日本の敗戦から3年、昭和23年6月13日の深夜、作家・太宰治は愛人だった山崎富栄と二人で近くを流れる玉川上水へ身を投げた。
あれから今日で73年となる。
あまりに有名な話なので、小説を読まない私でも三鷹駅の近くを通る時には、どこが心中現場なのだろうと昔から気になったものだ。
しかし実際には、私は太宰の作品もほとんど読まずに生きてきた人間なので、真剣に調べるようなこともなくこの歳を迎えた。
隠居暮らしですっかり暇になったことだし、歳時記カレンダーに誘われるままに、命日となる今月は太宰の作品を読み、「無頼派」と呼ばれた太宰の生き方を調べてみようと思った次第である。

それでは、自転車に乗って、太宰治が暮らした三鷹をひとまわり。
吉祥寺に住む者にとっても、太宰治は本当に「ご近所様」だったなのだ。
■ 太宰治文学サロン

まず最初に訪れたのは、JR中央線・三鷹駅南口からちょっと歩いた場所にある「太宰治 文学サロン」。
太宰治没後60年と翌年の生誕100年を記念して2008年にオープンした情報拠点である。
三鷹市の外郭団体「公益財団法人 三鷹市スポーツと文化財団」が運営していて、週末には市民ボランティアガイドが常駐しているという。

この場所は、太宰一家が利用していた酒屋「伊勢元商店」があった場所。
太宰の作品「十二月八日」にもその名が登場する。

入場は無料。
室内にはスタッフの女性が一人いて、私が入った時にはお客さんも一人いた。
「写真撮ってもいいですか?」と聞くと、女性は「写真などのアップはダメですが、広めであればどうぞ」と言う。

「太宰治を取り巻く人々」と書かれたパネルが展示されていた。
師匠だった井伏鱒二や佐藤春夫のほか、太宰に批判的だった川端康成や志賀直哉、文学仲間だった檀一雄や坂口安吾など大正から昭和にかけて活躍した作家たちの相関図が示されている。
その中に、控えめに妻の津島美和子、愛人の太田静子、最後一緒に心中した山崎富栄など、太宰にとっては最も重要な女性たちの名前もあった。

個人的に興味深かったのは、太宰が暮らした時代の三鷹の写真。
家の近所を歩く太宰の写真などを見ると、道路は舗装されておらず、住宅もほとんどなくてまさに武蔵野の雑木林が写っていた。
太宰が三鷹に引っ越してきた1939年には、三鷹の人口は1万5000人あまり、それが疎開地域となって人口が急増し終戦の1945年には4万人、太宰が自殺した1948年には5万3000人にまで増えていた。
着物姿で通りを歩く太宰の写真からは、まだ武蔵野の面影の残る三鷹に移り住み、自宅と仕事場や酒場を気楽に歩き回っていた様子が見えてくる。
一方、自宅で娘たちと写った写真からは、「無頼派」と呼ばれたイメージとは程遠い、太宰の子煩悩な一面が強く感じられた。

私がそんなパネルを眺めていたら、スタッフの女性が「こちらの模型は写真OKです」と教えてくれた。
太宰が三鷹で住んでいた借家の様子を再現した模型である。

『昭和14年9月から亡くなるまで家族と共に住んだ、下連雀113の自宅。6畳、4畳半、3畳の間取りで、6畳まを書斎にして「走れメロス」「東京八景」など、数々の名作を世に送り出した。自宅には師、友、弟子らが頻繁に訪れ、書斎は文学か美術の話でもちきりの応接間にもなっていた。』
私もかつて、荻窪の古い文化住宅に住んでいたことがあるので、ある程度の雰囲気は想像がつく。
狭いには狭いが、結構コンパクトで使い勝手は悪くなかったのではないかと想像する。

もう一つ、私の興味を引いたのは、1947年当時の三鷹周辺の航空写真。
太宰の家は、三鷹と吉祥寺の中間地点で、井の頭公園にも近い。
さらに、すぐ近くには山本有三、武者小路実篤、三木露風の家もあり、都心の喧騒を離れて三鷹の自然を多くの作家たちに愛された。

