<きちたび>ロサンゼルスの旅1979🇺🇸 カリブ旅行の計画を立てながら、若き日の馬鹿者ぶりに自分で呆れる

🇺🇸 アメリカ/ロサンゼルス 1979年9月~12月

アイスランドの旅の準備と並行して、来年2月のカリブ海旅行の計画を立て始めている。

カリブ海は私の旅行遍歴の中ですっぽり抜け落ちているエリアで、キューバやジャマイカといった大きな国は地図でも把握できるが、小さな島国については場所はおろか名前さえ知らない国もある。

当面の目標としていた100カ国踏破を年内に達成できなかったが、カリブの旅で未踏の国を効率よく回ることで、めでたく目標をクリアできる見通しだ。

といっても、日本からカリブ海への直行便はないため、アメリカかカナダか中米、もしくはヨーロッパ経由で訪れることになる。

旅行予約サイトでいろんなルートを検討した結果、ロサンゼルス経由が最も安く行けそうだということがわかった。

円安のため、どこに行くにも値段が跳ね上がっている昨今だが、ロサンゼルスならユナイテッド航空の往復便が7万円台で買えた。

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ロサンゼルスは学生時代、大学を休学してラテンアメリカを回った際、語学学習のために3ヶ月半ほど滞在した思い出の街だ。

どうせトランジットするならば、数日滞在して若き日の自分が歩いた場所をもう一度訪ねてみたい、そう考えた。

当時エルサルバドル人のルームメイトと暮らした家の住所がどこかにあったはずだと思い、クローゼットに仕舞い込んだ昔の資料を引っ張り出す。

私は資料を整理する能力が皆無なので、妻の助けを借りて引き出しを探すと、以前母から渡された手紙が見つかった。

旅先から私が両親宛に出したものを取っていてくれたのだ。

私が最初の絵葉書を書いたのは、旅に出てから10日目のことだった。

『遅くなりましたが、私はまだ死なず、ロサンゼルスの Little Tokyo という日本人街の安ホテルに住んでおります。若干の予定違いから、計画を大幅に変更し、数ヶ月アメリカに滞在し、adult school というところで英語の勉強をすることになりましたが、別に何の心配もいりません。こちら、連日、快晴、猛暑、加えてスモッグに山火事。すこぶる健康。もうすぐ、すみかを移転する予定。その際、また連絡します。』

「若干の予定違いから、計画を大幅に変更し」とあるのは、こういう意味だ。

当初の計画は、ロサンゼルスで自動車を買い、それに乗って中南米を回ってリオのカーニバルまでにブラジルのリオデジャネイロに行くという今から考えれば非現実的なものだった。

ロス到着後、紹介された日産の人を訪ねたところ、私が用意した予算では売れる車がないと言われたうえ、国境を車で越えるための「カルネ」という書類はアメリカ国籍を持った人にしか発給されないと知らされたのだ。

何ヶ月もかけて立てた計画は1日にして崩壊し、私はロサンゼルスで知り合った日本人の紹介でアダルトスクールという無料で英語を教えてくれる学校に入ることにした。

当時は中米のエルサルバドルやニカラグアでは内戦が行われていて、どう考えてもマイカーでブラジルに行くことなどできるはずもない。

しかも、まだ運転免許を取ったばかりで、自動車修理の技術もないのだ。

私は常々、若者は馬鹿者、無知なるが故にできることもあると考えているのだが、この計画はさすがに馬鹿の度が過ぎていて話にならない。

日産の人が初手でビシッと計画を打ち砕いてくださったことに感謝するばかりである。

2通目の絵葉書には、次のように書いてあった。

『まだ、ロスです。力強く生きております。ただ今、友人宅に居候、住所不定のまま、学校に通っております。宿敵“英語”はさすがに手ごわく、一向に俺を近づけようとしませんが、まだ意気けんこうで、無駄な努力を続けております。体調は最高。住所が定まり次第、連絡する』

