<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕 「カリブ海の旧イギリス領を知るための60章」(2023年/明石書店)で知る奴隷貿易の黒歴史 #240107

新たな年を迎えて、私は2月に予定しているカリブ海旅行に備えて勉強を始めた。

深い理由はなかったのだが、今回私が渡航先に選んだカリブ海の国々は大半がかつてのイギリスの植民地だった。

中南米といえば、スペインとポルトガルのイメージが強かったのだが、カリブ海諸国に限ってはイギリスやフランス、オランダの存在も大きく、こうした欧州列強の対立抗争の歴史の中でそれぞれの島の運命が決まることになった。

カリブ海といえば、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」を思い浮かべる人も多いだろう。

美しいビーチとヤシの木が象徴する南国の楽園、そして豪華なカリブ海クルーズの船旅も。

しかし、実は大航海時代から始まるヨーロッパ人による植民地化と原住民の虐殺、アフリカから強制的に連れて来られた奴隷貿易の舞台でもあるのだ。

勉強すればするほど、私がいかに欧米が抱える闇の歴史を知らないかを思い知らされる。

単に美しい海を眺めるだけではなく、そうした歴史的な視点を持ちつつ、カリブ海の島々をめぐってみたいと思っている。

カリブ海諸国の歴史について日本語で書かれた本はさほど多くない。

そうした中で、図書館で借りた本の中でとても興味深かったのが、川分圭子・堀内真由美編著『カリブ海の旧イギリス領を知るための60章』である。

カリブ海の中でもわざわざ旧イギリス領に特化して複数の専門家が多角的に解説している貴重な資料だ。

この本から、イギリス領カリブがどのように成立したのかを見ていこう。

近世のヨーロッパでは、「野蛮人しか住んでおらず」「キリスト教君主の支配下にない」地域は、最初に到来したキリスト教国に住民を支配し「保護監督」する権利があると考えられていた。だが、征服の真の目的なプランテーション開発とそこでの商品作物の生産と交易だった。そのため全アメリカの歴史は、先住民からの土地の収奪、そのための先住民の虐殺や追放から始まる。

以下、イギリス領カリブの征服の現場がどのようなものだったか考えてみたい。

征服事業に必要な人的要素は、事業の実施を許可する国王、国王から領有権を付与された領主、資金を提供する資本家、軍事遠征を行う軍人や船長である。リーワード諸島とバルバドス征服の場合、国王はジェームズ1世、領主はカーライル伯、資本家はロンドン商人ラルフ・メリフィールドやモーリス・トンプソン、軍人や船長はトマス・ワーナーやその息子エドワード・ワーナーと同郷のジョン・ジェファーソン、のちにネヴィス島総督になるアンソニー・ヒルトンなどであった。

トマス・ワーナーはサフォークの地主の息子で、ロンドンでメリフィールドが出資するヴァージニア行き航海に陸軍大尉として参加して、1624年1月セントキッツ島に到着した。メリフィールドは同年3月にはさらに一船団を準備し、ジェファーソン大尉がそれを率いて同島に到着する。この間ワーナーは一時帰国し、国王からの委任状を得た。セントキッツ島にはすでに数名のフランス人がおり、その後もフランス人が入植してきたが、ワーナーは彼らと協定を取り交わして、島の南北両端をフランス人が植民し、中心部にイギリス人が入植することが決まった。

だが白人入植者が増えるにつれ、先住民カリブ人との関係は悪化した。1626年、族長テグレマンは、白人たちが自分たちの住居の周囲に銃眼を備えた柵や堡塁を設置したのを見て疑いを抱き、全白人殺害を決意した。しかしこれは彼らに奴隷にされていた他部族の女性によってワーナーに通報され、ワーナーは先制攻撃により彼らをほぼ全滅に追いやった。2千人ものカリブ人の死体は谷に投げ捨てられ、川の水は何日も血で赤く染まったという。現在この地点はブラッディ・ポイントと呼ばれ、現地の観光ガイドは必ずここを案内する。

ワーナーは国王と領主カーライル伯からセントキッツ島総督の地位を認められ、1629年にはナイト爵を受爵した。またワーナーやその仲間は、セントキッツ島や周辺の島々の土地を分配し、領主から領有権を認められ、初代のプランターとなった。セントキッツ島にあるプランテーションの廃墟ウィングフィールド・エステートは、ジョン・ジェファーソンに付与されたものである。

