🇮🇹イタリア/ボローニャ 2018年8月
昨日、帰国した。成田に着くと、予想外の涼しさが迎えてくれた。
ウィーン、マルタに3泊ずつして、最後の宿泊地はイタリアのボローニャだった。
なぜボローニャに行ったのかといえば、一番の理由はサン・マリノというイタリアの中にポツンと存在する小さな独立国に行ってみたかったからだ。サン・マリノについてはまた新たてめ書くことにしたい。

さて、ボローニャと言っても多くの日本人にはあまりイメージが湧かないだろう。私もそうだった。
場所は、フィレンツェの北81キロ。高速鉄道だとわずか37分の距離だ。ミラノからもヴェネツィアからも1時間13分という交通の要衝である。

市の中心部に建つ2本の斜塔が街のシンボルだ。
高い方が「アシネッリの塔」(97m)、低い方が「ガリセンダの塔」(48m)だ。中世のイタリアでは神聖ローマ皇帝派とローマ教皇派の対立が続き、塔の高さを競い合った。当時はもっとたくさんの塔が街中に立っていたと言われる。

日本人に最も馴染みがあるのが「食」。いわゆるミートソースであるスパゲッティ・ボロネーズといえば聞き覚えがあるだろう。ボローニャ周辺は生ハムやチーズの世界的な産地である。
ボローニャ空港にも、こんな素敵なショップがあった。

また、あのスーパーカー「ランボルギーニ」の本社もボローニャにあり、空港にも展示スペースが設けられていた。

そしてボローニャは、ヨーロッパ最古の大学都市でもある。
ダンテやガリレオ、コペルニクスも学んだボローニャ大学の誕生について、「旅名人ブックス ボローニャ/パルマ/ポー川流域」というガイドブックの記述が興味深かったので引用しておく。
『ボローニャ大学が誕生したのは、第一回十字軍が派遣される直前の1088年頃だと推測されている。現在、大学の校舎は旧市街の北東にある。だが、中世のボローニャでは、町のいたるところに、大学の授業が行われる場所が点在していた。キャンパスにあたるものはなく、町そのものが大学であった。この時代のボローニャでは、講義の始まりを告げる鐘が町中に響き、市民もそれを聞いて時刻を知った。
大学が成立した年がはっきりしないのは、誰かが大学を設立したのではなく、その主役は学生たちであった。11世紀のイタリアは商業が盛んになり、商業活動に欠かせない法律や契約書類を作成する知識などが重要視されるようになっていた。こうした分野を専門に研究する法学者がボローニャにいたため、ボローニャに来て、その教えを受ける者が現れた。「学生」は教師を選び、授業料を支払って法律を学んだ。その中にはイタリア各地だけではなく、ドイツやイギリス、フランスなどから来た外国人学生も数多くいた。当時、彼らはボローニャで法的に保護されていなかったため、出身地ごとに団体を作り、自分たちの権利を守ろうとした。これが国民団の起源となった。
国民団の組織は次第に公的な団体としての権利を得て、やがて「大学団(ウニヴェルシタス)」を形成する。教授は大学団が選んでいた。中世のボローニャ大学では、授業料を支払う学生の方が高い地位にあり、教授は学生に従属していた。』

今や死語となった「大学自治」という概念もこうしたボローニャ大学の成り立ちに関係しているのかもしれない。とても興味深い話だ。本来、「学ぶ」ということは、場所や学校を選ぶのではなく自らが学びたい知識を持っている教師を選ぶということなのだろう。

街の中心マッジョーレ広場の南にあるサン・ドメニコ教会。
この教会の周辺では法学の授業が行われたという。
『 教室は教会の一角であったり、間借りした部屋であったりした。学生が増えるについて、教室は町中に分散していった。中世のボローニャはまさに町全体がキャンパスであった。
大学が誕生した初期の頃のボローニャでは、教会前の広場などで討論会がよく開かれていた。学生や教師たちは自説を述べ、議論を闘わせた。時には興奮した発言者たちや聴衆が、らのつ騒ぎを起こすこともあった。』
しかしこうした自由闊達な学生自治は長くは続かない。11世紀頃から始まった神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立は、皇帝党と教皇党の争いとなってボローニャにも影を落とす。
1506年、ボローニャは教皇領に組み込まれる。

教皇庁は1563年、市内に点在していた教室を統合し「アルキジンナジオ」と呼ばれる大学本部を建設した。この施設は第二次大戦の空襲で破壊されたが戦後再建され、内部を見ることができる。

廊下や講堂の壁や天井は、独特の装飾で埋め尽くされている。

これらの装飾は、ボローニャ大学で教えた歴代の教授陣の銘文、16世紀後半から18世紀にかけてこの大学で学んだ学生たちの名前や学生組合の紋章だという。

厳しい印象を与えるこれらの装飾からは、教皇庁の権威主義が垣間見え、かつての自由な雰囲気が消え衰退していった大学の姿を象徴しているように見えた。

そんなアルキジンナジオの中で異彩を放つのが、解剖学教室である。
1637年に完成したこの教室は重厚な木製細工で埋め尽くされ、中央に白い解剖台が置かれている。

ボローニャ大学は、世界初の人体解剖が行われたことで知られる。教会の反対を物ともせず、14世紀から人体解剖の授業が行われていた事実は、ボローニャが「自由都市」と呼ばれた意味を私たちに想像させる。

教壇の両脇の彫像には、「皮をはがされた人」という生々しいタイトルが付けられている。

その前に置かれたガラスケースの中には、当時の解剖学の研究書も展示されていた。

何が書かれているのかはわからないが、挿絵からその様子を想像することはできる。
学問への探求は常に自由な雰囲気の中でこそ進展する、自治と権力の間で格闘した先人たちの営みを感じるには、訪れる価値のある場所だと言える。

現在のボローニャ大学は旧市街の北東部に移転した。
夏休みで学生の姿はなかったが、壁に描かれたイラストが学生街のたたずまいを表していた。

大学とともに歩んだボローニャの街には、いつの時代も反権力的な空気が流れていた。
戦後はイタリア共産党など左派の牙城となっている。
地域色が強く、小党が乱立するイタリアの政界は、日本以上に安定することがない。少数政党の連立政権ができては消えてを繰り返している。
Embed from Getty Imagesそして今年6月、ポピュリスト政党「五つ星運動」と反移民を掲げる地域政党「同盟」による連立政権が発足した。
長年にわたる政治不信とインターネットが新興勢力の台頭を促した。
ヨーロッパ統一に懐疑的な新政権は直ちにEUを離脱することはないとしているが、果たしてイタリアが今後どう動くのか?
EUの行方、そして世界政治の観点からも、その動向が注目されている。

正直、私が滞在した3日間、夏休みで街は閑散としていて、そのあたりの空気を嗅ぐことはできなかった。
ただ、町中に溢れる落書きのあまりの多さに、ちょっと不安な気持ちになったことは書き残しておきたい。
<関連リンク>
②旧市街のど真ん中マッジョーレ広場を見下ろす奇跡のコンドミニアムに泊まる
④世界で5番目に小さな国サンマリノは世界最古の不思議な共和国だった
<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

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