<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕 成田悠輔著「22世紀の民主主義〜選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」(2022年/SBクリエイティブ) #230106

民主主義のお手本と考えられてきたアメリカがまた迷走している。

中間選挙で野党共和党が過半数を奪還してから初めて召集されたアメリカ連邦議会下院で、議長が決められない100年ぶりの珍事が続いているのだ。

問題は、選挙で選ばれた共和党の保守強硬派議員およそ20人が同じ共和党のマッカーシー院内総務の議長就任を認めないことである。

議長は全議員の過半数の支持を得られるまで投票を繰り返すことになっていて、3日間11回の投票を経てもいまだに議長を選出できないという醜態を晒している。

今、世界中で民主主義が危機に瀕している。

もちろん世界一の超高齢化社会となった日本の民主主義もほとんど民意を反映していないように見える。

そんな日本で、去年1冊の本がベストセラーとなった。

『断言する。若者が選挙に行っても「政治参加」したくらいでは日本は何も変わらない。必要なのは民主主義というゲームのルールを変えること、つまり革命である』

テレビが常套句としている「若者の皆さん、ぜひ投票に行ってください」という言葉の欺瞞を全否定するような刺激的なキャッチコピーが私の胸に響いた。

今注目の論客、成田悠輔さんが書いたベストセラー『22世紀の民主主義』。

成田さんは、東京大学を卒業し、マサチューセッツ工科大学にて博士号を取得、その後一橋大学やスタンフォード大学などで客員助教授などを務めた後、現在は夜やアメリカでイェール大学助教授、昼は日本で半熟仮想株式会社代表を務めているとその経歴が紹介されている。

私が彼のことを知ったのはネットの記事かYouTubeを見たのがきっかけだと思ったが、最近ではテレビにもよく出演し独自の視点から時事問題にコメントなどをしているようだ。

そんな成田さんが民主主義や選挙について話している内容が面白いと思い、図書館に著書をリクエストしたのはおそらく半年ほど前のことである。

リクエストしたことさえ忘れていた昨年末、私の順番が回ってきたとのメールが図書館から届いた。

つまりそれだけこの本は人気があるということらしい。

『22世紀の民主主義』には、「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」というユニークで意味不明な副題が付けられている。

これはどういう意味だろう?

成田悠輔さんの専門については・・・

「データ・アルゴリズム・ポエムを使ったビジネスと公共政策の想像とデザイン。ウェブビジネスから教育・医療政策まで幅広い社会課題解決に取り組み、企業や自治体と共同研究・事業を行う」

これまた、ちょっと分かりづらい。

でも、そのあたりの「よくわからない新しさ」こそが逆に成田さんが世間から注目されている理由でもあるのだろう。

せっかく半年間に及ぶ順番待ちを経てこの本が回ってきたのだから、この本のポイントを書き写させてもらおうと思う。

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まずは、本の冒頭にある「はじめに断言したいこと」から。

この中に、あの刺激的なキャッチコピーが含まれていたので、引用させていただく。

分厚いねずみ色の雲が日本を覆っている。停滞と衰退の積乱雲だ。どうすれば打開できるのか? 政治だろう。どうすれば政治を変えられるのか? 選挙だろう。若者が選挙に行って世代交代を促し、政治の目を未来へと差し向けさせよう。選挙のたびにそんな話を聞く。

だが、断言する。若者が選挙に行って「政治参加」したくらいでは何も変わらない。今の日本人の平均年齢は48歳くらいで、30歳未満の人口は全体の26%。全有権者に占める30歳未満の有権者の割合は13.1%。21年の衆議院選挙における全投票者に占める30歳未満の投票者の割合にいたっては8.6%でしかない。若者は超超マイノリティである。若者の投票率が上がって60〜70代と同じくらい選挙に行くようになっても、今の超超マイノリティの若者が超マイノリティになるだけ。選挙で負けるマイノリティであることは変わらない。

若者自身の行動も追い打ちをかける。日本の若者の投票先は高齢者の投票先とほとんど変わらないという事実だ。20〜30代の自民党支持率は60〜70代とほとんど同じかむしろ高い。ということは、若者たちが選挙に行ったところで選挙結果は変わらないし、政治家にプレッシャーを与えることもできない。

もっと言えば、今の日本の政治や社会は、若者の政治参加や選挙に行くといった生ぬるい行動で変わるような、そんな甘っちょろい状況にない。数十年びくともしない慢性の停滞と危機に陥っており、それをひっくり返すのは錆びついて沈みゆく昭和の豪華客船を水中から引き揚げるような大事業だ。