リトルトーキョーの安宿「ニューヨークホテル」に数週間滞在した後、ルームメイトと一緒に暮らし始めるまで、どこでどうしていたのか疑問だったがこのハガキで謎が解けた。

友人の家に居候していたのだ。

この頃の私は、他人のところに居候することに何の抵抗もなかった。

ちょっと知り合った人の善意につけ込み、調子良くお世話になるのが特技のようだったが、自分でも呆れるぐらい、誰にお世話になったのか何の記憶も残っていないのだ。

本当にいい加減な野郎だったのである。

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そしてやっと住む場所ができたのは、ロサンゼルスに到着して1ヶ月後、10月半ばのことだった。

私は両親に「エアログラム」と呼ばれた航空書簡を送り、こう報告している。

『少年老いやすく、学成りがたし。2枚の絵葉書届きましたでしょうか。現在、まだロスにて英語の習得に努めております。今年いっぱい当地に滞在の予定。この10月19日に、新居に移転いたしましたゆえ、ご連絡致します。

(住所)XXXX North Figueroa St. Los Angeles, Calif, USA

同じ学校に行っているエルサルバドル人と住んでいます。月100ドル。英語とスペイン語の両天秤、うまくいけば大儲け。彼の家族も全員ロスに住んでいるので、スペイン語を学ぶには最適。習いたてのスペイン語を少し話してあげると、みんな手を叩いて喜んでくれます。しかし、ラテン系の人間というのは、えてして親切の度がすぎ、日本人にすれば、お節介というのが本音です。何をするのにも、いちいち口を出し、街を案内してくれても、すべて自分のペース。とにかく、せっかちでゆっくり落ち着いて、何かに熱中する能力が根本的に欠けているようです。しかし、これは西洋の人間に共通した性格のようです。でも考えてみれば、日本人もせっかちだし、ゆとりというのはあくまで個人の問題かもしれません。とにかく、異国人(実際はこちらに着いて以来、人種の違いを意識したことはないが)と住んでみて、やはり、いろいろ面白い経験をしています。でも、やはりアメリカは大国で、流入してくる大量の移民に、彼らの本国での生活以上の生活をさせて、なおも白人社会を維持しているのは一つの驚きです。

学校の方は、朝9時から夕方6時まで授業を受けています。もちろん、すべて英語。日本にいては、とても考えられない現象ですが、どうせ無料なら、できるだけたくさん授業を受けた方が得だし、中途半端は精神衛生上良くないので、はちゃめちゃ勉強しております。中学以来の英語に対する苦手意識もあと2ヶ月もすればぬぐいされる気がするし、スペイン語も少しは話せるようになると思います。これはわが人生における、一大転機となるかもしれない。とにかく、気力充実。食欲充実。健康そのもの。もし何か、連絡がありましたら、これが最後のチャンスになるかもしれないので、前記の住所まで、この手紙と同じ要領でどうぞ。ではまた。』

我ながら能天気というか、融通無碍というか、とにかく楽しそうである。

先の見通しがなくても、くよくよ考えることもなく、目の前にある刺激的な出来事に日々ワクワクしながら暮らしている様子が見て取れる。

この手紙に書いてある通り、ロサンゼルスでの経験はその後の私の人生に間違いなく大きな影響を与えた。

まさに一大転機だったのである。

その後、ロサンゼルスには年末までいて、去り難い気持ちを抱えたままメキシコ行きのバスに乗ることになる。

無事にリオのカーニバルにも間に合い、カリオカたちと一緒に踊り狂うこともできた。

南米最南端のフェゴ島まで南下し、今後は西海岸をペルーまで上り、最終的には1980年の4月、リマからロサンゼルス経由で東京に戻った。

大学から認められていた休学期間は3月末までだったのに、私はそれを破って新学期になってから帰国したのだ。

母から渡された手紙の束の中には大学から父宛に送られた督促状も何通も入っていて、この頃の私は寮費を滞納したり、もらっていた奨学金の継続手続き期限を守らなかったり、散々な学生だったようだ。

