🇦🇺オーストラリア/キャンベラ 2025年10月7日
日本人にも大人気の国オーストラリア。
しかし80年前、日本とオーストラリアが直接戦争をした事実をどれだけの日本人が認識しているのだろう?
太平洋戦争の激戦地ガダルカナル島への道すがらに訪れた今回のオーストラリア旅行だけれど、せっかくなのでオーストラリアから見た太平洋戦争についても学んでみることにした。

まず訪れたのは、メルボルンにある「戦争慰霊館」。
第一次世界大戦での戦死者を弔う目的で建設された慰霊施設である。
古代ギリシャの霊廟をモデルにしたというだけあって、石造りの重厚な建物が美しい芝生の丘に立っていた。

建物の中心には神殿のような慰霊の空間があった。
天井から差し込む光に照らされ、とても厳かな雰囲気を湛えていた。
戦争が絶えない北半球から遠く離れたオーストラリアにこれほどの慰霊施設があるのはいささか意外な印象がある。

この施設では、過去オーストラリアが経験した戦争に関する展示を見ることができる。
そのうち、日本に関係するのは第二次世界大戦のコーナーである。

「Banzai!」と題されたこちらの写真。
1942年2月16日、イギリス軍の要塞シンガポールが陥落した際のものである。
実は、オーストラリア軍もこの戦闘に加わっていた。
太平洋戦争が始まる数ヶ月前の1941年7月、日本が南部インドシナに進出したのを受けて英米との対立が激化、イギリスは植民地だったマレー半島やシンガポールの防御を強化するため、同盟国であるオーストラリア軍の派遣を要請していたのだ。
この戦闘の結果、派遣されたオーストラリア兵の大半が捕虜となったのである。

日本軍の捕虜となったオーストラリア兵は、タイとミャンマーの国境で建設された泰緬鉄道の建設現場などに運ばれた。
展示によれば、日本軍に捕えられた2万2376人のオーストラリア人のうち、終戦時に生存していたのはわずかに1万4345人であり、死亡した8031人は第二次大戦におけるオーストラリア人戦死者の5分の1にも及んだという。
オーストラリアにとって、日本との戦争ほど多くの犠牲を強いられた戦争は歴史上他にないのである。

こうした日本との戦争の記録の中に、「保土ヶ谷のユーカリ」と題された特別コーナーが設けられていた。
日本語による解説があり、そこには次のように記されていた。
『横浜市中心部から西へ5km、ヒノキと桜に覆われた丘陵地帯に佇む、英連邦戦死者墓地。かつて横浜市児童遊園地だった27エーカー(約11ヘクタール)の敷地に、1555名の英連邦軍兵士の遺骨が眠っている。「保土ヶ谷のユーカリ」は、メルボルンに拠点を置くアンザック局(現オーストラリア戦争墓地事務所)が設計・建設した墓地の中でも最高の傑作と認められる。この墓地の景観設計の誕生秘話を伝える。』
どうやら保土ヶ谷に日本の捕虜収容所で命を落としたオーストラリア兵らの遺骨を埋葬した墓地があるらしい。

戦争の記憶を求めてわざわざ海外を旅行している私だが、実は日本国内にも私が知らない戦争の遺産がたくさんあることをこの展示は思い起こさせてくれる。
いずれまた日本国内にあるこうした墓地も訪ねてみたいと思った。

慰霊館の屋上には展望デッキがあり、小高い丘の上にあるため、ここからは周辺の公園やメルボルン市内に建つ高層ビル群を間近に眺めることができる。
この施設を訪れて、日本とオーストラリアの戦争についてさらに詳しく知りたいと思った。
そのためには、首都キャンベラにある「オーストラリア戦争記念館」に行くのが最適なようだ。
私は翌日、メルボルンからキャンベラに飛んだ。

メルボルンからキャンベラのフライトはおよそ1時間。
途中ほとんど街らしい街もなく、緩やかな起伏がある無人の大地がダラダラと続いていた。
遠くに白い雪を被った山が見える。
おそらくあれがオーストラリア大陸の最高峰「コジオスコ山」、標高は2228メートルである。