入り口に近い一面は企画展のコーナーとなっていて、現在は太平洋戦争中の昭和17年に上梓した「正義と微笑」の企画展示が行われていた。
『戦時下の苛烈な統制によって作家の創作が阻まれ、文学界が壊滅的な危機に追い込まれた戦中。太宰は自伝小説、原点回帰を思わせる郷愁に満ちた作品、古典を下敷きにして自己流の文学作品に昇華させた作品など、多様に筆を振るいました。この時期に絶え間なく作品を発表し、著作を刊行し続けた作家は稀で、文学者として誇るべき功績と言えます。そして、自身に課したその責務を、後年、「15年間」で言及しています。
昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。(中略)私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終わりまで全文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説は出版不許可になった事もあった。しかし、私は小説を書く事は、やめなかった。もうかうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。それはもう理窟でなかった。百姓の糞意地である。(中略)私は「津軽」という旅行記みたいな長編小説を発表した。その次には「新釈諸国噺」という短篇集を出版した。そうして、その次に、「惜別」という魯迅の日本留学時代の事を題材にした長篇と、「お伽草紙」という短篇集を作り上げた。その時に死んでも、私は日本の作家としてかなり仕事を残したと言われてもいいと思った。他の人たちは、だらしなかった。 「十五年間」昭和21年』

企画コーナーのショーケースの中には、太平洋戦争中に出版された雑誌や書籍のほかに、太宰の直筆原稿も展示されていた。
さすが太宰ファンの聖地とも呼ばれる「太宰治 文学サロン」。
こうして折に触れて展示内容を変え、三鷹の地域おこしとして、太宰治を守っているのだ。

さらに三鷹市では、太宰ゆかりの地に案内板を設置するなどして、この街を訪れたファンの人たちが太宰の足跡を終えるよう努力しているようなので、私も150円を支払って「三鷹 太宰治マップ」を購入し、自転車でひとまわりすることにしたのだ。
「太宰治 文学サロン」 住所:三鷹市下連雀3-16-14 グランジャルダン三鷹1階 電話:0422-26-9150 開館時間:10:00-17:30 休館日:月曜日、年末年始 https://mitaka-sportsandculture.or.jp/dazai/
■ 野川家跡

「文学サロン」がある本町通りを北に進むと、右手に「永塚葬儀社」がある。
今はマンションに建て替えられているが、自殺する前年の1947年秋頃から太宰はここにあった野川家の2階を仕事場にしていた。
その部屋に住んでいたのが、最晩年の太宰を支えた愛人・山崎富栄だった。

葬儀社の看板の下にごく小さな案内板が貼り付けてあった。
「山崎富栄と親しくなった1947(昭和22)年9月頃から、彼女が下宿していた野川家の二階北側の部屋も仕事場にしていました。太宰最後の日、1948(昭和23)年6月13日に、「グッド・バイ」(未完絶筆)などを残し、ここから二人で玉川上水へ向かいます。」
この場所からほんの数十メートルも北に進むと玉川上水が今も流れている。

ちなみに、永塚葬儀社の向かい側にあるビルの前には、小料理屋「千草」跡と刻まれた石板が設置されている。
太宰治は、1947年7月からこの店の2階も仕事部屋として使っていたという。
「野川家跡」 住所:三鷹市下連雀3-15-15 イル・デ・パン 「小料理屋「千草」跡」 住所:三鷹市下連雀3-24-3
■ 太宰横丁

三鷹駅南口正面の中央通りと並行に走る路地が通称「太宰横丁」と呼ばれている。
今ではその数も少なくなったようだが、以前は小さな飲食店が軒を並べ、太宰いきつけの小料理屋「喜久屋」もこの通りにあった。

さらにこの路地にあった「田辺肉店」のアパートの一室を、1947年4月から「斜陽」を書くために借りていた。
田辺肉店は太宰の小説「犯人」の舞台ともなったそうだ。
「太宰横丁」&「田辺肉店離れ跡」 住所:三鷹市下連雀3-27-8 ムサシ三鷹ビル
■ うなぎ若松屋跡

太宰横丁からさくら通りを西に少し進むと、「三鷹コラル」という駅前ビルの立体駐車場がある。
この場所には昔、太宰が編集者との打ち合わせ場所にしていた馴染みの屋台「うなぎ若松屋」があった。

