🇯🇵茨城県/鹿嶋 2022年10月9~10日
孫のお宮参りを目的に、初めて鹿島という土地を訪れた。
茨城県の南東端、鹿島というと真っ先にサッカーの鹿島アントラーズをイメージするが、茨城県と千葉県の県境に位置するこのエリアは日本有数の大河、利根川の河口域であり、霞ヶ浦や北浦を擁する水郷地帯としても知られる。
私は一度この地を訪れたいと以前から考えていた。
その理由は「鹿島神宮」と「香取神宮」という2つの歴史ある神社の存在である。
今では関東地方の辺境という印象があるこのエリアは、かつて東国の中心的な場所だったようなのだ。

平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」という神社の一覧には全国2861の神社が格付けと共に記載されているが、この一覧に記された「式内社」の中で“神宮”と呼ばれるものはわずか3つ、伊勢神宮のほかにこの鹿島神宮と香取神宮しか存在しないのだ。
明治政府は国家神道を国策遂行に利用するため「延喜式」に倣って新たに神社の等級化を行い神宮の数を増やしたが、江戸時代までは伊勢、鹿島、香取が正式な日本三神宮とされたようである。
それにしても畿内から遠く離れた茨城や千葉になぜ神宮が置かれたんだろう?
それが私がずっと抱いてきた疑問だった。
たまたま三男が結婚したお嫁さんが鹿島の出身だったことから、孫のお宮参りという名目で、今回念願の鹿島神宮、香取神宮に詣でることが叶ったのだ。
鹿島への旅

鹿島は正直言って交通の便が悪い。
鉄道を利用すると乗り換え乗り換えで時間がかかり、東京駅の八重洲口から直通バスで行くのが一般的らしい。
バスと聞くとちょっと不便なイメージがあったが、東京駅直結のバス停に行くと10分から20分おきにバスが出ていた。
利用客も予想外に多い。
料金も現金なら2000円、スイカを使えば1850円とリーズナブルである。

バスは東京駅を出発後、東関東自動車道をひた走り、成田空港を越え利根川にぶつかるあたりで一気に視界がひらけた。
それまで続いていた林が消え、見渡す限りの地平線が眼前にひらけたのだ。
このあたりの土地は、古代にはすべて「香取海」と呼ばれる内海だった。
利根川ももともとは東京湾に注いでいたが、氾濫対策として江戸幕府の手によって現在の河口へと流れを付け替えられたものである。

バスは潮来インターで高速を降りた。
潮来といえば、私より上の世代はすぐに橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」に登場する潮来の伊太郎を思い出す。
それにしても潮来という地名は何やら津波と関係がありそうだ。
そう思い、その地名の由来を調べてみると、水戸黄門として知られる水戸藩第2代藩主水戸光圀が現在の漢字に地名を変えたが、その昔は「伊多久」「板久」と書いて「いたく」と読んだという。
その意味は諸説あって、「大きな砂粒」という意味だというものもあれば、台地の縁という地形を表したという説もある。
最も興味深いのは、8世紀に書かれた『常陸国風土記』の記述を根拠とする説。
崇神天皇の時代、東国平定のために常陸 に派遣された建借間命が国栖(土着の先住民)の夜尺斯(やさかし)、夜筑斯(やつくし)を 討った際に、国栖らは大変痛がりながら死んだことが「いたく」の名の由来だというのだ。
崇神天皇は「四道将軍」と呼ばれる4人の将軍を全国に派遣し、ヤマト王権の支配を全国に広げた天皇として知られる。

私たちは宿泊先である「鹿島セントラルホテル」で途中下車したが、ここまでかかった時間は1時間半ほどと意外に近かった。
そして、このまま終点まで乗ると鹿島神宮である。
現在の鹿島

ホテルが建っているのは鹿島市の南、千葉県との県境に位置する神栖市。
ホテルの11階の部屋から見下ろすと、北海道を思わせるような広々とした平野がどこまでも続いていた。
大きなビルはほとんどなく、道路の幅が広くて、その道路沿いには有名なチェーン店が並んでいる。
ある意味、日本のどこにでもありそうな街であり、さほどの個性は感じられない。

レンタカーを借りて、鹿島周辺を走り回ってみる。
こちらは鹿島アントラーズの本拠地、カシマスタジアム。
前庭にはアントラーズで活躍したジーコ選手の銅像とともに、歴代の中心選手たちの足形が埋め込まれていた。

