<きちたび>奈良の旅 2019〜春日大社と興福寺で「神使」の鹿と藤原氏について学ぶ

🔶「旅したい.com」から転載

<奈良>春日大社と興福寺 鹿たちと戯れながら、「神使」と藤原氏について学ぶ

🇯🇵奈良 2019年11月30日~12月1日

奈良と言えば、鹿。たくさんの鹿たちがのんびりと通りを歩く姿には、世界中の観光客が目を細めます。

それにしても、なぜ、鹿なのでしょうか?

それは、春日大社に祀られている神様が白い鹿に乗って奈良にやって来られたからです。鹿は、神の使いとして大切に扱われてきました。

武甕槌命(タケミカヅチノミコト)というその神様は、茨城県の鹿島神宮から奈良に迎えられました。迎えたのは、中世日本の大権力者・藤原氏です。

天皇家も絡んだ古代史の謎に誘われて、世界遺産の春日大社にお参りしてきました。

春日大社と藤原氏

奈良を訪れるのは、小学校の修学旅行以来かもしれません。

明治42年開業の「奈良ホテル」に宿を取り、まずは奈良を代表する寺社仏閣を回ることにしました。

最初に訪れたのは、世界遺産「春日大社」から。

全国に3000ある春日神社の総本社で、768年に中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために建てられました。

参道には、寄進された灯籠が隙間なく並びます。

奈良時代から平安時代にかけて天皇家を超えるような権勢を誇った藤原氏の力と、子孫の繁栄を象徴しているように感じました。

二の鳥居を過ぎると、参道は徐々に登りになります。

春日大社は、春日山の中腹に建てられ、その背後は広大な原生林のまま保存されています。

神社の起源について、春日大社の公式サイトを見ると・・・

春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨城県鹿島から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して千葉県香取から経津主命様、また大阪府枚岡から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。

春日大社公式サイトより

「御蓋山」というのは、春日山のことです。

春日山の山頂に、鹿島神宮の祭神である武甕槌命を迎えたのは、平城京遷都当時の実力者・藤原不比等と言われています。

そして時代が下って768年、不比等の孫にあたる藤原永手によって朱色も鮮やかな春日大社の社殿が建設されました。

その際、茨城・鹿島神宮の武甕槌命に加え、千葉・香取神宮から経津主命(フツヌシノカミ)、大阪・牧岡神社から天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と比売神(ヒメガミ)を迎えて、四神を藤原氏の氏神として祀ったのです。

武甕槌命と経津主命は天照大神によって下界の平定のために派遣された軍神です。天児屋根命は中臣氏のルーツとされる神、そして比売神は天児屋根命の妻とされる女神だそうです。

春日大社の社殿は20年に一度、造りかえや修繕が行われ、「式年造替」と呼ばれます。

伊勢神宮の有名な「式年遷宮」のように建物を完全に新築する訳ではないようですが、直近の式年造替は2016年に行われたのでその朱色はまだ色鮮やかです。

鹿は春日大社の「神使」

春日大社の参道を進む時、いやでも遭遇するのが奈良のシンボルとも言える「鹿」です。

人をまったく恐れない鹿たちは、観光客の人気者。

和服を着た中国人カップルが、恐る恐る鹿との記念撮影に挑みます。

鹿はひるむ様子もなく、カメラに向かってポーズを決めているようにも見えます。

慣れているというか、堂々としたものです。

奈良公園の中だけでなく、周辺の道路も悠然と歩いています。

奈良では「鹿に注意」の標識が至る所に立てられていて、鹿が道路を渡る時には、車は止まらなければなりません。

こうして奈良の鹿たちが大切に守られているのは、春日大社と深い関係があるからです。

春日大社の参道で目を引く鹿の像。

「伏鹿手水所(ふせしかのてみずしょ)」と言います。

春日大社ならではの珍しい手水舎です。

春日大社にお参りする人は、ここで手を清めて参拝するのですが、ここに鹿の像が置かれているのは、鹿が春日大社の「神使」だからです。

「神使(しんし)」とは、文字通り「神の使い」。神道において神の使者もしくは神の眷族で、神意を代行して現世と接触する者と考えられる特定の動物のこと。

武甕槌命が、鹿島から御蓋山の山頂に降り立った時にも、白い鹿に乗っていたとされています。

元をたどれば、武甕槌命の元に天照大神が送った使者が鹿の神霊だったという神話から、鹿島神宮の神使は鹿とされており、それがそのまま春日大社にも引き継がれたようです。

ちなみに、神使というのは神社ごとに違うようで、調べてみるととても興味深いことがわかりました。

例えば、伊勢神宮の神使は「鶏」、出雲大社は「海蛇」、金毘羅宮は「蟹」が神使だそうです。

七福神で言うと、大黒天の神使は「鼠」、弁財天は「蛇」、毘沙門天は「ムカデ」といった具合で、古代日本の風土や当時の日本人の想像力が感じられます。

もう少し神道について勉強してみたいと思いませんか?