ひっそりと置かれた案内板に印刷された太宰の写真は、ちょっと情けない、やさしい顔をしている。
「うなぎ若松屋跡」 住所:三鷹市下連雀3-35-8
■ 中鉢家跡

さくら通りをもう少し進むと、今度は左手に見えるマンションの前に案内板が見つかるだろう。
「中鉢家跡」と書いてある。

「1946(昭和21)年11月、疎開生活からもどった太宰は、来客をさけて執筆するために早速、仕事場を借ります。三鷹駅前郵便局のはす向かいの家の二階でした。ここで「ヴィヨンの妻」などを書きました。「朝」はこの部屋を舞台にしています。」
空襲によって三鷹の自宅に住めなくなった太宰は妻子を疎開させていた甲府へ移り、その家も空襲で全焼したために今度は青森の実家に疎開して終戦を迎えた。
三鷹に戻った太宰は、ここから1年半、いくつもの仕事部屋を転々としながら猛烈な勢いで作品を生み出していくのである。
「中鉢家跡」 住所:三鷹市下連雀3-43-32 藤和シティスクエア三鷹駅前
■ 太宰治展示室 三鷹の此の小さな家

案内板に導かれるままに三鷹駅南口近辺のゆかりの場所を回った後、どうしても立ち寄りたい場所があった。
文学サロンで教えてもらったコロナ禍に誕生したニュースポットである。

「太宰治展示室 三鷹の此の小さな家」。
その新たな施設は、三鷹駅前の商業ビル「三鷹コラル」の5階、「三鷹市美術ギャラリー」の中に去年の12月8日にオープンしたという。

エレベーターで5階まで上がると、予想外に立派な文化施設だった。
矢印に従って進んでいくと・・・

太宰治が住んでいた三鷹の自宅が実物大で再現されていた。
ただし、基本的に写真撮影はNGで、決められたアングルでのみ撮影が許される。
この太宰の家の外観については玄関の扉と隣の窓のみ撮影OKだそうで、少し横のパネルが映り込むと警備員がチェックして「これはダメです」などと言う。
出た!日本の悪しき慣習!
SNSの時代にいつまで写真を自由に取らせない博物館の悪弊が横行するのだろう?

家の内部は、書斎だった6畳間だけが撮影禁止。
他の展示物が映らないように監視されながら、再現された6畳間の写真を撮る。
4畳半と3畳の部屋は畳も置かれず展示スペースになっていて、廊下の部分には太宰が描いた絵画が飾られていた。
私としてはむしろこっちの方が写真に収めたかったのだが、グッと我慢する。

床の間にかけられた掛け軸は、井伏鱒二が美和子夫人に贈った「なだれと題す」という詩だそうだ。
美知子夫人が書いた『回想の太宰治』の中にこんな一節がある。
昭和十六年ごろ、井伏先生がお見えになったある夜、先生が揮毫してくださることになって、先生は「なだれと題す」詩を書いてくださった。大分御酩酊の先生は、「ーーそのなだれに熊が乗っているあぐらをかき安閑と莨をすうような」で筆をとめて、「恰好の恰好はどんな字だったかね。木偏かね」とおたずねになったが、酒は先生が一番お強いのであって、太宰も、同座していた塩月さんも、もう背骨を立てているのがやっとの状態で、顔を見合わせるばかり、はっきりお答ができず、結局先生は「格好」とお書きになった。
引用:津島美知子著『回想の太宰治』
太平洋戦争が始まる頃のまだのどかな太宰家の様子がわかるエピソードである。

6畳間に置かれた机では、太宰治気分を味わえる仕掛けが用意されている。
「執筆中の太宰治を体験してみよう!」という企画だ。

「三鷹の書斎で書かれた「大恩は語らず」(※三畳間の常設展示室に原物展示中)を模写するなどして、執筆中の太宰治の気分を味わってみませんか。原稿用紙は文机の引き出しに入っています。ご利用ください。」
ちょっと不思議な体験コーナーだが果たして反応はどうなのだろう?