制服が一段落すると、必ず起こってくるのが支配者層と一般の入植者の対立である。セントキッツ島では、ワーナーがタバコの価格下落を受けてタバコの作付けを18か月間禁止したことが引き金となった。一部の入植者たちは、領主カーライル伯への貢納を拒絶し、その他15か条の要求を総督と評議会に突きつけ、1624年3月には住民が選出した集会が開催された。これがセントキッツ島の植民地議会(アセンブリ)の起源である。

ワーナーはいったん彼らの要求を呑んだが、彼らがジェファーソンやワーナーの息子などを告訴するため渡英を計画したときに、反撃を再開した。記録の欠如により詳細は不明だが、42年12月には議会は解散され、反乱者は処刑されたり、他島へ逃げて野垂れ死ぬなどして、事態は収拾したようである。

引用:「カリブ海の旧イギリス領を知るための60章」より

この文章に登場するセントキッツ島は、セントクリストファー・ネイビスの首都バセテールがある島で、早くからイギリスによるカリブ進出の足がかりとなった場所だ。

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今回私はこの島に行く予定はないが、他の島々もおおかた同じような過程でヨーロッパ人が先住民を駆逐した。

そのうえで、島々の領有権をめぐってイギリスはフランスやオランダと激しい攻防を繰り広げる。

1660年代以降のアンティグアは、英蘭戦争でオランダと結んだフランスによりたびたび襲撃を受け、カリブ人にも襲撃された。74年アンティグアは、リーワード諸島総督に「ドミニカ島在住のインディアンを殺し滅ぼす」ことを願い出ている。この島がカリブ人の拠点であったからである。この願いは許可され、トマス・ワーナーのもう一人の息子で当時アンティグア総督だったフィリップが自ら司令官となって、ドミニカに遠征した。この時敵方を率いていたのは、トマス・ワーナーが先住民女性との間に作った息子トマス(インディアン・ワーナー)であったという。インディアン・ワーナーはこの戦いで死亡したが、その死は異母兄フィリップのだまし討ちであったとの疑いがかかった。フィリップはイギリスに召喚され裁判を受けたが、無罪となり、アンティグア総督の職に復した。この話も真偽のほどは不明だが、1700年代にアンティグアに立ち寄った航海者ウィリアム・ダンピアもその著書『最新世界周航記』第2巻でこの事件について言及している。

ドミニカ島や他のウィンドワード諸島では、カリブ人がその後も長く残存し、付近で難破した奴隷船の黒人が逃げ込んで、ブラック・カリブ(ガリフナ)と呼ばれる混血の種族も生じた。1748年オーストリア継承戦争後の和平条約で、イギリスとフランスはドミニカ島とセントヴィンセント島を原住民の居住地用の中立地域とし、両島の不法占拠者には所有権を認めないとしたが、この約束は守られず、その後も数千人のフランス人が入植した。

1763年これらの島がイギリス領になった後、セントヴィンセント島では入植者とブラック・カリブの間に戦争が起きる。この時は、イギリス国王の君主権に服することを条件に、カリブ人の土地の領有権は承認された。しかしナポレオン戦争中の1794年、フランス領グアドループの革命派総督ヴィクトル・ユーグは、セントヴィンセント島のカリブ人と同盟し、イギリスと戦わせた。カリブ人はイギリス軍に山中に追い詰められ、降伏し、97年にはホンジュラス沖のバイーデ諸島のロアタン島に追放された。現在も中米にはこのブラック・カリブたちの子孫が暮らしている。

引用:「カリブ海の旧イギリス領を知るための60章」より

こうしてヨーロッパ本国においてイギリスの力が強まるにつれ、カリブ海でもイギリス領に併合される島が増えていった。

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こうしてカリブ海の島々を巡って列強が激しく争った理由は、砂糖プランテーションの開発にあった。

イギリス領で最初に砂糖生産を始めたのはバルバドスであり、その技術を、当時ペルナンブッコ(現ブラジルのレシフェ)を征服していたオランダ人から学んだとされている。

こうしてバルバドスは、1640年代後半から50年代半ばの間に、砂糖プランテーションを急速に発達させ、50年代後半にはかなりの砂糖を輸出するようになっていた。その一方で急速な開発により地価は10倍になり、資本のない者はもはやこの土地で砂糖生産を開始することはできなくなった。