そして着陸間際、ようやく人間が住む街が現れた。
これが人工的に作られたオーストラリア連邦の首都キャンベラである。
1901年オーストラリアが独立するにあたり、シドニーとメルボルンの間で首都をめぐる争いが起き、その妥協案として両市の中間に位置する何もない土地に建設されたのがキャンベラなのだ。

この日、私には時間がなかった。
私が乗ったヴァージン・オーストラリア機は午後1時半にキャンベラに到着したが、その後の予定の関係でこの街に宿泊するわけにはいかず、午後6時40分の便でブリスベンに飛ぶことになっていた。
キャンベラでの滞在時間はわずか5時間。
私は迷わず、目の前のタクシーに飛び乗った。

向かったのは「オーストラリア戦争記念館」。
オーストラリアが関わった戦争の歴史を網羅的に展示したこの国最大の博物館と言っていいだろう。
入場は無料だが午後4時には閉まってしまうので、受付でリュックを預かってもらい、駆け足で展示を見て回った。

エントランスホールでまず目に止まるのが、こちらのオブジェ。
パリのルーブル博物館を彷彿とさせるガラスの造形物であるが、壁面には次のように記されていた。
『オーストラリアの男女10万3000人以上が戦争によって戦死した』
戦争とは縁遠いように見えるオーストラリアが、こんな立派な戦争博物館を建てたという事実に、人間の命を大切にするお国柄がうかがえた。

時間の制約があるので、とりあえず一番関心のある第二次大戦関連のコーナーに直行する。
オーストラリアにとって、第二次世界大戦、とりわけ日本との戦争は、過去に経験したことのない厳しい試練だったことがそこには記されていた。
『1939年9月3日(日)は父の日でしたが、オーストラリア国民のほとんどにとって、この日は不安と心配でいっぱいでした。1914年から1918年にかけて甚大な犠牲を払って戦われた第一次世界大戦は、「すべての戦争を終わらせる戦争」となるはずでした。しかし今、世界は再び大規模な紛争の瀬戸際にありました。午後9時15分、ロバート・メンジーズ首相はラジオで、ドイツのポーランド侵攻を受けてイギリスがドイツに宣戦布告し、オーストラリアも戦争状態にあることを国民に伝えました。オーストラリアは連合国の最終的な勝利に貢献しました。海外で任務に就くための大規模な志願兵部隊、第2オーストラリア帝国軍が編成され、民兵はオーストラリア防衛のために動員されました。帝国航空訓練計画により、オーストラリア空軍(RAAF)の入隊者数は増加し、オーストラリア海軍(RAN)はイギリス海軍本部の指揮下に置かれました。オーストラリアでは、男女合わせて約100万人が従軍し、北アフリカ、地中海、ヨーロッパでドイツとイタリアを倒すために海、陸、空の戦闘に従軍しました。また、1941年以降は東南アジアと太平洋で日本と戦いました。国内では、オーストラリア本土が日本軍の攻撃を受けました。合計で約4万人のオーストラリア人が従軍中に命を落としました。』

第二次大戦当初は、孤立した同盟国イギリスを助けるための戦いだった。
3個師団が地中海に派遣され、リビアやシリア、ギリシャなどでドイツ軍と戦った。
しかしそれはまだ、本国から遠く離れたヨーロッパでの戦争で、オーストラリア大陸で暮らす人々にはまだどこか遠い世界の戦争だった。

しかし日本の参戦で状況は大きく変わる。
1941年12月、真珠湾攻撃とともに日本軍がイギリスの植民地だったマレー半島とシンガポールに侵攻し太平洋戦争が始まると、イギリス軍とともに防衛にあたっていたオーストラリア軍兵士のみならず、オーストラリア本国の人々への直接的な脅威として意識されるようになる。
オーストラリア軍と日本軍の最初の対決は、1942年1月中旬マレー半島西海岸のムアール川付近であった。
『ゲマスでは、第2/18大隊の130名が日本軍を待ち伏せ攻撃した。これはマラヤにおける数少ない成功例の一つであった。1月18日には、近隣のバクリにおいて、第4対戦車連隊の2つの砲兵隊が日本軍の戦車8両を撃破した。こうした局地的な成功にもかかわらず、日本軍は進撃を続け、しばしば「浸透」戦術を用いた。彼らは正面から攻撃した後、陣地を包囲し、守備隊を撤退に追い込んだ。1942年1月末までに、日本軍はマレー半島全域を占領した。』