机の上には、お手本となる「大恩は語らず」の手書き原稿が置かれていた。
もちろん原物ではないのだが・・・。

私はむしろ、机の横に置かれていた木箱が気になった。
立てて置かれたりんご箱の中に、何やら説明が書いてある。

「太宰治は蔵書を持たず、近所に住む亀井勝一郎の世話になっていたと言います。三鷹の家に出入りしていた弟子の堤重久によると、りんご箱の長い辺を縦にして文机の横に置き、本棚にしていたと言います。太宰がここから必要に応じて歌集や詩集などを取り出し、訪ねる度に何十冊という書籍を見せるため、堤にはまるで魔法の箱のように感じられたと言うことです。」
そうか、りんご箱が太宰治の本箱だったのか・・・。
さすがに青森出身である。

この日は時間がなくなってしまったので、他の部屋の展示をじっくり見ることもできなかったので、後日機会があれば再度訪問してみたい新施設だった。
「太宰治展示室 三鷹の此の小さな家」 住所:三鷹市下連雀3-35-1 三鷹コラル5階 電話:0422-79-0033 開館時間:10:00-18:00 休館日:月曜日、年末年始 https://mitaka-sportsandculture.or.jp/gallery/dazaihouse/
■ 玉川上水入水の地「玉鹿石」

展示室を出て吉祥寺方面に戻る途中、遊歩道と車道の間にちょっとした岩が置いてある。
「玉鹿石(ぎょっかせき)」とは、太宰の故郷・青森県金木町特産の錦石のことだが、太宰治と山崎富子が玉川上水に身を投げたのはこのあたりだとみて、1996年、この場所に玉鹿石が置かれた。

玉鹿石前の玉川上水といえば、こんな感じ。
6月ともなると草木が生い茂り、水の流れなどまったく見えない。

太宰たちが心中したのは6月13日の深夜。
その頃にはもっと水量が多かったとは聞くが、土手の草は刈ってあったのだろうか?
それとも、こんな生茂る草をかき分けて身投げをしたのだろうか?

玉鹿石の近くには、太宰の作品「乞食学生」の一節が刻まれていた。
四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。
太宰治「乞食学生」より
4月半ばで、「青い枝葉が両側から覆いかぶさり」という状態だとすると、やはり6月の玉川上水は植物に覆われていたのではなかったか?

近くの橋の上からようやくわずかに水面が見えた。
実際に、太宰らの遺体はなかなか見つからず、入水から6日目の6月19日にこの場所から2キロ下流地点で発見されたという。
梅雨時だけに、やはり草木が捜索の邪魔をしたのではないか?
現在の玉川上水を見ながら想像したのは、そういうことだった。
「玉鹿石」 住所:三鷹市下連雀3-6-54
■ 太宰治旧宅&みたか井心亭

日を改めて、今度は太宰の自宅跡を訪ねてみようと思った。
実際に太宰が暮らしていた借家はすでに取り壊され別の家が建っているため、目印となるのは三鷹市が管理する和風文化施設「みたか井心亭」である。
この施設は太宰とは直接関係ないが、この敷地に太宰家にあった百日紅(さるすべり)の木が移植されたため、ここも太宰ゆかりの場所となった。

受付の女性に「太宰の百日紅はどこにあるんですか?」と聞くと、わざわざ出てきて案内してくれた。
百日紅は、井心亭の生垣から突き出すように植えられているのでよく目立つ。

「太宰治ゆかりのさるすべり」。
ご丁寧に幹の脇に立て札まで添えられている。

案内板には、太宰の作品「おさん」の一節が抜粋されている。
炎天つづきの東京にめずらしくその日、俄雨があり、夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰をおろし、とてもいらいらしているように顔をしかめながら、雨のやむのを待ち、ふいと一言、
「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら」
と呟きました。
玄関の前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。
「そうなんでしょうね」
私もぼんやり答えました。
それが、夫と交わした最後の夫婦らしい親しい会話でございました。
太宰治「おさん」より

肝心の太宰治が住んでいた場所については、井心亭の向かい側にある路地沿いということしか教えてもらえない。
百日紅を案内してもらった女性スタッフも、「正確な場所はお教えできないのです」という。
「三鷹 太宰治マップ」を見ると・・・
「1939(昭和14)年9月から亡くなる1948(昭和23)年6月まで、疎開の一時期を除き暮らしていました。同じ造りの平屋の借家が3軒並んだ一番奥で六畳、四畳半、三畳の間取りで家賃24円。六畳間を書斎にしました。太宰の死後、全て建て替えられ、現存はしていません。」という説明とともに、「私有地ですので、中に入らないでください」と赤文字でわざわざ書き添えられていた。
おそらく、この路地だと私は思う。
「みたか井心亭」 住所:三鷹市下連雀2-10-48 電話:0422-46-3922 https://mitaka-sportsandculture.or.jp/seishin/
■ 連雀湯跡

