<きちたび>世界遺産クラクフの聖マリア教会でローマ法王ヨハネ・パウロ2世を偲ぶ

ポーランドの古都クラクフは1978年、最初の世界遺産12件の一つに選ばれた。ポーランド王国の都として500年以上に及び繁栄を今に伝える。

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旧市街の南の端にそびえる「ヴァヴェル城」。

ヴィスワ川に面したこのお城が、1596年まで歴代のポーランド王の居城だった。ヴァヴェル城には、旧王宮のほかヴァヴェル大聖堂、竜の洞窟など見所が多いのだが、私たちには訪れる時間がなかった。

アウシュヴィッツやヴィエリチカ岩塩坑といった郊外の施設を優先したためだ。

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ヴァヴェル城の北西に佇む「聖イジー教会」。

ここからグロツカ通りを北に向かう。クラクフでも最も古い建物が保存されている地域だ。

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ポーランド国旗が掲げられている。

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一番手前が「聖マルチン教会」、その奥が「聖アンドリュース教会」だ。

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こちらが「聖マルチン教会」。

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そしてこの尖塔を持つ大きな建物が「聖アンドリュース教会」。

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その北隣には「聖ペテロ聖パウロ教会」がある。

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青空をバックに聖人たちが並ぶ姿は、格好の被写体である。

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しかし、時間はすでに午後6時を過ぎていて、中に入ることはできなかった。

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そのまま通りを北上すると、旧市街の中心「中央広場」に出る。これは「旧市庁舎の塔」。てっぺんが展望台になっているらしい。

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広場中央の大きな建物は「織物会館」と呼ばれ、14世紀に建てられた当時は衣服や布地の交易所だった。

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現在は1階は土産物屋のアーケード、2階がクラクフ国立美術館になっている。2010年には、ここに地下博物館がオープンし最新技術を使って街の歴史を紹介しているという。

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そして「織物会館」を取り巻くように広さ4万㎡の中央広場が広がる。中世からそのまま残っている広場としては、ヨーロッパ最大だという。確かに広い。

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中央広場では多くの馬車が目を引く。この馬車に乗って街をゆっくり回るアトラクションが観光客に人気だ。

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そして中央広場の北東の角にそびえる高さ80メートルの建造物が「聖マリア教会」だ。

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昔、モンゴル軍によってのどを突き抜かれ殺されたラッパ手を悼んで、今でも1時間ごとに塔の上からラッパが吹き鳴らされるのだという。

時間のない私たちはそのラッパは聞けなかったが、最終日、空港に向かう前の時間を利用して教会の中に入ってみた。

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中に入って驚いた。予想もしていなかった色彩だ。

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えんじ色と青緑色をベースに金の細工が無数に施されている。これまでいろいろな教会に入ってみたが、こんな色彩の教会は見たことがない。

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中でもポーランドの国宝となっているのが正面の祭壇だ。

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15世紀にドイツから招聘された彫刻家ファイト・シュトスが10年以上の歳月をかけて完成させた。聖母マリアの被昇天の様子が描かれている。まさに8月15日が「聖母被昇天祭」の祝日だった。

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そのほか、教会内部には精巧な人物像が施されている。ちょっど不気味なほどだ。

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鮮やかなステンドグラス・・・

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他の教会では見られない独特の美的空間が広がる。

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そんな「聖マリア教会」にこの人の肖像画もあった。

ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ2世だ。

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ヨハネ・パウロ2世、本名カロル・ヴォイティワは、1920年クラクフ近郊のヴァドヴィツェで生まれた。父親はハプスブルク家の退役軍人だった。

19歳の時、ドイツ軍のポーランド侵攻でクラクフは占領され彼が通っていた大学も閉鎖された。鉱山や工場で働きながら地下演劇で活動していたが、聖職者となることを志し神学校が禁止されていたため地下神学校で学んだ。

多感な青年期に祖国を占領され、身近でアウシュヴィッツの悲劇が起きた。通常の神父とはまったく違う経歴。それがヨハネ・パウロ2世のバックボーンとなった。

ローマで学んだ後、祖国に戻り、クラクフの教区の司祭から司教、大司教へとこの街で聖職者の階段を上がっていった。

そして1978年、新教皇が在位わずか33日で死去したため、58歳の若さで新たなローマ法王に選出された。

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イタリア人以外の教皇誕生は実に455年ぶり、初めてのスラブ系教皇となったのだ。

2005年に84歳の生涯を閉じるまで、教皇ヨハネ・パウロ2世は世界平和を訴え続けた。その在位期間26年5ヶ月は、264人の歴代教皇の中で2番目の長さだった。

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「空飛ぶ教皇」とも呼ばれたヨハネ・パウロ2世は、在任中に100カ国以上を訪れた。

1981年にはローマ法王として初めて日本を訪問し、広島、長崎を訪れた。

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ヨハネ・パウロ2世が広島で行った「平和アピール」と引用させていただく。

