<きちたび>マレーシアの旅2025🇲🇾 真珠湾攻撃より先に太平洋戦争はここで始まった!マレー作戦開戦の地「コタバル海岸」を訪ねる

🇲🇾 マレーシア/コタバル 2025年2月15日

マレーシアの首都クアラルンプールを飛び立って、マレー半島東海岸北部の主要都市コタバルが眼下に見えたのは午前9時半ごろだった。

濁った川のほとりに町が広がっている。

この川はマレーシア北東部の主要河川「ケランタン川」、ここから北に行くとすぐにタイとの国境となる。

華僑の存在感が高いマレーシアの中にあって、ここコタバルはおよそ50万人の住民の大半がマレー系で、イスラム文化が比較的厳格に守られている。

街の中心部を通り過ぎ、飛行機は海岸線に出た。

川が複雑に入り組んで南シナ海に流れ込むこの海岸線に、1941年12月8日未明、日本軍が大挙して上陸した。

世に言う「マレー作戦」の始まりである。

そして、コタバル上陸作戦はあの真珠湾攻撃よりも1時間前に実行されており、真の意味での太平洋戦争開戦の地はここマレーシアのコタバル海岸なのである。

今年は戦後80年、私は私が詳しく知らない太平洋戦争の始まりを学ぶためにこの地にやってきた。

私が乗ったエアアジア機は、この海岸線に近いコタバル空港に降り立った。

今では現代的な空港に改修されているものの、開戦当時、同じ場所にイギリス軍が拠点として使用していたコタバル飛行場があり、上陸作戦を敢行した日本軍の最初の目標はこの飛行場を奪い取ることにあった。

コタバル空港に到着すると私はまずタクシーを捕まえて、あらかじめ調べていた場所に私を連れて行ってくれと依頼した。

一つは上陸地点の海岸に建てられた「太平洋戦争 日本軍 上陸地点の記念碑」、そしてもう一つはイギリス軍が海岸線防衛のために築いた「トーチカ」である。

しかし、タクシーの運転手たちは私が示す地図や写真を見ても、なかなかすぐには場所がわからない様子。

何人かの仲間が集まり、あそこじゃないかなどと話をしている。

最終的には、穏やかそうな年配のドライバーさんが私を案内してくれることになった。

2カ所を回って、市内にある戦争博物館で降ろしてもらう約束で100リンギット、およそ3400円で交渉成立だ。

タクシーは狭い田舎道をぐねぐねと走り、何本もの川を渡った。

これは地元の地理に詳しい運転手でなければ、なかなか辿り着けない場所のようだ。

そして、誰もいない海岸にひっそりと立つこの記念碑を見つけてくれた。

コタバル空港から北へ2キロほど行ったこの辺りの海岸は「Pantai Sabak サバクビーチ」と呼ばれ、中でもこの浜は「パックアマット海岸」というらしい。

最初は波打ち際に建立されたが、海岸の侵食で流れてしまい、今では水際から少し奥に入ったヤシ林の砂地に再建されていた。

石碑に刻まれた文字は現地で使われているマレー語。

翻訳してみると「LAMAN PENDARATAN」は「上陸の記録」というような意味、「JEPUN」は「日本」、そしてこの場所の地名と上陸の日付が書かれている。

注目すべきはその日付。

「1941年12月7日 夜11時45分」と読める。

つまり、太平洋戦争が始まったとされる真珠湾攻撃の12月8日ではなく、その前日の日付が刻まれていたのだ。

記念碑の近くでは牛がのんびり草をはんでいた。

誰もいない。

波の音以外、何も聞こえない。

静かな場所だ。

砂浜まで歩く。

時刻は午前10時を少し回ったところ。

ちょうど太陽が波打ち際の真上にあるということは、このビーチが北東に向いていることを意味する。

北の方向を見ると、少し岬のようになっていて、その先は河口になっている。

マレー半島に上陸した日本軍の目標は、イギリス軍のアジアでの最重要拠点となっていたシンガポール要塞の攻略だった。

しかし難攻不落と言われたシンガポールを直接攻めることは避け、わざわざ700キロ以上離れたコタバルを上陸地点に選んだのは、守りが脆弱な要塞の背後を突く作戦をとったからだという。

太平洋戦争の幕開けとなった「マレー作戦」とは、どんな戦いだったのか?

