<吉祥寺残日録>青空朗読で太宰治の短編を年代順に聴く #210609

昨日の朝は、快晴だった。

と言っても、空はモヤがかかったように薄ぼんやりして、南からやってきたムッとした熱気が夏を感じさせる。

そんなぼんやりとした青空の下、私は久しぶりに「青空朗読」を聴くことにした。

著作権切れの昔の名作を無料で読むことができる「青空文庫」をベースに、ボランティアの人たちが朗読してくれた音声をこれまた無料で聴けるありがたいサイトである。

今月13日は作家・太宰治の命日。

玉川上水で心中した彼の遺体は、誕生日である19日に発見され、墓がある三鷹の禅林寺では毎年6月19日に「桜桃忌」の法要が催される。

ということで、文学には全く無知な私も今月を太宰治月間と勝手に決め、「ザ・太宰治」という二巻ものの全集を図書館で借りてきて、頭の中の空白を少し埋める作業をしてみようと思ったわけだ。

しかし、分厚い全集を開いてみても、読み始めた途端に睡魔が襲ってきて一向に捗らない。

その時ひらめいたのが「青空朗読」だった。

これならば、ぼんやりと景色でも眺めながら聴き流せばいい。

人間の脳にとって、ボーッとする「デフォルト・モード」がとても大切だと教えてもらったばかりだ。

正確に言えば聴くという行為も「デフォルト・モード」とは違うかもしれないが、文字を目で追うよりずっと楽であることは間違いない。

そこで、青空朗読のサイトを開き、「作家」別の検索機能を使って太宰の作品を調べてみた。

高村光太郎、竹久夢二の後に、太宰治の名前を見つけ、開いてみるとたくさんの朗読が並んでいた。

その数、25本。

一番長い作品で「走れメロス」や「愛と美について」の43分、ほとんどは短編である。

まずはここから、初心者にはちょうどいい。

図書館で借りてきた「ザ・太宰治」の巻末に太宰の年譜が載っていたので、青空朗読の作品を年代順に並べて彼の人生と重ね合わせながら聴いてみることにした。

1933年(昭和8年) 24歳

2月、飛島家と共に杉並区天沼3丁目741番地に移転す。同月、『東奥日報』の日曜版『サンデー東奥』の懸賞小説に応募した「列車」で初めて<太宰治>の筆名を使用、以後この筆名のみで通した。同郷の今官一の紹介で木山捷平、古谷綱武らのはじめた同人雑誌『海豹』に加わり、3月、その創刊号に「魚服記」を発表して好評を得た。引き続き同誌4、6、7月号に「思ひ出」を発表して井伏鱒二から手紙で「甲上」の評を得た。5月、飛島一家と共に天沼1丁目136番地に移転す。このころから古谷綱武、檀一雄、伊馬鵜平(春部)、中村地平、木山捷平、新庄嘉章、久保隆一郎らと識り合い、しばしば会合を持っては文学論を闘わせたり自作の朗読をし合ったりしたが、この会が後に同人雑誌『青い花』に発展した。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

1933年と言えば、ヒトラーが首相に就任した年であり、日本が国際連盟を脱退した年でもある。

この年に太宰が発表した初期の作品が「青空朗読」に2つ収録されていた。

青空朗読で「列車」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治による最初期の短編小説。初出は「サンデー東奥」[1933(昭和8)年]。郷里に送り返される友人の恋人テツさんを、「私」と妻が見送りに行く話。「私」は、テツさんと育ちの貧しさを同じくする妻が慰めてくれるだろうと期待したが、その期待は裏切られることとなった。太宰治という名義で発表された小説の記念すべき第一作。

引用:Amazon

青空朗読で「魚服記」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編小説。最初期の短編小説。初出は「海豹」[1933(昭和8)年]。金木にある馬禿山で、植物採集に来た都の学生が絶壁から滝壺に落ちて死ぬという衝撃的な出来事を見た少女スワの話。自叙伝的作品の「十五年」の中で、太宰自身が「作家生活の出発」と語っている作品。