ジーコの銅像。
確かに似ている。
ブラジルのスター選手だったジーコが日本の実業団チーム住友金属に移籍したのは1991年、2部リーグに低迷していた弱小チームを一から作り直した。
そして1993年に Jリーグがスタートすると、住友金属を母体とする鹿島アントラーズの中心選手として活躍し、チームをファーストステージ優勝に導いた。

足形のレリーフを見て歩くと・・・
ジーコの足の裏はこんな感じ。

私が好きだった元ブラジル代表レオナルドの足形もある。
ジーコもレオナルドも思いのほか足が小さくて、とてもスリムな足の裏をしていた。

それに比べて、日本代表のディフェンスとしても活躍した秋田豊の足はいかつくて大きかった。
全体的に日本選手の足形がブラジル人のそれよりも大きいのは意外であった。

かつてジーコが所属した住友金属の工場も見に行った。
鹿島コンビナートの中心に位置する製鉄所は、もうもうと煙を吐き出す20世紀の遺物のようだった。
住友金属は新日鉄と合併し、今では日本製鉄鹿島製鉄所と名前も変わった。
そして鹿島アントラーズのオーナーも、今ではメルカリに代わっていたことを今回初めて知った。

鹿島臨海工業地帯は1960年代、農業県だった茨城県に重工業を誘致しようと、砂丘を掘って作られたY字型の掘込式の港が建設された。
もともと遠浅の海だった場所に人工的に作り上げられた鹿島港を見ていると、自然を意のままに作り変えていこうという高度成長期の日本人の熱意と欲望を感じることができる。

この鹿島港の対岸にはコンビナートを見渡す展望台を備えた港公園が整備されていた。
訪れる人もいない広々とした公園だが、肝心の展望台は老朽化のために一昨年から立ち入り禁止となっている。
なんとなく、時代の変化を感じさせる光景に見えた。

ホテル近くにある神栖中央公園ではこんなものを見つけた。
太平洋戦争末期、人間爆弾と呼ばれた特攻機「桜花」を復元したものだ。
自力飛行ができない「桜花」は、一式陸上攻撃機に吊り下げられて攻撃目標に接近し、切り離されたのちロケットエンジンで短時間加速、そのまま敵艦に体当たりする特攻兵器として開発された。
戦時中、鹿島には神之池海軍航空隊と内閣中央航空研究所鹿島実験場があり、ここで「桜花」の特攻訓練が行われた。
霞ヶ浦周辺には予科連の名で知られた霞ヶ浦海軍航空隊の基地もあり、現在も霞ヶ浦の北側に航空自衛隊百里基地があって首都圏防衛の要となっている。
香取神宮

さて、いよいよ本題に入ろう。
ホテルに到着後、すぐにレンタカーを借りて向かったのは利根川の対岸、千葉県香取市にある「香取神宮」だった。
駐車場から続く参道にはお団子やわらび餅を売る店が軒を並べていたが、有名観光地の門前に比べるとささやかなものである。
古くから格式の高い神社にもかかわらず、下総国の一宮である香取神宮は地元では有名なのかもしれないが、全国的には知名度は低く、首都圏でも鎌倉や日光に比べて知る人は少ないだろう。

関東を中心に全国に400ほどある香取神社の総本社である「香取神宮」。
社伝によれば、創建は神武天皇18年と伝えられるが詳しいことはわからない。
721年に成立した「常陸国風土記」にも記述があるため、少なくともその頃までにはこの場所に神社があったと考えられる。

鳥居を抜けると、鬱蒼とした巨木の森の中を参道が伸びていた。
この森の全景が亀に似ていることから「亀甲山」と呼ばれていたそうだ。

三連休でもさほど観光客も多くないと油断していると、拝殿の前には行列ができていた。
香取神宮に祀られている祭神は「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」。
出雲の国譲り神話に登場する神様である。
香取神宮のホームページを見ると、こんな説明が書かれていた。
はるか昔、高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大神(あまてらすおおみかみ / 伊勢神宮・内宮の御祭神)は、葦原中国(あしはらのなかつくに / 現在の日本)は自分の息子が治めるべきだとお考えになりました。
引用:香取神宮公式サイト
葦原中国は荒ぶる神々が争い乱れていたため、天照大神が八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神であるということで出雲国の大国主神(おおくにぬしのかみ)の元に遣わされましたが、天穂日命は大国主神に従い家来になってしまいました。次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされましたが、天稚彦もまた忠誠の心なく、大国主神の娘である下照姫(したてるひめ)を妻として自ずから国を乗っ取ろうとし、天照大神の元に戻りませんでした。
このようなことが二度つづいたので、天照大神が八百万神にもう一度慎重に相談すると、神々が口を揃えて、経津主神こそふさわしいと言いました。 そこへ武甕槌大神(たけみかづちのかみ / 鹿島神宮の御祭神)も名乗り出て、二神は共に出雲に派遣されることとなりました。
出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いた経津主、武甕槌が十握剣(とつかのつるぎ)を抜き逆さに突き立て武威を示すと、大国主神は天照大神の命令に従い葦原中国を譲りました。
二神は大国主神から平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、日本の国を平定して、天照大神の元へ復命されたのです。

