伊勢神宮と天皇②

伊勢神宮を頂点とする体制

こうした流れの中で行われたのが、1869(明治2)年の明治天皇による伊勢神宮参拝である。

『 「万世一系」の理念に裏打ちされた、「王政復古」「祭政一致」「神祇官復興」「版籍奉還」という一連の動きの中に、同年3月の明治天皇の伊勢神宮参拝があった。それは明治天皇を神武と二重写しにするとともに、<皇祖アマテラス‥初代神武‥明治天皇>の系譜を目に見えるものにし、「万世一系」の理念を体現するものだったのである。』

そして復古の動きは、急速に高まりを見せる。

『 新政府は古代官社制をモデルとして、伊勢神宮を頂点とする一大体系を創出し、全国の神社を序列化した。

平安時代の「延喜式」は官社を官幣社と国幣社に分け、さらにそれぞれを大社と小社に序列化した。

明治の社格制度はその適用範囲を拡大し、官社の下に諸社を設けた。また、官幣社‥国幣社のそれぞれを大社‥中社‥小社に細分化して序列化の度を高めた。諸社も府・県社‥郷社‥村社と細かく序列化され、これ以外の神社は無格社とされた。こうしてピラミッド状の壮大かつ緻密な体系が出来上がったのである。

その頂点に立つのはもちろん、皇祖をまつる伊勢神宮である。ただし、社格はない。すべてに超越するのが「神宮」なのであった。

注目しておきたいのは、古代官社制をモデルとしつつ、これをはるかに上回る壮大かつ厳密な序列の体系が新政府によって構築されたことだ。全国津々浦々、すべての神社の神々が神宮におわす皇祖アマテラスにしたがい、これを支え、守るという目的は同じだが、その徹底強化ぶりは、とても古代の比ではなかった。』

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伊勢神宮の変化

こうした動きの中で、頂点に立つ伊勢神宮にも変化がもたらされる。

『 政府から神宮に「御改正」が命じられた。最大の眼目は、「内宮と外宮には差があるべきであり、体裁の別を定めよ」という点である。

もともと外宮は内宮につかえる立場にあった。ところが中世以降、明治初頭に至るまで、外宮が政治力、経済力、そして教宣活動において内宮を上回る勢いを見せていた。「万世一系」の天皇の下に新国家の形成を急ぐ政府は、皇祖をまつる内宮がそのような状態にあってはならないとし、是正を厳命したのである。』

この「御改正」を受けて伊勢神宮では、不用な殿舎を撤去するなど整備が始まる。内宮の社殿配置がガラッと変わった。一方、外宮の社殿配置は現状が踏襲された。

そして明治22年の式年遷宮は明治国家形成の中核事業と位置づけられた。

『 「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と謳い上げる明治憲法が発布されたのは、明治に入って二度目の式年遷宮の年、明治22年であった。

これは偶然の一致だろうか?

あるいは、周到に仕組まれたのか?』

『 明治憲法が発布された明治22年とは、一体どういう年であったのか。

調べてみて私は驚いた。皇室に関する様々な重要な行事が、これでもかと集中しているのである。以下に列挙してみよう。

1月9日  宮中三殿に皇祖・皇霊はじめ神々が遷座した

2月11日 宮中三殿にて天皇が皇祖皇宗に皇室典範と憲法の制定を報告

憲法発布式典が開催された

6月    不明とされてきた天皇陵のうち、10陵を治定

7月    残る3陵を治定。これですべての天皇陵が確定された

10月2日 内宮で式年遷宮が挙行された

10月5日 外宮で式年遷宮が挙行された

11月3日 明治天皇の誕生日。後の大正天皇の立太子礼が挙行された

これらの出来事は何を意味しているのか?

相互に関係しているのか、いないのか?』

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1件のコメント 追加

  1. dalichoko より:

    何度か行きましたが、何度行っても神々しい気持ちになりますね。
    私、まったく信心深い者ではありませんが、そんな些末な私でも厳かな気持ちになります。すごいと思ってます。
    (=^・^=)

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