旅行前に図書館で借りた太平洋戦争研究会編『太平洋戦争 16の大決戦』からの引用。

イギリス植民地マレーは北方でタイと国境を接している。日本軍は直接イギリス領である地点とタイ領土である地点に上陸した。イギリス領での上陸地点がコタバルだった。コタバルにはイギリス軍の空軍基地があったので、まずそこを押さえようとしたのだ。それが佗美(たくみ)支隊のコタバル上陸作戦である。

佗美支隊は第18師団所属の歩兵第56連隊(福岡県久留米の郷土部隊。約2900人)と各種の専門部隊で編成され、総兵力約5300人で、佗美浩少将が指揮した。彼らはそれまでは中国で戦っていたのだが、米英との開戦間近に中国の海南島に集結して、そこの三亜港から海軍の護衛艦隊(小沢治三郎中将指揮の南遣艦隊)に守られてコタバルまでやってきた。海南島を日本が占領したのは日中戦争の初期で(1939年2月)、太平洋戦争が始まる2年10ヶ月前のことである。いずれはマレー作戦のようなこともあろうかと日本海軍が強く主張して占領したのだ。

上陸は1941年12月8日未明におこなわれた。風は強かったが月明かりだった。一人当たり約40キロの荷物を背にした兵隊たちは上陸用舟艇に乗り移り、海岸をめざした。第一陣の上陸部隊の「上陸成功」を伝える「セコセコセコ」の暗号無線が佗美支隊長のもとに届いたのは午前1時30分だった。太平洋戦争で“敵地”から最初に届いた連絡だった。すでに上陸部隊はイギリス軍と海岸で撃ち合っていた。

すなわち、上陸成功の通信時刻をみても、真珠湾の「トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功せり)」より、1時間55分も早かった。ただし、真珠湾に接近した特殊潜航艇の突入はこれよりも早かったのだが、連絡方法がなかったのではっきりした時刻はわからない。いずれにしても、パールハーバーとコタバルで、太平洋戦争の幕が切って落とされた。

コタバル上陸部隊はイギリス軍のトーチカからの弾雨の中をかなり苦戦しながら突撃した。イギリス軍も必死になって抵抗したからだ。日本軍は天気が豪雨に急変したにもかかわらず突撃を繰り返し、12月8日午後9時30分にはコタバル飛行場に進入した。イギリス軍は2時間ほど抗戦し、施設に火を放って退却した。9日午前2時ごろ、飛行場を完全占領。この後コタバル市に進撃し、9日午後2時に完全占領した。佗美支隊の戦死者は320人、戦傷者は538人という。

壮絶な上陸作戦の様子は、コタバル市内にある「戦争博物館」の入り口に描かれている。

不意をつかれた真珠湾と違い、イギリス軍は日本軍上陸の可能性を察知して、海岸線には鉄条網を張り巡らし、複数のトーチカを築いて待ち構えていた。

しかし当時の日本兵はすでに長年中国大陸各地で実戦を経験した百戦錬磨の猛者たちであり、対するイギリス軍の主力は植民地だったインドから動員された実戦経験のない兵士たちだった。

こうなるともはや、数や装備の優劣は関係ない。

撃っても撃っても攻め込んでくる日本兵を前に、インド兵は逃げ腰となり、イギリス軍が準備してきた防衛ラインはあっけなく突破されてしまう。

海岸線の防御線を突破した日本軍は、湿地の多いデルタ地帯を内陸に向かう。

幾重にも続く橋のない河川を乗り越え、2キロ先の飛行場を奪うと、休む暇もなく日本軍はさらに10キロほど離れたコタバル市内になだれ込み、翌9日には街を一気に占拠した。

その後コタバルに上陸した日本軍は、マレー半島の東岸に沿って南下し、ものすごいスピードでシンガポールを目指すことになる。

日本軍の上陸地点を確認した私は、イギリス軍が築いた防御陣地「トーチカ」の一部がまだ残っているとの情報をもとに、それを探しに行った。

運転手さんにGoogleマップを示すが、行ったことはもちろん聞いたこともないらしく、私のスマホだけを頼りにとりあえずそちらの方向に向かう。

途中、何本もの川を渡る。

当時は今よりも橋の数も少なく、しかも退却するイギリス軍が片っ端から破壊したものの、日本軍の工兵部隊が活躍し、仮設の橋を素早く作って戦車やトラックなどの車両を通したという。

