最後の伊勢神宮参拝
退位された平成の天皇が、皇后と一緒に伊勢神宮に参拝したのは4月18日のことだった。
天皇はモーニング姿。
午前中に外宮、午後に内宮に参拝し、退位の報告を行った。
陛下の前後には、皇位のしるしである「三種の神器」のうち剣と璽(じ=まがたま)をささげ持った侍従が随行した。儀式の場には、伊勢神宮で祭主を務める長女、黒田清子さんも立ち会った。
今年のGW、私も伊勢神宮を訪れるのにあたり少し関連本などを読んでみたが、その中に一冊のとても興味深い本と出会った。
武澤秀一著「伊勢神宮と天皇の謎」という文春新書だ。
メディアで伝えられる伊勢神宮にまつわる「常識」は、どうやら明治政府が作り上げたもので、その歴史を振り返ると意外な姿がいろいろと見えてくるようなのだ。
『現在の伊勢神宮は古代と寸分違わぬと、多くのひとが思っている。マスメディアがこぞってそう喧伝しているのだから、信じ込むのも無理はない。
伊勢神宮では式年遷宮と呼ばれる慣行により、はるか昔に生まれた最初の社殿が20年に一度、まったく同じ形と大きさで、営々と建て替えられてきたというわけだ。
しかし、それは事実と大きく異なるのである。』
出だしからこんな感じで、いきなり引き込まれる。
武澤氏の意見がどこまで真実なのか私には判断できないが、印象に残った部分を引用させていただこうと思う。
変化する伊勢神宮
『 伊勢神宮のたたずまいは、古代の昔からずっと変わらずに今日に伝わっている、そうわたしたちは思っている。しかし、さきほど渡ってきた宇治橋が現在の場所に架けられたのは、鎌倉末期とみられる。
冬至の早朝には、宇治橋の鳥居中央から日が昇るのを狙ってプロ・アマ、沢山のカメラマンが押し寄せる。しかしこの感嘆すべき日の出は、古代から見られたわけではなかった。この位置に橋が架かったのが後世であることは、神宮関係者も認めるところである。』
五十鈴川を渡り内宮への入り口となる宇治橋ができたのは、鎌倉時代だという。私たちが訪れた日、橋の上は参拝客であふれていた。
橋の手前に広場が整備されたのは、門前町を撤去した大正時代。橋を渡った先の、神域から町屋を撤去されたのは明治20年だという。
宇治橋を渡った先にあったあの「神苑」が、撤去された町家のあとなのだろう。
禊をする五十鈴川の御手洗場が整備されたのは、お伊勢参りブームが起きた江戸時代。境内を埋め尽くす杉の大木は、鎌倉時代以降に植林されたもので、それ以前はシイ、カシ、クスなどの亜熱帯性樹林だったそうだ。
本殿の清々しさを強調する白い玉石も古代にはなかったといい、室町後期、1462年に行われた式年遷宮の頃からと見られている。それだけではない。
『古殿地が何もない空間としてあらわれるようになったのは、明治22年の式年遷宮からである。というのは遷宮の終了後、古殿が20年の役割を終えて解体されるようになったのは、この時からなのだ。
それまでは、2回後の式年遷宮まで古殿を存続させるのが慣行だった。つまり古殿は新殿の隣に、都合約40年の間、建ち続けていたのであった。ただし、40年もたずに倒壊した例も少なくなかった。
江戸時代の絵図を見ると、古殿の瑞垣内にまで参拝者がつぎつぎに入っては出てゆく様子が描かれていて驚く。残していた古殿は、一般に解放されていたのである。』
「古殿地」という伊勢神宮のイメージそのものと言える場所、仕組みが明治の産物だったというのは、衝撃的な話である。
確かに、新旧の2つの社殿が並ぶよりも、玉砂利が敷かれた広大な更地がある方が神聖な印象は強まる気がする。
さらに、気になる記述が登場する。
「式年遷宮」は近代語
『 いまや式年遷宮という語はひろく浸透しているが、式年と遷宮がセットになった「式年遷宮」という語が当初からあったのではなかった。じつは、「式年遷宮」とは近代語なのである。』
武澤氏によれば、20年に一度、宮を造り替えて新しい宮に神が遷る慣行は飛鳥時代から始まったが、「式年」という言葉が登場したのは南北朝時代だという。しかも、中世後期には式年遷宮の中断期間が120年以上続いたそうだ。
『 伊勢神宮は、いうまでもなく皇祖神アマテラスの住まいである。それは皇祖の神威を象徴するものであった。その輝かしい神威を目に見えて明らかにするために、社殿は常に新しく、若々しくあらねばならない。なぜなら、皇祖神の勢いが衰えては、その子孫である天皇の存在基盤が脆弱になってしまうからだ。
定期的に社殿を造り替えて清新さをたもつことは、天皇の存続こそ国の大本と信じる者にとって、ゆるがせにできない一大事だったのである。』
いつ始まったのか?