『 戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。
もはや切っても切れない対をなしている2つの町、日本の2つの町、広島と長崎は、「人間は信じられないほどの破壊ができる」ということの証として、存在する悲運を担った、世界に類のない町です。
この2つの町は、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にする」と、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめることでしょう。

広島市長をはじめ、ここに集まられた友人の皆さん、私の声に耳を傾けているすべてのかたがた、私のメッセージが届くすべてのかたがたに申します。

1.本日、わたしは深い気持ちに駆られ、「平和の巡礼者」として、この地にまいり、非常な感動を覚えています。わたしがこの広島平和記念公園への訪問を希望したのは、過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことだ、という強い確信を持っているからです。
この地上のありとあらゆるところに、戦争のもたらした惨事と苦しみのゆえに、その名の知られている場所が数多く、あまりにも数多く、存在しています。それは、人類の犯した悲しむべき行為だといわねばなりません。戦勝記念碑-- それは一方の側の勝利の碑であると同時に、数多くの人々の苦しみと死を物語るものです。国のために命を落とした人々、崇高な目的に命をささげた人々が横たわる墓地があります。同時に、戦争のもたらす破壊の嵐の中で命を失った、罪のない一般の人々が横たわる墓地もあります。強制収容所や死体処理場の跡-- そこでは、人間と侵すべからざる人権とがいやしめられ、野卑と残酷とが最も強く表されたところでした。戦場-- そこでは、自然が慈悲深く地上の傷をいやしていますが、人間の憎悪と敵意の歴史を消し去ることはできません。こうした数多くの場所や記念碑の中でも、特に広島、長崎は、核戦争の最初の被災地として、その名を知られています。
あの陰惨な一瞬に生命を奪われた、数多くの男女や子供たちのことを考えるとき、私は頭をたれざるをえません。また、身体と精神とに死の種を宿しながら、長い間生き延び、ついに破滅へと向った人々のことを思うときにも、同様の気持ちに打たれるのであります。この地で始まった人間の苦しみは、まだ終わっていません。人間として失ったものが、全部数え尽くされたわけではありません。人間の考えやものの見方、ないし人間の文明に対して、核戦争がもたらした実害を目のあたりにし、将来の危険性を考えるとき、特にそうした想いに駆られるのであります。

2.過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。広島市の皆さんは、最初の原子爆弾投下の記念碑を、賢明にも平和の記念碑とされました。わたしは、この英断に敬意を表し、その考えに賛同します。平和記念碑を造ることにより、広島市と日本国民は、「自分たちは平和な世界を希求し、人間は戦争もできるが、平和を打ち立てることもできるのだ」という信念を力強く表明しました。この広島でのできごとの中から、「戦争に反対する新たな世界的な意識」が生まれました。そして平和への努力へ向けて新たな決意がなされました。
核戦争の恐怖と、その陰惨な結末については、考えたくないという人がいます。当地でのできごとを体験しつつも、よく生きてこられた人々の中にさえ、そう考える人がいます。また、国家が武器を取って戦い合うということを、実際に経験したことのない人々の中には、核戦争は起こりえないと考えたがる人もいます。さらに、核兵器は力の均衡を保ち、恐怖の均衡を保つため、いたし方のないものだとする人もいます。しかし、戦争と核兵器の脅威にさらされながら、それを防ぐための、各国家の果たすべき役割、個々人の役割を考えないですますことは許されません。

3.過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。1945年8月6日のことをここで語るのは、われわれがいだく「現代の課題」の意味を、よりよく理解したいからです。あの悲劇の日以来、世界の核兵器はますますふえ、破壊力をも増大しています。

核兵器は依然として製造され、実験され、配備されつづけています。全面的な核戦争の結果がいかなるものであるか、想像だにできませんが、核兵器のごく一部だけが使われたとしても、戦争は悲惨なものとなり、その結果、人類の滅亡が現実のものとなることが考えられます。わたしが国連総会で述べたことを、ここに再び繰り返します。「各国で、数多くのより強力で進歩した兵器が造られ、戦争へ向けての準備が絶え間なく進められています。それは、戦争の準備をしたいという意欲があるということであり、準備がととのうということは戦争開始が可能だということを意味し、さらにそれは、あるとき、どこかで、なんらかの形で、だれかが世界破壊の恐るべきメカニズムを発動させるという危険を冒すということです。」

4.過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです。広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対しての責任をとることです。この町の人々の苦しみを思い返すことは、人間への信頼の回復、人間の善の行為の能力、人間の正義に関する自由な選択、廃虚を新たな出発点に転換する人間の決意を信じることにつながります。戦争という人間がつくり出す災害の前で、「戦争は不可避なものでも必然でもない」ということをわれわれはみずからに言い聞かせ、繰り返し考えてゆかねばなりません。人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません。それは、人類にとって肝要なことです。国内秩序を守るために法が制定されるように、世界の国々には、国際関係を円滑にし、平和を維持するための法制度が作り上げられなくてはなりません。

