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<きちたび>兵庫県の旅2024🇯🇵 忠臣蔵の街・播州赤穂では大石内蔵助はじめ四十七士が神様になっていた

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🇯🇵 兵庫県/赤穂市 2024年5月10日

兵庫県赤穂市といえば、忠臣蔵の街。

JR播州赤穂駅を降りれば、駅前は忠臣蔵で埋め尽くされる。

「ようこそ忠臣蔵のふるさと 播州赤穂へ」

昭和の時代には、毎年12月になるとテレビをつければドラマでもバラエティーでも忠臣蔵の話が出て、特別意識することもなく四十七士の物語が脳裏に焼き付けられたものだ。

討ち入りの日、雪が舞う中で指揮をとる大石内蔵助。

我々の世代にはすっかり刷り込まれたあのイメージは実際の史実とは微妙に異なり、かなりの演出が施されているようだ。

とはいえ、天下泰平の元禄時代に突如として起きた時代錯誤の仇討ち事件が当時の江戸庶民にものすごいインパクトを与えたことは間違いない。

その物語は浄瑠璃となり歌舞伎となって、さまざまな表現方法で現在まで語り継がれたのだ。

街の英雄である大石内蔵助の銅像は、市内の至る所に立っていた。

私が宿泊した赤穂温泉近くの景勝地・御崎公園には旅支度を整えた大石内蔵助。

大石邸跡に建立された「大石神社」には、祈大願成就という文字をバックに剣を手に毅然とした姿の大石内蔵助がいた。

そうなのだ。

私は知らなかったが、大石内蔵助は赤穂の街では神様になっていたのである。

こちらが赤穂大石神社の参道だ。

参道の両脇にはずらりと四十七士の石像が並んでいる。

中国ではよくこうした光景を目撃したが、日本ではちょっと珍しいかもしれない。

ただ私が印象的だったのは、この神社が建てられたのが事件のあった江戸時代ではなく、大正元年だということである。

案内板にこの神社の由来が次のように記されていた。

『大石神社は明治元年、明治天皇の東京行幸に際し、泉岳寺の義士墓前に宣旨並びに金幣を賜ったのを契機に神社奉斎の議が起こり明治33年神社創立が公許され、大正元年11月3日義士を崇敬追慕する方々の奉賛により御鎮座となった。ご祭神四十七士義士が1年10ヶ月の永い間艱難辛苦の末見事主君の仇を討った事により大願成就、願望成就の神として全国よりお参りを頂いている。』

つまり、明治になって俄かに神社を建立する話が持ち上がっていることが気になった。

日清日露の戦争に突き進む明治政府が、忠義のために自分の命を捨てることを美とみなす意識を庶民に植え付ける目的があったのではと疑いの気持ちが湧いてきたのだ。

大石神社の参道には日露戦争の英雄・東郷平八郎元帥の筆による柱石も立っていた。

統合は赤穂四十七士を讃えて「忠魂義膽(ちゅうこんぎたん)」と揮毫したが、これは「忠義を重んじ守る心」を意味する四字熟語である。

明治政府は忠臣蔵の物語を国威発揚に利用したのか?

正直、その真偽はわからない。

ただ、国家の意志が働いているにしては神社の規模はさほど大きくはなく、右翼は神社建立に反対したという説もある。

あくまで赤穂浪士にシンパシーを抱く有志たちが建てたということかもしれないが、どうも個人的には赤穂浪士を明治になってから神として祀ったことに違和感を覚えた。

赤穂大石神社の境内に入ってみる。

参道を進んだ先にある「神門」。

その両脇に、大石内蔵助良雄(よしたか)とその息子・大石主税(ちから)の像とともに「大願成就」の幟がはためいていた。

この神門に安置されていたのは、怖い仁王像ではなく、ほのぼのとした大黒さまと恵比寿さま。

どうもコンセプトが見えない。

明らかに国家の意志により建立された神社ではなさそうだ。

大黒さまのお腹には多くの参拝者に撫でられたとみられる跡がはっきりと見てとれる。

そうかと思えば、唐突に「さざれ石」が置かれていたりする。

「君が代」を意識して誰かが神社に奉納したものらしい。

さざれ石の隣には、藩主浅野家の大坂蔵屋敷に使われていた舟石が置かれ、その隣には地元のロータリークラブの20周年に合わせて田中角栄が揮毫した「義士発祥之地」という石碑が並んでいたりする。