さて、そもそも式年遷宮はいつ始まったのか?
『 最初の式年遷宮は女帝持統の下でおこなわれたが、じつは先帝天武の代にいたるまで、歴代の天皇は代替わりのたびに王宮を遷していた。当時の王宮は腐食の避けがたい掘立て柱で建てられていたが、それはまた、建てるのに容易なやり方でもあった。
宮を遷すにあたっては、至近の場合もあれば、かなり遠距離の場合もある。いずれにせよ、代替わりことに宮が変わるのは当時の東アジアでも日本だけに見られた特異な慣行で、歴代遷宮と呼ばれる。
終着点となったのは、狭い飛鳥を抜け出た藤原の地であった。そこに計画されたのが、天武が着手した日本初の碁盤目状都市・藤原京である。この恒久の都の中心に藤原宮が位置づけられた。天武は宮の完成を見ることなく没し、持統天皇が誕生。即位の年に、伊勢神宮最初の式年遷宮が挙行された。そして4年後、持統は藤原宮に遷り、歴代遷宮に幕が惹かれた。
藤原京の建設および式年遷宮の開始が、歴代遷宮の停止をもたらしている。言い換えれば、歴代遷宮の停止を引き取る形で式年遷宮が始まったのである。』
『 遷らないためにこそ、藤原京は構想されたというべきだ。恒久的な宮のあり方は権力安定化の基盤をつくり、その継続性の強化に適していたのである。
しかしながら反面、従来の感覚からすると、「歴代」遷宮がもたらす天皇権威の更新と活性化という効能を失ううらみがあった。安定化にともなう活力低下のおそれである。これを補う代替策として、皇祖神をまつる伊勢神宮の「式年」遷宮が始まるのであった。』
アマテラスと持統天皇
現代に続く天皇家の基礎ができたのが、まさに天武・持統の時代とされる。そのことは、つい先日、「天皇家の誕生」という記事に書いたばかりだ。
壬申の乱を制した天武天皇が絶対的な権力を手にしたが、それを引き継いだ天智天皇の娘である持統天皇は藤原不比等を重用し「カメレオン的天皇」に変質させたという見方である。
アマテラスという女神を皇祖神と定めたのも持統天皇を神格化しようとした藤原不比等の計画だったのではないかという見方に乗っかるとすると、伊勢神宮の式年遷宮もその延長線上にあるような気もしてくる。
「アマテラス=持統」を計画した者たちからすれば、アマテラスを祀る伊勢神宮の神威が永遠に続くことは持統天皇の系統が永久に続くことを意図したと考えると、ますます面白い。
武澤氏の見方は、持統天皇その人がアマテラスと一体化することを望んでいたというものだ。
『 朱鳥元年(686年)9月に天武天皇が没したが、その翌月、皇位を狙った謀反のかどで大津皇子が死に追いやられる。大津の父は天武であり、母は皇后の姉であった。
皇后は即位式を経ぬまま、実質的に天皇として権力を行使する。大津の死は持統の主導でなされた。彼女にとって最重要課題は、自分の腹を痛めた草壁を皇位につけることだった。そのような状況の下、持統二年に、皇祖神を祀る伊勢神宮の「式年遷宮」の制が定められたのであった。』
ところが息子の草壁皇子が若くして亡くなり、持統の執念は草壁が遺した幼い孫を皇位につけることへと変わっていく。
万世一系
天武天皇の指示により編纂が進められていた「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」には、天皇、皇后および皇太子制が織り込まれていたとみられ、これで直系による皇位継承のレールが敷かれた。これが「万世一系」のイメージの礎となった、と武澤氏は指摘する。
『持統は天武とは異なる野望を持っていたのである。
最初の式年遷宮を遂行したのは持統天皇であった。まさにその年の正月に、持統の即位式が挙行された。「二十年に一度」の式年遷宮だが、第1回目に制約はない。持統は自身の即位と式年遷宮を同じ年に設定したのであった。
そして天皇自身が伊勢の地を訪れたのは、明治天皇以前では持統と聖武天皇だけなのである。』
持統天皇は天武の重臣たちの反対を押し切って初めて伊勢神宮に行幸した。その目的について、武澤氏はこのように読み解く。
『 結論を先にいえば、この行幸は、自分がアマテラスとして振る舞うことを伊勢神宮に報告し、合わせてその許しを得るためだったというのが私の考えである。
すでに神璽を得ていた持統女帝は天皇在期間中、アマテラスが女神であることを最大限利用した。すなわち、みずからアマテラスとして振舞ったと考えられるのである。<アマテラス=持統>説はそう新奇なものではなく、論拠は様々とはいえ従来から根強くある。
持統は、重臣の再度にわたる諫言を押し切って伊勢親祭を強行した。女神アマテラスとして、自身のプロデュースを決意したのである。生ける皇祖神として、我が身を徹底的に演出するのであった。』
持統は32回も吉野行幸を繰り返した。その理由について武澤氏は・・・
『 持統は道教の聖地である吉野への行幸を繰り返すことによって呪術力を秘かに身につけ、その行使を願っていたのではないか。
何の目的で?