春日大社では、おみくじを買うことができます。

通常のおみくじは200円ですが、「鹿みくじ」は500円、「白鹿みくじ」は600円でした。

ここでは、鹿さまさまなのです。

藤原氏と鹿島神宮

ここで一つ、疑問が浮かびました。

藤原氏はなぜ、わざわざ東国の神を奈良の都に呼び寄せたのでしょうか?

それが気になって調べてみると、大権力者・藤原氏のルーツとなにやら関係がありそうなことがわかりました。

藤原氏の始祖といえば、大化の改新でおなじみの中臣鎌足。

鎌足は共に蘇我氏を討った中大兄皇子、のちの天智天皇によって、「藤原」の姓を賜ったのですが、もともとは「中臣氏」でした。中臣氏は、古来より忌部氏とともに神事・祭祀を司った中央豪族です。

鎌足の出生地は、大和国(奈良)とする説もありますが、平安時代に書かれた歴史書「大鏡」などでは、常陸国鹿島(茨城)と記されています。

鹿島には春日大社よりもずっと古い、神武天皇紀元元年の創建と伝えられる鹿島神宮があり、当時は大和朝廷が進める蝦夷討伐の前線本部となっていました。

鹿島神宮の祭神である武甕槌命は、天照大神の命を受けて地上に派遣され出雲で大国主命と国譲りの交渉をまとめました。神武天皇東征の折には神剣「フツノミタマノツルギ」を渡して天皇を助けたとされる当時最強とされた軍神です。

武甕槌命とともに出雲に派遣されたのが香取神宮の祭神である経津主命。つまり地上を平定した最強コンビ、武甕槌命と経津主命の加護を受けて天皇を中心とした統一国家づくりが進められていたのが当時の日本の状況でした。

しかし関東までは手中に収めた統一事業も、東北を拠点とする蝦夷(エミシ)の抵抗にあって難航。2大軍神を祀る鹿島と香取は、蝦夷討伐の前線本部となっていました。

そしてこのエリアこそ、中臣氏の古くからの地盤だったと考えられていて、鹿島神宮の宮司は長きにわたって中臣系の一族によって世襲されています。

ヤマトの中心地、奈良で権力を握った藤原氏は、先祖代々の氏神である武甕槌命と経津主命を祀るために春日大社を創建したということなのでしょうか?

そのあたりのことは、専門家の間でも意見が分かれていて本当のところはまだよくわかっていません。

日本古代史の原点となる「日本書紀」自体、不比等の時代に編纂されているため、その内容には天皇家や藤原氏の都合も反映されていると考える方が自然でしょう。

何れにせよ、二大軍神のご加護があったためか、不比等の子孫のみが名乗ることを許された藤原氏の一族は、代々天皇家に食い込み権力を拡大させていったのです。

ちなみに、春日大社の敷地内に2016年、「春日大社国宝殿」という施設が建てられました。

1階フロアには、春日若宮おん祭での舞楽の演奏に用いられる日本最大級の鼉太鼓(だだいこ)を展示してあります。

ここは撮影OKですが、肝心の国宝が展示されている2階は撮影禁止でした。

もっと勉強すれば、国宝の価値もより理解できるようになるんでしょうが・・・。

藤原氏のルーツや天皇家との関係など、私にはまだわからないことがいっぱいです。

藤原氏の菩提寺「興福寺」

翌朝、藤原氏の菩提寺である世界遺産「興福寺」にも行ってみました。

興福寺は、藤原鎌足の妻・鏡女王が建立した山科寺を前身とし、平城京遷都とともに710年に藤原不比等によってこの地に移されました。

神仏習合思想のもと、藤原氏の氏寺である興福寺は、藤原氏の氏神である春日大社と一体化しそれを支配下に置きます。そして、藤原摂関家が絶対権力を手に入れるのに合わせて、興福寺も比叡山延暦寺と並ぶ「南都北嶺」と呼ばれる強大な権力を手にしたのです。

興福寺のトップである別当のポストも、長年にわたって藤原摂関家出身者が独占しました。

しかし、藤原氏の衰退とともに寺の勢力は徐々に衰え、最後は明治政府による神仏分離令が止めを刺します。興福寺の土地は明治政府に没収され、境内の一部は奈良公園となりました。興福寺と一体とされていた春日大社も分離・独立し、興福寺は廃寺同然となったのです。

