく。
河畔には露天風呂の名残りだろうか、石で作られた湯船が見える。
いかにも古くからの温泉街という佇まいである。

かつてはこの露天風呂のお湯を利用して川辺で洗濯する「足踏みせんたく」で有名だった。
姉さんかぶりに赤い腰巻きがトレードマークの洗濯姿が湯治客にも人気だったようだが、温泉水が持つ漂白効果を利用するとともに、山に棲む熊や狼を監視する役目も担っていて、生活の知恵から生まれた洗濯法だったのである。

立ち寄り温泉施設「花美人の里」の駐車場に車を停める。
この施設は1989年にオープンしたそうで、木曜日が定休日となっていたが、私が訪れた月曜日もなぜか定休日となっていた。
それにしてもである。
まったく街に人の気配がないのはどうしたことだろう?

こちらが奥津温泉のメインストリート。
有名旅館の多くがこの通りに立地しているのだが、誰もいない。
道端に掲げられた「足踏洗濯」の絵だけが昔の情景を今に伝えている。

このメインストリートに建つ歴史を感じさせる温泉宿が私の目的地だった。
昭和2年創業の「奥津荘」。
その風情のある建物は国の有形文化財にも登録され、自慢の温泉は足元から湧き出す日本屈指の「足元自噴泉」だという。
犬養毅首相や版画家の棟方志功も愛したというその由緒ある湯に日帰り入浴できると聞き楽しみにやってきたのだが、残念ながらこの旅館も玄関が閉ざされていた。

仕方なく、メインストリートをとぼとぼ歩いていくと、「池田屋 河鹿園」という旅館があった。
こちらも奥津温泉を代表する有名旅館としてネットで見たことがある。

入り口には、「源泉掛け流し温泉」「御殿の湯」「極上ぬる湯」とあり、入浴料金1000円と書かれていた。
どうやらこの旅館も立ち寄り湯の営業をやっているらしい。
ここにしよう。
私は勇んで河鹿園に入って行った。

ところが、である。
ロビーには誰もいない。
フロントで声をかけてみても、何の反応もなく、館内はシーンと静まり返ったままなのである。
ふと見ると、別の旅館にいるので用事があれば連絡をと書かれた紙が置かれているのに気づいた。

電話をかけると男性が出て、日帰り入浴したいと告げると、「10分ほどで戻りますのでロビーでお待ちください」との答え。
誰もいないロビーでしばらく待っていると、一人の男性が車でやってきた。
この宿の主人だった。
「今日は宿泊のお客様がいらっしゃらなかったのでもう一つの旅館におりました」
近くにある「米屋倶楽部」という旅館もこの男性が経営しているらしい。

河鹿園の館内には棟方志功の版画がたくさん飾ってあるため理由を聞くと、昔この宿に棟方志功さんがよく泊まっていたという。
棟方志功さんといえば青森だが、奥津温泉の近くに友人が住んでいて、その人を訪ねてくるたびに奥津温泉に宿泊していて、宿代の代わりに版画を置いていったのだそうだ。
この宿には棟方志功が設計した茶室もあるらしい。

主人に案内されてお風呂に向かう。
この旅館は2018年にリニューアル工事を行ったということで、お風呂も今風にリフォームされていた。

こちらがこの宿のメインのお風呂「かじかの湯」だ。
旅館の規模に比べて拍子抜けするほど小さな温泉だった。
露天風呂もない。
でも入ってみると案外落ち着く空間で、石造りの湯船はツルツルスベスベ、他の客もいないので居心地がいい。
湯加減は確かにぬるめで、ずっと浸かっていても茹で蛸になる心配はない。
こういう温泉もまんざらでもないと心ゆくまで一人湯を楽しんだ。

お風呂からあがって、主人にお願いして客室を見せてもらった。
こちらは川沿いに新設されたプライベートなお風呂が付いた客室だという。
目の前を吉井川が流れる最高のロケーション、またいつか機会があれば泊まってみたいものだ。

「河鹿園」を出て、人のいない温泉街を少し歩いてみる。
こちらのせせらぎは、吉井川に流れ込む支流だ。
水は綺麗で新緑に包まれ、誰もいない。
いささか寂しいといえば寂しいが、世俗的な施設がほとんどないので、浮世から逃れてゆっくりするにはいいところかもしれない。

車に乗って温泉街から少し南に下ると、美しい渓谷が現れた。
紅葉の名所「奥津渓」である。
岩にはところどころ丸い穴が空いているが、これは「奥津の甌穴(おうけつ)」と呼ばれ、全国的にも珍しい天然記念物に指定されている。
川の急流が渦を巻き川底の石の塊を数千万年もの時間をかけて回転させ続けた結果、川床の花崗岩を削って穴を開けたもので、その川床が隆起して今では地上に丸い穴を残したのだという。
埼玉の長瀞や大分の耶馬溪とも並ぶ自然の創造物なのだ。

この奥津渓にひっそりと小さな温泉があった。
「般若寺温泉」
明治時代に寺の宿坊として開業した温泉だというが、今は日帰り入浴のみ受け付けている。
私は偶然その存在を知り、入浴できないかと電話をかけてみたが、あいにくその時間は予約が入っていて「夕方なら」と言われたがそこまで待ってはいられなかった。

ちょっとだけのぞいてみたいと思って温泉に通じる坂道を降りていくと、木戸があって「この先、私有地。予約のお客様のみお入りください」と書かれていた。
仕方がない、行き当たりばったりの旅ではどうしてもこうなる。
またの機会にあらかじめ予約を入れてから訪ねてみよう。

ちなみにネットから拝借した般若寺温泉の写真がこちら。
文字通り奥津渓の岩をくり抜く形で湯船が作られている。
木の目隠しは最近設置されたもののようで、少し前の写真を見ると遮るものもなく川と一体化した温泉なのだ。
こんな素敵な温泉が岡山県にあるとは全く知らなかった。

「美作三湯」の中でも一番地味な奥津温泉だが、ひょっとすると一番私好みの温泉かもしれない。
三湯の中で最もアクセスが悪いのが難点だが、今度はこの温泉を主目的にして一度ゆっくり訪れてみたいものである。
奥津温泉「池田屋 河鹿園」
住所:岡山県苫田郡鏡野町奥津55
電話:0868-52-0121
https://kajika-en.com/