具体的には、若者しか投票・立候補できない選挙区を作り出すとか、若者が反乱を起こして一定以上の年齢の人から(被)選挙権を奪い取るといった革命である。あるいは、この国を諦めた若者が新しい独立国を建設する。そんな出来損ないの小説のような稲妻が炸裂しないと、日本の政治や社会を覆う雲が晴れることはない。

私たちには悪い癖がある。今ある選挙や政治というゲームにどう参加してプレイするか? そればかり考えがちだという癖だ。だが、そう考えた時点で負けが決まっている。「若者よ選挙に行こう」といった広告キャンペーンに巻き込まれている時点で、老人たちの手のひらの上でファイティングポーズを取らされているだけだ、ということに気づかなければならない。

手のひらの上でいかに華麗に舞って、いかに考え抜いて選挙に行って、「#投票に行こう」とSNSに投稿したところで、今の選挙の仕組みで若者が超マイノリティである以上、結果は変わらない。ただの心のガス抜きだ。それを言ってはいけないと言われるけど、事実なのでしょうがない。

これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか? 選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である。

引用:22世紀の民主主義

なかなか過激だが、問題の核心をついている。

まさに成田さんが指摘した通り、これまでの私の発想が既存の「選挙」という仕組みに縛られていたことに気づかされハッとした。

高齢者が支配する今の日本の民主主義を変えるには、「選挙制度」を変えるしかないと考えていた。

しかし既存の選挙を維持していは何も変わらず、ルール自体を変える必要があると成田さんは主張しているのだ。

確かにその通りかもしれない。

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でも「ルールを変える」というのは具体的にどういうことなのだろう?

「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」という気になる副題の意味も含めて、続く「要約」の中から引用しておこう。

成田さんは、今の民主主義をどのように見ているのか・・・そこから説明が始まる。

経済と言えば「資本主義」、政治と言えば「民主主義」。勝者を放置して徹底的に勝たせるのがうまい資本主義は、それゆえ格差と敗者も生み出してしまう。生まれてしまった弱者に声を与える仕組みが民主主義だ。暴れ馬・資本主義に民主主義という手綱を掛け合わせることで、世界の半分は営まれてきた。

二人三脚の片足・民主主義が、しかし、重症である。ネットを使って草の根グローバル民主主義の夢を実現するはずだった中東の多国民主化運動「アラブの春」は一瞬だけ火花を散らして挫折した。むしろネットが拡散する煽動やフェイクニュースや陰謀論が選挙を侵食。北南米や欧州でギャグのような暴言を連発するポピュリスト政治家が増殖し、芸人と政治家の境界があいまいになった。

ただの印象論ではない。今世紀に入ってからの20年強の経済を見ると、民主主義的な国ほど、経済成長が低迷しつづけている。

平時だけではない。コロナ禍の20〜21年にも、民主国家ほどコロナで人が亡くなり、経済の失墜も大きかった。08〜09年のリーマンショックでも、危機に陥った国はことごとく民主国家だった。「民主主義の失われた20年」とでも呼ぶべき様相である。

なぜ民主国家は失敗するのか? ヒントはネットやSNSの浸透とともに進んだ民主主義の「劣化」である。劣化を象徴するヘイトスピーチやポピュリズム的政治言動、政治的イデオロギーの分断(二極化)などを見てみよう。すると、そうした民主主義の劣化が今世紀に入ってから世界的に進んでいること、そしてその劣化の加速度が特に速いのが民主国家であることがわかった。

加速する劣化と連動して、民衆国家の経済も閉鎖的で近視眼的になってきた。民主国家ほど未来に向けた資本投資が鈍り、自国第一主義的貿易政策が強まって輸出も輸入も滞っている。これらの要因が組み合わさって民主主義の失われた20年が引き起こされたようなのだ。そしてコロナ禍の2020年には、民主国家ほど網羅的で徹底した初期封じ込め政策を取り損ねた。有事の公衆衛生でも平時のマクロ経済でも、張るべきところに張れない今世紀の民主主義の煮え切らなさが浮かび上がってくる。

民主劣化とその経済的副作用は今世紀に入って目立ちはじめた。21世紀の何が民主主義をつまずかせているのか? ウェブ・ソフトウェアビジネスの成長やウェブ上の情報拡散、金融危機、ウイルス感染など、21世紀の主成分には共通点がある。嵐の前の静けさのような助走や停滞があったあと、常人の直感を超えた速度と規模で反応が爆発することだ。