引用:Amazon

1937年(昭和12年) 28歳

3月初旬、小館善四郎から初代との過失を明かされ、衝撃を受ける。同月下旬、初代と共に水上村谷川温泉に行き、山麓でカルモチンによる心中自殺を企て未遂に終る。帰京後別居生活を続けたが、6月、初代の叔父吉沢祐五郎を仲に立てて離別し、初代は母の住む青森市郊外の浅虫温泉へ帰る。5月、井伏鱒二、浅見淵、川崎長太郎ら数人と三宅島に遊ぶ。6月、井伏の斡旋で天沼1丁目213番地鎌滝方に移る。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

初代とは太宰の最初の内縁の妻・小山初代のことであり、太宰が薬物中毒のため入院している間に太宰の義弟と姦通した。

そして1937年と言えば、ヨーロッパではスペイン内戦、ソ連では大粛清と世界が混乱していく中で日本は盧溝橋事件を引き起こし泥沼の日中戦争が始まった年である。

この年に太宰が発表した短編が2つ、青空朗読に収録されていた。

青空朗読で「あさましきもの」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編。初出は「若草」[1937(昭和12)年]。愛くるしいたばこ屋の娘と交際する俳優・岡田時彦、夜道を歩く女と恋人、身だしなみが良いが肺を患っている男をめぐるそれぞれエピソードが、「弱く、あさましき人の世の姿」として、「こんな話を聞いた。」という書き出しで始められる。「徒然草」など、古典の随筆作品を思わせる作品。

引用:Amazon

青空朗読で「燈籠」を聴く

1939年(昭和14年) 30歳

1月8日、杉並区清水町の井伏宅で井伏夫妻の立ち会いにより、石原家側から山田貞一夫妻(美知子の姉夫妻)、津島家側から太宰の世話人・中畑慶吉と北芳四郎、これに媒妁人の斎藤文二郎夫人が同席して石原美知子と結婚式を挙げ、甲府市御崎町56番地に新居を構えた。このころ、当時出征して中国山西省にいた田中英光の「鍋鶴」を『若草』に紹介し、発表の労をとった。4月、「黄金風景」が『国民新聞』の短篇コンクールに上林暁の「寒鮒」と共に当選し、賞金百円を二人で分けた。5月、美知子と共に上諏訪、蓼科に遊んだ。6月、借家を探すために上京し、国分寺、三鷹、荻窪方面を歩き廻った。同月、「黄金風景」の賞金五十円をもって美知子、美知子の母・妹と共に三保、修禅寺、三島に遊んだ。9月1日、甲府を引き払って東京府下三鷹村下連雀113番地に移る。同月20日、東奥日報社の主催により日比谷公園の松本楼において青森県出身の在京芸術家座談会が行われ、今官一らもいた。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

1939年と言えば、ナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発した年。

この前年、太宰は井伏鱒二の仲介で甲府の教師・石原美知子と見合いし、正式に結婚した。

そして、我が家の近く、三鷹の借家に引っ越す。

日本も世界も戦争に突き進む時代に、太宰にとっては人生で最も安定した時期を三鷹で迎えるのだが、この年に発表された作品が4つ青空朗読には収録されている。

青空朗読で「I can speak」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編小説。初出は「若草」[1939(昭和14)年]。自分の歌を失い、無為徒食の日々を過ごした「私」が、「生活のつぶやき」とでもいうべき作品を書き続けるうち、自分の作品から自分の文学の進むべき路を知らされるという話で、それまでの苦悩から再生への祈りと明るい希望がこもった作品。

引用:Amazon

青空朗読で「愛と美について」を聴く

青空朗読で「葉桜と魔笛」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治による最初期の短編小説。初出は「若草」[1939(昭和14)年]。老夫人が葉桜の頃になると思い出すこととして、腎臓結核により18歳で亡くなった35年前の妹のことについて語る作品。神の存在、信じることの大切さが老夫人による女性独白体で描かれている。