地図が示す場所に近づいたところで、運転手さんは近所の人から情報を集めてくれた。

地元のおじさんたちが屯している食堂では、知っている人がいるみたいで、何人かが「あっちだ」というように手で道順を運転手さんに教えているように見える。

しかし、観光地でもない「トーチカ」を見つけるのは容易ではない。

ヤシの林を抜け、再び海岸線に近づいていく。

この辺りは「クンダ海岸」と呼ばれているらしい。

Googleマップが示す場所に行っても、粗末な住宅がポツポツあるだけでトーチカらしきものが見つからない。

その場所を通り過ぎ、何かのイベントで集まっていた住民に聞いて、ようやくトーチカが今はサッカークラブの敷地内にあることがわかった。

白い塀に囲まれたサッカークラブの敷地を覗いてみると、確かにトーチカらしき建物が残っていた。

あいにく、サッカークラブの入り口は閉まっていて近づくことはできなかったけれど、これは明らかに戦争中に作られたトーチカであり、数人の兵士が内部にこもり、わずかに開いた銃眼から攻めてくる敵を狙い撃つという防御陣地だ。

もともとはコンクリート剥き出しの無骨な建物だったはずだが、今は周囲の建物に合わせて白色に塗られていて、サッカーチームの更衣室に使われているらしい。

実はこのトーチカ、コタバル市内にある「戦争博物館」の庭にも残っていた。

こちらはレプリカで後から作られたもののようだが、オリジナルそのままにコンクリートが剥き出しで、当時の様子をイメージしやすい。

上陸作戦に先立つ1939年から40年にかけて、イギリス軍は一帯に25ものトーチカを築き、日本軍の侵攻に備えたという。

しかしその多くは、継続的な海岸侵食によって水中に没し、こうしてレプリカを作って記録に留めているというわけだ。

中に入ると想像したよりも広い。

通常9人から12人の兵士が交代でこのトーチカでの守りにつき、360度に開かれた狭い銃眼から監視にあたるのだ。

でも、こんな中に閉じ込められて敵が来るのをじっと待つというのはどういう気分なのだろう。

どんな大義があろうとも、戦争なんかしたくはないと思う。

上陸記念碑とトーチカを訪れた後、タクシーで連れてきてもらったのがコタバル市内にあるこちらの「戦争博物館」。

もともとは銀行の建物だったが、日本占領時代には接収され憲兵隊の本部として使用された。

地元の人たちから恐れられる存在だった憲兵隊施設が1990年代に博物館になったのも何かの縁なのだろう。

博物館の入場料は2リンギット(約70円)。

入り口を入ってまず目に飛び込んでくるのは正面に描かれた敵前上陸のシーンを描いた大きな壁画だ。

空では戦闘機が空中戦を繰り広げ、沖合では日本兵を輸送してきた貨物船が燃えている。

夥しい数の上陸用舟艇が浜を目指し、重装備の兵士たちは降りしきる雨の中、砂浜に身をかがめて敵の銃弾を潜り抜けながら、海岸線に張られた鉄条網を必死で突破しようとしている。

その壁画の前に立っていたのは、マレー作戦を指揮し「マレーの虎」として一躍英雄となった第25軍司令官・山下奉文陸軍中将の等身大人形。

なんだかまるで生きているようでちょっと薄気味悪い。

山下将軍に対峙するように展示されていたのは、イギリス兵の軍服を身に纏ったマネキン。

これはいかにもスラッとした既製品のマネキンで、どこかの商店から拝借してきたもののようだ。

まあとにかくそんな感じで、手作り感満載の博物館なのだが、じっくり見ていくとコタバル上陸作戦およびマレー作戦の流れがよく理解できる。

当時イギリス領だったマレー半島とシンガポールの防衛を担っていた責任者の写真。

チャーチルが「大英帝国史上最悪の災害と最大の降伏」と評したシンガポール陥落で不名誉な将軍としてその名を止めるアーサー・パーシバル司令官をはじめ、空軍のロバート・ブルック大将、コタバル上陸作戦の際に最前線で日本軍と対峙したインド歩兵旅団の指揮官バートホールド・ウェルズ・キー少将
の3人である。

開戦時の兵力はイギリス兵1万9600、インド兵3万7000、そしてオーストラリア兵1万5200、その他グルカ兵や地元のマレー兵など1万6800を加え、総兵力は8万8600人に達し、侵攻した日本軍の2倍を擁していた。

