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<吉祥寺残日録>【百年前⏩1941~1945】『クローズアップ現代』で初めて知った日本国内での「敵国人抑留」 #240827

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台風の進路が気になってNHKのニュースを見終わった後、たまたま「クローズアップ現代」を見た。

『終わらない戦争(1) “敵国人抑留” 日本が好きだったのに…』

いわゆる毎年8月にテレビで放送される恒例の「戦争企画」なのだが、太平洋戦争中に日本に住んでいた敵性外国人を抑留していたという内容に衝撃を受けた。

スパイ活動を未然に防ぐため戦争状態にある敵国人を拘束し隔離することは各国で行われていることで、戦前の軍国主義の日本で外国人が抑留されていたと聞いても特別驚くこともないが、私がそうした史実を今まで知らなかったこと、考えたこともなかったことに衝撃を受けたのである。

もう太平洋戦争勃発から83年、来年には終戦80年を迎える。

その間、多くのメディアが反戦の視点から戦争中の様々なエピソードを掘り起こしてきて報道を続けてきた。

ソ連によるシベリア抑留の物語も、アメリカによる日系人抑留の物語も、そうした報道により多くの日本人が知るところとなり、映画やドラマの題材にもなった。

ところがアメリカによる日系人抑留の話は何度も聞いていたのに、アメリカがやっていたようなことを日本側も行っていたのではないかとの疑問を私は抱くことなく、その実態を知らせてくれるようなメディアの報道も見聞きすることがなかったのだ。

報道に携わった者として、大いに恥とするところである。

NHKがこのタイミングで日本における「敵国人抑留」の問題を取り上げたのは、イタリア人作家ダーチャ・マライーニさんの活動があったからのようだ。

自伝の中で日本での抑留経験についても書いたダーチャさんは、敵国人抑留の歴史が日本人に「語り継がれていない」という危惧を抱き今年6月に来日、戦時中を過ごした地を訪ねたという。

ダーチャさんが日本で暮らし始めたのは、1938年10月、2歳のとき。アイヌ民族などの文化を研究する父・フォスコさんに連れられて、来日しました。フォスコさんが北海道大学で研究助手を務める1941年春までの間、一家は札幌市内の外国人官舎で暮らします。大学では日本人と外国人がともに学び合い、家族ぐるみの交流がありました。

フォスコさんが京都大学で講師の仕事を得ると、一家は京都へ移ります。ここでは日本人の乳母とともに暮らしました。一家は日本社会にすっかり溶け込み、周囲の人々とも信頼関係を築いていたといいます。

1941年12月8日の開戦後、日本では敵国の国籍を持つ民間人を抑留する「敵国人抑留」政策が始まります。
しかし、ダーチャさん一家は、変わらず京都で平穏に暮らしていました。当時イタリアと日本は同盟関係にあったためです。

日本人の乳母に育てられ、日本人の友人と交わり、日本語(京都弁)を流ちょうに話していたダーチャさん。
その生活が一変するのが、1943年9月。イタリアが連合国軍に無条件降伏したことがきっかけでした。日本政府は、北イタリアのサローに新しく成立したファシスト政府を承認。このファシスト政府に忠誠を誓わない者を、「敵国人」に準じて取り扱う、という処置を打ち出しました。
ダーチャさんの両親もそれぞれ宣誓書への署名を求められましたが、拒否。こうして、一家は「敵国人」として、抑留所へ送られることになったのです。

一家が抑留されたのは、愛知県名古屋市の郊外にあった天白抑留所。

ダーチャさんを含めイタリア人16人がここに収容されたが、警察の厳しい監視・管理のもと外部と隔絶され、自由を奪われた生活を送ることになる。

ダーチャさんは、ここでの抑留生活についてNHKのディレクターに次のように語っている。

トラックの屋根がない荷台に座らされて、抑留所まで連れてこられました。どのくらいだったか覚えていませんが、トラックで結構な時間がかかりました。覚えているのが、スーツケースを各自1個持ってくるようにと警察が言いました。

ところが私たちには1個だけ渡して、残りは没収されたのです。衣類や本、靴などを荷づくりしたのに、スーツケース1個を残して、全部持っていかれてしまったのです。あの日の強い風のことを、今でも覚えています。風が悪い知らせを運んでくるかのように感じられたのを覚えています。

飢え、爆撃、そして物資の不足に苦しみました。体を洗うお湯さえありませんでした。

入浴は1か月に1回で、しかも警察官らが入った残り湯でした。抑留されるということは、物理的な塀や柵だけではなく、外部との関係や時の情報を完全に遮断されるのです。自由がないということは、情報も欠如するのです。戦況も知りませんでした。日米、どちらが優勢なのかもわかりませんでした。全く何も情報がありませんでした。知ることができないという苦しみです。

私は小さなアリさえも食べていました。中庭を走るネズミだってすぐさまひっ捕まえて、分けて食べていましたよ。空腹だったから。あらゆる小さな部位まで全部分けていました。小さなかけらさえ、私たちにとっては生命でした。それがタンパク源でしたから。タンパク質が不足していました。そのため、私たちは脚気や壊血病になりました。みんな脚気を患っていたし、髪の毛が抜けたし、歯茎から出血する人もいました。筋肉が衰え、身体がうまく動かなくなっていました。