記念館には、バクリの戦闘について日本軍が残した立札も展示されていた。
いかにして敵を粉砕したかが詳細に記されているものの、敵の正体がオーストラリア軍であることはどこにも書かれていない。
おそらく日本兵にとってマレー半島での「敵」はイギリス軍であり、オーストラリア兵という認識はなかったのではないか。
いずれにせよ、中国の戦場で長年実戦を積み重ねてきた日本軍の経験値が新参のオーストラリア軍を圧倒した様子がよくわかる。

そして、アジアにおけるイギリス最強の要塞とされたシンガポールもあっけなく日本軍の手に堕ちる。
山下奉文将軍がパーシバル司令官に「イエスかノーか」と迫った有名な降伏交渉の場面が、ここでも日本語の見出しとともに展示されていた。
なぜシンガポール要塞は陥落したのか?
記念館の解説では次のように記されていた。
『1942年2月のシンガポール陥落は、大英帝国軍が戦争全体を通じて受けた最大の敗北であった。シンガポールはアジアにおける連合国の主要拠点であった。シンガポール陥落により、オーストラリアは日本軍の攻撃にさらされることになった。この敗北はその後も論争を引き起こし続けている。オーストラリア人はイギリス軍の指揮統制のまずさを非難する傾向があり、一部のイギリス人著述家はオーストラリア軍の劣悪なパフォーマンスを指摘している。多くのオーストラリア人は、イギリスがシンガポール防衛の準備を怠ったことを非難した。一部の歴史家は、イギリスはヨーロッパにおけるドイツの圧力を受け、可能な限り多くの兵員、艦船、航空機を温存したと反論している。西側諸国が日本の近代戦能力を過小評価していたことは、誰もが認めるところであった。』

日本軍のマレー半島上陸からシンガポール陥落までの攻防戦により、オーストラリア兵の死者は1789人、負傷者は1306人にのぼり、約1万5000人が捕虜となったという。
オーストラリアの人たちにとって、それまでに経験したことのない被害であり、それ以上にオーストラリアの安全保障の要とみなしていたシンガポールが日本軍の手に渡ったことは、かつて感じたことのない現実的な恐怖と不安を感じさせる出来事であった。

そうした不安はすぐに現実のものとなる。
マレー作戦と並行して日本軍はオランダの植民地だった現在のインドネシアへの侵攻も開始する。
『1942年初頭、日本軍はビルマ、フィリピン、そしてオランダ領東インド(現在のインドネシア)で連合軍を瞬く間に破りました。オランダ領東インドのアンボン島、ジャワ島では、少数のオーストラリア軍が捕虜となり、長く過酷な捕虜生活を送りました。ティモール島では、少数のオーストラリア軍が日本軍の大部隊とゲリラ戦を繰り広げました。』

