<きちたび>エストニアの旅〜ソ連からの独立を勝ち取った「歌う革命」

🔶「旅したい.com」から転載

<エストニア>ソ連からの独立を勝ち取った「歌う革命」… 世界無形文化遺産「歌と踊りの祭典」の聖地を訪ねる

🇪🇪エストニア/タリン 2019年8月4日

バルト三国の小国エストニアには、2つの独立記念日があります。

1918年2月24日のロシア帝国から「独立記念日」と、1991年8月20日のソビエト連邦からの「独立回復記念日」です。

ソ連からの独立運動は「歌う革命」と呼ばれました。

一人の血も流すことなく達成された革命。その原点には19世紀から続く国民的行事「歌と踊りの祭典」がありました。祭典の聖地である野外音楽堂「タリン歌の広場」を訪ねました。

帰りの船に乗り遅れて

そもそも「歌の広場」に行く予定はありませんでした。

フィンランドの首都ヘルシンキから国際フェリーでの日帰り旅。世界遺産となっている「タリン歴史地区」をぶらぶらして昼過ぎの船で帰るつもりだったのです。

しかし、老舗のカフェでランチを食べたり、かわいいお土産に目を奪われたりして、あっという間に時間は過ぎ、不覚にも帰りのフェリーに乗り遅れてしまったのです。

仕方なく、次のフェリーでヘルシンキに戻ることにしたのですが、出発まで3時間もあります。

有効な時間の使い道はないかと調べていて、偶然見つけたのが「タリン歌の広場」でした。

直線距離で港からは2キロあまり。歩いて往復することも可能と判断し、疲れた妻を港に残して一人で広場に向かいました。

「歌の広場」までの道

広場は、タリン港から東に向かった郊外にありました。

人通りの少ない並木道をのんびり歩いていきます。

道端にはところどころ、真新しい集合住宅が立っていました。

敷地も個々の住宅もとてもゆったりとしています。

この集合住宅なんて、とても素敵じゃないですか?

日本のマンションに比べて、ハイセンスな印象を受けます。

エストニアといえば、Skypeを生んだ国として知られ、多くのIT企業が進出しています。そうしたIT人材がこんな住宅に暮らすのでしょうか?

道はやがて公園の中を通ります。

きれいに整備された公園ですが、人影はまばらです。

タリンの人口は42万人ほど。エストニア全体でも132万人という小さな国ですから、日本のような人混みはあまり経験しないのでしょう。

公園を抜けると、海に向かって立つ一つの記念碑がありました。

「ルサルカ記念碑 Russalka Memorial」と呼ばれています。

この記念碑が建てられたのは、ロシア帝国時代の1902年。

1893年にフィンランドへ向かう途中で沈没したロシア軍艦Rusalkaの9周年を追悼するものです。

この慰霊碑の近くには、ロシアのピョートル大帝が妃であるエカテリーナ1世のために建てた広大な「カドリオルグ宮殿」もあり、大国ロシアによる支配とその脅威を感じさせるエリアでもあります。

この記念碑からさらに300mほど進むと、ようやく「タリン歌の広場」の入り口にたどり着きました。

片道およそ30分。

途中さほど見るべきものもないので、時間がない方はタクシー利用の方が賢明かもしれません。

「歌う革命」の聖地

「歌う革命」とは、1987年から1991年にかけて発生した、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立運動の総称です。エストニア人の活動家で芸術家のヘインツ・ヴァルクが命名しました。

広場の入り口には、子供たちが描いた合唱祭の絵が飾られていました。

エストニアの人たちにとって、歌によって愛国心を表現し、平和裡に独立を達成した「歌う革命」は、子供たちにも語り継ぐべき誇りなのです。

海側から広場に入った私の目には、巨大なドームのようにしか見えません。

しかし実際は、巨大なステージの裏側でした。

ドームのような建物を回り込むと・・・

スタジアムのような構造になっています。

エストニアの国旗がはためいています。

中に入ってみると・・・

巨大な野外音楽堂が姿を現しました。

大屋根の下は通常のステージではなく、階段状の構造になっています。建設されたのは1960年。文字通り、大勢で合唱するために作られた大舞台なのです。

ステージの前には、緩やかなスロープとなった広大な草地が広がっていました。

「歌う革命」の中でも象徴的な意味を持つのが、1988年9月11日に開かれた「エストニア歌と踊りの祭典」という大集会です。

その時の写真を現場で見ることができました。

大勢の群衆が、広大な「歌の広場」を埋め尽くしています。

「歌と踊りの祭典」は、1869年以来、5年に一度開かれるエストニア最大の国民的お祭りです。ソ連がゴルバチョフ大統領の下、改革を進めていた1988年に開かれた祭典には、なんとエストニア国民の4分の1にあたる30万人が集まりました。

そして、ソビエト政府によって厳しく禁じられていた国歌や民謡など祖国エストニアの歌をみんなで歌ったのです。

これを契機としてエストニアでは独立の機運が盛り上がり、1991年の独立回復宣言につながりました。

広場の外には、「歌と踊りの祭典」の歴史を表したパネルが設置されていました。

実は、私が訪れる直前の2019年7月には、27回目となる「歌と踊りの祭典」が開かれたばかりなのです。

150年の歴史を持つ「歌と踊りの祭典」はユネスコの世界無形文化遺産にも登録されていて、日本からも見学ツアーが組まれました。

民族衣装をまとい舞台に整列する大合唱団の写真。

あの巨大ステージは、1万5000人が同時に歌うことができる規模なのです。

マドンナやロッド・スチュアートといったビッグアーティストの写真も出ていますが、どうやら祭典とは関係なく、この野外ステージでコンサートを開いたことがあるという意味のようです。

