<きちたび>タイの旅2019🇹🇭 水上バス【チャオプラヤーエクスプレス】で王様が暮らすドュシタニ地区へ

🇹🇭タイ/バンコク 2019年12月28日

私たちは気楽に「タイ」と呼んでいますが、正式には「タイ王国」、国王を元首とする立憲君主国家です。

今でも不敬罪が存在するこのタイでは、地名や有名な観光スポットも王室との関係が深いのです。

タイの歴史を調べながら、バンコクを走る水上バス「チャオプラヤー・エクスプレス」に乗って、王様たちが暮らすドゥシット地区に行ってみました。

バンコクの長〜い正式名称と現タイ王室の始祖ラーマ1世

タイの首都バンコク。

首都圏全体の人口は1600万人を超え、今や世界有数の巨大都市となりました。

私たち外国人はバンコクと呼んでいる町を、タイの人たちは「クルンテープ(天使の都)」と呼ぶことを知ったのは、1980年代、バンコク特派員として赴任した時です。

「クルンテープ」というのは、この地に初めて都を開いたラーマ1世が名付けた町名の一部にすぎません。

正式名称は、「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」という壮大な名前です。

その意味は、「インドラ神がヴィシュヌカルマ神に命じてお作りになった、神が権化としてお住みになる、多くの大宮殿を持ち、九宝のように楽しい王の都、最高・偉大な地、インドラ神の戦争のない平和な、インドラ神の不滅の宝石のような、偉大な天使の都」ということのようで、こうしてみるとインド文化の影響が想像以上に強かったことがわかります。

この名前をつけたラーマ1世は、現在のタイ王家であるチャクリー王朝の初代国王です。

タイでは、どこに行っても国王や王族の肖像画を目にします。

亡くなった先代のプミポン国王に比べると、今のワチラーロンコーン国王は人望がないと皇太子時代は心配されていましたが、どうして立派にラーマ10世としてお務めをされていらっしゃるようです。