このうち、オランダ領東インドのアンボン島では日本軍による虐殺事件も発生した。
『オランダ領東インドのアンボン島にある飛行場の防衛に、小規模なオーストラリア軍が派遣されていました。「ガル部隊」として知られるこの部隊は、主に第2/21大隊で構成されていました。1942年1月30日、強力な日本軍がアンボン島に上陸し、2月3日、島のオーストラリア軍とオランダ軍は降伏しました。アンボンで捕虜となった1100人のうち、4分の3がそこで死亡しました。アンボンの死亡率は、サンダカンに次ぐものでした。』
『戦闘後、多くの生存者が処刑され、日本軍の永遠の恥辱となりました。母親として、息子さんが壮大な戦いに参加し、勇敢な兵士として命を落としたという事実に慰めを見出すことでしょう。ある上級将校がガル部隊のH.A.スミス二等兵の母親に手紙を書きました。アンボン島のラハ飛行場では、主にオーストラリア人約300人が降伏しました。1942年2月6日から20日の間に、彼らは飛行場周辺で4つの別々の虐殺によって殺害されました。銃剣で刺された者、斬首された者、棍棒で殴り殺された者もいました。生き残った者は一人もいませんでした。現在わかっていることのほとんどは、日本人とインドネシア人の目撃者、そして1945年にアンボンを再占領したオーストラリア軍が発掘した集団墓地の残酷な証拠によるものです。日本軍は後に弁解をしましたが、彼らの行動は十分に説明されることはありませんでした。虐殺を命じた畠山耕一郎少将は裁判前に死亡しました。指揮官であったハタケヤマクニト司令官は有罪判決を受け、絞首刑に処されました。』
今年、戦後80年に合わせてアジアの国々にある戦争博物館を訪れるたびに目にした日本軍による虐殺や残虐行為。
日本とは友好関係にあると考えられているオーストラリアにも、同じような負の歴史が残されていることに少なからぬショックを覚えた。

太平洋戦争開戦直後、オーストラリアで制作されたポスター。
表題には『戦うか、滅びるか』とある。
わずか2ヶ月の間に東南アジアをほぼ手中におさめ、オーストラリア本土に迫った日本軍に対する恐怖をとてもよく表している。
この頃、いずれオーストラリアも日本軍に占領されるだろうと考えるオーストラリア人が多かったとポスターに添えられた解説には記されていた。

こんなポスターもあった。
日本人を乗せた人力車を引くオーストラリア人の絵に添えられたメッセージは・・・
『オーストラリアは決して奴隷化されない』
アジアを支配してきた西洋人にとって、こんな耐え難い屈辱を味わわないためにも団結して戦おうというメッセージなのだろう。

そして日本軍の攻撃はオーストラリア本土にも及ぶ。
1942年2月19日に行われた「ダーウィン空襲」である。
『シンガポール降伏の4日後、日本軍の爆撃機がダーウィンを攻撃しました。1942年2月19日のダーウィン空襲で240人以上が亡くなりました。衝撃を受けたオーストラリア人は、その後も侵攻が続くと予想しました。』

ダーウィンはオーストラリアの北海岸に位置する都市だが、ここの飛行場や港が連合軍の拠点となることを防ぐ目的で日本軍は4隻の空母を派遣し、計242機の攻撃機による空爆を実施した。
この攻撃により、軍艦3隻と商船6隻が沈没、その他10隻が大破したほか、空軍基地にあった戦闘機もほぼ全てが破壊され、市街地にも甚大な被害が出た。
これはオーストラリアが経験した過去最大規模の他国による攻撃だった。

この攻撃は、オーストラリアの市民たちに戦争をリアルに感じさせた。
記念館には、当時建てられた防空シェルターや防護マスクも展示されていたが、こちらの不格好なマスクは、なんと赤ちゃんとためのガスマスクだという。

ダーウィン空襲を皮切りに、日本軍は1943年にかけて100回以上オーストラリア本土への攻撃を実施した。
『1942年2月から1943年11月にかけて、ダーウィンは度重なる攻撃を受け、リアマンス、ブルーム、ミリンギンビ、ホーン島、タウンズビルといったオーストラリア北部の他の都市も爆撃を受けました。1942年5月31日から6月1日にかけての夜、3隻の日本軍特殊潜航艇がシドニー港を襲撃しました。1週間後、日本軍の潜水艦はシドニー東部郊外とニューカッスルを砲撃しました。その後数ヶ月にわたり、これらの潜水艦はオーストラリア東海岸沿いの商船にも砲撃を加えました。オーストラリアの民間人は、日本軍の攻撃に対してそれぞれ異なる対応をしました。空襲への備えをしたり、応急処置を学んだりする人もいれば、民間防衛の訓練を受けた人もいました。配給制は日常的なものとなりました。』