私の記憶にはそんなことはすべて消え去っていて、両親からそのことで手厳しく叱られた記憶もない。

よほど我慢して見守ってくれていたんだと、改めて両親の寛大さに感謝感謝である。

60にもなると、青春時代の思い出はいいことも悪いことも断片的となり、若き日の自分が本当は何を考えていたのか、その当時の気持ちを思い出すことなど不可能なことだ。

そういう意味で、昔の自分が書いた何かを読み返すことは、とても新鮮で鮮烈である。

引き出しの中から2冊の原稿用紙が出てきた。

どうやらテレビ局を受験するのに備え、作文の練習をした時のもののようである。

どんなテーマが出されても、自分の旅行の記憶に絡めてまとめることができるよう、記憶を蘇らせるために書いたものと思われる。

この中にあった『シェエラザードに恋した男たちよ』という一文が目に止まった。

放浪癖とでもいうんだろうか。また無性に旅に出たくなった。ついこの間、旅などという非生産的なことに金と時間を使うのはやめて、ひと所に身を落ち着けて何か創造的な作業を始めようと決心したばかりなのに。

所詮、旅なんて逃避だ。日常の中に目的を築き上げるだけの根気と根性(あるいは、諦め)がない人間は、ありもしない夢を求めて外にさまよい出てみたくなるもんだ。そして旅とは世間体でもある。つまり、誰かに、君の生きがいは何だ、などと尋ねられた時、旅だ、なんて答えりゃカッコイイに決まっているからだ。そこで、旅を自分の生きがいにしようなどと本気で考え始める。だが、生きがいというほど旅が好きということになると、ちょっと2−3日伊豆に行ってきますじゃ、世間が承知してくれない。しかたなく、何ヶ月もかけて自転車旅行してみたり、トラックの荷台に乗っかったり、蚊が群がる駅のベンチでシュラフにくるまって寝るはめになる。3000円も払えば、どこかのビジネスホテルの柔らかなベッドに潜り込めるのに、何の因果でこんな苦労しなけりゃいかんのかと、いつも考えながら寝るわけだ。そうしているうちに、今度は外国に行かなければならないという話になる。何と言っても生きがいなんですから。それもグアム、ハワイ、アメリカ、ヨーロッパなどは論外ということになる。常識的すぎるというのが、その理由。あまり日本人が行かない所へ行って、初めて世間は納得してくれるわけだ。世間から変人として一目置かれるようになればしめたものだ。生きがいは旅、夢を食って生きている男という肩書きが板について見えてくる。だが、本人はそう簡単じゃない。新車が楽に買えるほどの金を使って、学生なら留年覚悟で、社会人なら仕事を捨てて、旅に出るんだから。世の中の正道からはずれてしまうんだ。それもすべてたった一枚の肩書きを手に入れるためにだ。「生きがいは旅、夢を食って生きている男」。

しかし、もっと深刻な問題が起きてくる。異文化の中で長く生活しているうちに、徐々に元の社会に適応できなくなってくることだ。世界中で日本ほどスピードが速い社会は珍しい。スローな社会で暮らした期間が長くなればなるほど、そのリハビリテーションは困難だ。いい加減旅に疲れて帰ってきて、じっくり何かを始めようとした時、自分の時計が周囲と比べて常に遅れがちであることに気づき愕然とする。正道からはずれ、時計が狂い、しかも夢を捨てきれない人間が何にすがるかというと、最悪なことにこれまた旅なのである。旅以外に自分を満足させ、自己の存在を主張する手段を失ってしまうのだ。ここに至り、旅はまさに人生そのものとなる。

人間は人生に意味を求める動物だ。旅が人生になってしまった人間にとって、旅がもたらす意味はこの上もなく大きなものとなる。旅先で起きた出来事の一つ一つ、また出会った人の一人一人が、人生をすり減らして旅を続けている自分を満足させるに足るか、そして旅を続ける意義として他人を説得するだけのものであるかどうかといった評価に異常なほど敏感になってしまう。そして最後には、その判断も自分ではできなくなり、旅に出てよかったんだと、ただただ自分に言い聞かせ、自らを慰めるといった末期的症状があらわれるのだ。