引用:Amazon

青空朗読で「ア、秋」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編。初出は「若草」[1939(昭和14)年十月]。「秋について」という注文に際する詩人を通して、頭のなかに貯えてあるいろいろな材料をくりだしてゆく作家の姿が描かれている。軽やかでリズミカルな文体が冴える小品で、太宰の詩心がのびやかに発揮された作品。

引用:Amazon

1940年(昭和15年) 31歳

筆禍事件が頻繁に起こっている情勢下で、精力的に創作活動を続ける。4月中旬、山岸外史著『芥川龍之介』の出版記念式に幹事として尽力す。同月下旬、井伏鱒二、伊馬鵜平らと群馬県四方温泉に遊ぶ。7月3日から伊豆湯ケ野の福田屋旅館に滞在して「東京八景」を書き、同月8日、井伏鱒二、小山祐士らと熱川温泉で落ち合って小山祐士著『魚族』の出版を祝い、翌日谷津温泉で投宿、3日後再び湯ケ野に帰り、迎えに来た美知子と帰京。途中谷津に滞在中の井伏と亀井勝一郎を訪ね、共に水害に遭う。秋、東京商大において「近代の病」と題して講演す。10月、佐藤春夫、井伏鱒二、山岸外史と甲州に遊ぶ。11月、新潟高校に招かれて講演し、帰途佐渡に遊ぶ。12月6日、第一回阿佐ヶ谷会が小料理屋ビノチオで行われ、出席す。12月29日、第4回北村透谷賞が発表となり、候補作品の中から萩原朔太郎の『帰郷者』が第一席で賞牌および賞金千円を受賞、単行本『女生徒』は赤木健介の『在りし日の東洋の詩人たち』と共に次席となり、賞牌を受ける。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

1940年というと、ドイツ軍がパリを占領し、日本では大政翼賛会が成立し、国を挙げて紀元2600年を祝った年。

戦争は長期化し国内の言論統制も強まっていたが、この頃の太宰はすこぶる元気そうである。

この年に発表された2つの作品が、青空朗読に収録されていた。

青空朗読で「走れメロス」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編小説。初出は「新潮」[1940(昭和15)年]。「邪智暴虐の王」への人質として差し出した友人・セリヌンティウスの信頼に報いるために、メロスがひたすら走り続けるという作品。信頼と友情の美しさを基本に描きつつ、そこに還元されない人間の葛藤をも描いた、日本文学における傑作のひとつ。

引用:Amazon

青空朗読で「リイズ」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編ラジオ小説。初出はラジオ放送用として1940(昭和15)年5日、原題は「ある画家の母」。ほとんど売れたことのない洋画家である杉野君とその母の話で、JOAKの夜9時半から放送された。当時の配役は、杉野が三木利夫、母が伊藤智子、少女が笠原和子など。

引用:Amazon

1941年(昭和16年) 32歳

1月、美知子と共に伊東温泉に遊ぶ。2月、懸案のレーゼ・ドラマ「新ハムレット」の執筆にとりかかり、そのため同月19日、静岡県三保の三保園に籠り同月末まで滞在、更に4月上旬には甲府市錦町の東洋館に行って稿を継ぐなど懸命の努力を続け、5月末に完成した。6月7日、長女園子誕生。同月下旬、山岸外史の結婚式のことで奔走、井伏夫妻を媒妁人として依頼す。8月、北芳四郎の内密の勧めにより十年ぶりで故郷の生家に帰り、長兄文治の留守中に母、祖母、叔母、次兄などに会ったが、義絶の身を考えて生家での宿泊を遠慮し、その夜は五所川原町の叔母の家に泊まった。11月、文士徴用令により、本郷区役所で身体検査を受けたが、胸部疾患を装って免除となった。同月、徴用でシンガポールに発つ井伏鱒二を東京駅に見送る。井伏の留守中に太田静子(28歳)と識り合う。12月8日、太平洋戦争勃発す。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