5.この地上の生命を尊ぶ者は、政府や、経済・社会の指導者たちが下す各種の決定が、自己の利益という狭い観点からではなく、「平和のために何が必要かが考慮してなされる」よう、要請しなくてはなりません。目標は、常に平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命を全うさせるものであります。平和への道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢ではなく、現実のものとする道なのです。

6.35年前、ちょうどこの場所で、数多くの人々の生命が、一瞬のうちに奪い去られました。そこで、わたしはこの地で、「人間性のため、全世界に向けて生命のためのアピール」を、人類の将来のためのアピールを、出したいと考えます。

各国の元首、政府首脳、政治・経済上の指導者に次のように申します。
正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。
今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないというかたい決意をしようではありませんか。
人類同胞に向って、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。
暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりとを持とうではありませんか。

この国のすべての男女、全世界のすべての人々に次のように申します。
国境や社会階級を超えて、お互いのことを思いやり、将来を考えようではありませんか。
平和達成のために、みずからを啓蒙し、他人を啓発しようではありませんか。
相対立する社会体制のもとで、人間性が犠牲になることがけっしてないようにしようではありませんか。
再び戦争のないように力を尽くそうではありませんか。

全世界の若者たちに、次のように申します。
ともに手をとり合って、友情と団結のある未来をつくろうではありませんか。
窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。
あなたがたの若い精神は、善と愛を行なう大きな力を持っています。人類同胞のために、その精神をつかいなさい。

すべての人々に、私はここで預言者の言葉を繰り返します。
「彼らはその剣を鋤に打ちかえ、その槍を鎌に打ちかえる。国は国に向かいて剣を上げず、戦闘のことを再び学ばない」(イザヤ2・4)。

神を信じる人々に申します。
われわれの力をはるかに超える神の力によって勇気を持とうではありませんか。
神がわれわれの一致を望まれていることを知って、団結しようではありませんか。
愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか。

最後に、わたしは自然と人間、真理と美の創り主である神に祈ります。
神よ、わたしの声を聞いてください。それは、個人の間、または国家の間でなされた、すべての戦争と暴力の犠牲者たちの声だからです。
神よ、わたしの声を聞いてください。それは人々が武器と戦争に信頼をおくとき、いの一番に犠牲者として苦しみ、また苦しむであろうすべての子供たちの声だからです。
神よ、わたしの声を聞いてください。わたしは、主がすべての人間の心の中に、平和の知恵と正義の力と兄弟愛の喜びを注いでくださるよう、祈ります。
神よ、わたしの声を聞いてください。わたしはすべての国、またすべての時代において戦争を望まず、常に喜んで平和の道を歩む無数の人々にかわって、話しているからです。
神よ、わたしの声を聞いてください。わたしたちがいつも憎しみには愛、不正には正義への全き献身、貧困には自分を分かち合い、戦争には平和をもってこたえることができるよう、英知と勇気をお与えください。
おお、神よ、わたしの声を聞いてください。そして、この世にあなたの終わりなき平和をお与えください。

(広島にて 1981年2月25日) 』

 

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ヨハネ・パウロ2世の言葉は、私が理想とする世界、社会、精神を代弁してくれているようだ。彼は、私が生きた「理想を追い求める時代」を代表していたのだろう。

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彼は、ユダヤ教やイスラム教、プロテスタントやギリシャ正教などカトリックとは対立してきた宗派との融和も進めた。宗教人としては最も難しい仕事だったかもしれない。

意見の違い、宗教の違い、人種の違いを乗り越えていこうという意思ことが尊いことを、彼は自らの行動で示し続けた。

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彼に対する暗殺未遂事件もあった。2発の銃弾を受けたが、奇跡的に命を取り留めた。

彼は自らを撃ったトルコ人を刑務所に訪ね、彼に許しを与えた。ヨハネ・パウロ2世の死後、狙撃犯は刑務所で喪に服し、釈放後サンピエトロ大聖堂と訪問してヨハネ・パウロ2世の墓に献花したと伝えられた。

生前ヨハネ・パウロ2世は、狙撃事件はソ連のKGBが計画し、共産主義者がトルコ人マフィアを使って実行したものと考えていた。

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実際ヨハネ・パウロ2世は東ヨーロッパの民主化運動を支援していた。ポーランドを訪問した教皇は集まった民衆に「恐れるな」と語った。ポーランドの自主管理労組「連帯」は、東欧の民主化運動をリードし続けた。98%の国民がカトリック信者であるポーランドで、ヨハネ・パウロ2世は民主化運動の精神的支柱となった。

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知れば知るほど偉大な教皇だった。
彼が亡くなってから10年あまり、残念ながら世界は大きく変わってしまった。
敬虔なキリスト教徒を自認するトランプ大統領を、天国のヨハネ・パウロ2世はどのような思いで見ているのだろうか?

 

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<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。



 

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