興福寺では今、そうした過去の栄光を復活させるプロジェクトが進行中です。

午前8時前、ちょうどお坊さんたちが本坊から出てこられるところに遭遇しました。

一列になって朝のお勤めに向かう僧侶たちを、鹿たちが見送っています。

のどかな奈良の朝。

お坊さんたちは、興福寺の総本堂にあたる中金堂に入っていきました。

他の建物に比べて、朱色も鮮やかで真新しい印象の中金堂。

それもそのはず、昨年2018年10月に再建されたばかりだそうです。

中金堂は興福寺の中核となる施設ですが、これまでに7度も消失。1717年の大火災で燃えた後はなかなか再建ができませんでした。

実に、301年目。文字通り、悲願の再建だったのです。

蘇った中金堂を見ると、平城京の時代には「わびさび」の世界はなく、中国や朝鮮から伝わった極彩色の仏教文化の世界がそのまま受け入れられていたことがわかります。

中金堂の前には、礎石だけが残された南大門跡。

平城京の正門である「朱雀門」にも匹敵するほどの大きな門だったそうですが、やはり1717年の火災で中金堂とともに焼失しました。

現在進められている興福寺の整備計画では、2023年までに南大門跡の発掘調査も行われることになっています。

1717年の火災では、こちらの南円堂も焼失しました。

813年藤原冬嗣が父・内麻呂の冥福を祈って建てた八角堂で、藤原氏の中でも最も権力を握っていた藤原北家の祖を祀った建物だけに、火災後いち早く再建されたようで、現在は国の重要文化財となっています。

南円堂には、「西国三十三所観音霊場」の第九番札所として、今もお参りする人が絶えません。

その軒先に実ったオレンジ色の果実が気になって調べてみると、「橘(たちばな)」の実だとわかりました。

橘といえば、京都御所にも植えられている「右近の橘」が有名ですが、日本にもともと野生していた固有の柑橘類はこの橘と沖縄のシークァーサーの2種だけなのだそうです。

今私たちが食べている柑橘類の多くは、江戸時代以降、日本人に食べられるようになった外来果物のようです。

知ってましたか?

国宝と再建

一方、1717年の火災を免れた建物は、見た目も「わびさび」で、すべて国宝に指定されています。

まずは、藤原不比等の菩提を弔うため元明上皇が建てた北円堂。

1180年、平重衡の南都焼打ちで焼けましたが、1210年には再建され、興福寺最古の建物として国宝に指定されました。

元正上皇の病気平癒を祈って聖武天皇が726年に建立した東金堂。

6度も被災しましたが、室町時代に再建された建物が国宝です。

東金堂の隣に立つ有名な五重塔は、730年に不比等の娘である光明皇后の発願で建てられました。

5回の被災を乗り越え、現在の塔が建てられたのは1426年。

奈良を象徴する塔であり、もちろん国宝です。

ちょうど私がお参りした時に五重塔の向こうから朝日が昇ってきました。

建物に造詣が深くない私などには、こうしたシルエットの方がむしろありがたい感じがしてしまいます。

一方こちらの三重塔は、創建されたのは時代がだいぶ降った1143年と遅いのですが、あまり火災に合わなかったため、北円堂と並んで興福寺最古の建物として国宝に指定されています。

こうしてみてくると、災害列島日本にある以上、火災で失われることは避けられないことがわかります。

でも、きちんと再建していればいつか価値が出る。今はピカピカの中金堂もやがて国宝になる時がやってくるかもしれません。

興福寺の五重塔は、まさに奈良の街のシンボルです。

この塔が再建されていなければ、奈良の魅力も半減してしまっていたでしょう。

こうした木造建造物は、被災してもきちんと再建していくことが重要です。それは欧州の石文化と違い大変な労力が必要ですが、残し再建することで郷土愛の源泉となり、多くの観光客がその土地の歴史に興味を抱くきっかけにもなるのです。

夜、食事を終えてホテルに戻る途中、ライトアップされた五重塔を見ました。

昼間とはまた違った存在感があり、ちょっと感動してしまいます。

昭和の時代、日本各地のお城が鉄筋コンクリートで再建されましたが、せっかく再建するなら時代考証をしてちゃんと木造でやらなければなりません。

そうすれば、将来国宝になるかもしれず、国内外から多くの人を惹きつけてくれるに違いありません。

日本の歴史の中でもあまり興味が湧かない奈良・平安時代。だから、藤原氏についてはほどんどなんの知識も持ち合わせていません。

でも、藤原氏を知ることは、天皇を中心とした日本社会を知るためには不可欠だということがわかりました。

春日大社と興福寺。

奈良にある2つの世界遺産を回りながら、まだまだ解明されていないことも多い日本の古代史について調べてみるのも楽しいかもしれません。

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