どうも一貫性が感じられない神社だ。

忠臣蔵という日本人に広く根づいた物語がベースにあるだけに、この神社に対する想いが人それぞれ大きく異なっていることを感じる。

そしてこちらが大石神社の本殿。

まあ、普通のお社に見える。

ご祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀してある。

引用:赤穂大石神社公式サイト

祀られているのは、大石をはじめとする討ち入りに参加した四十七士に加え、事件前に親の反対にあい自ら命を絶った萱野三平、そして吉良上野介を切りつけて切腹した浅野内匠頭をはじめ赤穂藩藩主だった浅野家の3代と事件後赤穂藩の藩主となった森家7代の城主、さらに森家初代当主の兄に当たる森蘭丸まで合祀され、有名人オールキャストの布陣である。

賽銭箱の隣にも大石親子の像が置かれ、大願成就を願いお参りに来る参拝客に勇気を与えている。

私には神にお願いするほどの大願もないが、とりあえず世界平和を祈ってお参りした。

これぞ人類究極の大願であるが、果たして私の願いは成就するのだろうか?

本殿の左側に立つこちらの瓦葺きの建物は「義士宝物殿」。

忠臣蔵にまつわる品々が納められた資料館だが、見学するには入館料500円が必要だ。

『この建物は、大正の初め湊川神社の宝物館として建設されたもので、かつては国宝の法華経奥書を始め、大楠公由縁りの宝物が展観され、昭和20年の神戸大空襲に遭っても唯一戦災を免れた、由緒深い建物である。

先に神門がうつされ、其後またこの建物が移築され、楠公さんと大石さんの二大忠臣義士を結ぶ絆は、いよいよ強いものがある。』

どういう経緯で湊川神社から移されることになったのか、その理由は記されていないが、案内板にはこの建物の由来がこう書かれていた。

明治から昭和初期にかけて大いに奨励された忠義の精神にかなえば何でもありということだろう。

こちらは、大石内蔵助が身につけていたとされる日本刀。

どちらも岡山県の備前長船の刀である。

こちらは、大石内蔵助が討ち入りの際に使ったものと伝わる采配や呼子鳥笛。

さらに、大石自らがデザインし酒席の戒め5ヶ条が記された「掟の盃」も展示されている。

さらに、堀部安兵衛が討ち入りの際に纏った鎖頭巾と鎖襦袢も。

堀部安兵衛は四十七士随一の剣客であり、高田馬場の決闘で名を馳せた。

私の子供の頃には講談などでも盛んに伝えられたヒーローだったが、正直それがどんな決闘だったのか私は知らない。

宝物殿には忠臣蔵ゆかりの品のほか、映画やドラマで大石内蔵助を演じた歴代の俳優たちが祈願に訪れた際の写真が飾られていた。

高橋英樹、里見浩太朗、市川染五郎、中井貴一、中村梅雀などなど。

いかに多くの作品が制作されたかが写真の数からもうかがえる。

でも最近は、忠臣蔵がメディアに取り上げられる機会もグッと減っているので、今の若い人たちは果たして忠臣蔵を知っているのだろうか?

宝物館の入場料を払うと、かつて大石内蔵助が住んでいた家老屋敷の庭を見学することができる。

池のあるなかなか立派な庭園である。

この庭にはいくつかの見せ物がある。

その一つがこちらのクスノキの大木。

ご神木の「大楠」と呼ばれ、樹齢500年と伝わるから、討ち入り事件があった時、このクスノキはすでに大石邸の庭で育っていたことになる。

もう一つの売り物はこちらの「子宝陰陽石」。

『お互いに向かい合う陽石(男性)と陰石(女性)その真ん中に位置するのが子石であり、これはそれぞれ石の表面を撫で夫婦和合、子孫繁栄を祈る古くからの信仰である』

大石内蔵助が生きた時代にこの石がすでにあったのかについては説明がない。

大石神社の何でもありな有り様を見た後だけに、どうも後世の人が客集めのために置いたようにも思えるのだが・・・。

大石神社を出て、歩いてすぐの場所にある赤穂城の本丸跡にも行ってみた。

浅野内匠頭が松の廊下で刃傷におよぶまでは、大石たちはこの城で穏やかな日々を送っていた。

江戸城の事件がなければ、赤穂藩の田舎侍たちが歴史に名を残すこともなかっただろう。

誠に人の運命というのはわからないものである。

赤穂城は13年の歳月をかけて海辺に築かれた海岸平城で、明治に取り壊されたが、平成8年に文化庁の地域中核史跡等整備特別事業の第1号として本丸の門などが復元されたという。

これもやはり忠臣蔵という国民的な物語を持っているおかげなのだろう。

忠臣蔵が今も街づくりの中心にある赤穂では、主君の仇を討った義士たちは文字通り神様なのである。

両国

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