<きちたび>3泊4日ホーチミンの旅① 1925年開業の老舗ホテル「マジェスティック」でよみがえる若き日の記憶

中庭プール

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もう一箇所、マジェスティックで気に入った場所がある。

中庭に設けられた小さなプールだ。

小さいが、深い。ほぼ全面足がつかない深さなので、泳ぐというよりも立ち泳ぎでプカプカ浮かんでいるのに適する。

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9月のホーチミンは雨季。気温は32−33℃程度で、日本と比べて特別暑いということもない。それでも、昼間街中を歩き回ってホテルに戻ると、やはりプールに飛び込みたくなる。

ここのプールがいいのは、静かでこじんまりしていること。建物に囲まれているため直射日光を気にせず、ベッドに横たわってゆっくりと本が読めることだ。

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近代的なホテルの屋上プールもいいが、こうしたクラシックホテルの中庭プールの方が、私のような年齢になると落ち着く。

どうせなら部屋も、プールを見下ろす中庭に面した部屋でもよかったと思えた。

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結局、日中ホテルにいた時間は、ほとんどこのプールサイドで過ごした。

日本ホテル

そして発見もあった。

プールサイドに寝っ転がり、Wi-Fiをつないでスマホでマジェスティック・ホテルを検索した時のことだ。ウィキペディアには、「マジェスティック・ホテル」という項目があり、そこに「クーロン・ホテル」の謎を解く記述があったのだ。こんな一文だ。

『南北ベトナム統一後は一旦「Cửu Long」と改名されるも、その後名称を元に戻し引続き営業を行う。』

この「Cửu Long」が、私のアルバムのメモにあった「クーロン・ホテル」だったと推測される。

1975年の南北統一後、マジェスティックはクーロンに改名され、私が宿泊した1986年にも、おそらくクーロンの名前が残っていたのだろう。

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ウィキペディアにはもう一つ興味深い話が書かれていた。

マジェスティック・ホテルは第二次大戦中、日本軍の宿舎となり「日本ホテル」と呼ばれていたという話である。

『第二次世界大戦勃発後の1940年にフランス本土がドイツ軍に占領され、親ドイツのヴィシー政権が発足したことに伴い、ヴィシー政権側についたフランス領インドシナが1941年7月に日本軍による南部仏印進駐を受け日仏の共同統治となった後は、フランス植民地政府から日本政府に貸し出され、「日本ホテル」と改名され進駐した日本軍や政府関係者の宿舎となった。

1945年8月の終戦後にサイゴンを含むインドシナ一帯がフランスの単独統治に戻された事を受けて、再び「マジェスティック・ホテル」へと名称が戻された。』

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ロビーに飾られた古い白黒写真に「日本ホテル」の看板がかかっているのを発見したのは、このウィキペディアの記述を見た後のことだった。

このホテルは、ベトナムの激動の歴史をまさに体現しているのだ。

ベトナム戦争

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ホテルの館内には、こんな絵画も飾られていた。おそらくは、フランス植民地時代を描いたものだろう。

1925年、この地にマジェスティック・ホテルを開業したのは、華僑の大富豪・黄一族だった。

野島和男著「観光コースでないサイゴン」という本にもこのホテルは登場する。

『1975年、黄一族はサイゴン解放の直前にパリへ移住している。彼らだけでなくベトナムで財をなした華僑は、その9割以上が海外に出国した。現在でも、パリにあるアパルトマンの家主は中国系ベトナム人であることが多いのはそのためだ。

サイゴン解放の3日前となる1975年4月27日の未明、サイゴン川の対岸から5発の122ミリロケット砲が発射された。そのうち1発はマジェスティックホテルの最上階に着弾した。最上階の8階は吹き飛び、7階の一部も損傷した。当時、外国人ジャーナリストが集まる宿としてこのホテルは有名で、開高健氏も103号室を定宿としていた。しかし、選曲が急変したこの時期に宿泊客はおらず、犠牲となったのは屋上で寝ていた守衛一人だけだった。現在、屋上階は改修されていて、サイゴン川を眺望できる半屋外のレストラン・バーとなっている。』

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