1941年と言えば真珠湾攻撃、すなわち太平洋戦争勃発の年だ。

この年、国家総動員法に基づいて国民徴用令が施行され、人気の小説家たちは広報活動のため戦地に派遣される。

太宰もこの文士徴用の対象となったが身体検査により「徴用失格者」と判定され免除された。

この年、妻・美知子との間に長女が生まれるが、同時に後に愛人関係となる太田静子とも出会っている。

日本にとっても太宰にとっても重要な年ではあるが、青空朗読にはこの年の発表作品は収録されていない。

1942年(昭和17年) 33歳

2月中旬から甲府市湯村温泉の明治屋に滞在し、当時前進座の俳優だった堤康之(俳優名中村文吾)の日記を材料に「正義と微笑」を書き進め、2月末に一旦帰京。3月10日から20日まで武州御嶽駅前の和歌松旅館に滞在して残りを完成し、迎えに行った小山清や妻子と共に帰宅す。このころ、小山清、田中英光らの原稿にも丁寧に目を通し、雑誌掲載や出版のための労をとった。夏ごろからしばしば点呼召集にかり出され、突撃の訓練などをさせられた。7月下旬に甲府市水門町29番地の美知子の実家石原家に、また8月中旬には箱根に、それぞれ10日ほど滞在す。10月、「花火」(のち「日の出前」と改題)を『文芸』に発表したが、時局に添わないという理由から全文カットを命じられ、愕然として情報局に駆けつけたという。同月、母たね重態の報に接し、美知子と園子を伴って帰郷、生家に56日滞在す。この時の帰郷を契機に義絶も自然解消し、生家への出入りも自由になった。11月下旬甲府の石原方に滞在し、翌年の新年号の三つの短篇「黄村先生言行録」「故郷」「禁酒の心」を執筆す。12月初め井伏鱒二と熱海に遊び、同月8日から「右大臣実朝」執筆のため静岡県三保に赴いたが、母たね危篤の報を受け、単身生家に帰る。同月10日、<放蕩息子>に看とられながら母たねは69年の生涯を閉じた。生家に2週間ほど滞在し、母の供養を済ませて帰京す。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

この年の前半まで日本軍は破竹の勢いで勝利を重ねるが、6月のミッドウェー海戦以降戦局は膠着状態に陥る。

しかし、太宰の生活はまだ穏やかだったようだ。

この年に発表した作品が3つ、青空朗読には収録されている。

青空朗読で「恥」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編。初出は「婦人画報」[1942(昭和17)年]。私小説家を思わせる戸田という作家に匿名で応援の手紙を出して、最終的に会いに行くという話で、友人の菊子へ宛てた「私」の書簡という形をとっている。私小説作家と見られてきた太宰による私小説への批評ないし皮肉と考えることもできて興味深い。

引用:Amazon

青空朗読で「待つ」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編小説。初出は「女性」[1942(昭和17)年]。二十歳の娘である「私」が、毎日自分自身にもわからない誰かを小さな省線の駅のホームで待っているという話。終始、「私」の一人称による独白で語られるが、とりわけ常に前言撤回を繰り返しては巧みに読者を籠絡する。

引用:Amazon

青空朗読で「食通」を聴く

1943年(昭和18年) 34歳

「右大臣実朝」の執筆難渋す。1月中旬、亡母三十五日の法要のため妻子を伴って帰郷。3月、甲府に赴き石原家および湯村温泉の明治屋に滞在して「右大臣実朝」を完成す。4月29日、塩月赳の結婚式が目黒雅叙園で行われたが、身内代りとなって結納を交わしたり式の打ち合わせをしたりして、いろいろ尽力した。秋、京都の未見の読者木村庄助の病床日記を材料に、「雲雀の声」(二百枚)を完成したが、検閲不許可のおそれあるため、中に入った小山書店主と談合の上、出版を見合わせた。ひそかに太田静子との逢いびきが続く。戦局次第に悪化し、出版社の統廃合や総合雑誌の休廃刊、『朝日新聞』発禁事件など起こる。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