この話は史実ではなくあくまで神話ではあるものの、私にはどうしてもヤマト王権の全国征服の歴史に見えてしまう。
つまり、大陸である「高天原」から渡って来た2人の将軍が、もともと日本列島「葦原中国」を治めていた豪族たちを武力で屈服させ、国を譲らせたという史実を神話の形で表しているように思えるのだ。
そして日本書紀や古事記が書かれた奈良時代、まだ広大な内海だったこの地域は東北地方で繰り広げられていた蝦夷との戦いの一大補給基地となっていた。
この内海の入り口の南側を守っていたのがここ「香取神宮」なのだ。
大国主が登場する国譲り神話は出雲を舞台にしたお話ではあるが、関東でも同様にヤマト王権に従わぬ地方豪族を武力で打ち滅ぼしたのだろう。
それが、潮来の由来となった「いたく」の伝承として残ったのだと考える。
鹿島神宮

内海の入り口の南側に建てられたのが「香取神宮」なら、北側に建てられたのが「鹿島神宮」である。
鹿嶋市の中心部に位置する広大な鹿島神宮の森は、周囲に比べ一段高い山のような場所だった。
門前の様子も香取神宮に比べて賑やかだ。

鹿島神宮に祀られるのは「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」。
香取神宮の祭神と一緒に出雲の国譲りに登場した神様である。
すなわち、内海の入り口を仁王像のように武の神が守っているように見えるのだ。
日本書紀などが書かれた奈良時代、朝廷は蝦夷討伐のために東国で武士を集め、装備を整えて船で北へと出撃していった。
出征する武士たちは2つの軍神に武運を祈願したに違いない。
8世紀は蝦夷征討が佳境だった時期にあたり、東国にある鹿島・香取の2つの神社に「神宮」の呼称が与えられたのも当時この場所が朝廷にとって極めて重要だったことを意味するのだろう。

折悪く、鹿島神宮の拝殿などいくつかの建物では改修工事が行われていた。
こうなるとありがたさも半減してしまうが、偶然お嫁さんのお父さんが宮司さんの同級生だということで、特別に本殿を裏手から見せてもらえることとなった。

徳川幕府2代将軍秀忠が寄進したと伝わる立派な本殿の裏には、高さ45メートルもある大きな杉の木が立っていた。
写真では伝わらない迫力がある。
宮司さんは神宮の歴史を滔々と語り、「年配の方の中にはここは戦争の神様だという方もいるがそうではない」と今の世の中に受け入れられるような説明をしてくれたが、蝦夷討伐の後もここは軍神として多くの武士や軍人たちの信仰を集めてきたことは紛れもない事実だ。
藤原氏との関係

鹿島神宮と香取神宮が伊勢神宮と並んで昔から「神宮」の名を与えられ朝廷から重要視されたのには、蝦夷討伐とは別にもう一つ理由がありそうだ。
それは藤原氏との深い関係である。
天武天皇によって編纂が始まった「日本書紀」だが、完成時にはすでに天武天皇は亡くなり、実権は天武天皇の妃であった持統天皇と重臣である藤原不比等が握っていた。
藤原不比等は、かつて大化の改新と呼ばれた乙巳の変で、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を倒した中臣鎌足の息子であり、平安時代に栄華を極めた藤原氏の基礎を築いた人物だ。

藤原氏の氏神を祀る奈良の「春日大社」の祭神は、第一が鹿島神宮の武甕槌命、第二が香取神宮の経津主命とされている。
どちらも藤原氏の守護神とされていて、鹿島神宮の宮司は代々中臣氏が務めていた。
奈良のシンボルである鹿も、鹿島神宮の「神使」であり鹿島神が鹿に乗って降り立ったという神話に基づいて春日大社でも「神使」として大切に守られてきた。

春日大社の「鹿苑」は有名だが、その元となった鹿島神宮にも鹿たちが飼われている「鹿園」がある。
鹿島神宮のホームページに、鹿の由来が書かれていた。
『国譲り神話において、鹿の神である天迦久神が、天照大御神の命を武甕槌大神に伝える重要な役割を担ったことから、現在でも鹿が神の使いとして大切にされています。』
それにしてもなぜ藤原氏は東国の神々を奈良に迎えたのか?
一つのヒントとなるのが、中臣鎌足がこの常陸国の出身だったという説である。