自身がアマテラスになるために。
持統が染まった易の思想によれば、吉野に入ることは「天」に入ることであった。持統にとって「天」とは、他ならぬ高天原であり、何よりもそこはアマテラスのおわす聖地であった。このことは、「日本書紀」が持統没後の諡(おくりな)とする「高天原広野姫天皇」によく表れている。吉野行幸の目的は呪術力を身につけて高天原に入ることだった。そこで持統はアマテラスと一体となり、アマテラスであり続けるための秘儀を繰り返していたのではないか。』
天孫降臨神話
天孫降臨神話にも、この<アマテラス=持統>の構図が強く影響している。
『 神である<アマテラス=持統>の産んだ子は当然神の子であり、孫もまた同様。神話の現実化である。直系子孫を皇位につけるのにこれ以上、盤石な設定はない。
持統がみずからをアマテラスと一体化させていた痕跡は「日本書紀」にも残されている。持統は皇位につけようとしていた息子・草壁が早世すると孫を天皇にしようと画策するが、「日本書紀」の天孫降臨のくだりには、アマテラスが息子ではなく孫を地上につかわす話がある。
地上が平定されたとの報告を受けた高天原のアマテラスは「方に吾が児を降ろしまつらむ」といって地上に息子を降ろそうとするが、孫のニニギが生まれるや言をひるがえす。「此の皇孫を以って代へて降さむと欲ふ」といって、子ではなく、生まれたばかりの孫を地上に降ろすのである。
どうみても不自然な展開だが、これなどはまさに孫を皇位につける持統の姿そのものである。持統をモデルとして、アマテラスにこう語らせているのは間違いない。
まさに天「孫」降臨だが、<皇祖アマテラス‥息子‥天孫ニニギ>の関係は、<持統‥草壁‥孫(=のちの文武天皇)>の関係にそのまま移行するのである。同様の話は「古事記」にも見られる。』
「日本書紀」「古事記」が完成したのは、まさに持統天皇の時代。武澤氏の説の真偽はさておき、日本最古の歴史書は、明確な意図を持って作られたことだけは知っておきたいと思う。
日本書紀に収められている「天壌無窮の神勅」で、アマテラスは次のような趣旨にことを言う。
「この国は私の子孫が王であるべき地である。宝祚(=皇位)は永遠に栄え、それは天地に果てしがないのと同じだ」
持統天皇はみずからの直系が皇位を継ぐことに執念を燃やし、そして実際、持統の直系によって「万世一系」の流れが出来上がるのである。
内宮vs外宮
伊勢神宮の歴史を遡ると、今では信じられないような出来事も起きている。
私が特別面白いと思ったのは、内宮と外宮の対立時代があったことだ。
『 古代律令制がそれなりに機能していた時代は内宮と外宮の関係も安定していた。しかし、武士が台頭して朝廷の力が衰える中世ともなると、エネルギッシュに活動する外宮が教義においても財力においても力を伸ばす。ついに両宮が拮抗し、公然と反目しあう状況が生まれた。』
鎌倉後期には、朝廷に提出する文書に、外宮側がそれまで使っていた「豊受太神宮」に代わり「豊受皇太神宮」と「皇」の一文字を入れ、内宮側と対立する事件が起きる。
外宮側は、外宮が祀る「豊受大神」は天地開闢の根源神である「天御中主」と同一であり、アマテラスよりも根源的な皇祖神であると主張するようになる。
抗争は教義上のことにとどまらず、利害が衝突し、実際に暴力沙汰に及ぶことも珍しくなかったという。
『中でも激烈を極めたのは室町後期に起きた、内宮・外宮それぞれに属する御師たちの、やられたらやり返すという集団実力行使の応酬だった。それは一度や二度でなく、たびたび繰り返されたのである。
御師とは下級神職たちによる信者獲得活動から生まれた、いわば営業マン集団。全国をまわって祭祀に使う大麻を頒布し、祈祷を行う。また庶民をお伊勢参りに勧誘し、道中の手配からご当地での宿泊やおまいりの面倒までみる。それは彼ら自身だけでなく、内宮・外宮のそれぞれを大いに潤した。中世に入って朝廷ばかりに頼っていられなくなった状況の下、神宮はみずから運営財源を確保する必要に迫られていた。特にアクティブだったのが外宮であり、その人気と実力は内宮と肩を並べ、もしくはそれを上回る勢いであった。』