また以上の急激な開発は、バルバドスの自然環境を大きく変えた。1649年にバルバドスで未開地を含むプランテーションを購入したトマス・モディフォードは、早くも1655年には「木がなくなってしまった」時この島は没落すると警告を発した。そして、71年には、「バルバドスではすべての木が破壊され、砂糖を煮詰めるのに木が不足しているので、イングランドから石炭を輸入するのを強いられている」といった記述も現れた。

この頃始まるのが、バルバドスから他の島への移住である。1664年には、トマス・モディフォードが、ジャマイカ総督に就任するとともに、約700人の移住者を伴ってジャマイカに移住した。また、1674年にはやはりバルバドスの大地主クリストファ・コドリントンは、アンティグアに広大なプランテーションを得たほか、バーブーダ島全島を領有して、食料の生産農場とした。そのほか、様々な地域にバルバドスから人々が移住した。1670年バルバドスの総督は、同島では富裕者の大土地所有が進展する一方で、1万2千人もの中小地主が、ニューイングランドやヴァージニア、セントキッツ島、オランダ領ギアナ、その他フランス領などに移住してしまったと述べている。確かに、バルバドスの人口は1680年代からその後百年の間ほとんど増加せず、白人1万8千人、黒人奴隷5〜7万人くらいの規模にとどまっており、砂糖の生産量も伸びていない。

一方ジャマイカは、18世紀にはイギリス領で最も繁栄した砂糖植民地となる。ジャマイカでは、最初から極端な大土地所有が進展した。1676年には、すでに全島で耕作面積が21万エーカー(8万4千ヘクタール)にまで広がっていたが、千エーカー以上を所有する者が47人いた。トマス・モディフォードは6千エーカー、彼の弟のジェームズは3500エーカーを所有していた。ジャマイカの大地主として有名なベックフォード一族も、『ジャマイカ史』を著したエドワード・ロングで有名となるロング一族も、すでにそれぞれ2千エーカー以上を持っていた。モディフォードの次の総督トマス・リンチは、1655年ジャマイカ征服に参加した時には少年であったが、彼も17世紀末には2万エーカーを所有していた。

ただこうして得た土地も、開発しなければ何にもならない。しかし、熱帯雨林の繁茂する未開地を開墾し、そこで植え付けや伐採に手のかかるサトウキビを栽培し、その加工をするための工場、水路や道路、要塞や港湾、そして住居も建設し維持していくためには、膨大な人手が必要だった。そこで初期にはアイルランド人などの白人労働者、17世紀後半からはもっぱらアフリカ黒人が奴隷として連れてこられた。

バルバドスでは、1630年頃までは白人地主と白人契約労働者合わせて人口が1500人程度だったと推定されているが、1645年には白人地主が1万1千人、白人契約労働者が数千人、それに対して黒人と少しの先住民からなる奴隷は6千人近くにまで急増した。その後黒人奴隷の数は急速に増え、1683年には白人地主1万7千人、白人労働者2300人、黒人奴隷は4万6千人くらいになる。白人労働者の中には、クロムウェルのアイルランド反乱鎮圧時の捕虜が多数含まれており、1655年までに1万2千人がカリブに送られたともいわれる。アイルランドは16世紀以降イングランドの植民地と化しており、イングランドがアメリカ世界を植民地化した後は、黒人奴隷制が定着するまでアイルランド人が重要な労働力となっていた。今でもイギリス領カリブ世界にはアイルランド人の子孫や文化が残存する。またアイルランド人とカリブの人々には共有された帝国批判の心情がある。

バルバドス以外のイギリス領に黒人奴隷が送られるようになるのは、1650年代以降である。奴隷貿易の研究者フィリップ・カーティンの計算によると、1651〜75年に、ジャマイカには1万2500人、バルバドスには4万8千人、リーワード諸島には1万2千人近くのアフリカ黒人が送られた。その後イギリス領に送られる黒人は年々増加し、18世紀初頭には毎年1万人、18世紀後半には毎年2万人以上の黒人奴隷が送られた。

