代替わりの10連休もいよいよ終盤。体調もすっかりよくなり、5月5日のこどもの日はJR中央線に乗って天皇のお墓に行ってみることにした。
高尾駅の一言堂
中央線快速電車の終点「高尾駅」。
1927年に完成したレトロな駅舎は、もともと大正天皇の大喪列車の始発駅として新宿御苑に設置された仮設駅舎を移築したものだ。
「関東の駅百選」に選ばれているのも納得の印象深い駅だ。
気になったのは、ホームで購入できるパン屋さん。
このお店、ただの駅ナカ店ではない。
改札を出たすぐのところに入り口があり・・・
駅の外にも入り口がある。
高尾駅のレトロな駅舎の半分を占めるユニークなお店なのだ。
お店の名前の「一言堂 Ichigendo」。
2010年の駅リフォームに合わせて開店した。経営はJR東日本の関連会社のようだ。
不思議なお店だ。
店の外ではお墓まいり用のお花も売っている。確かに、高尾には大きな霊園がいくつもある。
まだ昼前11時だったが、このユニークな店でランチを食べることにした。
改札側の入り口を入るとパンや地元の名産品を売るコーナーがある。
酵母パンにも力を入れているようだ。
その奥は飲食スペースになっている。
山歩きの服装の高齢者も多く利用していて、レトロな建物も相まってちょっと山小屋風の風情がある。
客がカウンターで注文する前払い方式だ。
お店の定番メニューは「野菜カレー」(900円)を注文する。
さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ、インゲン、ブロッコリー、ピーマン、人参、そして豆類。実にカラフルなカレーだ。
ただ、肝心のカレーが美味しくない。
ご飯もべちょべちょ、これはいただけない。
お店がユニークなだけに残念であった。
食べログ評価3.52、私の評価は3.00。
武蔵陵墓地への道
ランチを終えて、目的の「武蔵陵墓地」を目指す。
ルートは3つあるが、緑のラインで示された最短距離を選ぶ。
駅からまっすぐ北に進むと、武蔵陵墓地1kmの案内板が現れる。
のどかな住宅地を抜けると、左手に武蔵陵墓地の塀が・・・
そして駅から歩くこと15分ほどで、武蔵陵墓地に到着した。
参拝時間は午前9時から午後4時まで、基本的には年中参拝は可能だという。
この土地は、皇室が所有する御料地だったが、大正天皇の崩御を受けて皇室の陵墓と定められた。
武蔵陵墓地には、4人の天皇皇后が眠っている。
大正天皇のお墓が多摩陵、昭和天皇のお墓は武蔵野陵と呼ばれる。
お墓の配置は地図の通り。2人の天皇の東側のそれぞれの皇后のお墓が作られている。
入り口のテントで、新天皇即位を祝う記帳が行われていた。
昨日皇居で行われた一般参賀には14万人が訪れ、4時間も並ばないと行けなかったようだが、こちらはガラガラだったのでありがたく記帳させていただいた。
参道入口の手前に、手水舎があった。
その向こうには、目にも鮮やかな新緑が輝いていた。
新緑の方を進んでいくと、池があった。
周囲を新緑に覆われて、絵も言えぬ美しさだ。
新緑の季節はどこも綺麗に感じる。
高い杉並木の中、玉砂利が敷かれた表参道を進む。杉は京都から取り寄せた北山杉だという。
気温が上がり、半袖でも汗ばむようだ。
大正天皇の多摩陵
表参道をまっすぐ進むと大正天皇のお墓「多摩陵」に着く。
大正天皇は、1926年12月25日に葉山御用邸で崩御した。47歳だった。
一段上がった所に鳥居。
さらに石段を上がった先に、上円下方墳がある。
四角い台の上に丸いドームが乗った形の石造りのお墓。上部2段、下部3段の上円下方墳という形式だ。
明治天皇以来、近代の天皇皇后の墓はこの上円下方という形式で作られるようになった。
古代の古墳としては6例しか見つかっていない珍しい形式だという。なぜ明治以降、天皇皇后のお墓が上円下方墳となったのだろう?