超人的な速さと大きさで解決すべき課題が降ってきては爆発する現在の世界では、凡人の日常感覚(=世論)に忖度しなければならない民主主義はズッコケるしかないのかもしれない。

引用:22世紀の民主主義

ここまでの現状認識は極めて私と近いものを感じる。

インターネットやSNSの普及とともに民主主義は確実に変容した。

20世紀の民主主義は優れていたのかというと甚だ疑問だが、少なくとも建前がある程度尊重され、幻想かもしれないがある程度の理想が共有されていた。

弱いものをいじめてはいけないとか、言っていいことを悪いことがあるとか、専門家の言うことをある程度信用するとかいった基本的なルールを程度の差こそあれ多くの人がまだ持っていた。

しかし、ネット上ではそうした常識的な考え方は見向きもされず、より過激で刺激的でタブー的な言動が人々の耳目を集め、弱者を攻撃したり、人のプライバシーを暴くような行為が横行するようになった。

成田さんが言う「民主主義の劣化」はかつてないレベルで世界中に拡散していったのだ。

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では、どうすればいいのか?

成田さんは3つの対処方法を提示している。

では、重症の民主主義が再生するために何が必要なのだろうか? 三つの処方箋が考えられる。⑴ 民主主義との闘争、⑵ 民主主義からの逃走、そして ⑶ まだ見ぬ民主主義の構想だ。

闘争は、民主主義と愚直に向き合い、調整や改良によって呪いを解こうとする生真面目な営みだ。政治家の注意を目の前の内向き世論だけでなく長い目で見た成果へと振り向けるため、たとえばGDPや平等・幸福度などの成果指標に紐づけた政治家への再選保証や成果報酬を導入するのはどうだろう。

政治家の直面するインセンティブを改造する「ガバメント・ガバナンス(政府の統治)」案に加え、選挙制度の再デザインの提案も数多い。オンライン投票やアプリ投票はもちろん、世代間格差を乗り越えるための政治家や有権者への任期や定年。「世代別選挙区」や各投票者があとどれくらい長く生きそうかで票を重みづける「余命投票」の導入も考えられる。

若者に限らず無視されがちなマイノリティ・少数者の声を汲み取る企てもある。政治家の男女別定数や、政党や政治家ではなく政策論点ごとに投票を行って自分にとって大事な論点に多くの票を割りふることを許す液体民主主義などだ。

とはいえ、実現可能性は心許ない。既存の選挙で勝って地位を築いた現職政治家がこうした選挙制度改革を行いたくなるだろうか? 無理そうなのは明らかだ。

そう考えると、民主主義との闘争ははじめから詰んでいるかもしれない。だとしたら、いっそ闘争は諦め、民主主義から逃走してしまうのはどうだろう?

タックス・ヘイブンへの資産隠しなど、国家からの逃走は一部ではすでに日常である。そして思い出してほしい。今や民主主義も、失敗に次ぐ失敗を市民に課す政治的税にも見えることを。だとすれば、タックス・ヘイブンがあるように政治的デモクラシー・ヘイブンもありえるのではないか?

既存の国家を諦めデモクラシー難民となった個人や企業を、独立国家・都市群が誘致したり選抜したりする世界。独自の政治制度を試す新国家群が企業のように競争し、政治制度を商品やサービスのように資本主義化した世界だ。

過激な妄想だと思われるかもしれない。だが、そのような試みが実は進行中である。たとえば、どの国も支配していない地球最後のフロンティア・公海の特性を逆手に取って、公海を漂う新国家群を作ろうという企てがある。お気に入りの政治制度を実験する海上国家やデジタル国家に、億万長者たちから逃げ出す未来も遠くないかもしれない。

21世紀後半、資産家たちは海上・海底・上空・宇宙・メタバースなどに消え、民主主義という失敗装置から解き放たれた「成功者の成功者による成功者のための国家」を作り上げてしまうかもしれない。選挙や民主主義は、情弱な貧者の国のみに残る、懐かしく微笑ましい非効率と非合理のシンボルでしかなくなるかもしれない。私たちが憫笑する田舎町の寄り合いのように。そんな民主主義からの逃走こそ、フランス革命・ロシア革命に次ぐ21世紀の政治経済革命の大本命だろう。