引用:「カリブ海の旧イギリス領を知るための60章」より

アフリカからの奴隷というと、アメリカのイメージが強かったが、もとを辿ればバルバドスの砂糖プランテーションから始まったと初めて知った。

アイルランド人がヨーロッパおよびアメリカでどのように見られていたのかも、カリブの歴史から図らずも理解できてしまった。

私たち日本人がほとんど知らないヨーロッパの黒歴史は、あの美しいカリブ海に凝縮されているのだ。

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それでは、プランテーションでの労働力確保の要請から生まれたイギリスによる奴隷貿易について見ていこう。

日本では、アメリカ合衆国の黒人についてはよく知られているが、カリブ諸島に黒人が多いことは、あまり知られていない。だが実際には、アフリカ黒人が奴隷として最も大量に輸送されたのは、カリブ諸島である。1500年頃から1880年代頃まで続いたアフリカからアメリカ世界への奴隷貿易は、全体で1千万人以上をこの間移送し、そのうち約5百万人がカリブ諸島、4百万人がブラジル、50万人がブラジル以外の南米、20万人が中米、50万人が北米に送られた。現在もイギリス領カリブの多くの地域で、人口の9割以上がアフリカ系である。

では、誰が奴隷を輸送したのか。ドレッシャーとエンガーマンが奴隷貿易の最盛期1660〜1810年に関して作った内訳によると、イギリスが約330万人、ポルトガルが220万人、フランスが110万人、オランダが50万人、北米が20万人、デンマークが5万人である。イギリスの奴隷貿易への関与は、非常に大きかったのである。

奴隷貿易はどのように行われたのか。イギリスでは1660年、王立アフリカ会社という国王から法人格と奴隷貿易に関して独占的特許を与えられた株式組織の特許貿易会社が、設立された。奴隷貿易は、アフリカに要塞と奴隷収容施設のついた商館を確立する必要があり、最初は資本力ある独占的な会社形態がふさわしかった。この時はアフリカ沿岸に拠点を維持できず失敗に終わったが、1672年に新王立アフリカ会社が設立され、1752年まで存続した。新会社に対する国王特許状(勅許状)は、1000年間にわたりアフリカ西岸のブランコ(ブラン)岬から喜望峰までの奴隷貿易独占を認めていた。

ただこの新会社も十分な人数の奴隷を供給できず、植民地から不満の声が高まる。その結果、同社は1698年には、アフリカからの輸出額の10%を会社に支払うことを条件に、一般の商人にライセンスを与えて奴隷貿易への参加を認めた。その後1712年には奴隷貿易は完全に自由化された。王立アフリカ会社は、政府からの補助金によりアフリカの要塞や商館を維持する役割を担った。

イギリス人による奴隷貿易が盛んになると、カリブ海のイギリス領から付近のスペイン領に奴隷が輸出されるようになった。この貿易はスペイン領に近いジャマイカやバルバドスで活発化し、スペイン継承戦争中に特に盛んになった。本来は、イギリスもスペインも植民地に外国との直接貿易を禁止していたため、この貿易は密貿易だった。しかしイギリス商務省は1708年、バルバドス総督に「スペイン人との黒人奴隷のためにできるすべての奨励を与えるように」との指示を出しており、むしろこの貿易を歓迎していた。奴隷の対価として銀が入手できたからである。

このような貿易が盛んになったのは、スペインがアフリカに領土を持たず、自前で奴隷貿易を行うことができなかったからである。スペインは、公式の奴隷供給方法としては、アシエントと呼ばれる奴隷供給の契約を外国商人と締結する制度をもっていた。イギリスは、スペイン継承戦争後に和平の条件として、30年間で14万4千人の奴隷をスペイン領に供給するアシエントを獲得した。このアシエントでは、奴隷以外にも一定限度内でスペイン領に他の商品を輸出することができたことが、大きなメリットだった。以上の貿易を行う組織として設立されたのが、南海会社である。当時のイギリス人にとってはスペイン領の富は伝説的なものであり、そのためこの会社の株は人気が高く急騰し、最後には南海バブルという株価暴落事件が起きたことは、よく知られている。イギリスのアシエントは、オーストリア継承戦争が始まる直前の1739年まで続き、この間6万5千人の奴隷を運んだ。