ウィキペディアの解説では、こう書かれている。
『 明治・大正・昭和の天皇陵の型式を上円下方墳としたのは、天智陵(御廟野古墳)・舒明陵(段ノ塚古墳)を上円下方墳とみて、それに習ったものである。ただし近年の調査結果により、それらの古代天皇陵は実際には八角墳(上八角下方墳)であったことが明らかになっている。』
要するに、天智天皇の山科陵を真似ようとして、間違ったということのようだ。明治政府は、古代の様式を復活させようとして、いろいろミスも犯している。
考古学の世界も日進月歩で、後から新たな事実がわかってきたと理解するのがいいのかもしれない。
多摩陵の東隣には、大正天皇の妃・貞明皇后が眠る「多摩東陵」がある。
大正天皇と比べると、石段の数が少ないことがわかる。
その分、陵墓の土台の部分や菊の御紋章が施された青銅の門がよく見える。
大正天皇の母・柳原愛子は、明治天皇に使える女官だった。正妻である皇后には子供がおらず、女官が産んだ子供が天皇となったのだ。
皇后以外に5人の側室がいたとされ、息子5人、娘10人をもうけた明治天皇と違い、大正天皇は一夫一婦制を守った。
ウィキペディアにはこう書かれている。
『 大正天皇との夫婦仲は至って良好で、慣例を打ち破って夫の身辺の世話を自ら見たという。また皇子を4人儲け、一夫一妻制の確立に寄与し、宮中での地位は絶大なものがあった。』
美智子さまに通じる印象を受ける貞明皇后は、1951年5月17日に66歳で亡くなった。
昭和天皇の武蔵野陵
多摩陵から東に向かって杉木立ちの中を進む。
大きな樹木を間に挟んで、2つの陵墓が並んでいるのが見えてくる。
東側にあるのは昭和天皇の妃・香淳皇后のお墓「武蔵野東陵」だ。
香淳皇后は96歳まで生きて2000年に亡くなったので、まだ記憶に新しい。
香淳皇后も子作りで苦労した。4人目までの子供は全員女の子だったため、華族たちから「皇后さまは女腹」と非難された。側室制度の復活が本格的に検討されたが、昭和天皇が「人倫に反することはできない」として、これを拒否したという。
男の子を産めない皇后への風当たりはいつの時代も厳しかったようだ。
そして、最後にお参りしたのは昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」。
昭和天皇が崩御したのは、1989年1月7日。当時警視庁クラブで取材していただけにこの日の記憶は鮮明だ。大喪の礼を狙ったゲリラ事件も起きた。
昭和天皇のお墓は、大正天皇に比べて石段の数がかなり少ない。
皇后のお墓とさして変わらない高さになっていたのは、意外だった。威圧感を減らす狙いがあったということだ。
軍部により現人神に祭り上げられ、戦後は象徴としての役割を演じることとなった。文字通り、激動の天皇だった。
60年を超えるその在位期間は、実在したと考えられている継体天皇以降の天皇の中で最長だを記録した。
参道の鯉のぼり
代替わりの10連休に訪れた歴代天皇の墓。
思いの外空いていて、とても面白かった。大正天皇や昭和天皇がどのような人で、時代の荒波の中で何を考えていたのか、興味が湧いてきた。
帰り道は正門からまっすぐ伸びるケヤキ並木の道を進み、あえて遠回りしてみることにした。
これが正式な参道である。
両サイドに歩道が整備されていて、歩きやすい。
ケヤキも大きく育ち、太陽の日差しを遮ってくれた。ケヤキの新緑も美しい。
途中、南浅川にかかる橋を渡ると、下流にたくさんの鯉のぼりがたなびいているのが見えた。
今日は、5月の節句だ。
まっすぐ進むと、参道は甲州街道にぶつかる。
ここを右に曲がると高尾駅に至る。
「多摩御陵参道」と書かれた石碑が建っていた。
昭和天皇が亡くなる前まで、武蔵陵墓地は多摩御陵と呼ばれていたのだ。
甲州街道の街路樹は、ケヤキではなくイチョウに変わる。
甲州街道のイチョウ並木は有名だ。秋の黄色いイチョウもいいが、新緑のイチョウもいい。
この正式な参道を通ると、高尾駅までは30分ほどかかる。かなりの遠回りだ。
誰でも無料で参拝できる武蔵陵墓地。
東京近郊の意外な穴場で、日本人と天皇を考える上では絶対に訪れる価値のある場所である。
オススメだ。