タイ国民から絶大な親愛を集める国王一家は今どこに住んでいるのか、チャオプラヤー川を走る水上バスに乗って訪ねてみることにしました。

【チャオプラヤー・エクスプレス】に乗る① 15バーツで乗れる市民の足

バンコクを流れるチャオプラヤー川。

私たちが暮らしていた30年前に比べると、超高層のホテルやマンションが随分増えました。

ちなみに、チャオプラヤーとはタイにおける官位の名前だそうで、初代国王ラーマ1世はチャオプラヤー・チャクリーと呼ばれました。

この川を上り下りする便利な水上バスが「チャオプラヤー・エクスプレス」です。

世界最高峰のホテル「マンダリン・オリエンタル・バンコク」脇の船着場「ORIENTAL PIER」から水上バスに乗りこむことにしました。

水上バスの船着場には番号が振られていて、ここの番号はN1です。

ちょうど目の前でボートが行ってしまいました。

「土曜日なので次は30分後だ」とタイ人のおじさんが教えてくれます。

仕方がないので、川を行き交う船を眺めながら時間を潰します。

それにしても、すごい数の実に様々な種類のボートが走っています。

こちらは超高速で川を疾走する水上タクシー。

これはホテル客を対岸のレストランに運ぶオリエンタルホテルの専用船。

そしてこちらは、川に浮いたゴミを回収する清掃ボートです。

チャオプラヤー川は大切な観光資源ですからねえ・・・。

船着場には、乗船の注意点がタイ語で書かれた看板が設置されていました。

これだけの船が走っていると、事故も起きるかもしれません。

20分ほど待つと水上バスがやってきて、無事に乗り込むことができました。

座席はもう満席です。

実は私たちが乗船した乗り場の一つ手前が、BTSスカイトレインの最寄の船着場なので、ここから乗ってくる観光客が多いのです。

船着場での停船時間をなるべく短くするためでしょう。

乗船前には運賃は払いません。

ボートに乗った後で、船内にいる車掌さんが回ってきますので、そこで現金で払います。

運賃は一律で15バーツ(約54円)。

ちゃんと払うとこんな切符がもらえますが、降りる際にこの切符をチェックされるわけではありません。

船が混雑して身動きできなくなると、車掌さんが自由に船内を回れなくなり、代わりに甲高い叫び声が船内に響きます。

「運賃を払って!」と叫んでいるのでしょう。

でも私が見る限り、積極的に自分から運賃を払おうとする人はおらず、無賃乗船している客が結構いるように思えました。

【チャオプラヤー・エクスプレス】に乗る② 変わったもの、変わらないもの

船の端に立ったまま、川岸の景色を眺めます。

「ロイヤル・オーキッド・シェラトン」。

30年前、私が住んでいた頃できた当時最新鋭の高級ホテルでした。

その隣には、「リバー・シティー」。

美術品や骨董品などを豊富に揃えたショッピングセンターです。

昔ながらの、こんな建物も残っていました。

30年前は川沿いにはこんな建物ばかりで、生活感に満ち満ちていた思い出があるので、こうした古い建物を見るとなんだか安心します。

洪水も多い川岸は、もともと不法占拠者が住む場所だったのです。

こうした古いビルも30年前によく見ました。

今にも崩れそうなテラス席に腰かけて、川を眺めながら食事をした記憶があります。

あれは一体、どこだったんだろう?

思い出せません。

そうかと思えば、こんな高層マンションもいくつも建っています。

こうしたビルは、30年前にはなかったはずです。

船着場が近づくと、若い車掌が身軽に岸に飛び移り・・・

素早くロープを係船柱に引っ掛けると・・・

運転手はギアをバックに入れて、船を岸に近づけます。

そして、船が接岸しロープがピンと張られた瞬間に、待っていた乗客は素早く船に乗り移ります。

するとロープを解いてすぐに出港。

その間、わずか20秒の早業でした。

軽業師のような一連の動作を見ているだけで、楽しくなってきます。

【チャオプラヤー・エクスプレス】に乗る③ ワット・アルンとトンブリー王朝

水上バスは、「暁の寺」として知られる人気の観光地「ワット・アルン」に近づいていきます。

三島由紀夫の小説「暁の寺」の舞台となったことでも知られ、日本人にもとても人気があるお寺です。

その特徴はトウモロコシのような形をしたこの「大仏塔」。

高さは75m。

古代インドの世界観の中心に位置した「須弥山」を表しているとされます。

ワット・アルンは王宮など主要施設の対岸であるチャオプラヤー川の左岸に建っています。

アユタヤ王朝が滅びた後、ワット・アルンに近い左岸に都が置かれたことがあります。

タークシンが興したトンブリー王朝です。

王位に就いたタークシンは、戦争によって失った領土を取り返したほか、アユタヤ朝時代の文献の収集・整理を行ったり、ワット・アルンの修復にあたるなど文化面でも成果をあげます。

しかし、15年間王座にあったタークシンは、精神錯乱を起こして民衆の支持を失い、部下であったチャオプラヤー・チャクリー(のちのラーマ1世)に処刑されたとされています。

タークシンの死後、ラーマ1世は対岸のバンコクに都を移し、現在のチャクリー王朝を立ち上げました。1782年のことです。

ワット・アルンの対岸には、現在の王宮と王室のお寺である「ワット・プラケオ」のきらびやかな屋根が船からも見えます。

タイの正史では、精神を病み暴政を行ったために処刑されたとされているタークシンですが、この正史はラーマ1世の流れを汲む現王室によって書かれた歴史。

タークシンとラーマ1世の真の関係は、どうだったのか?