エストニア音楽の父

「歌う革命」の意味が少しわかったところで、「歌の広場」をもう少し見てみましょう。

広場の正面ゲートを入ると、こんなオブジェがあります。

1869年は「歌の祭典」が始まった年。おそらく100周年を記念して作られたものでしょう。

観客席となるスロープの最上部に立つと、国旗越しにタリンの旧市街まで見ることができます。

それだけ斜面の傾斜があり、多くの観衆がステージを見られる高低差があるということです。

斜面は、子供たちにとって格好の遊び場でもあります。

この芝生の観覧席、広さは23ヘクタール。東京ドームの5個分、かつての築地市場とほぼ同じ広さだそうです。

いかに広いか、少しは想像できますでしょうか?

巨大ステージのバックには海も見えます。

1万5000人の民族衣装を着た人たちがこのステージに並び、祖国の歌を大合唱する光景を想像するだけで身震いする思いです。

ステージの右側には、高さ42mの塔が見えます。

少し新しく見えますが、実は1980年代後半にロシア風のスターリン様式から建て替えられたそうです。

そんな巨大ステージを見下ろすように、一体のブロンズ像が置かれているのが印象的です。

観光客にも人気のこの人物は一体誰なのか?

現地では、まったくわかりませんでした。

帰国してから調べてみると、「エストニア音楽の父」として尊敬を集めるグスタフ・エルネサクスという作曲家であることがわかりました。

エルネサクスは、作曲家、教育者、そして歌の祭典の主導者としてエストニアを支え続けた人物で、祭典の最終日に歌われる「わが祖国、我が愛」の作曲者としても知られているそうです。

ソ連によって併合され、抑圧された人々にとって「わが祖国、我が愛」は心の拠り所であり、エストニア第二の国歌とも呼ばれます。

私もぜひ聞いてみたいと思いネットを調べてみると、YouTubeにそれらしき曲がアップされていたので、ここで紹介させていただきます。

あの広場で、大勢の同胞と一緒に「わが祖国、我が愛」を歌う。植民地になったことがない日本人には本当は理解できない心情かもしれませんが、胸にこみ上げる高揚感はこの映像からも伝わってきます。

そろそろフェリーの時間が近づいてきました。

もう乗り遅れるわけにはいきません。

ステージの脇を抜けて、港への道を戻ることにします。

ピリタ・ビーチの野草たち

港への帰り道、海沿いに遊歩道があるのを発見しました。

広場近くの海岸線は、石で護岸が施され遊歩道が整備されています。

このあたりの浜は、「ピリタ・ビーチ」と呼ばれるそうです。

遠くに大型のクルーズ船が停泊しているのが見えます。

あのタリン港まで、歩いて戻ります。

今回初めて知ったのですが、「バルト三国」と呼ばれるエストニア、ラトビア、リトアニアは、歴史的にはほとんどつながりがなく、まったく違う民族だそうです。

エストニアの人とラトビアの人がそれぞれの言語で会話しても、まったく通じません。

その3カ国が緊密な関係を持つようになったのは1980年代後半の独立運動です。

1989年8月23日、独ソ不可侵条約秘密議定書の締結50周年の日に、3カ国の住民たちはエストニアの首都タリンからリトアニアの首都ヴィリニュスまで、約600キロに及ぶ人間の鎖を作り、独立の意志を世界に示しました。

有名な「バルトの道」です。

強大なドイツとロシアに挟まれた小国ができる平和的で精一杯の抗議行動は、世界中の人たちの共感を呼びました。

今日の香港での抗議運動を見るにつけ、小国が大国に対峙する時、力に訴えるのではなく、こうしたアピールの方法もあることを私たちに教えてくれているように感じます。

しばらく歩くと、石の護岸が消え、砂浜に姿を変えました。

泳ぐ人もいないビーチには、様々な種類の野草がひっそりと生えていました。

派手さもなく、人目を集めることもない小さな花。

名前も知らない草花ですが、その自然さが私の心に残りました。

きっと山野草好きな妻の影響でしょう。

でも、なんだかとてもきれいではないですか?

私は、人工的なフランス庭園よりも自然なブリティッシュガーデンが好きです。

そうした庭造りの手本になる自然が、こうして北ヨーロッパにはあったのです。

この浜には、小国エストニアによく似合う飾らない美しさがある。

そう思いました。

できれば妻に見せてやりたかった、とも思いました。

ロシア統治時代に立てられて「ルサルカ記念碑」の背後には、大きな雲がかかっていました。

平和そうに見えるエストニアも、国内に住むロシア系住民との融和という重い課題をまだ抱えています。全人口の7%はいまだにロシア国籍、そして無国籍のままのロシア系住民も7%以上います。

エストニア政府は2018年、もし再び国土を侵略されることがあっても、政府や国民のデータを守れるよう世界で初めての「データ大使館」をルクセンブルクに開設しました。すべての行政サービスをネット上で受けられる電子政府化をいち早く進めているのも、小国の生き残り策でもあるのです。

小国ながら見所が多いエストニア。

日本人としても、学ぶところも多い国だと感じました。

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