1944年(昭和19年) 35歳

1月3日、東宝プロデューサー山下良三より「佳日」映画化の申し入れがあり承諾す。同月8日から13日まで八木隆一郎らと熱海の山王ホテルに籠って脚色にかかる。同じころ、大東亜五大宣言の小説化を内閣情報局と日本文学報国会から依嘱され、以前から久しく構想を案じていた魯迅の「惜別」をこの機会に書こうと志し、『大魯迅全集』を読んだり毎月の『日華学報』に眼を通すなど、魯迅の研究を進めた。5月、小山書店から<新風土記叢書>の一冊として「津軽」を書くことを依頼され、同月12日から6月5日にかけて津軽地方を旅行し、幼少時の記憶につながる<忘れ得ぬ人々>を歴訪した。とりわけ、津軽半島北辺の地小泊村に住む幼時の子守越野たけ(旧姓近村)とは30年ぶりの再会であった。6月21日、出産のため実家へ帰る妻子を甲府まで送って10日ほど滞在し、帰京後三鷹の家で自炊生活に入る。7月、「津軽」を完成す。8月10日、長男正樹誕生。その間、甲府との間をしばしば往還す。夏ごろ、「惜別」執筆の小手調べとして『聊斎志異』から素材を借り、中国の怪異譚を翻訳試作す。9月17日、妻子を迎えに甲府へ行き、21日に一家帰京す。初秋、「佳日」の映画化<四つの結婚>が封切られた。10月から翌年3月まで順番制の隣組長をつとめた。また、10月1日、21日、11月11日の3回にわたり郷軍暁天動員を受けた。先に出版を見合わせた「雲雀の声」は小山書店から出版される運びになっていたが、12月上旬、神田の印刷工場が空襲に遭い、発行間際の本が全焼した。後に『河北新報』に連載した「パンドラの匣」は、映画化を企画した山下良三の手許に残っていた「雲雀の声」のゲラ刷りをもとにして改作執筆したものである。12月20日、魯迅の仙台医専(東北帝大医学部の前身)在学当時のことを調査するため仙台に赴き、河北新報社でそのころの綴じ込みを調べたり、縁りの場所を踏査したりして、25日帰京す。この年の7月23日、小山初代が中国の青島で病没す。享年32歳。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

1945年(昭和20年) 36歳

1月、すでに発表済みの5篇に「太刀」「猿塚」「破産」「赤い太鼓」「粋人」「遊興戒」「吉野山」の7篇を加え、計12篇から成る『新釈諸国噺』(生活社)を刊行す。2月、連日の空襲警報のさなかに「惜別」を完成し、ひき続き、「お伽草紙」の執筆にとりかかる。3月末、妻子を甲府の石原家に疎開させ、帰京して間もなく4月2日未明、折から来訪中の田中英光、小山清と共に空襲に遭い、爆撃のため家を損傷された。一時、吉祥寺の亀井勝一郎方に厄介になり、その後、留守を小山清に託して自身も甲府の石原家に疎開した。石原家では当時美知子の妹愛子が一人で家を守っていた。甲府では、近くの甲運村に疎開中の井伏鱒二、詩人の大江満雄、『中部文学』同人などと交遊、また小山清、田中英光、河上徹太郎、中島健蔵などの来訪を受けた。5月下旬、坊主頭になって甲府市外千代田村に書籍その他の荷物を美知子と共に運ぶ仕事や、防空壕掘りなどに忙殺された。6月末、「お伽草紙」を完成す。7月7日未明、甲府も焼夷弾攻撃を受けて石原家は全焼、甲府市新柳町6番地の山梨高工教授大内勇方に身を寄せた。見舞いに駆けつけた小山清に託して「お伽草紙」の原稿を筑摩書房に届けさせた。同月28日、妻子を伴い東京経由で津軽に向かい、米軍機の爆撃による交通網大混乱の折から、東北線、陸羽線、奥羽線、五能線を乗り継ぎ、苦労の末4昼夜を費やして31日に金木町の生家に辿り着いた。以後、翌年11月まで生家の離れ(長兄文治夫妻の結婚記念に造った家)を借りて疎開生活を続けた。津軽疎開早々、8月4日に田中英光の訪問を受けた。同月15日の終戦を生家で迎えた。読書や執筆のかたわら生家の畑の手伝いをするなど、比較的気ままな生活を続けた。9月上旬、河北新報社の村上辰雄の訪問を受け、同紙に「パンドラの匣」を書くことを承諾、10月10日から連載を始めて12月に完結した。11月14日、小館家に嫁いでいた四姉きやう病没(39歳)し、21日に青森市で葬儀が行われた。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

