伊勢神宮と天皇②

紀元節と皇祖皇宗

戦前には大変重要視された「紀元節」だが、明治政府が作り出したものだ。

『 2月11日を「初代」神武の「即位日」と定め、明治6年から紀元節が発足した。式年遷宮の行われる明治22年の、まさにこの日に、天皇の命によって制定する大日本帝国憲法が発布されるのであった。

神武の「即位日」に欽定憲法を発布するとは、見事なスケジューリングだ。これにより天皇の定めた憲法は、いっそうありがたさと説得力を増す。憲法は第一条において、この国を統治するのは「万世一系の天皇」であると歌い上げるのであった。

内容と儀礼の、見事なまでの一致である。』

「皇祖皇宗」という言葉も明治時代に登場した。

『 「皇祖皇宗」とは「万世一系」と同じく明治時代の造語で、皇祖アマテラスから前代の天皇までを一つの連なりとみなしての総称。神話を歴史に取り込む新語の創出により<神代‥人代>を連続的につなげ、天皇を神に子孫・現人神とあらためて規定したのである。』

これに続いて、天皇陵の指定作業が行われた。

『 明治政府は歴代天皇陵の治定を積極的に推し進めていたが、それには「万世一系」の皇統を可視化する意味があったのである。だが、憲法が発布されても、治定されていない天皇陵が13もあった。憲法制度を主導してきた伊藤博文は発布から4ヶ月後の6月、次のような演説をしている。

歴代山陵の未だ明らかならざるものあるがごときは、外交上信を列国に失ふの甚だしきものなれば、速やかに之を検がく(調査すべきである)。

政府は諸外国に対し、エンペラーを超越する存在として「万世一系」の天皇を誇示していた。そうした手前、天皇陵に不明なものがあっては格好がつかないし、信用を失ってしまうというわけである。

そこで、明治22年6月から7月にかけ、13陵の指定作業を慌ただしく進め、これを一気に済ませたのである。』

考古学的見地から見れば、多くの天皇陵は妥当性を欠いているそうだ。無理やり結論を急いだのだ。

また、立太子礼についても大幅に繰り上げられた。

『 憲法発布と同日に制定された皇室典範では、皇太子は満18歳をもって成年とされ、成年時に確認儀礼として立太子礼が行われるとされた。

ところがこの年の11月3日、わずか10歳の皇太子の立太子礼が執り行われた。8年も大幅に繰り上げたのであった。その日は父・明治天皇の誕生日で、皇太子は後の大正天皇である。』

式年遷宮を利用した伊藤博文

明治22年に起きた一連の出来事を、武澤氏はこう解釈している。

『 これらの事柄は明治憲法発布に合わせて行われたように見えるかもしれない。しかし、いうまでもなく、20年の間隔で挙行される式年遷宮の年が先に決まっていたのである。したがって、この年に合わせて、憲法発布のスケジュールを設定したとしか考えられないのである。

式年遷宮の年に憲法発布するという大方針がまずあり、次いで、催行日は神武「即位」の日、つまり紀元節と決まった。それが明治22年2月11日であった。

この年に行われた天皇と皇室に関わる重要な出来事はみな、式年遷宮に連動していたといって過言ではない。

式年遷宮は20年に一度の、神宮にとって最大の祭。

憲法の発布は立憲国家の出発を祝う最大のイベント。

明治22年の式年遷宮は、明治国家形成という歴史的大事業の真っ只中に位置づけられていた。政府は「皇室機軸」と「文明国化」の二兎を求めていた。皇祖がもっとも神威を輝かせる式年遷宮に注目したのは、前者から帰結する必然的な運びであった。』

そして、式年遷宮と明治憲法を連動させるこのプランを推し進めたのは、伊藤博文だったと武澤氏は指摘する。

明治14年、突然憲法制定と2年後の国会開設を打ち出した大隈重信に対し、伊藤が巻き返し、御前会議で大隈追放を決めた「明治14年の政変」。この時、明治23年の国会開設が決まった。これも式年遷宮を意識した伊藤の計画で明治23年という年が決められたと武澤氏は考えている。

式年遷宮という神秘的な力を利用することは、時の権力者にとって極めて効果的だということなのだろう。

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1件のコメント 追加

  1. dalichoko より:

    何度か行きましたが、何度行っても神々しい気持ちになりますね。
    私、まったく信心深い者ではありませんが、そんな些末な私でも厳かな気持ちになります。すごいと思ってます。
    (=^・^=)

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