しかし、人々が恐れたオーストラリア本土への本格的な軍事侵攻は実施されることはなかった。
『1942年2月、初期の勝利に勢いづいた日本海軍の一部の作戦計画担当者は、オーストラリア侵攻を強く主張した。しかし、陸軍の作戦計画担当者はこれに反対し、侵攻を実行するには兵力が不足していると主張した。日本軍は中国で戦闘中であり、太平洋における日本の占領地の維持にも必要だった。陸軍はまた、ソ連が満州に侵攻した場合に備えて予備兵力を保持したいと考えていた。海軍はまた、侵攻部隊を輸送するための商船が不足し、それを護衛するための軍艦も不足していることを認識していた。3月までに、連合軍の反撃力を弱めるため、軍の作戦計画担当者は、アメリカからの補給を封鎖することでオーストラリアを孤立させ、本土への襲撃を継続することを決定した。日本は成功の絶頂期でさえ、オーストラリア侵攻の能力を有しておらず、そのような作戦を真剣に計画することさえなかった。』

こうして兵力や補給の問題でオーストラリアへの侵攻を断念した日本軍は、連合軍の前線基地だったニューギニア島のポート・モレスビーとガダルカナル島の攻略に狙いを定め、やがて泥沼の戦いにのめり込んでいく。
すなわちオーストラリア大陸は、当時の日本の国力を考えると、大きすぎたということだろう。

連合軍の中で目立った戦果を挙げられなかったオーストラリア軍にとって、唯一誇れる戦いがニューギニア島における「ココダ・トレイルの戦い」である。
ニューギニア島の北岸を占領した日本軍が険しい山を越えて連合軍の基地があったポートモレスビーの攻略を目指す中、守備にあたるオーストラリア兵の奮戦により日本軍を撃退した一連の戦闘であり、キャンベラの戦争記念館でもメインコンテンツとしてその経過が詳しく紹介されていた。
『1942年7月から11月にかけて、オーストラリア軍と日本軍は、険しいオーウェン・スタンレー山脈を越えるココダ・トレイル沿いで激しい戦闘を繰り広げた。日本軍はまずポートモレスビーに向けて南下したが、オーストラリア軍の部隊に阻まれた。日本軍との最初の衝突は7月23日、アワラで発生した。兵力で劣勢で物資も不足していたオーストラリア軍は必死に抵抗したが、撤退を余儀なくされた。オーストラリア軍の撤退は最終的に9月中旬、イミティア・リッジで終了した。疲弊した日本軍は、ポートモレスビーからわずか50キロのロリバイワで撤退を余儀なくされた。これ以上の戦力不足に陥り、ガダルカナル島に戦力を集中しようとした日本軍は、苦戦を強いられ北へ撤退した。オーストラリア軍と民兵はトレイル沿いで激しい戦闘を繰り広げ、11月2日にココダに再入城した。日本軍はボナ、ゴナ、サナナンダの橋頭堡基地に押し戻された。ココダは、戦争で成功するために必要な資質、すなわち勇気、友情、忍耐、そして犠牲を象徴するようになった。』
ポートモレスビー作戦の失敗は、ミッドウェイ海戦やガダルカナルの敗戦とともに、破竹の勢いだった日本軍にストップをかけ、戦局を逆転させる転換点となった。

日本軍の勢いが止まると、連合軍の本格的な反撃が始まる。
『オーストラリアは、日本軍支配地域の奥深くまで秘密作戦を展開するため、様々な「特殊部隊」を投入した。あらゆる軍種から志願兵が集まり、連合軍情報局とオーストラリア特殊作戦部(コードネームは偵察部隊)の各部署に加わった。特殊部隊はシンガポールへの大胆な襲撃を敢行し、ニューギニアとボルネオのジャングルで情報収集を行なった。多くの作戦は成功したが、悲劇に終わったものもあった。』
展示されていた「Z」の描かれた旗は、オーストラリア兵とニューギニア兵によって構成された「Zスペシャルユニット」の旗だという。
ニューギニア島のウェワク近郊で撮影された写真には、日本兵の頭蓋骨を手にしている兵士も写っていた。