終戦までの3年間、太宰の身にも様々なことが起きた。

厳しい検閲の下で、太宰は工夫しながら創作活動を続けている様子がこの年譜からもうかがえるが、この間に発表された作品は1つしか青空朗読には収録されていない。

1944年に発表されたごく短い「横綱」という短編は、まさに当たり障りのない作品で、太宰の戦時下での創作活動の一端を窺わせる。

青空朗読で「横綱」を聴く

1946年(昭和21年) 37歳

1月、疎開によって一時中断されていた太田静子との連繋が、文通によってこのころから回復しはじめる。ジャーナリズムや文壇などの新型便乗に憤りを覚え、友人知己に保守派を宣言す。休刊中の各誌が一斉に復刊したが、用紙事情の逼迫により、文化的出版事情も困難を極める。2月6日、母校青森中学校で講演、また弘前市、鯵ヶ沢町、黒石町などを歩いて土地の文学青年たちの座談会に出席した。新しい文化運動のかけ声に刺激されて、弘前市や木造町(亡父源右衛門の出身地)などから金木町に太宰を訪ねる青年も多くなった。このころから、「惜別」が機縁となって貴司山治との間に文通がはじまり、二人の往復書簡を貴司が編集していた『東西』誌に連載することになり、同誌三月号に第一回が掲載された。しかし、この企画は太宰の希望から一回きりで取りやめになった。3月、最初の戯曲「冬の花火」を非常な抱負をもって執筆、15日完成す。4月10日、戦後最初の衆議院選挙が行われ、長兄文治当選す。同月25日、小泊村から越野たけが来訪し、<津軽>旅行当時の話題を賑わした。5月、芥川比呂志が思想座での「新ハムレット」上演の許可を得るため来訪し、2日間滞在して近郊に遊ぶ。このころ、インチキ文化人の活躍を風刺した「大鴉」の執筆にとりかかったが、二枚半ほどで中絶した。7月4日、<金木の淀君>と呼ばれてきた祖母いしが89歳の高齢で死去す。長兄文治の都合で、葬儀は10月27日に行われた。葬儀法要等が一段落したところで約一年半にわたる疎開生活を切り上げ、11月12日妻子と共に金木町を出発し、途中仙台に一泊して戸石泰一と逢い、14日に小山清が留守している三鷹の旧居に帰った。同月25日、坂口安吾、織田作之助と共に『改造』の座談会<歓楽極まりて哀情多し>に出席す。また同じころ、『文学季刊』の座談会<現代小説を語る>にも坂口安吾、織田作之助、平野謙と共に出席す。12月、戯曲「冬の花火」が新生新派により東劇で上演されるはずであったが、マッカーサー司令官の意向により中止された。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

戦後、日本社会の空気がガラリと変わる中、太宰は東京に戻り人気作家として活動を再開する。

この年に発表された作品は2つ、青空朗読に収められている。

このうち「貨幣」という小品は、戦後の太宰の気分をよく表しているように感じ、私のお気に入りとなった。

青空朗読で「恥」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編。初出は「婦人画報」[1942(昭和17)年]。私小説家を思わせる戸田という作家に匿名で応援の手紙を出して、最終的に会いに行くという話で、友人の菊子へ宛てた「私」の書簡という形をとっている。私小説作家と見られてきた太宰による私小説への批評ないし皮肉と考えることもできて興味深い。