警察官たちは、盗みを働いていました。日本政府からは、お米や卵、肉などの食料配給がありました。でも彼らがくすねていたのです。盗人でした。私たちが裏切り者であるとの口実の元、日本政府からの配給をこっそり持ち去っていたのです。完全な横領です。

そして彼らは、「卑怯な裏切り者」と私たちをののしりました。彼らにとっては、私たちを裏切り者とみなすことで、残忍に扱うことを正当化していたのです。もちろん彼らは、上司の命令に従っていたのだと思います。やっていたことも、誰かの指示だったのだと思います。ですが、倫理観のかけらもありませんでした。

彼ら(警察官たち)はサディスティックでした。例えば、自分たちはバルコニーで食事をし、魚の頭や腐ったみかんを投げ捨てるのです。そしてお腹を空かせた子供たちが残飯に群がるのをみて嘲笑するのです。また、イタリアから手紙が届くと、私たちには手を触れさせず、わざと目の前で破り捨てるのです。これも一種の拷問です。屈辱を与えるのです。

私はこうした警察のふるまいを見て、絶対的な権力はサディズムを生み出すことを学びました。抑留所の中に限られたことではなく、人間関係においても同じことが言えます。相手に対して絶対的な権力をもつと、人間はサディスティックになるのです。

1945年に入り、名古屋での空襲が激しくなると、ダーチャさんたちイタリア人抑留者は山あいの旧石野村にある廣済寺に移送され、そこで終戦を迎える。

寺での生活は、それまでの抑留所とは全く違ったという。

廣済寺の人たちは、家族のようでした。友情と愛情で結ばれていて、私たちを敵対視した政府の政策とは真逆でした。皆、私たちの味方でした。また、本当は禁止されていたのですが、私は隠れて農家にお仕事を手伝いにいって、じゃがいもやお米をこっそりもらっていたのですが、農家の方々も私を敵扱いしませんでした。

もちろん、敵だと見なしていた人もいたと思います。プロパガンダに踊らされて、敵が襲撃してくると信じ込んでいた人もいたでしょう。ただ、日本の市民は、友人も、見ず知らずの人も、総じて私たちの味方でした。私たちを敵とは見なしていませんでした。

このことで、私は日本の皆さんの友人であり続けることができたのです。

ダーチャさんは廣済寺も訪問して、昔を知る日本女性と再会した。

天白の抑留所はもう何の痕跡もなく変わってしまっていたが、お寺は当時の面影のまま、しかし外国人抑留政策の記録はどこにもなかった。

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戦時中、日本が敵国人を抑留したこと以上に、戦後その事実を公にせず、教訓として語り継ごうとしていないことが問題である。

アメリカでは戦後抑留問題が議論され、1988年レーガン大統領が公式に謝罪し生存する日系人被害者に賠償金を支払う法律が成立してた。

それに対し日本では、政府もメディアもこうした不都合な事実を明らかにすることなく今日に至っている。

原爆や日本人の苦難については語り継ぐが、自らが犯した不都合な事実にはなるべく蓋をして、黙して語らないというのが日本人の戦後であった。

それでもまだ戦後50年ごろまでは左翼的世論を背景に日本軍が中国などで行った蛮行を明らかにしようという風潮もあったが、ネット世論が歪んだ愛国主義に染まるにつれ、そうした加害についての報道は「自虐史観」のレッテルの下、激しい糾弾に晒されるようになる。

案の定、今日の「クローズアップ現代」についてネット上は批判の嵐。

日本にネガティブな情報には中身を吟味することなく反射的に激昂する、これこそ危険な兆候だと感じる。

NHKをめぐっては今、ラジオ国際放送などの中国語ニュースで中国籍の外部スタッフが尖閣諸島を「中国の領土」などと原稿にはない発言をしたことで、大きな批判にさらされている。

いくら中国語とはいえ、その場でチェックできる担当者がいなかったというのは放送局として致命的であり、いくら責められても仕方がない。

ネットでは鬼の首を取ったように大騒ぎ、政府も遺憾の意を明らかにし、NHKも謝罪放送に追い込まれた。

しかし私が最も知りたいこと、すなわちこの外部スタッフが何者で、背後に中国政府の関与が関与があるのかという肝心の点については何の情報も明らかになっていない。

一部の情報によれば、この外部スタッフは20年以上も中国語ニュースの翻訳に携わっているベテランだったという。

これまでも同様の放送をしていたのか、それとも最近誰かにそそのかされたのか、NHKとしては再発防止策だけでなくメディアのプライドを賭けて真相の究明にあたるべきである。

こうした不祥事があると、今日のような価値のある報道も外国に操られているような印象を持たれ、メディアの価値を損なうだけでなく、今後ますます根も葉もない陰謀論をのさばらせることになってしまう。

メディアには、日本に不都合な事実であっても批判を恐れず堂々と伝える存在であってもらいたい。

良いことも悪いことも、きちんとした取材に裏打ちされたファクトを知った上で将来を決めなければ、人間はまた同じ誤りを繰り返す生き物なのである。

<吉祥寺残日録>【百年前 ⏩ 1921】今から100年前、日本も世界も大きなターニングポイントを迎えていた #210217

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