太宰治の自宅跡から南へ、吉祥寺通り沿いにホンダのお店があるが、ここにかつて太宰家が通った銭湯「連雀湯」があった。

『「十二月八日(太宰治作品)」には、銭湯に妻が長女を連れてでかける場面があります。』
真珠湾攻撃の日の太宰家は・・・
ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いている私の顔を、じっと見上げている。ちょっと、不安なような気もするのだろう。よその人も、ご自分の赤ちゃんが可愛くて可愛くて、たまらない様子で、お湯にいれる時は、みんなめいめいの赤ちゃんに頬ずりしている。
(中略)
銭湯へ行く時には、道も明るかったのに、帰る時には、もう真っ暗だった。燈火管制なのだ。もうこれは、演習でないのだ。心の異様に引きしまるのを覚える。でも、これは少し暗すぎるのではあるまいか。こんな暗い道、今まで歩いた事がない。一歩一歩、さぐるようにして進んだけれど、道は遠いのだし、途方に暮れた。あの独活の畑から杉林にさしかかるところ、それこそ真の闇で物凄かった。女学校四年生の時、野沢温泉から本島まで吹雪の中をスキイで突破した時のおそろしさを、ふいと思い出した。あの時のリュックサックの代りに、いまは背中に園子が眠っている。園子は何も知らずに眠っている。
背後から、我が大君に召されえたあるう、と実に調子のはずれた歌をうたいながら、乱暴な足どりで歩いて来る男がある。ゴホンゴホンと二つ、特徴のある咳をしたので、私には、はっきりわかった。
「園子が難儀していますよ。」
と私が言ったら、
「なあんだ。」と大きな声で言って、「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
と、どんどん先に立って歩きました。
どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。
太宰治「十二月八日」より
「連雀湯跡」 住所:三鷹市下連雀1-11-7
■ 禅林寺・太宰治の墓

自殺した太宰治の墓は、三鷹駅から1キロほど南に行った「禅林寺」にある。
江戸時代初期 明暦の大火によって移住させられてきた神田連雀町の町民が浄土真宗本願寺派の寺院として創建。
元禄13年(1700年)8月 台風で倒壊、黄檗宗の賢洲元養が再興。禅林寺に改名。
出典:ウィキペディア
つまり、元は浄土真宗本願寺派のお寺として作られたが、元禄年間の1700年に禅宗の一つである「黄檗宗(おうばくしゅう)」の寺院として再興したということらしい。

「黄檗宗」というのは聞き慣れない宗派だが、江戸時代初期に来日した明の高僧・隠元を開祖とする禅宗の一派だそうだ。
鎌倉時代に伝わり日本化した臨済宗に対し、自らを正統派を主張し「臨済正宗」とも名乗った。
入り口の門が中国風なのも、そうした影響なのだろう。

境内に入るとかなりすっきりした印象だが、大きなイチョウの木が歴史を感じさせる。
禅林寺の大イチョウは高さが30メートルあり、三鷹市で最も大きなイチョウだという。

境内をまっすぐ奥まで進むと、「森鴎外・太宰治 墓所」と書かれた案内板が設置されている。
私のように、二人のお墓を目当てにこの寺を訪れる人が多いということだろう。
墓所に通じる地下通路を抜けて、建物の裏手に回る。

禅林寺の墓所はこの辺りのお寺としてはかなり広く、整然と墓石が並んでいた。
案内板のおかげで、迷うことなく太宰の墓を見つけることができた。

区画の中央に太宰治の個人墓があり、その隣に少し窮屈そうに「津島家之墓」が建っている。
太宰治の本名は津島修司。
そう、これは太宰の家族のお墓なのだ。

「津島家之墓」の側面に彫られた名前を見ると・・・
妻・津島美和子、長男・津島正樹、二女・津島園子と一緒に、太宰本人・津島修司の名前もあった。

無頼派作家・太宰治と家庭人としての津島修司。
どちらの顔も、太宰だったのだろうか。
ある意味、実に興味深いお墓だと思った。

太宰の墓の目の前には、森林太郎の墓がある。
文豪・森鴎外がここに眠っていて、太宰は生前、森鴎外と同じ場所に墓を建てることを望んでいたという。
この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。
太宰治「花吹雪」より