鹿島神宮の近くに「鎌足神社」があるという話を知り、わざわざ探し出して訪ねてみた。
それは住宅街の中にひっそりと佇む拍子抜けするほど小さな神社だった。

境内に立つ案内板にはこう書いてあった。
鎌足神社境内地は、古来より藤原鎌足の誕生地と伝えられています。鎌足の出生地には鹿嶋のほか、奈良県の藤原(橿原市)や大原(明日香村)説などがあり、定説はありません。
鎌足は本姓を中臣といい、推古天皇22年(614)に生まれ、皇極天皇の時代(642〜644)に都へ上り、大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)を助けて蘇我氏を滅ぼし、大化の改新の偉業を果たしました。鎌足は死の直前、天智天皇から藤原の姓を賜り、その子孫は藤原氏として栄え、平安時代には摂政・関白として当時の朝廷を主導しました。
境内地は市指定史跡で、明治25年(1892)に建てられた「大織冠藤原公古宅址碑」の石碑もあります。
「鎌足神社」案内文より
ウィキペディアなどを見ると、中臣氏の鹿島出身説を完全否定しているが、全ては天皇に都合のいいように改ざんされている日本史を疑う私から見れば、鎌足が鹿島で生まれたとしても不思議ではないと思うのだ。
そのくらい強いつながりがなければ、わざわざ鹿島の神を奈良に呼んで祀ったりしないだろう。
古代史を夢想する

鹿島をめぐる1泊2日の旅の最後に、北浦にポツンと立つ鹿島神宮の一之鳥居に立ち寄った。
水上鳥居としては日本最大だという。
正確に言うと、これは「西の一之鳥居」と呼ばれるもので、太平洋に面した「東の一之鳥居」も存在するらしい。
さらに北と南にも実は一之鳥居があって、鹿島神宮には4つの一之鳥居が存在するのだという記述も目にした。
真相はよくわからないが、いずれにせよ鹿島の神はこれらの鳥居のどれかをくぐって神宮にやってきたということになっている。

初めて訪れた鹿島の地で私が考えたこと。
それは鹿島神宮と香取神宮はやはり天皇を中心としたヤマト王権が関東を征服した証として建立されたのだろうという仮説だった。
ポイントとなるのは第10代崇神天皇の時代。
実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半のことだろうとみられるが、その崇神天皇10年に「四道将軍」を各地に派遣し武力で征服、支配地域を拡大した。
鹿島を含む現在の関東もこの時代にヤマト王権の支配下に入ったのだろう。
そして日本書紀にも天皇に仕える高官「大夫(まえつきみ)」として登場する「大鹿島」が東国支配を固めるためにこの地に派遣され、2つの神社を建てたのではないかと推察する。
この大鹿島が中臣氏の祖先に当たり、代々鹿島神宮の宮司を務めることになる。
関東を支配下に置いた朝廷はその後も先住民の蝦夷を掃討しながら北に支配地を広げていく。
多賀城に前線基地が置かれた後も、大きな香取海を擁する鹿島の地は船の運航や物資の集積に適した場所として重要視され、この地に鎮座した鹿島・香取の軍神は武士たちの信仰を集め、征服した東北各地にゆかりの神社が次々に作られていった。
こうして地方の神に過ぎなかった鹿島・香取の神は、全国的に有名な存在となり、大化の改新によって藤原氏が権力を握るようになるに従って、権力中枢への影響力を高めていく。

こうした推理はにわか勉強の末に私が空想した絵空事に過ぎず、肝心の3世紀から4世紀ごろの客観的資料が残っていないことから、歴史の真実は未だ闇の中にある。
それでも、鹿島周辺を含む現在の関東地方には、今のアイヌに近い人たちが暮らしていて、そこへ西から来たヤマト王権が武力で先住民を追い出していったことは間違いないと思っている。
そしてヤマト王権は大きな内海があったこの地に鹿島・香取の両神宮を建て、東国支配の拠点としたのだろう。
関東の歴史を振り返る時、鹿島は東京よりもはるかに先進地域だったのだ。
古代から水郷地帯だった特殊な地形がこのエリアに独自の歴史と信仰を育んだ。
湖に沈む夕日を眺めながら、そんなことを感じて、東京への帰路についた。
東京駅からわずか2時間以内に行ける鹿島神宮と香取神宮。
鎌倉や日光同様、いやそれ以上に私たち日本人のルーツを知る意味で重要な場所だと感じた。