太平洋戦争におけるオーストラリア軍を代表する英雄として名前が上がっていたのが、サー・トーマス・ブレイミー将軍、写真右側に映る人物だ。
『1943年から44年にかけてのニューギニア戦線において、サー・トーマス・ブレイミー将軍はオーストラリア軍を率いて、最も困難ながらも成功を収めたいくつかの作戦を指揮した。ブレイミーは第二次世界大戦中、オーストラリア陸軍最高司令官を務めた。職業は教師で、第一次世界大戦中にはガリポリと西部戦線で戦った。戦間期にはビクトリア州で物議を醸す警察長官を務めたものの、優れた組織力を持つ人物であり、1939年には第二次オーストラリア軍司令官に任命された。中東ではオーストラリア軍団、ギリシャではANZAC軍団を指揮し、1942年には南西太平洋地域における連合軍地上司令官に就任した。1942年のパプア作戦では、ブレイミーは連合軍司令官ダグラス・マッカーサーの意向を受け、オーストラリア軍の将軍数名を解任したが、その決定は今もなお議論の的となっている。しかし、パプア作戦は彼の指揮下で勝利を収めた。ブレイミーは並外れた推進力と鋭い洞察力を持っていたが、個人的な敵意と権力欲のために賞賛されるどころか尊敬されるに至った。連合軍司令官の中で、ブレイミーは唯一、戦争中ずっと高位の指揮官職を務めた。ブレイミーは1950年、死の直前にオーストラリア初にして唯一の陸軍元帥に任命された。』

一方、日本との戦争に関する展示の中で、多くのスペースが割かれていたのが日本軍の捕虜となったオーストラリア兵たちの悲惨な物語である。
あばら骨が浮き上がるほどに痩せ細った兵士の写真は、過酷な捕虜生活を象徴する一枚だ。
『1942年、日本軍が東南アジアを征服した際、2万2千人以上のオーストラリア人が捕虜となった。約8千人、つまり3人に1人が捕虜生活の中で、病気、飢餓、過労、そして残虐行為によって命を落とした。オーストラリア人捕虜たちは、互いに力を合わせ、この試練を乗り越えた。彼らの思いやり、創意工夫、そして肉体的・精神的な勇気が、オーストラリア人として戦時中に経験した最悪の経験を乗り越える力となった。』

日本軍の捕虜収容所は東南アジアから満州まで夥しい数にのぼったが、その中でもオーストラリア人の記憶に深く刻まれたのが、タイ・ビルマ間に建設された「泰緬鉄道」の建設現場だった。
『多くのオーストラリア人にとって、泰緬鉄道は日本軍による捕虜生活の恐怖を象徴するものだ。日本軍はビルマとタイを結ぶ補給路として、全長321キロの鉄道を計画した。約6万1千人の連合軍捕虜と数十万人の現地住民が、山岳地帯のジャングルという劣悪な環境での労働に徴用されました。その完成は、途方もない犠牲を払って成し遂げられた偉業だった。2650人のオーストラリア人が鉄道建設中に命を落とした。』

もう一つ、オーストラリアで語り継がれている悲劇がボルネオ島で起きた「死の行進」である。
『1944年後半、ボルネオ島のサンダカンには約2600人のオーストラリア人とイギリス人の捕虜が収容されていた。彼らは飢えに苦しみ、日常的に暴行を受け、倒れるまで働かされ、衰弱し、病気に陥っていた。1945年、連合軍がボルネオに接近するにつれ、日本軍は捕虜の反乱を恐れた。彼らは「最も健康な」捕虜を集団で過酷な「死の行進」に送り出した。捕虜たちは260キロ離れたラナウという村まで、深いジャングルを歩かされた。行進中に死亡したのは6人だけだった。サンダカンの収容所に残された捕虜たち、すなわち最も衰弱し、病気にかかっていた者たちは誰一人として生き残れなかった。』

