雨ばかりだった9月が終わり、10月に入ると平年より暖かい日が多くなった。
高齢の母の引っ越しを準備するためには、これは好都合である。

10月7日。
東京から岡山に入ると、古民家の庭にある金木犀の木に花が咲いていた。
会社を辞め二拠点生活を始めてもう6年目になるが、この金木犀の花を見るのは今回が初めてである。
なぜなら、10月は毎年海外旅行に出かけていて、花の時期に岡山に来ることがなかったからだ。

妻も一緒に帰省する予定を立てていたのだが、直前に三男からヘルプの要請が来て、急遽ひとりで岡山に来ることになった。
ただ、今月は母がぜひにと希望した親戚まわりが主な目的なので、私ひとりの方が何かと小回りがきいてよかった面もある。

三連休初日の10月10日。
93歳の母を車に乗せ、岡山県の東部、和気町にある母の生まれ故郷を訪ねる。
子供の頃は親に連れられて毎年正月とお盆には訪れていた親戚の家、当時は納屋の脇に牛が繋がれていて、今から思えば決して裕福とは言えない農家だったのだろう。
人見知りが激しかった私はこの親戚まわりが嫌いだった。
親戚が集まるとオヤジ連中の酒盛りが始まり、私は逃げるように2歳年上の従兄弟が前の小川で魚獲りをするのを眺めていた記憶がある。

その従兄弟は今もこの部落に住んでいて、最近先祖代々のお墓をきれいに立て直したという。
その中には若くして亡くなった母の両親、すなわち私の祖父母のお墓もあるため、従兄弟の案内のもとまずは墓参りを済ませる。
私の祖父は32歳、祖母は29歳で亡くなり、まだ幼かった母と妹は別々に親戚の家に引き取られることになった。
母は祖父の実家である和気で、妹は祖母の実家である片上で育てられ、多少肩身の狭い思いも経験したようだ。

母が和気に引き取られた後、実家には男3人女2人の子供ができ、隣の親戚の家にも男1人女3人の子供が生まれた。
昔のことなので、この2軒の子供たちはほぼ兄弟のように一緒に育ち、大人たちが畑仕事に出る日中は、10歳になっていた母がお姉さんとしてこの弟や妹たちの面倒をみることになった。
正確に言えば従兄弟に当たる間柄ではあるが、両家の子供たち男女9人全員、母の背中で大きくなったんだと母は嬉しそうに話す。
今からすると不幸そうな生い立ちにも聞こえるけれど、母は女学校にも行かせてくれて「叔父ちゃん叔母ちゃんには本当によくしてもらった」と心から感謝している様子で、「私は本当に人に恵まれていい人生だった」といつも口にする。

お墓参りが終わると、今度は“妹”たちが集まって母のためにランチ会を用意してくれていた。
昔は何もない田舎だったけれど、今ではすぐ近くにオシャレなカフェができていて、ここがランチの会場だった。
店名は「caf’e de bouquet」。
「こんなところができとるんじゃなあ」と、私も含め初めてこの店を訪れた人はみんな驚いて、時の流れを痛感した。

ランチ会に集まってくれたのは、隣の親戚の長女と三女、そして亡くなった長男のお嫁さん。
しっかり者で明るいこのお嫁さんが、今はこの家を守っている。
さらに、このお嫁さんの息子夫婦と兵庫県に住む長女をわざわざ車で連れてきてくれたその娘も参加。
母と私を加えて、女6人男2人の賑やかな集まりとなった。

ランチの後は、母が生まれたという近くのお寺を訪れる。
天台宗のお寺「元恩寺」。
私の祖母のお姉さんがこの寺にお嫁に行ったことが縁で、住職が比叡山に移ることが決まった時、農家の跡取りだった祖父にお寺に入って欲しいという依頼が来たという。
あの当時のお寺は地域の大切な場所だったため、祖父は得度してにわか僧侶となり、祖母と共にこの寺で暮らすことになったのだ。
そして1933年、ここで母が生まれる。

突然の訪問だったにも関わらず、ちょうど外回りからきた住職さんは私たちを招き入れ、応接間で歓談することに。
今の住職さんは祖父が入る前にこの寺にいたお坊さんの子孫らしく、皇居で勲章を授かったこともあるという天台宗の偉いお坊さんらしい。
しかし今はお寺の仕事は息子さんに任せて少し楽になった様子で、小学校時代に同級生だったという兵庫に住む長女と懐かしそうに昔話をして、私の母がこの寺で生まれたという話を聞いて驚き、お寺の中を案内してくれたのだ。