よその国のことではありますが、私にはちょっと気になるところです。

【チャオプラヤー・エクスプレス】に乗る④ 王様が暮らすドゥシット地区へ

王宮近くの船着場で観光客たちがどっと船降りたので、水上バスはがらがらになりました。

王宮といえば、私にとって忘れられない事件があります。

それは、タイにおける王様の力をまざまざと見せつけた事件でした。

1992年、バンコク特派員を終えて帰国していた私は、至急バンコクに出張するように命じられました。

その時、バンコクで起きたのが、のちに言う所の「暗黒の5月事件」です。

きっかけは、その年に起きた軍事クーデター。当時のタイでは、クーデターは日常茶飯事でした。

これに反発したデモ隊が道路を占拠したのに対し、軍が群衆に発砲し300人以上の命が失われたのです。

軍が発砲したのは王宮のすぐ北側の道路。その時、私はその現場にいました。

道路を占拠していた群衆に軍が一斉射撃を始め、逃げ惑う人々と一緒に私もカメラを回しながら逃げました。

興奮した群衆は情報省など周囲の建物に放火し、窓ガラスを叩き割りました。

何が起きたのか、どれだけの犠牲者が出たのか、夜が明けるまでまったくわからない混乱状態でした。

出口の見えない緊迫した情勢が一転したのは、当時のプミポン国王が軍とデモ隊の指導者を王宮に呼び、事態を収束させるよう指示したことからでした。

軍もデモ隊も矛を収め、バンコクの危機は国王の鶴の一声で一夜にしてあっけなく終わったのです。

それは外国人にはなかなか理解できない、タイ国王の持つ絶大な力を見た瞬間でした。

そんなことを思い出しているうちに、水上バスは目的地「THEWES PIER」に到着しました。

船着場の番号はN15です。

船を待つ女性たちが盛んにパンくずを川に投げ込んでいました。

川面ではものすごい数の魚たちが、パンくずに群がります。

タイの人たちにとってこうした行為は現世で功徳を積むための行為なのかもしれません。

そして・・・

その傍らには、パンをちぎってせっせと魚の餌を作る女性の姿も・・・。

仏教の国は、同時に商魂たくましい国でもあるのです。

ドゥシット地区を歩く① 【アナンタ・サマーコム宮殿】はなぜ洋風なのか?

船着場の外でトゥクトゥクを拾って、王室関連施設があるドゥシット地区に向かいます。

広々とした通りの突き当たりに、白い洋風の建築物が見えてきました。

「アナンタ・サマーコム宮殿」。

1915年ラーマ6世の時代に完成した大宮殿です。

一般客は中に入ることはできず、門に立っている衛兵を撮影しようと思ったら、撮影禁止の張り紙がしてあったので、近くから撮影することを断念しました。

この時代、タイの周辺では、インドシナはフランス、マレーやビルマはイギリスの植民地になっていました。

たまたまタイは、イギリスとフランスの勢力圏の境界線だったため独立を保っていて、迎賓と国家行事のためにこの西洋風の大宮殿を建てたのです。

タイは、日本と同じく植民地時代に独立を保った数少ないアジアの国ですが、その独立は、列強のパワーバランスと巧みな外交によって奇跡的に実現したものでした。

1932年に絶対王政に反対する立憲革命が起き、タイが立憲君主制に移行すると、この宮殿は国会議事堂として使われるようになりました。

太平洋戦争が勃発すると、日本軍がタイに進駐します。

この時もタイは、表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦い、日本軍の速やかな進軍を助ける一方で、連合国とも連絡を取る二重外交を展開しました。

こうした綱渡りの外交努力によって、タイは戦後も敵対国とはみなされずいち早く国際社会に復帰したのです。

ドゥシット地区を歩く② 【ウィマーンメーク宮殿】は現在改修工事中

私がこのドゥシット地区を訪れたかったのは、アナンタ・サマーコム宮殿の裏側にあるとされるもう一つの宮殿「ウィマーンメーク宮殿」を見物したかったからでした。

ウィマーンメーク宮殿は、チュラーロンコーン大王と呼ばれるラーマ5世が実際に生活していた宮殿で、博物館として公開されていると聞いていたのですが、行ってみると工事用の塀に覆われて中に入ることはできませんでした。

警備の人に聞くと、現在改修工事が行われているそうです。

宮殿の東側には、「ドゥシット動物園」がありました。

2018年に閉園し、80年の歴史に幕を下ろしたそうで、外から見てもかなりうらぶれた印象になっていました。

ただ、この動物園の東側に現在の先代のラーマ9世が暮らした「チットラダー宮殿」があることを帰国後知りました。

知っていれば、外側の塀だけでも見てみたかったところです。

ワチラーロンコーン国王は今どこに住んでいるのか?

それでは、現在のラーマ10世はどこに住んでいるのか?

正確なことはわかりませんが、帰国後調べたところでは、皇太子時代から住んでいる「アンホーン・サザン・レジデンシャル・ホール」という所にそのまま暮らしていると書いてありました。

Googleマップで見てみると、それは最初に見た旧国会議事堂、「アナンタ・サマーコム宮殿」の敷地の奥にあるようです。

だからか・・・?

この宮殿周辺が2017年以降、一般の観光客の立ち入りが禁止されたのは、国王が住んでいるからかもしれません。

現在工事中だという「ウィンマーンメーク宮殿」も、ひょっとすると新国王が暮らすために改修工事を行っているのではないか、私の勝手な妄想がどんどん膨らんできました。

タイを知るためには、国王を知る必要があります。

ドゥシット地区には、私が知らないタイがまだまだ眠っているようです。

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