海岸線の防御態勢について示す図も展示されていた。

何重にも張り巡らされた鉄条網の背後にトーチカや塹壕、対戦車地雷などを配置し、厳重な防御態勢を構築していたことがわかる。

なんとなくマレー作戦は油断した相手の背後を突いての作戦勝ちのようなイメージがあるが、そうではなく、まさに敵が待ち構える中での強行上陸だったことがわかる。

コタバル上陸作戦の指揮を執ったのがこちらの佗美浩(たくみひろし)陸軍少将。

松山出身で陸軍士官学校を卒業したエリート軍人で、コタバル上陸作戦成功の後生きて終戦を迎え、戦後はシベリア抑留を経験すると日本に戻り1970年まで生きたという。

彼が率いる佗美支隊は総勢5300。

日本は開戦前、現地に商人を装ったスパイを潜入させて現地の情報を探っていたと博物館の解説には書いてあった。

博物館には日本軍が上陸作戦に使用した舟の実物が展示されていた。

上陸用舟艇は敵の銃弾を防ぐために金属でできていて、一度に8〜10人の兵士と装備を運搬することができた。

展示されている舟は、1988年ケランタン川の水中に埋もれているのが発見されたものだという。

博物館には、コタバル上陸作戦の経過が時系列で説明されていた。

それによれば、作戦は次のように進んだ。

12月7日午後11時45分、バダンとサバクのビーチに駐留していたイギリス兵は、クアラパックアマト河口近くの海岸に停泊している数隻の敵船を発見したと報告。日本の船団は3隻の輸送船(淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸)、軽巡洋艦「川内」、4隻の駆逐艦(磯波、浦波、敷浪、綾波)で構成されていた。

12月8日午前12時30分、日本の上陸部隊第一陣にコタバル飛行場奪取を目的とした上陸命令が下る。午前1時、日本の上陸用舟艇がクアラパックアマトの河口に上陸開始。多くの日本兵が死亡。インド兵が配備されたトーチカは激戦の末、日本軍に占領される。午前2時10分、オーストラリア空軍のロッキード・ハドソン戦闘機が日本の輸送船に繰り返し空爆したため、日本海軍司令官は撤退を決定。しかし佗美は同意せず、船は第2陣の上陸後に戦場を離れることに変更。午前4時、第2陣が上陸し日本の船団は午前6時に離れた。

同日午前6時半、菅原少将指揮の第3飛行集団がコタバル飛行場などを攻撃。午前10時30分、キー将軍は海岸線での反撃を命じるが失敗に終わる。午後5時30分、オーストラリア軍機がコタバル飛行場から退避。イギリスの空軍将兵もクアラクライの鉄道駅に撤退した。午後8時、日本軍がコタバル飛行場への攻撃態勢に入る。キー将軍は石油タンクを砲撃した上で南部への撤退を指示。午後10時、日本軍がコタバル飛行場を占領する。

12月9日午後2時、コタバル市全体が日本軍によって占領される。イギリス軍は10キロほど南に退却し、新たなインド兵部隊を加えて態勢を立て直す。

12月10日、イギリス軍はプライ・チョンドン基地で部隊の再編を行い、各大隊約600人で構成する。日本軍はトゥンパット、ケダイムロンを占領。

12月11日、キー将軍はゴンケダック飛行場とマチャンのラボック飛行場を放棄し、コタバルの南マチャンに兵力を集中させることを決定。日本軍の前進を阻止するためにギレマーレ鉄道橋が破壊される。

12月12日、日本軍はケダイムロンから南へ進軍。イギリス軍の反撃なし。

12月13日、日本軍が午前8時にラボック飛行場を占領。マチャンでイギリス軍の抵抗に遭うが、イギリス軍は撤退、日本軍がマチャンを占領。

12月14日、日本軍の進撃に対し、イギリス軍はスンガイサト川近くに強力な防衛陣地を構築する。

12月16日、すべての倉庫と重機が撤去され、イギリス軍がクアラクライ地方からシンガポールへの列車による撤退が始まる。

12月17日から18日、イギリス軍がクアラクライの町の北にあるスルタン・イスマイル橋を爆破。

12月19日、イギリス軍はクアラクレイ駅から避難する。マネクウライの鉄道橋が破壊されたため、後方の部隊は徒歩で撤退した。しんがりを務める後衛は、パハン志願兵とマレー連隊で構成され、日本軍が破壊された橋を修復するのを阻止するために残された。日本軍は午後8時にクアラクレイを占領し、撤退するイギリス軍を追撃するために軍隊を派遣した。ここで、日本軍はケランタン州全域の掌握に成功した。