引用:「カリブ海の旧イギリス領を知るための60章」より

イギリスは最大の奴隷貿易国だった。

この事実はちょっと衝撃的である。

私の従来の認識では、大航海時代の最初の覇者スペインやポルトガルが奴隷貿易の主体で、イギリスはどちらかと言えば奴隷制に反対した国というイメージを持っていた。

ところが歴史の真実は全く違っていたわけだ。

言われてみれば、中南米でインカ文明やメキシコの文明を破壊したスペインも、アフリカには自前の領土を持っていない。

すなわち、黒人奴隷を運び出す拠点を持っていなかったのだ。

それに対して、イギリスはアフリカに広大な植民地を確保していた。

奴隷の供給地であるアフリカと輸入先であるアメリカ、その関係がようやく理解できた気がする。

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こうしてカリブ海に一大勢力圏を築き、黒人奴隷を使ったプランテーションから富を得たイギリス。

戦争の勝利によって他国から島々を奪ったイギリスは、これらを一つの連邦にまとめようとするが、結果的にうまくいかなかった。

カリブ海になぜ、現在のようなたくさんの小国が独立することになったのか?

今度は、その経緯を見てみよう。

イギリス領カリブは、たくさんの島から成り立っているだけでなく、たくさんの国から構成されている。中南米の大陸部にあるガイアナ、ベリーズを合わせると、現在コモンウェルス・カリビアンと認識されている地域には、12の独立国と6つの未独立地域(イギリス海外領土)がある。未独立地域だけ名前を挙げると、アンギラ、モントセラト、バーミューダ諸島、ヴァージン諸島、ケイマン諸島、タークス・カイコス諸島である。独立国は、ジャマイカやトリニダード・トバゴのように人口が100万〜200万人のものもあるが、数万人しかいない国もある。

実はイギリス領カリブの国々は、これほど小単位で独立する計画だったわけではなく、単一の連邦としての独立が構想されており、実際1958年に西インド連邦が成立した。ただこれは、貧しい小島と同じ国になることを望まなかったジャマイカなど有力地域の意向で、瓦解してしまう。

実は連邦化の失敗は20世紀だけの話ではなく、植民地時代から繰り返されていた。1620年代にバルバドス島とリーワード諸島の島々(セントキッツ、ネヴィス、アンティグア、バーブーダ、モントセラト、アンギラ)が征服されていったとき、イギリス国王ジェームズ1世は、お気に入りの廷臣カーライル伯にこれらカリブ諸島全土の領有権を付与し、バルバドスに総督(がヴァナー)を派遣した。つまりこの地域は、一つの行政区分としてスタートした。だが、総督府が置かれたバルバドス島はウィンドワード諸島に位置しており、他のリーワード諸島の島々とは500キロ近くも離れていたため、植民地行政の中心になるには無理があった。

国王からカーライル卿への勅許状には、「これらの地域の自由土地保有者の同意・裁可・賛同をもって」地域の法を制定するように書かれていたが、結局バルバドス島にすべての島の代表が集まる立法機関は設置されないままであった。一方で各島々では、島内の紛争などを契機に代議制の植民地議会が作られるようになり、そこで各島だけの法律が制定されるようになった。

その後特に軍事防衛をめぐってバルバドスとリーワード諸島の対立は深まる。本国からの軍事支援費用や部隊はバルバドスに送られていたが、イギリス領とフランス領が混在するリーワード諸島の方が常に危険に晒されていた。しかしバルバドスからの部隊派遣は遅れがちだった。リーワード諸島側では、バルバドスは砂糖生産のライバルであるリーワード諸島の破滅を願っていると不信感さえ募った。

1660年代になるとカーライル伯の領有権は廃され、カリブ諸島は王領植民地(ロイヤル・コロニー)となった。王領植民地の政治体制は、国王任命の総督と評議会(カウンシル)、そして代議制の植民地議会(アセンブリ)からなり、白人プランターが評議会評議員と植民地議会議員を独占し、各島で彼らが政治を牛耳った。

イギリスは1671年にはカリブ諸島を、ジャマイカ、バルバドス、リーワード諸島の3つの植民地に分割した。リーワード諸島植民地には、1人の総督が任命され、総督府は最初は英蘭戦争の被害が少なかったネヴィス、1688年以降はアンティグアに置かれた。ただしリーワード諸島総督は、国王から、主だった4島(ネヴィス、アンティグア、モントセラト、セントキッツ)に副総督と評議会を設置する委任も受けていたため、各島はこの後、副総督・評議会および植民地議会を維持した。