念願叶って森鴎外と同じ墓所に葬られた太宰治。
同郷の友人・今官一の発案によって、昭和24年から毎年6月19日にこの墓所で「桜桃忌」が催された。
6月19日は、太宰治の遺体が玉川上水で見つかった日であり、同時に彼の39歳の誕生日でもあった。

当初の「桜桃忌」は、太宰と縁のあった作家たちが集い、桜桃をつまみながら酒を酌み交わしながら故人を偲ぶものだったという。
しかし次第に全国から多くの若者たちが集まる青春巡礼のイベントとなり、「太宰治賞」の発表もこの場所で行われるようになった。
関係者の高齢化によって1992年に世話人会が解散し正式な法要は終わりを告げたが、その後も6月19日には多くの太宰ファンがこの墓を訪れている。
「禅林寺」 住所:三鷹市下連雀4-18-20 電話:0422-44-8365 http://www.zenrinji.jp/
■ 陸橋(跨線橋)

太宰治の足跡をたどる三鷹サイクリング。
その最後となったのは、JR中央線を跨ぐ古い「陸橋」である。

ひび割れた案内板には、この陸橋を渡る太宰の写真が残されている。
「中央線の上にかかる陸橋に友人を案内することもありました。この陸橋は、1929(昭和4)年に竣工した当時の姿を今も留めています。」
三鷹駅が正式に開業したのは1930年、その頃の三鷹は農家がポツポツと点在するようなど田舎だった。
太宰が三鷹に移り住んだ1939年には人口も少し増えていたが、汽車が眺められるこの陸橋ぐらいしか近くに案内する場所がなかったのかもしれない。

作られた当時のままの陸橋は、かなりレトロな雰囲気である。
私も幼かった息子たちを連れて、ただただ電車を見せるために来たこともあった。

私が訪れた時も、何組かの親子連れがいた。
子供たちは全員、男の子だった。
そう、この陸橋は、電車好きな男の子にとって夢のような場所なのだ。

ここで待っていれば、数分間隔でたくさんの電車が通る。
大半は中央線の快速電車だが、時々長野方面に行く特急列車も走るのだ。
陸橋から東を見れば、三鷹駅周辺。
高層マンションができて昔とはかなり景色が変わってしまった。

一方、西を見るとJRの三鷹車両センターが広がっている。
総武線各駅停車の黄色い車両は、三鷹駅が始発だ。
戦後、太宰が自殺した翌年にこの場所で「三鷹事件」が起きた。
無人の列車が暴走して商店街に突っ込み6人が死亡、20人が負傷したこの事件は容疑者として共産党員たちが逮捕され、GHQ占領下で起きた国鉄三大ミステリー事件の一つとして今も冤罪の疑いがかけられている。

90年以上に渡って三鷹の発展を見守ってきたこの陸橋も、さすがに老朽化が進み、JR東日本はこんな注意書きを現場に張り出していた。
「この三鷹こ線人道橋は、JR東日本が管理している橋です。1929年(昭和4年)に古い設計基準で建設されています。このため、地震等の災害発生時には通行禁止となりますので、他の道路へ迂回していただくようにお願いします。」

実は今、この陸橋の存続が危ぶまれる事態が進行中なのだ。
東京都のJR三鷹駅近くにある作家・太宰治ゆかりの跨線橋が、撤去される可能性が高まっている。跨線橋は築約90年で老朽化が進行。安全性を確保するのが困難で、所有するJR東日本が三鷹市に無償譲渡を提案していたが、市が受け入れを辞退したためだ。JR東は「全面保存は難しい」という立場で、市は撤去を見据え、記録映像の撮影などに乗り出す。
引用:読売新聞
もし陸橋をそのまま維持するとすると年間3500万円もかかるといい、近い将来、撤去されることになりそうだ。
太宰の死からもう73年。
彼が眺めた風景が姿を消していくのもやむをえないことなのかもしれない。
「陸橋(跨線橋)」 住所:三鷹市上連雀2-21
自転車に乗って🚵♂️
<吉祥寺残日録>自転車に乗って🚲 スペイン風邪にも物申した歌人・与謝野晶子の旧居跡は荻窪、お墓は多摩霊園にあった #210529