コタバル上陸作戦が敢行された同じ日、日本軍はお隣の独立国タイにも上陸していた。

上陸したのは、コタバルから北へ100キロ以上離れたタイ南部のシンゴラとパタニの海岸だった。

一時、独立国だったタイの軍隊と日本軍の間に戦闘が起こったことは今回初めて知った事実である。

しかしすぐにタイ政府が日本軍の領土通過を認めたため、タイとの戦闘は一時的なもので終わり、タイ南部に上陸した部隊とインドシナからタイ領内を通過して南下した近衛師団が合流し、マレー半島西海岸に沿ってシンガポールを目指すことになった。

マレー半島中央部は山岳地帯が続くため、日本軍は二手に分かれ東西の海沿いを猛スピードで進軍したのである。

陸上での戦闘が始まった直後、海でも大きな動きがあった。

日本軍の侵攻に弾みをつける「マレー沖海戦」での大勝利だ。

再び『太平洋戦争 16の大決戦』からの引用。

こうして日本軍はマレー半島を南下し始めた。その陸上作戦の進撃を強力に支援したのが、マレー沖海戦の勝利だった(12月10日)。 “海戦”とはいっても、軍艦同士の戦闘ではない。日本海軍の航空部隊が、シンガポールを根拠地とするイギリス東洋艦隊の戦艦2隻を撃沈した海戦だった。

イギリス東洋艦隊は「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」の2隻がおもな軍艦だった。「プリンス・オブ・ウェールズ」は3万7000トンで戦艦としては大型である。「レパルス」は巡洋艦と称せられていた。普通、巡洋艦はせいぜい1万トンだが、「レパルス」は3万2000トンもあり、戦艦そのものだった。この2隻がマレー半島中部東側クワンタン沖合を航行中のところを発見して撃沈した。

日本の海軍航空部隊(海軍第22航空戦隊)はサイゴン(現ホーチミン)周辺の飛行場から発進した。水平爆撃も雷撃もできる陸上攻撃機(九六式、一式)である。合計92機が三波にわたって次々に攻撃し、撃沈した。イギリス艦隊には戦闘機の護衛はついていなかった。日本軍は3機を失っただけだった。

こうした海戦の勝利に後押しされるように、マレー半島の地上部隊は次々にイギリス軍を撃破していった。

こうして緒戦での予想以上の戦果に勢いを得て、日本軍は退却するイギリス軍を追って進撃を続ける。

その頃、日本国内で有名になったのがこの自転車。

日本の歩兵が侵攻スピードを速めるために自転車に乗ったことから「銀輪部隊」ともてはやされた。

ジットラ・ラインという縦22キロにわたる要塞陣地では、6000人のイギリス軍が戦車90両、野砲と山砲60門で守っていたが、戦車20両を伴うわずか581人の佐伯挺進隊(第5師団の捜索第5連隊長佐伯静雄中佐指揮)が、死に物狂いの突進でわずか1日で突破した。捜索連隊というのはもとの騎兵連隊のことで、この時代には馬に代わって戦車編成となっていた。

カンパルではイギリス軍守備隊とまる4日間の激闘を続け、ついに退却させた。スリムでは戦車部隊(戦車第6連隊中隊長島田豊作少佐指揮)がまるで寝込みを襲うような戦法で英印軍第12師団司令部を蹂躙した。こうして日本軍がマレー政庁のあるクアラルンプールに入った時(1942年1月11日)は、イギリス軍は撤退した後だった。

ともかくこうして日本軍の最初の部隊は1月末(1942年)、ジョホールバルに到着した。ジョホール水道を隔ててシンガポールが見える地点だ。日本軍は55日間で95回、戦闘をおこない、戦死1535人、戦傷2257人を出したという。イギリス軍の損害は不詳だが、日本軍の戦果として「遺棄死体約5000」と記録されている。

こうして、マレー作戦は軍事的には、「1日平均20キロ、1100キロの突破はドイツの東方進撃(1939年9月のポーランド侵攻を指す)にも優り、世界戦史に未だその例を見ない」といわれる。