一方でリーワード総督はリーワード諸島植民地全体の議会(ジェネラル・アセンブリ)の招集を何度か試みた。しかしジェネラル・アセンブリでは各島の利害が激しく対立した。さらに1706年、ヴァージニア出身の軍人ダニエル・パークがリーワード総督に就任すると、彼はアンティグアのプランターとことごとく対立し、4年後には彼らに殺されてしまう。事件後、殺人者たちは本国で裁かれるも恩赦を受けて放免され、その後リーワード諸島のジェネラル・アセンブリは開催されなくなった。

七年戦争に勝利した1763年、イギリスはウィンドワード諸島に新領土(ドミニカ、セントヴィンセント、グレナダ、トバゴ)を獲得した。これらの島も最初は一人の総督の下に置かれたが、1770年代には島ごとに個別の総督・評議会・植民地議会を持つようになってしまった。

18世紀末になると、本国で高まる奴隷貿易廃止運動に対抗して協力するため、ジェネラル・アセンブリが開催されるようになる。また1833年奴隷制廃止を契機に、バルバドス、グレナダ、セントヴィンセント、トバゴが、それぞれの法律・立法機関は維持しながらも、ウィンドワード植民地として統一され、リーワード諸島もドミニカを加えた形で単一の植民地とされた。しかしこの時には、各島が独自に作り上げてきた政治制度や法律を単一の憲政にまとめることはもはや不可能な状態であり、共通の植民地議会と評議会を設置する試みは挫折した。

19世紀後半にもう一度転機がやってきた。この時、イギリス領カリブのほとんどの島が、植民地創設以来守ってきた各島の自治を自ら放棄して、直轄植民地(クラウン・コロニー)となったのである。その背景には、奴隷解放後に自由黒人やカラード(白人と黒人の混血)の一部が社会的地位を上昇させ、植民地議会に議席を獲得する者も出てきたことがあった(1850年代のジャマイカでは議席の3分の1程度に達した)。これは白人プランターに深刻な不安を与え、彼らはこれまで自分たちの至上の権利とみなしてきた代議制議会を、新興階層に台頭の手段を与える危険な制度と考えるようになる。

まずジャマイカは、1865年10月勃発したモラントベイ暴動を契機に、直轄植民地になることを選んだ。暴動後、ジャマイカ議会は、「強力な政府の存在以外、この島が第2のハイチ(18世紀末、黒人奴隷が蜂起して黒人国家として独立)の状態に陥るのを防止できない」として、自らの組織を廃止し、代わりに国王任命の立法評議会を受け入れた。この後、バルバドス、バハマ諸島を除くすべての地域が、ジャマイカに追随して代議制議会を放棄しクラウン・コロニーとなる。

イギリスはこれを機会に再び連邦制を構想し、1871年リーワード諸島法により、ヴァージン諸島を加えて新リーワード諸島連邦が成立した。一方ウィンドワード諸島では、バルバドスを除いた形で連邦が形成された。リーワード諸島連邦では、連邦の立法評議会が設立され、裁判、警察、刑務所、会計監査、郵便、通貨、検疫などの共通化が進む一方、各島には副総督府(プレジデンシー)が置かれ、また徴税も各島の徴税機構に依存し、独立の連邦財政機構は作られなかった。またウィンドワード諸島連邦では、連邦の立法評議会さえ設置されなかった。

このように19世紀末に成立した両連邦も、連邦としての実を欠いていた上、バルバドス、ジャマイカが別個に存在することを許容してしまった。20世紀の連邦化挫折は、このような過去によってすでに準備されていたともいえる。結局ジャマイカとトリニダード・トバゴは他島に先駆けて1962年に独立、バルバドスとガイアナも66年にそれぞれ単独で独立した。残された小さな島々の多くは、隣接する島や諸島と一緒に独立することになった。

これら一国を構成する複数の島々は、シスターアイランドと呼ばれている。

引用:「カリブ海の旧イギリス領を知るための60章」より

この本を読む前は、私はイギリスが国連での票数を増やすために、自らの植民地をバラバラに独立させたのではないかと疑っていたが、どうやらそうではなかったようだ。

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こうしてイギリスから独立した島々だが、そのほとんどは英連邦にとどまる選択をする。

