台湾

司馬遼太郎著「翔ぶが如く」第4巻(文春文庫)に“征台”という言葉が出て来る。台湾を征伐する、台湾に軍を送るということである。

西郷隆盛の「征韓論」はもちろん知っているが、私の不十分な日本史の知識の中に、明治初期、日本が台湾に軍を送ったことは完全に欠落していた。一般の日本人は知っているのだろうか。

 

台湾の歴史についても知らないことばかりだ。司馬氏はこう書いている。

『信じがたいほどのことだが、台湾は1680年ごろ(徳川五代将軍の治世)清朝がここを支配するまで、公式にはどの国家の領土でもなかった。 室町期に日本の貿易商人が大いに南海に往来し、各地に日本人町をたてた。こんにちの国名でいえば、フィリピンではマニラ、ベトナムではツーラン、フェフォ、タイではアユチャ、カンボジアではプノンペン、ピニャールーなどに武装商人の町を築き、オランダ人やスペイン人、ポルトガル人、イギリス人などと、ときに提携し、ときに抗争して活潑な貿易・植民活動をおこなっていた。この時期、南方アジアの商権の争奪については、いわゆる華僑はまだ大いに登場するにいたらず、華僑の登場は、そのあと、徳川幕府が鎖国政策をとって各地の日本人町を衰亡せしめたのちのことになる。 室町期から徳川初期までの200年間、日本の武装商人たちは東シナ海から南海にいたるまでの水域をほとんど自家の海のように往来していたが、当然、本国とのあいだにある台湾を商業上の中継地にしたり、航海上の寄港地にしたりし、あるいは台湾の地区を占領していた時期もあった。 その根拠地は、台湾西海岸の南部にあった。』

いわゆる倭寇であろう。学校の歴史授業ではちょっとしか習わない隠れた日本人の歴史だ。海賊といえばそれまでだが、国際化が苦手な日本人の祖先に、かくも国際的な人たちがいたことはもっと研究されていい。もっと知りたいと思うのだ。

『16世紀ごろは、日本人、オランダ人、スペイン人がここを根拠地とし、とくにオランダ人がこの地を「フォルモサ」と名付けて安平と台南に城塞を築き、その植民地とした。この16世紀から、漢民族の移民も増えてきた。』

『台湾を、鄭成功が占領したこともある。 鄭成功は日本の平戸藩士の娘を母とする混血児で、教養人ではあったが、はなはだ勇俠の気性に富んでいた。ときに明朝が、満州で興った清という異民族によって崩壊した。この時期、鄭成功は明の遺臣と称して大いに抗戦するのだが、その抗戦の拠点を得るために台湾を奪った。 鄭氏の台湾は21年間つづき、鄭成功の死後、その党類が海を渡ってきた清軍のためにほろぼされた。清朝はここに台湾府を置いた。』

平戸に生まれ、日本人の母を持つ鄭成功の波乱万丈の人生は、近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」のモデルとなった。鄭成功が台湾を占領したのは1662年。清朝に攻め滅ぼされたのが1683年。そして「国性爺合戦」が生まれたのが1715年。鎖国だった江戸で大ヒットの舞台となった。

この台湾に明治政府が軍を派遣したのは1874年(明治7年)のことだ。

この3年前、台湾に漂着した琉球島民54人が先住民に殺害されたことを出兵の理由としている。最初に征台論を唱えたのは副島種臣だった。しかしこの後、征韓論が盛り上がり征台論は一旦消えていった。

ところが、実際に台湾出兵を実行したのは征韓論派を打ち破った大久保利道、西郷従道、大隈重信らだった。韓国への出兵に猛反対した大久保が台湾への出兵を決断したのは琉球民の事件とは関係なく、鹿児島に戻った西郷隆盛や多くの薩摩軍人を懐柔しよう超内向きな狙いだった。

しかし、これが日本軍がおこなった最初の海外出兵となった。

国力を顧みず、事前の準備や国際的な根回しもなく、純粋に国内対策として実行された海外出兵。戦死者はわずか12名だったが、マラリアによる病死者は561人に達した。

私の知識から欠落した台湾の歴史。そこを探ると知らない日本人の過去が見えてくる気がする。

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