いつの時代もパトロンの財力が衰えると、組織維持のために自力営業に精を出す。そうなるともともとの理屈が影を潜め、営業力あるものが力を誇示するようになるのだろう。
1486年には、内宮門前の宇治の御師と国司の兵が外宮門前の山田に攻め入る「正殿放火事件」が起きる。山田の町が焼き払われ、追い込まれた山田の御師たちは外宮正殿に火を放って応戦したという。
その3年後には、今度は山田の御師たちが報復に出て宇治の町を焼いた。端垣内でも斬り合いが生じ、正殿は地で汚されたという。
この時代、外宮では129年間、内宮でも123年間の間、式年遷宮は行われなかった。
伊勢神宮と仏教
伊勢神宮と仏教の関係も、知らねばならないだろう。
日本では千年以上の間、神社とお寺は合体していた。
『 神まつりの頂点に立ち、仏教ともっとも距離を置いたとされる伊勢神宮も無縁ではなかった。その神郡(かみこおり)には伊勢大神宮寺が建立され、称徳天皇寄進の丈六の仏像が納められていた(神宮寺はその後、移され、のちに廃絶)。なお神郡とは神社の領地とされた郡のことで、租税を神社が収納し、庶務を国司とともに行った。』
『 平安時代にもっとも勢力を伸ばした宗教は、大日如来をいただく密教だった。大日如来はこの世をあまねく照らす太陽神を前身とし、釈迦をも包含する宇宙的な根源仏。太陽の化身という点でアマテラスと共通する。密教はこの点を突いて、大日如来とアマテラスは同体であると説く。平安時代も11世紀以降のことだった。
密教は神まつりの頂点に君臨する伊勢神宮に注目し、内宮・外宮の両宮を両部マンダラと結びつけた。つまり内宮を胎蔵界(陰=女性原理)、外宮を金剛界(陽=男性原理)と位置づけ、両宮が両部マンダラを体現していると喧伝したのである。神宮を密教の世界観でからめとり、すっかりその中に納めてしまった。これが両部神道である。』
こうした内宮と外宮の対立や仏教の影響をすべてぶち壊し、今日の伊勢神宮のイメージを作り上げたのは明治政府だった。
つまり、我々が知る伊勢神宮の姿ができて、まだほんの1世紀しか経っていないというのはちょっと驚きである。
常若と中今
明治時代の大改革については、次の記事で書こうと思うが、武澤氏の本で初めて知った2つの言葉「常若」と「中今」について引用しておこうと思う。
『 神道でよく言われる言葉に、<常若(とこわか)>とか<中今(なかいま)>がある。
<常若>とは文字の通り、常に若々しく、清新で溌剌としていること。<中今>とは時の流れの中で今、この瞬間が中心であり、永遠につながっているということ。』
この言葉を知らなかったということは、私がいかに神道と遠い人生を歩んできたかという証なのだろう。
『<中今>は皇統の連続性において語られた言葉だが、式年遷宮にもよく当てはまるように思われる。皇祖が新しい宮に遷座してもっとも輝く今、この時こそ、悠久の昔から永遠の未来の中で「一番中心の時」と受け止められるからである。
式年遷宮がユニークなのは、<中今>の顕現を建築行為においてリアルに捉える点である。皇祖神という神話的存在を輝かせるために、歴史の時間の中で、宮と建て替える。その時、始原と現在、「永遠」と「今」が結びつく。式年遷宮において<中今>が確実に顕現するのである。
地上の現実は一気に超越性を帯びる。同時に、神話的世界が現実と化す。こうしたマジックを可能としたのは、取りもなおさず、建て替えを前提とする工法の選択であった。』
「常若」と「中今」という言葉が私の心を捉えた。
国家権力と結びついた国家神道には嫌悪感を抱くが、神道の精神には最近興味がある。
還暦を過ぎた私の心のうちに響くものを感じるのだ。
武澤氏の本には、ごくわずかしか触れられていないが、もう少し詳しく知りたくなった。伊勢神宮や天皇に関する興味はさらに神道へとつながっていく。