引用:Amazon

青空朗読で「貨幣」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編。「婦人朝日」[1946(昭和21)年]。百円札の紙幣を女性に見立て、その紙幣が戦前から戦後にたどっていく運命を扱った寓意的な作品。擬人化された百円紙幣の視線を通して、戦前と戦後にかけての時代状況を風刺的に描いたもので、戦前的な価値観の崩壊に代わる戦後的な新しい秩序への期待が込められていると言われる。

引用:Amazon

1947年(昭和22年) 38歳

1月12日、急逝した織田作之助の告別式に列席す。同月「ヴィヨンの妻」執筆中に太田静子が三鷹の仕事部屋を訪れる。2月21日、小田原駅で落ち合った太田静子と神奈川県下曽我の大雄山荘に赴き、約1週間滞在す。ひき続き田中英光が疎開していた伊豆の三津浜に廻り、安田屋旅館に止宿。太田静子の日記を材料にして「斜陽」の一、二章を書く。3月7日、『新潮』編集部記者野平健一と共に三津浜を出発、同夜国府津に一泊して8日夜帰宅す。3月30日、次女里子(作家津島佑子)誕生、これと前後して山崎富栄(28歳)と識り合う。4月から6月にかけて三鷹下連雀の田辺方、上連雀の藤田方に一室を借りて仕事部屋とし、「斜陽」を書き続けて6月完成す。この間、山崎富栄との交情深まり、一方太田静子の懐妊を知る。5月下旬、伊馬春部の脚色・演出による「春の枯葉」がNHKから放送された。8月、太宰の働きかけで筑摩書房から『井伏鱒二選集』の刊行が決定し、その編纂の打ち合わせを筑摩書房主古田晃、臼井吉見、井伏鱒二らと山崎富栄の借間で行なう。このころ、胸部疾患の再発を自覚す。9月24日、伊馬春部、小野英一、山崎富栄と共に熱海に遊び、二日間逗留して帰る。秋ごろ、八雲書店と実業之日本社の双方から全集刊行の申し入れがあり、八雲書店に決定して刊行の準備に入る。11月12日、太田静子が女児を分娩、太宰のお墨付により治子と命名す。12月8日、「斜陽」映画化について東宝映画より申し入れがあったが、結局断る。同月、田中英光や堤重久の訪問を受ける。同月下旬、山崎富栄を伴って林芙美子を訪問す。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

戦後の太宰は、三鷹を拠点に精力的に執筆を行う。

この年に発表された作品が青空朗読には2つ収録されている。

青空朗読で「メリイクリスマス」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編小説。初出は「中央公論」[1947(昭和22)年]。津軽の疎開先から1年3ヶ月ぶりに東京へ戻った「私」は、5年ぶりにシズエ子に会う。シズエ子へのほのかな恋と、その母への思いが描かれた作品。終戦ののち、すぐに三鷹に戻り仕事場を借りて書いた戦後第一作。

引用:Amazon

青空朗読で「朝」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編小説。初出は「新思潮」[1947(昭和22)年]。若い銀行員・キクちゃんの部屋という秘密の仕事部屋を持っている「私」は、ある夜、泥酔状態のままキクちゃんの部屋で熟睡してしまう。男の本能とも思える「私」の欲望と微妙な揺らぎを抱えるキクちゃんとの会話が簡潔に描写されている。