前回の長旅の途中、様々な旅人と出会う中で、僕はそんなことを考えていた。いわば、理論先行型旅行愛好家の末路とでもいうべきものである。僕自身の場合、理論で旅に出るわけではないが、多分にこの要素があると自己分析している。さすれば、このような悲惨な結末を迎える前に、しっかと大地に根を張ったまっとうな人間の道を歩むべしと決意して旅から帰ってきたわけである。

だが、残念なことに、人間とはそう容易く過去と決別できるものではないらしい。過去というよりは、むしろ体内に巣食う虫というべきか。しばらく平穏に暮らしていても、一旦この虫が騒ぎ出したら止まらない。それも、いついかなる時、いかなるきっかけで蠢動し始めるかわからないからたまったものではない。

今日、レコード屋で1枚のクラシックのアルバムを買ってきた。以前、アンデス山中の小さな町で泊まり合わせた中年の旅人が話してくれたやつだ。偶然目について何の気なしに買い求めた。部屋に帰って、コーヒーを沸かしながら、レコード盤に針を落とした。それから3時間、同じレコードを繰り返し聴いている。コーヒーも4杯目だ。甘美で妖艶なヴァイオリンソロと勇壮なオーケストラによる2つの主題が交錯するのを聴きながら、漠然としてはいるが、かえってその漠然とした分だけ魅惑的な得体の知れぬイメージが心の中に拡がってくるのを感じた。

それは、いつも僕が探し求めていた何かであった。それは朦朧として何一つとして明瞭な点のない霞のようなイメージではあったが、僕には全く疑う余地がなかった。それこそ僕の夢そのものだった。1枚のレコードが漠然とにしろ僕の夢を見せてくれたのだ。リムスキー・コルサコフ作曲、交響組曲『シェエラザード』。

気づくと放浪虫が騒ぎ始めていた。僕は旅に出ることに決めた。

この文章をいつ私が書いたのか定かではないが、南米旅行から戻り、就職試験を受けていた頃、ひょっとするとテレビ局への内定をもらいアフリカ旅行を計画していた時期かもしれない。

そもそも私が旅を始めたきっかけは、大学生になって岡山から東京に出てきて、それまでの自分を変えたいという強い気持ちが芽生えたことだった。

それまでの自分を知る人がほとんどいない社会で、自分がかっこいいと思う生き方を求めて一歩踏み出す中で自然と湧いてきたのが、「生きがいは旅、夢を食って生きている男」というフレーズだったんだと思う。

でもこの文章を読んで、旅先で様々な旅人たちと出会う中で、無目的に旅をしてそこから抜け出せない人たちが多いことに気づき、自分はそうはなるまいと心に決めて日本に戻ってきた若き日の焦りのようなものを思い出した。

留年して長期の旅に出て、日本に戻ってきたら同級生たちはすでに社会人になっていたのだ。

自分で決断したこととはいえ、本当に旅を選んだことが正しかったのか自信を持てなかった。

旅から得たものは間違いなく大きかったものの、それがこの先の人生にプラスになるのかマイナスに働くのか、若き日の私には見当もつかなかったのだ。

旅先で決めたテレビ局への就職を何とか果たし、無事に定年まで勤め上げた今だからこそ、ロサンゼルスでの3ヶ月半がその後の私のキャリアにとって重要だったと言えるのであって、まだ何者でもない若者にとって自分の選択がもたらす未来を見定めることなどできることではない。

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ロサンゼルスからパナマ経由でバルバドスに飛び、カリブ海の島国を回った後、帰りは南米大陸のガイアナからマイアミ経由でロサンゼルスに戻ってくる飛行機を予約した。

カリブ海諸国だけでなく、途中立ち寄るパナマやマイアミでも街歩きをしてみるつもりだ。

こうして旅行の計画を立てている時間が私にとっては至福の時。

やっぱり私は、「シェエラザードに恋した男」なんだと改めて思うのであった。

<きちたび>アメリカの旅〜ロサンゼルス1979②🇺🇸 憧れのロスでのちょっと甘酸っぱい遊学生活

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