<吉祥寺残日録>【百年前 ⏩ 1921】今から100年前、日本も世界も大きなターニングポイントを迎えていた #210217

会社を辞めた後の私のライフワークは、近現代史の研究に決めている。

「日本は、なぜあの戦争に突き進んだのか?」

それを私なりに理解するために、大正時代の勉強を始めた。

明治や昭和に比べて「差別されてきた」大正時代。

調べれば調べるほど、現代の我々から見れば進歩的で共感できる「良い時代」だと感じる。

図書館で入門編的な一冊の本を借りてきた。

『ビジュアル 大正クロニクル 〜懐かしくて、どこか新しい100年〜』 

近現代史編纂会というグループが出版した本のようで、出版社のサイトには『明治維新から昭和の占領まで、日本の近現代史を中心とした取材・執筆・編集グループ。とくに日清・日露戦争から太平洋戦争、日本占領を得意とする』と紹介されていた。

私が信頼する作家の保阪正康さんとも関係がありそうなので、フラットな組織だと判断して、この本を使って大正時代を概観してみようと考えている。

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大正時代は、天皇が病弱だったため、事あるごとに武勇にたけた明治時代と比較され、「軟弱」で「堕落」した時代としてあまり日本人に人気がない。

しかし、戦争に明け暮れた明治と昭和の間に挟まれた「平和な時代」であり、「大正デモクラシー」と呼ばれる進歩的な思想、藩閥政治から政党政治への脱皮、そして様々な文化が花開いた活気ある「大正ロマン」の時代であった。

そこで、私はこのブログを使って新たな「テーマ」を追求していこうと思う。

タイトルは【百年前】。

つまり、今年2021年の百年前である1921年の出来事を調べて記録していこうと決めたのだ。

そうしてちょっと調べ始めると、実は1921年という年は、日本にとっても、世界にとっても極めて重要な転換点だったことがわかる。

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最も大きな事件は、大正天皇の病気が悪化し、皇太子が摂政に就任したことだ。

この年、皇太子だった後の昭和天皇は、イギリスを中心として第一次大戦後まもないヨーロッパを歴訪する。

3月3日に横浜港から軍艦「香取」で出発した皇太子は、9月2日まで、イギリスをはじめ、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアを回り、各国の王室や首脳から丁重な歓迎を受けた。

イギリス流の立憲君主制についても直に学び、いくつもの戦跡を視察して平和への意思を強くして帰国する。

そして11月25日、皇太子は正式に「摂政」の地位に就き、事実上天皇の職務を引き継ぐことになる。

長い皇室の歴史でも、「摂政」の地位に就いたのは、聖徳太子、中大兄皇子に次いで3人目であり、いかに異例な状態だったかがわかる。

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このほかにも、後々重大な影響を及ぼす出来事が世界中で起きていたのだ。

主な出来事を、ざっと書き出してみよう。

  • 中国共産党結成
  • ヒトラーが党首に選出
  • 原敬首相暗殺
  • イタリアのファシスト党成立
  • ワシントン軍縮会議
  • 日英同盟廃止

中国共産党もヒトラーもムッソリーニも、この段階でもまだ小さな存在で当時の日本人はまったく知らなかっただろうが、戦争につながる様々な芽が一斉に芽吹き始めた年なのだ。

さらにワシントン軍縮会議は、それまでの日本の安全保障の要だった日英同盟の解消、軍艦の数を制限する海軍軍縮条約は、米英を敵とみなす意識を日本人に植え付けるきっかけとなっていく。

そして、平民宰相として人気があった原敬首相が東京駅で刺殺された事件は、要人に対するテロ事件の先駆けとなり、平和な時代の裏側で暴力のエネルギーが溜まりつつあったことを示している。

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水面下の動きとして注目しなければならないのが、1921年10月27日の出来事。

後に「バーデンバーデンの密約」を呼ばれる3人の青年将校の会合である。

先日亡くなった作家の半藤一利さんが書いた『世界史のなかの昭和史』から、この密約に関する記述を引用しておく。

その一方で、近代日本の最大のパワー・エリートの集団、いわゆる「昭和の軍閥」の最初の一歩が踏み出されていたのも確かなのです。出てくるのは陸軍士官学校16期の三羽烏と言われた永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次。この三人の少佐がドイツのミュンヘン郊外の保養地バーデンバーデンに集まり、密かに密約をかわしました。昭和史を論じる時に必ず出てくる「バーデンバーデンの密約」がこれなのです。

