近藤紘一とマジェスティック
また、私がバンコク時代愛読した元産経新聞記者で大宅壮一ノンフィクション賞も受賞したジャーナリストの近藤紘一さんもマジェスティックホテルでの思い出を書き残している。
それは亡くなった最初の奥さんとの思い出のホテルだった。
彼の著書『サイゴンのいちばん長い日』の中から、マジェスティック・ホテルの記述を引用してみる。
『パリへ向かう途中の夏の朝だった。私は、この同じホテルの、同じ窓際の席から、この対岸の風景をあかずに眺めた。
つい2、3日前のことのように思い出される。
私にとって、生まれて初めての外国での朝であった。
さえぎるものもない窓の向こうの広がりは、今と同じように光とのどかな色彩にあふれている。川は木立の間に見え隠れしながら、銀色に朝日を照り返し、幾重にも曲がりくねって、かすみの中にとけ込んでいる。あのときは遠くの方に何隻かの大型船が浮かんでいた。川の蛇行にしたがって、別々の方向に船首を向け、皆停泊しているように見えたが、じっと見つめていると、気づかぬほどの速度で動いていることがわかった。いずれも遠くの河口から、ホテルのすぐ右手のサイゴン港へ出入りする外国船らしかった。木立の向こうの見えない水面にそそり立つこれら大型船の姿は、まるで水田の中に突然現れた蜃気楼のように見えた。今はもう港に出入りする船の姿はない。ブンタオの河口からサイゴン近郊に至る両岸の湿地帯やマングローブの茂みは、すでに、あらかた北・革命政府軍の制圧下にある。
あの夏の朝、私は幸福だった。かたわらには前の妻がおり、そして私たちの目の前には、2年前の外国での自由な時間があった。妻はベランダに椅子を持ち出し、長い時間をかけて、川と対岸の景色を写生した。
すぐ先の上空を絶え間なくヘリコプターが往き来し、ときおり、2、3機そろって急降下をくり返していた。演習でも、パイロットのねむけざましでもなく、茂みにひそんだ革命軍ゲリラの掃討作戦と教えられた。そんなヘリコプターの姿や動きさえ、この明るく広大な風景の中では、とるにたらない点景とみえた。』

近藤さんは、サイゴン特派員を経験しベトナム戦争の最後を見届ける。その過程で、ベトナム人女性と結婚、一般のベトナム市民の目を通して戦争の実相を描いてみせた。
本の中に、マジェスティック・ホテルにロケット弾が打ち込まれた日の記述もある。
『朝食を後まわしにして、700メートルほど先のマジェスティック・ホテルに行ってみる。フランス植民地時代からの最も格式高い堅牢なホテルである。
玄関口で警官が3人ピケをはっていたが、「バオチ(新聞)だ」と告げると、すぐ中に入れてくれた。エレベーターは動いていた。6階でおり、短い廊下を通って食堂に行き、目を疑った。広い室内は完全にぶざまなガラクタの物置きだ。川向こうから飛んできて、屋根を直撃したらしい。天井が半分ほど、内側にまくれ、広い青空がのぞいている。壁板ははがれ落ち、イスもテーブルもクズ鉄のようにひしゃげて、部屋の四隅になぎとばされていた。
ロケット砲弾の被害現場には、これまでに何回も行ったが、こんなに見事な命中ぶりは初めて見た。まったくおそるべき破壊力だ。』
近藤さんは、各国のジャーナリストが避難する中で、サイゴンに止まり首都の陥落を目撃した。文字通り、ジャーナリストは歴史の目撃者であった。
そして、あの時代のジャーナリズムは、権力ではなく市民の側からものを見ることを常とした。若かった私も、先輩からそう教えられたし、当然そうあるべきだと思っていた。
今のような権力に慮るような「忖度の報道」は、ジャーナリスト仲間の間でバカにされたものだ。
そんな時代に、近藤さんはあまりイデオロギー的にならず、自然体でありのままの市民を描いた。そこには戦争の中で生きる市井の人々の打算もあり、笑いもあり、たくましさもあった。私にとって近藤さんは目指すべきお手本だった。

30年ぶりに訪れたマジェスティック・ホテル。
そこにいると、報道マンとして初心が蘇ってくる。
<関連リンク>
①1925年開業の老舗ホテル「マジェスティック」でよみがえる若き日の記憶
②グルメでない私たちがドンコイ通りで食べた美味しいベトナム料理
③旧大統領官邸で1975年4月30日「サイゴンのいちばん長い日」に思いを馳せる
⑤戦争証跡博物館で見るベトナム戦争の歴史とジャーナリストたち
⑥忘れてはならない枯葉剤の悲劇!「ベトドク」の思い出を胸に夕暮れのホーチミンを歩く
<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

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