博物館に展示されていたこちらは、当時のクアラルンプールの様子を写した写真。

現在の「ムルデカ広場」の周辺が撮影されている。

イギリス軍がマラヤ政庁が置かれていたクアラルンプールでの戦闘を避け退却したため、「スルタン・アブドゥル・サマド・ビル」など植民地時代の建造物が今に遺されたのだ。

そして1942年2月15日。

難攻不落と言われていたシンガポール要塞はわずか1週間で陥落し、マレー作戦は2ヶ月あまりで終結する。

イギリス軍が降伏した際、シンガポールにはまだ日本軍を遥かに上回る兵力が残っていた。

太平洋戦争開戦当時、長年実戦を続けてきた日本兵と戦争をしたことのなかったイギリス軍兵士との経験の差、そして日本側の入念な準備が勝敗を分けた戦いだったと言える。

連戦連勝で勢いに乗る日本は、マレー半島上陸と同時にアジアでの戦線を一気に拡大する。

コタバル上陸や真珠湾攻撃と同じ1941年12月8日にはクラーク基地などに空爆を加えアメリカが支配していたフィリピン攻略を開始、翌42年1月11日には戦略物資である石油を狙ってオランダの植民地だった現在のインドネシアへの侵攻に乗り出す。

さらに緒戦での快進撃に気を良くした日本軍は、マレー作戦に従事していた第15軍を転用してイギリスの支配下にあるビルマ侵攻作戦を開始する。

中国の蒋介石政権の補給ルートを断つため「南機関」によってリクルートされたビルマ独立運動家の若者に「ビルマ独立義勇軍」を結成させ、道案内と物資の調達を手伝わせながら、42年3月8日には首都ラングーンを占領した。

支配地域が拡大するにつれ、開戦当初は計画していなかったインドも射程に入ってくる。

当時インドは大英帝国最大の植民地であり、インド独立を目指す活動家が日本に亡命していた。

そこで日本軍は、マレー作戦で捕虜にしたインド兵を組織してイギリスに対抗する「インド国民軍」の結成に尽力するのである。

再び『太平洋戦争 16の大決戦』からの引用。

第25軍の部隊が進撃した後を、藤原機関が進んだ。藤原岩市少佐が指揮するこの機関の目的はイギリス軍の兵や下士官の大部分を占めるインド人を日本軍の味方につけ、インド国民軍に再編することだった。

なぜそうしたか。

今回の戦争を日本では、それまで続けてきた支那事変(いわゆる日中戦争の正式名称)も含めて大東亜戦争と名づけていた。東亜(東アジア)は日本をはじめ中国や東南アジア、インドなどを漠然と指す言葉である。米英との戦争は、これらの地域を天皇を盟主とする日本が束ねて統治支配する「大東亜共栄圏」建設が目的であると標榜していた。もちろん欧米植民地を占領することになるが、それは侵略ではなく、欧米植民地を圧政から解放してそれぞれの民族の独立を援助することだと謳っていた。要するに戦争の大義名分である。本音は別のところにあったが、このように標榜すれば何となく“正義の戦争”らしく装える。

マレー・シンガポールのイギリス軍は英印軍と呼ばれたように、高級将校だけがイギリス人で、兵たちと下士官、下級将校(少尉・中尉・大尉クラス)はほとんどインド人だった。そこで日本軍はインド人に呼びかけて、インド人の軍隊を作り、インドをイギリスの支配から解放せよ、そのために日本軍が手を貸そうと説得した。その工作機関が藤原機関(頭文字を取ってF機関とも)だった。各地の戦場で捕虜となったインド兵を説得してインド国民軍(INA)を作ったのである。ペラクで1941年12月31日結成された。当初は約5000人だったが、シンガポール陥落後は約5万人となった。

こうして日本のアジアにおける作戦範囲はどんどん拡大し、最終的にあの悲惨な「インパール作戦」へとつながっていくことになる。

欧米列強による支配からのアジアの解放、すなわち「大東亜共栄圏」建設を大義名分として侵略戦争を進めた日本だったが、問題は勝利後の統治について軍事作戦ほどの練られたプランを持っていなかったことである。

開戦直後に日本による統治が始まったコタバルを含むケランタン州では何が起こったのか?