亡くなったエリザベス女王や現在のチャールズ国王も、何度となくかつてイギリス領だったこれらの島々を回って離反の動きを防いできた。

しかし、ここに来て、カリブ海諸国の間にイギリス離れの動きが顕著になってきているという。

第2次世界大戦後は、イギリスは、イギリス領カリブにまず自治政府を付与し、その後独立を承認していく。この時イギリスの念頭にあったのは単一の西インド連邦としての独立であり、イギリスは、イギリス領カリブ全域に及ぶ機構として、西インド気象庁、西インド諸島大学、連邦最高裁判所、共通通貨(西インドドル)等の設立の支援も行った。西インド連邦は短命に終わったが、これらの機構はそのまま、あるいは形を変えて、現在も残っている。

以上のように、20世紀以降のイギリスは、全体としてはイギリス領カリブの生活水準向上と政治的自立を支援する政策をとり、独立後も友好関係を維持している。独立した12カ国はすべて英連邦に加盟している。またドミニカ(1978年共和国として独立)以外の11カ国はすべてイギリス国王を国家元首とする立憲君主制国家として独立した。

しかし、旧イギリス領カリブの現在の国民の圧倒的多数は奴隷や契約労働者の子孫であり、奴隷制等によって自分たちが被った損失や、この犯罪行為が過去の問題として看過されてきたことに対しては、激しい不満や怒りがある。それは時には社会主義政権の成立(グレナダのモリス・ビショップ政権、ガイアナのフォーブス・バーナム政権)や産業国有化のような社会主義的政策の支持につながる。

旧植民地の側から、過去に対する謝罪や賠償を求める動きは始まった。1990年ナイジェリアのラゴスで、同国の実業家で政治家のモシュード・アビオラが、アフリカ債務問題解決への一案として、奴隷貿易・奴隷制などの歴史的犯罪に対するアフリカへの償いを行うことを提唱する。イギリス領カリブでは、ジャマイカの政治家で汎アフリカ主義者のダドリ・トムソンがこの運動に参加し、ジャマイカ黒人への賠償を求めた。イギリスでも、1993年には、ガイアナ出身でトテナム選出の労働党下院議員バーニー・グラントが、アフリカ賠償運動イギリス支部を設立し、イギリス政府や他の欧米の政府に、アフリカ人の奴隷化に対する謝罪やアフリカ人民の威信を回復するための正確な歴史叙述を求めた。

1997年は、EUの「ヨーロッパ人種差別反対年」であった。また同年ユネスコは、8月23日を「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー」と定めた。ユネスコは、すでに1978〜79年にセネガルのゴレ島とガーナ沿岸の城塞群を奴隷貿易に関わる世界文化遺産に指定していたが、97年にはこれらアフリカ沿岸の奴隷貿易拠点とカリブの砂糖プランテーションおよびヨーロッパの奴隷貿易港をつなぐ「奴隷の道程プロジェクト」も企画し、あわせて「沈黙を破る。大西洋奴隷貿易」と題した教育プロジェクトも行い、世界各地から参加校を募った。これらの動きは、2007年にイギリス奴隷貿易廃止200周年を迎えることに対する準備であった。

この頃から、奴隷貿易・奴隷制に関与していた国家の政府や団体、貿易商の後継企業等からの謝罪も活発になる。1999年にはリヴァプール市は市庁舎において公式に奴隷貿易関与について謝罪し、以後毎年8月23日に記念式典を開催することを決定した。奴隷貿易商ラセルズ家(ヘアウッド伯爵家)のヨークシャーにあるカントリー・ハウス、ヘアウッド・ハウスを管理する団体も、1998年にヨーク大学歴史学教授S・D・スミスに、ラセルズ家の事業活動を含む実証研究を依頼した。現在では同家と奴隷貿易の関わりはBBCの番組などで一般に紹介されている。200軒余りのカントリー・ハウスを管理するナショナル・トラストも、これらのカントリー・ハウスを建設した資本がしばしば奴隷貿易・奴隷制で蓄富されたものであったことを、積極的に認め、展示で解説している。