彼らは論じ合いました。第一次大戦によって証明されたように、近代戦は「国家総力戦」となる。それゆえに世界の各国は次の戦争に備えて軍制改革や新兵器開発など軍備拡充に力を尽くしている。それに敗戦国ドイツの現状を見ると、世論の動向というものがいかに戦勢に影響してくるのかもはっきりしている。報道や宣伝や情報といったものがいかに大切か。それこそが総力戦の恐ろしさである。軍隊だけが戦争を戦うものにあらず。それなのに、わが帝国陸軍の中央部の将官たちのありようには目に余るものがある。今なお、日露戦争の勝利に酔いしれているとしか言いようがないではないか。自分たちの日露戦争での局所的な戦場での勝利体験を盲信して、白兵戦闘一本槍に凝り固まり、大和魂さえあれば大丈夫といった精神主義を払拭できないでいる。それで軍人は今や不人気の最たるものだ。まさしく日本帝国の明日は累卵の危うきにある。それでは、我々が今何をすべきか。

三人は徹宵議論したあとで結論に達しました。

「派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢につき密約す」と。

岡村日記にはありませんが、この時永田は「徒党を組むことは嫌いだ」と反対の意を示したと言います。徒党を組んで既成派閥(長州閥)を倒すことは、つまり派閥の交代でしかない、と永田が強く主張したのです。しかし、二人の説得で、その永田も最後には首を縦に振ることとなります。

「人事刷新は自分たちの栄進を目標とする運動ではなく、密閉された空気の中で、窒息しそうになっている陸軍に大きな窓を開けようということが永田にも判ったので、それなら大いに力を尽くそうということになった」

時に彼らは37、8歳。陸大優等卒の俊秀で、永田は長野県、小畑は高知県、岡村は東京都の出身、陸軍主流の長州閥には属していません。それだけに、才能や力量よりも、その出身地のフィルターを通して行われる派閥人事の不合理さに我慢のならぬ思いをずっと抱いてきていたのです。

と、いちばん大事なことを書き忘れていました。この密約が結ばれたのが大正10年10月27日、裕仁親王の摂政就任のほぼ1ヶ月前のことです。彼ら少壮の将校たちの間には密かに、大正天皇すなわち彼らの頭領たる大元帥陛下の病状すこぶる篤く、ほとんど軍を統帥する力を失っていることが知れ渡っていたのではないか、そう思われます。

この盟約を結んだ三人のうち、岡村はその年の暮れに帰国し、参謀本部支那班に属し、盟約実現のための同志集め行動を開始。永田、小畑の二人は一年あまり後の、大正11年から12年にかけて帰朝します。同時に、三人揃って陸軍中佐に昇進しますが、彼らが久しぶりに接した世の中の空気、そして陸軍内部の状況が、以前とはまるで異なるものとなっていることに、直ちに気づかせられたに違いありません。

それは、一言で言えば、「天皇は存在するが存在しない」国家、そして「大元帥は存在するが存在しない」軍隊というものでした。摂政宮は存在しますが年若く、明治43年(1910)に制定された皇族身位令に基づき、15歳の時に陸軍少尉・海軍少尉に任官し、とんとんと進級してきていますが、摂政となった時にはまだ陸海軍少佐でしかなかったのです。大元帥陛下にあらず、したがって厳密に言えば、統帥権を掌握してはいない。ここに少壮のエリート将校たちの暗躍の許される素地が備わっていたと見るほかはありません。

大正の摂政宮の5年間の後、昭和時代が幕を開けますが、驚かざるを得ないほどすぐに軍事上の激しい動きが始まります。昭和2年(1927)から3年の第一次、第二次の山東出兵、同じ3年の張作霖爆殺事件と続き、4年にバーデンバーデンの密約三人組を中心に軍官僚的な中堅将校の集まりの一夕会が結成されています。昭和史を動かした石原莞爾、東条英機、山下奉文、武藤章たちが名を連ねています。そして6年の三月事件(軍事クーデタ未遂事件)、満州事変と続いていくのです。

摂政宮時代の5年間に、培われ練られてきた非合法を承知の謀略の動きが、あっという間にその正体を見せてきた、そうと決めてかかるのはかなり無理筋なのでしょうか。いや、案外に的を射ている推理だと探偵は思うのですが。

引用:半藤一利著『世界史のなかの昭和史』

水面下で危機が迫っていた100年前。

しかし、世相を見れば平和そのものだった。

三越の女子店員が初めて制服を採用して話題となったり、両耳を隠す「耳隠し」という髪型が流行したり・・・。

その一方で、第一次大戦が終わった後の「戦後不況」が始まり、生活苦を理由とする自殺者が急増していた。

新しい文化を享受していた大正時代の平和な日本は、なぜ昭和の戦争に踏み込んでしまったのか?

100年前を知ることは、令和を生きる私たちにも、いろんな教訓を教えてくれるだろう。

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