博物館での展示では次にように記されていた。

1941年12月8日から13日にかけて、ケランタンには政府がない空白状態が生まれた。政府関係者や職員が危険な戦争から逃れるために撤退したため、オフィスは閉鎖された。

12月13日は、ケランタン州で日本統治が始まる。コタバル市内の主要な建築物は日本軍に接収され、イギリス諮問機関の建物は日本陸軍の司令部に銀行の建物は憲兵隊の本部となった。

日本軍はケランタン州全土でイギリスの敗残兵掃討を続け、その時に日本軍の残虐行為が示された。人々は平手打ちされ、殴打され、女性はレイプされ、何人かは残酷に殺された。

日本の占領から2週間後、戦争で避難していた人たちがそれぞれの故郷に戻り始めた。店がオープンし、日本の通貨が導入された。

シンガポール陥落後、日本はマラヤにおける軍政をスタートさせ、初めは山下奉文中将が率い、後に渡辺渡大佐に引き継がれた。ケランタン州は、イスラムの宗教問題とマレー式の儀式を除いて、日本人の知事によって統治されることになる。

こちらがマレー半島で使用された日本の通貨「軍票」。

イギリス統治下で使用されていた「マラヤドル」を模して「新マラヤドル」を発行したのだが、占領前の1941年には約2億1900万ドルだった流通量が、日本占領中には70億ドルから80億ドルまで増え、戦争末期にはハイパーインフレを引き起こした。

一部の日本軍部隊は携帯型の紙幣印刷機を持っていたとされ、印刷された軍票の数量について記録は残されていない。

この軍票は終戦後は無価値となり、現地の人たちに経済的なダメージを残した。

博物館には占領下のマレー半島やスマトラ島で知事を務めた日本人の写真が展示されていた。

フルネームや経歴はなく、ただ苗字と担当した地区名が記されているだけだ。

このうちコタバルを中心とするケランタン地区を統治したのは「SUNAGAWA」。

調べてみると、1942年3月に就任した砂川泰陸軍少将のことで、彼はその後ジョホール州の知事に転身しそこで終戦を迎えている。

この日本占領中の記録に目を通す中で、私が一番興味をそそられたのがこちら。

ケランタン州を含むマレー半島北部の一部の統治を日本軍の通過を許可したタイ政府に委ねたという記述だった。

これは全く私の知らない事実だが、マレーシアの人々にとっては隣国タイの支配下に置かれた屈辱の歴史となったようだ。

博物館の説明にはこんなことが書かれていた。

1943年8月20日に日本とタイの間で締結された条約により、パーリス、ケダ、ケランタン、テレンガヌのマレー諸国がタイの主権下に置かれた。これは、日本軍がタイ南部、シンゴラ、パタニに上陸することを許可し、マラヤ北部への日本の軍事的前進を加速させたことに対するタイ政府への感謝の表れだった。ケランタンのタイ軍事政権は1943年10月21日に始まり、1945年9月に終了。その間に2人の軍事委員が着任した。

1人目はチャーン・チャラン・チャイチャン、2人目はR.T.タビン・ラワン・フー。

タイ政府はケランタンに将校と騎馬部隊を派遣し、コタバルのメルバウ・マレー・スクールとチュン・ファ・チャイニーズスクールに拠点を置いた。ケランタン州政府の部門にはタイ語の名前が与えられ、多くの上級ポストはタイの役人が占めた。日本語に加えて、全ての学校でタイ語教育が行われ、タイの国旗が日本の日の丸とともに至る所に掲げられ、タイの暦が用いられることになった。

博物館の2階には日本軍が侵攻する前の写真も展示されていた。

こちらは1905年に撮影された写真。

さすがにこの時よりは文明化されていたとは思うが、日本軍が上陸した時のマレー半島もまだ素朴な生活が残っていたんだと想像される。

イギリス人を駆逐した日本軍はその後、日本軍に従順なマレー人やインド人には宥和的な対応をとる一方で、中国国民党を支援していた華僑には厳しい弾圧を加え、マレー半島でも多くの華僑が組織的に殺害された。

博物館の庭には、太平洋戦争当時最新鋭だった対空砲「ボフォース 40mm機関砲」などの兵器も展示されていた。

植民地からの解放を謳いながら現地の人たちに歓迎されなかった日本軍。

結局、日本による統治はわずか3年で終焉を迎える。

大東亜共栄圏建設の理想を掲げたマレー半島で死んでいった多くの日本兵の犠牲は、占領後の稚拙な統治と闇雲な戦線拡大によって全て無駄に終わってしまった。

あれから80年あまり、現代に生きる私たちはもっとアジアで日本が行ったことについて自ら学び、そこから教訓を受け取る必要がある。

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