こうして日本軍の捕虜となって命を落としたオーストラリア兵1787人の顔写真がずらりと並ぶ。
300万人以上が命を落とした日本に比べてオーストラリア人の犠牲者数は少ないとはいえ、人口700万人だったオーストラリアでおよそ100万人が従軍し、4万人が命を落とした事実はとても重い。
そして、戦死者の多くが戦闘中ではなく降伏した後に生まれたという事実は、日本軍の戦争捕虜に対する扱いの問題点を示すもので、日本の戦争犯罪に関しても次のような指摘がされていた。
『日本軍は、戦争捕虜や民間人を虐待から保護するジュネーブ条約とハーグ条約を遵守しなかった。日本の武士道においては、降伏は言語に絶するほどの不名誉とされ、捕虜は軽蔑され、それに応じた扱いを受けた。1946年初頭、極東国際軍事裁判は日本の軍人および民間人の指導者を戦争犯罪で起訴し始めた。東南アジア全域で2000件以上の裁判が行われ、主に捕虜や民間人の殺害や残虐な扱いが問題となった。起訴された5700人のうち、約3000人が懲役刑を宣告され、920人が死刑に処せられたが、証拠不十分のため多くの人が釈放された。』

こうして足掛け5年に及んだ日本との戦争も、1945年8月、ついに終わる。
太平洋戦争の終盤、オーストラリア陸軍はニューギニア、ブーゲンビル、ボルネオなどの島々で日本軍と死闘を演じたうえ、空軍はオランダ領東インドで、海軍もフィリピンで連合軍の作戦に加わった。
しかし、オーストラリア国内には日本の敗戦が決定的となった終盤の戦いについて不要だったのではないかとの疑問が戦後湧き上がったらしく、それが展示内容にも反映されている。
『オーストラリア軍は1945年に大戦中のどの時期よりも激しい戦闘を繰り広げたが、この最後の作戦は物議を醸しており、これらの「掃討作戦」の必要性を疑問視する声が多く上がっている。』
果たして、どういうことなのか?

「不必要な戦い?」と書かれたパネルには、次のような言葉が書かれていた。
『兵士たちは皆、これらの作戦が戦争の勝利に不可欠ではないことを知っていた。そのため彼らはオーストラリアの新聞や、親族からの用心深い手紙を無視し、目の前の任務に邁進した。まるでそれが最終的な勝利を賭けた戦いであるかのように、彼らは戦い、命を落としたのだ。』
これはブーゲンビル島で第15歩兵旅団の司令官だったハマー准将の言葉だという。
ハマー准将の言葉に続き、太平洋戦争末期のオーストラリアの空気が解説されていた。
『1944年から45年にかけての島々での戦闘は、戦争終結を1秒たりとも早めることはなかった。日本軍は孤立し、これらの島々の外にはほとんど脅威を与えていなかった。しかし、当時は誰も1945年8月に戦争が終結するとは思っていなかった。日本軍はオーストラリア領土を占領しており、ブレイミー将軍は、兵士たちが他の場所で戦うか、あるいは帰国する前に、日本軍を排除しなければならないと決断した。これらの作戦はおそらく不必要だっただろうが、私たちは今でも島々で戦い、命を落とした人々の犠牲を高く評価し、記憶に留めている。』
徹底した情報統制の下で、国のために死ぬことが名誉とされた日本と違い、平和で民主的な社会で育った若者たちにとって、ジャングルに覆われた島々で孤立した日本兵の掃討作戦を続けることの意味を理解することはより難しいことだったのだろうと想像する。

しかし、日本に比べて戦争の歴史が少ないオーストラリアに立派な戦争博物館が建てられていることはとても印象に残った。
それも単に戦死者を慰霊したり、過去の勝利を誇るだけでなく、失敗の事実にもしっかり目を向けて「あの戦争は何だったのか」と総括する姿勢は大いに参考になった。
戦後80年経っても、日本では未だに靖国論争が続き、国を代表する戦争博物館が存在しない。
日本が「被害者」となった広島の原爆記念館などはあっても、明治以降の戦争全体を総括し後世に伝えるような施設が存在しないのである。
それはとりもなおさず、戦後の日本政府が戦争の総括を避けてきたことの裏返しでもある。
過去の戦争からどのような教訓を学び、後の世に語り継いでいくのか?
キャンベラの戦争記念館は、私たち日本人にも重い問いを投げかけているように私は感じた。