お寺にある案内板によれば、元恩寺が創建されたのは天平勝宝年間、すなわち749年から56年ころと古い歴史を持ち、今の建物の多くは江戸時代に再建されたものと伝えられる。
本堂の厨子内には四天王に囲まれて平安時代のものとされる十一面千手観音が安置されているという。
本堂に付随する住職の住居部分はかなり作り替えられているため、母が暮らしていた時代とはだいぶ様子が変わっているようだが、住職の説明を聞きながら母は懐かしそうにお寺の中を見て回った。

そんな中、一枚の女性の写真に目が止まった。
どうやら母が生まれた時にこのお寺を取り仕切っていた人で、比叡山に移ったお坊さんのお母さんらしい。
母もこの人のことを覚えていて、「このおばあちゃんにもとてもお世話になった」「きれいでしっかりした人だった」と幼かった頃の記憶が次々に蘇ってきたようだった。

帰り際、お寺の前にある石段を見に行く。
私がこの寺を訪れたのは今回が初めてだったが、母の定番の昔話として、祖父が祖母を見染めた階段の話を何度も聞かされてきた。
この寺は祖父の通学路に面していて、学校の帰り道、この石段から出てくる祖母に恋し日記にそのことを書き残していたという。
大正時代の淡い片想い、それが実を結んで二人は結婚、祖父は農業をやめにわか僧侶となるのだ。
この出会いがなければ母は生まれず、当然のことながら私もこの世に存在しなかったことになる。
しかしこうして結ばれた二人は、相次いで病に倒れ、幼い娘たちを残したまま無念の死を遂げるのだが、その両親から生まれた母は二人の寿命まで受け継いだようで90歳を超えてもまだまだ元気で、東京での暮らしに馴染めれば100歳まで楽勝で生きそうだ。
考えれば考えるほど、人の運命とは本当に不思議なものである。

お寺を出て、長男のお嫁さんが守る親戚の家へ。
母が生まれ育った祖父の実家は、つい数年前に買い手が現れて今は知らない人が暮らす。
それでも結婚前の母を知る人は近所にまだいて、100歳のおじいさんと道端で話し込んだりしている。
1世紀近く生きてきても、自分が生まれ育った故郷の記憶は消えることはなく、むしろ歳を取るほど鮮明に蘇ってくるものらしい。

和気からの帰り道、私が管理している岡山市の古民家にも立ち寄る。
ここは私の父の実家で、父が岡山勤務だった時代、母も私たちと一緒に7〜8年この家で暮らした。
本当は父や伯母が眠るお墓に参りたかったのだが、和気と違って平坦な場所ではなく、転んではいけないからと私が必死で説得して断念させたのだ。
代わりに仏壇に花を供え、線香を焚いてお別れの挨拶をした。
この日の走行距離は往復で70キロ以上、93歳の母は結構疲れたはずだが、心につかえていたものが取れたようで少し気持ちがスッキリしたように見えた。

中1日置いて、連休最終日の10月12日。
今度は実家の方の長男夫婦と次男、それに亡くなった母の妹の息子を招いて、母の家の近くにある和食店「喜怒哀楽」でささやかなお別れの会を催す。
実家の跡取りだった長男は母より10歳年下だが、兄弟の中で一番歳が近いためとりわけ縁が深く、今も時々母に野菜を送ってくれるなど、何かにつけて気にかけてくれていた。

各自好きな料理を選んでもらったが、どれも量が多くて、平均年齢80歳の高齢者たちにはちと多すぎたようだ。
実家のおばあさんは母に会うたびに、「あんた、東京なんか行かれなよ」と息子のもとに行ってしまわないよう釘を刺していたが、今ではそのおばあさんもいない。
おまけに母も90歳を超えて、年齢の割には若く見えるとはいえさすがに衰えが目立ってきたこともあり、みんな「そりゃあ、息子たちのそばに行った方がええ」と母の旅立ちを応援してくれた。

東京行きに同意してからというもの、母の最大関心事はこの親戚への挨拶まわりだった。
自分ではお土産が買いに行けないからと、私に東京で適当なものを買って送ってほしいといい、それもあまり小さいものだと失礼だからとそれなりの大きさのものをと注文がつき、バームクーヘンを12個買って送った後で、少し足りないかもしれないと言うので空港で追加でお菓子を購入して持っていくなど、私もいろいろ振り回された。
しかし、この連休中の会食に参加できなかった“妹”や数少ない友人たちにも電話で東京行きを伝え、母が一番気にしていた親戚への挨拶は滞りなく終わった。
もう、岡山を離れることへの愚痴は母の口から出なくなった。
あとは粛々と準備を続け、11月半ばの引っ越し当日を待つだけだ。
母がいなくなれば、私たちの岡山二拠点生活も一つのミッションを終えることになる。