引用:Amazon

1948年(昭和23年) 39歳

『斜陽』は発売と同時に大変な売れ行きを示し、たちまちベスト・セラーとなる。それ以来、崩壊していくブルジョア階級を<斜陽族>と呼ぶ風潮が生じ、一時流行語として広がった。流行作家として原稿依頼が多く、正月早々から執筆にとりかかる。多忙と深酒のため、このあたりから心身の疲労が目立つようになる。仕事部屋もいつのまにか小料理屋「千草」の二階から筋向かいの山崎富栄の借間に移したような形になり、富栄の看護を受けながら仕事を進めた。2月4日から7日まで、俳優座創作劇研究会の第一回公演として「春の枯葉」が千田是也の演出により毎日ホールで上演された。同月20日、美知子の妹吉原愛子が危篤におちいる。太田静子から上京したい旨の知らせあるも、愛子重態のため延期を申し出る。同月下旬、山崎富栄を伴って豊島与志雄を訪問す。同月29日、愛子死去し3月3日に葬儀が行われた。3月初旬、朝日新聞社からかねて待望の新聞小説連載の申し入れがあった。3月7日、筑摩書房主古田晃のはからいで山崎富栄を伴い熱海市咲見町の起雲閣別館に滞在、「人間失格」<第一の手記>を書き上げて19日に一時帰京す。22日、再び富栄を伴って起雲閣別館に赴き、28日に<第二の手記>を脱稿、31日に帰京す。4月、三鷹の仕事部屋で<第三の手記>の前半を書き、同月29日から5月12日まで大宮市大門町の藤縄方に滞在して残りを完成す。この間、それぞれの担当編集者を呼んで「如是我聞」や『井伏鱒二選集』後記の口述筆記を進める。5月15日より新聞小説「グッド・バイ」の執筆を始め、同月下旬までに第十回分の原稿を朝日新聞社学芸部に渡した。6月6日、新潮社編集部の野平健一を電報で呼び寄せ、「如是我聞(四)」を口述す。このころ、身体は極度に疲労し、不眠症も一層ひどく、たびたび喀血す。原稿依頼多く、富栄の部屋で栄養剤を注射しながら仕事を続けることがしばしばであった。6月13日深更、富栄の部屋に「グッド・バイ」10回分の校正刷と11回から13回までの草稿、美知子宛の遺書、子供たちへの玩具、友人たちへの遺品などを残し、富栄と共に近くを流れる玉川上水に入水して果てる。連日の降雨の中を懸命の捜索が続けられたが手がかりがなく、半ば諦めかけていたところ19日早朝、投身推定箇所より2キロほど下流で二人の屍体を発見。奇しくもこの日は第39回目の誕生日にあたっていた。21日、自宅において、葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二らによって告別式が執り行われた。7月18日、三鷹町下連雀296黄檗宗禅林寺に葬り、三十五日の法要を営む。墓は太宰の希望に従い、森林太郎(鴎外)の墓の真向かいに建立した。

引用:「ザ・太宰治 下巻」

「斜陽」の大ヒットで一躍流行作家となった太宰は、最後まで仕事を明け暮れて自ら命を絶った。

太宰が愛人の山崎富栄と共に入水した玉川上水の推定地点は、私の住むマンションから歩いてすぐの場所である。

この年に発表された作品の中から青空朗読にも「桜桃」が収録されているが、家族のことや自殺のことが描かれたこの短編からは、「無頼派」とは違う太宰の素顔を垣間見ることができる気がした。

青空朗読で「桜桃」を聴く

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の短編小説。初出は「世界」[1948(昭和23)年]。「子供より親が大事」と思いたい父の「私」が、家庭について思いを巡らす話で、桜桃をまずそうに食べては種を吐く最後の場面は印象的である。家庭を主題に描いた太宰作品の中でも、とくに傑作との呼び声が高い。

引用:Amazon

朝の晴れた空を眺めながら聴き始めた「青空朗読」だが、午後に入ると雲が広がりついにはにわか雨まで降り出した。

今年初めての夏日、今日は湿気が多い。

駆け足ながら、太宰の人生と作品の一端に触れ、戦前、戦中、戦後の動乱期をナイーブな心を持って生きた一人の作家の短い生涯を想う。

赤裸々に己を書くことで、人間の性だけでなく、あの時代の空気も伝えてくれている。

<吉祥寺残日録>吉祥寺に「まん延防止措置」が発令された日、石川啄木の日記を読む #210413

コメントを残す