16時の閉館ギリギリまで博物館にいて外に出ると、目の前に広々とした大通りが真っ直ぐに伸びていた。
計画都市を象徴するようなこの大通りは「アンザック・パレード」と呼ばれ、毎年4月、オーストラリア軍とニュージーランド軍の協力を記念して、軍事パレードが行われるという。
「ANZAC」とは、第一次世界大戦で結成されたオーストラリア・ニュージーランド合同軍の略称で、現在も必要に応じて編成されることがあるそうだ。

戦争記念館の見学を終えて、私はこのアイザック・パレードを自分の足で歩いてみることにした。
この珍しい人工都市がどんな街なのか、歩いて確かめたかったのである。
しかし、私以外に歩いている人がいないことに気づく。
直線的で広すぎる道路は、どんなに美しくてもやはりどこか裏寂しい。

アイザック・パレード沿いにはいくつもの記念碑が立っている。
ベトナム戦争など戦争ごとの碑もあれば、空軍など部隊ごとの記念碑もあり、どれもとても綺麗に保たれていた。

単調な景色に飽きて、大通りから一本入ると、そこは静かな住宅街。
新緑をたたえる街路樹の下を路線バスが走っていた。
このまま歩いて回るには、この街はやはりだだっ広すぎる。
そう考えて、Googleマップをチェックしながらバスで移動することにした。

バスに乗ってたどり着いたのがキャンベラセンター。
商店や飲食店が集まるこの界隈が、どうやらキャンベラ市民にとっての生活の中心らしい。
ただ、人口37万人の都市にしてはこじんまりした印象で、どこの街にもある生活臭がまるで感じられない。

この場所に長居しても面白くないと感じ、残された時間を使って人工首都の中心とも言えるキャンベラを象徴する場所に行ってみることにする。
ただ歩いていくにはかなり距離がありそうだ。
そこで再び路線バスに乗り、南に向かうことにした。

走り出したバスはまもなく湖に架かる橋を渡る。
この湖は川を堰き止めて作られた人工湖「バーリー・グリフィン湖」。
湖の名はこの都市を計画したアメリカ人建築家に由来するらしい。
計画都市らしく、湖の北側は商業施設や住宅が集まる「シティヒル」、そして南側は政府機関や大使館が集まる「キャピタルヒル」と呼ばれ、街の機能が完全に分離されているという。

果たして政治の中心「キャピタルヒル」とはどんな場所なのか?
興味津々で橋を渡ったものの、橋を渡り終わっても、車窓からの眺めは大きくは変わらなかった。
「シティヒル」と同じく、街路樹の植えられた広い道路があり、歩く人の姿はほとんど見られない。
所々に建物が建っているが、全体としては閑散とした印象で、人間味がほとんど感じられない。

キャピタルヒルのど真ん中と思しき停留所でバスを降りた。
目の前には何本もの旗がたなびいている建物が立っている。

この建物こそがオーストラリアの政治の中心、連邦議事堂だった。
私も取材で訪れた1988年の入植200周年に合わせ、コンペによってイタリア人建築家の設計が採用され建設された。
もともとの丘を活かすように議事堂は地下に造られ、このような平べったい形になったという。

中央に立つ国旗掲揚塔をどこかで見たなと思ったら、先ほど訪れた戦争記念館の前庭から見えた「アイザック・パレード」を直線的に伸ばした先に見えた旗が連邦議事堂の旗だったのだ。
まさに図面上で正確に設計された人工的な都市。
どうやら議事堂と戦争記念館を結んだラインを中心線としてキャンベラの街は設計されたらしい。

一応、キャピタルヒルも訪れたし、そろそろ空港に戻る時間だ。
再び路線バスに乗り、市内で空港行きのバスに乗り換えて・・・。
空港に到着する頃には、バスの乗客は私一人になっていた。
オーストラリアの首都キャンベラは、とても静かな、のんびりとした、生活臭のほとんど感じられない街だった。
ただ、日本が起こした戦争が想像以上の広がりを持つことを知るために、訪れる価値は十分にあると私は思う。