キリスト教会も、奴隷制時代には奴隷制を肯定するだけでなく、奴隷制プランテーションを所有・投資してきたが、2006年には英独仏蘭、スペイン、ポルトガルのキリスト教会の代表がジンバブエに旅し、ムガベ政権に公的な謝罪を行った。同年2月には、イギリス国内でイギリス国教会が奴隷制から利益を得たことを認め、謝罪した。アメリカの大手保険会社エトナ、J・P・スコットランドなども、前身企業の関与について調査し、調査結果の公表や謝罪に踏み切っている。2007年奴隷貿易廃止200周年記念事業においては、イギリス首相トニー・ブレアは3月25日、ガーナの奴隷貿易拠点エルミナ・キャスルに特に言及した演説を行い、「この非人道的行為へのわが国民の果たした役割への深い悲しみと悔恨」を表現した。

これらの動きの中で、イギリス王室も免罪されなくなりつつある。1999年、エリザベス2世は、南アフリカ共和国訪問中に、白人・黒人両者を含むボーア戦争犠牲者に対する哀悼の意を表明した。この時先住民のコサ族の首長から、南アフリカ征服を謝罪するよう求められたが、女王は謝罪しなかった。イギリス王室は2007年の一連の記念事業の間にも奴隷貿易・奴隷制について謝罪せず、今日に至るまで哀悼の意は表しても、謝罪はしていない。しかし、2022年にウェセックス伯爵(現ケンブリッジ公爵、エリザベス2世の三男)夫妻がセントルシアを訪問したときや、ウィリアム皇太子(当時はケンブリッジ公爵)夫妻がジャマイカを訪問した際、現地では歓迎の一方で謝罪と賠償を強く求める動きがあった。

このような中、2021年バルバドスが、イギリス国王を国家元首とする君主制を廃止、共和国となったことは、イギリス社会の中で一つのショックとして受け止められている。バルバドスの選択の背景には、コロナ禍による不満の蓄積やブラック・ライブス・マター運動がより直接に関係していると思われるが、しかし奴隷制の過去に関して謝罪を回避し続けるイギリス王室に対する不満も強いという受け止めもある。現在イギリス領カリブで君主制を維持しているのは8カ国であるが、そのうち6カ国が共和国化を計画しているという観測もある。

これらの国々は共和国になっても英連邦を離脱するわけではなく、イギリスとの関係は大きく変化しない。また国民の共和国移行への支持が非常に高いわけではなく、議会では共和国派が多数でも、国民投票では君主制支持派が上回ることも過去にあった(2009年セントヴィンセント・グレナディーン諸島)。しかし、エリザベス2世崩御とチャールズ3世の即位が、王室離れを加速させることもありうる。イギリスと旧イギリス領カリブの関係は、今後も過去の問題についての微妙なバランスの上で、緊張をはらみながら続いていかざるを得ない。

引用:「カリブ海の旧イギリス領を知るための60章」より

200年前に廃止された奴隷制について、今日このような謝罪や賠償を求める動きが表面化していて、実際にヨーロッパの政府や企業が謝罪していたというのは驚きである。

正直、全く知らなかった。

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」は18世紀のカリブ海を舞台にした物語だ。

撮影は今回私も訪れるセントヴィンセント島などで行われた。

キャプテン・ジャック・スパロウが活躍した18世紀のカリブ海は、まさに力が正義の無法地帯だったことがその歴史を知りようやく理解できた。

植民地を武力で奪い取ることが当たり前だった時代の奴隷貿易の問題が今になって国際問題に発展していることを知り、私が真っ先に思い起こしたのは、韓国での元慰安婦や徴用工による訴訟である。

日本政府は「解決済み」として木で鼻をくくったような対応に終始しているが、奴隷制をめぐる世界の潮流を見ると、日本側の主張は傲慢で時代遅れに映るに違いない。

賠償問題は過去の政府間合意で解決していたとしても、日本政府や企業が謝罪しようとしない姿勢は客観的に見て国際的な理解は得られないだろう。

少なくとも、日本人自身が真実をしっかりと調べて、歴史に向き合う姿勢を示すことが求められている気がしてならない。

カリブの歴史を調べてみると、自分でも驚くほど知らないことばかり、それだけ日本では報道される機会もなく、関心を持たれたこともなかったのだろう。

この本を読んでみて、自分が知らない欧米の歴史をもっともっと知らなければならないと強く感じた。

カリブ海の歴史はそのための格好の教材となりそうである。

<吉祥寺残日録>エリザベス女王の国葬と共に「大英帝国=植民地主義」の時代が終わる #220920

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