引用:22世紀の民主主義

民主主義を変えるには選挙制度をまず変える必要があると私は考えていたが、成田さんは既存の政治家がそれを許すとは考えられず「詰んでいる」と言う。

真正面から行っても民主主義の改革は難しいという諦めがある。

確かに政治家たちの行動パターンや日々の言動を見聞きしていると、本当に絶望感しか感じない。

個人としては優秀な人でも、魔窟のような政治の世界に入ってしまうと全くその人の能力が活かされず、意味不明な「数の論理」によって誰が決めたのかさえはっきりしない得体の知れない結論をいつも導き出されるのだ。

自らの議席を失うような改革には、ほぼ全ての政治家が体を張って抵抗する。

一方、タックスヘイブンのように国を捨てて逃走するという発想は私には全くと言っていいほどない。

確かに自分の国に独裁者が現れ、とても受け入れ難いような悪政を始めたならば難民となって国外に逃れる可能性もあるが、「成功者の成功者による成功者のための国家」には正直全く興味がない。

そもそも複数の人間が集まって社会を形成すれば、必ず意見や嗜好の違いが表面化し対立が生まれる。

たとえ公海上に新国家を作ったとしても必ず対立が生まれ、今と同じ問題を抱えるに違いない。

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こうして「闘争と逃走」という二つの異なる処方箋をあえて示した上で、成田さん自身が目指したい3番目の選択肢、全く新たな22世紀の民主主義を作るという「構想」について熱く語っている。

その部分を引用しておこう。

だが、逃走はどこまでいっても逃走でしかない。民主主義に絶望して選民たちの楽園に逃げ出す資産家たちは、民主主義に内在する問題を解決しはしないからだ。では、どうすれば逃走と闘争し、民主主義の再生をはかれるだろうか? 求められるのは、民主主義を瀕死に追いやった今日の世界環境を踏まえた民主主義の再発明である。

そんな構想として考えたいのが「無意識データ民主主義」だ。インターネットや監視カメラが捉える会議や家の中での言葉、表情やリアクション、心拍数や安眠度合い・・・選挙に限らない無数のデータ源から人々の自然で本音な意見や価値観、民意が染み出している。「あの政策はいい」「うわぁ嫌いだ・・・」といった声や表情からなる民意データだ。個々の民意データ源は歪みを孕んでハックにさらされているが、無数の民意データ源を足し合わせることで歪みを打ち消しあえる。民意が立体的に見えてくる。

無数の民意データ源から意思決定を行うのはアルゴリズム(編集注:問題を解決するための手順をコンピューターのプログラムとして実行可能な計算手続きにしたもの。検索エンジンからおすすめ表示までウェブ上のあらゆる場所で動いている)である。このアルゴリズムのデザインは、人々の民意データに加え、GDP・失業率・学力達成度・健康寿命・ウェルビーイングといった成果指標データを組み合わせた目的関数を最適化するように作られる。意思決定アルゴリズムのデザインは次の二段階からなる。

⑴ まず民意データに基づいて、各政策領域・論点ごとに人々が何を大事だと思っているのか、どのような成果指標の組み合わせ・目的関数を最適化したいのかを発見する。「エビデンスに基づく目的発見」と言ってもいい。

⑵ ⑴で発見した目的関数・価値基準にしたがって最適な政策的意思決定を選ぶ。この段階はいわゆる「エビデンスに基づく政策立案」に近く、過去に様々な意思決定がどのような成果指標に繋がったのか、過去データを基に効果検証することで実行される。

この二段燃焼サイクルが各政策論点ごとに動く。したがって、

無意識民主主義=

⑴ エビデンスに基づく目的発見 + ⑵ エビデンスに基づく政策立案

と言える。こうして、選挙は民意を汲み取るための唯一究極の方法ではなく、⑴エビデンスに基づく目的発見で用いられる数あるデータ源の一つに格下げされる。

民主主義は人間が手動で投票所に赴いて意識的に実行するものではなく、自動で無意識的に実行されるものになっていく。人間はふだんはラテでも飲みながらゲームしていればよく、アルゴリズムの価値判断や推薦・選択がマズいときに介入して拒否することが人間の主な役割になる。人間政治家は徐々に滅び、市民の熱狂や怒りを受けとめるマスコットとしての政治家の役割はネコやゴキブリ、デジタル仮想人に置き換えられていく。

無意識民主主義は大衆の民意による意思決定(選挙民主主義)、少数のエリート選民による意思決定(知的専制主義)、そして情報・データによる意思決定(客観的最適化)の融合である。周縁から繁りはじめた無意識民主主義という雑草が、既得権益、中間組織、古い慣習の肥大化で身動きが取れなくなっている今の民主主義を枯らし、22世紀の民主主義に向けた土壌を肥やす。

引用:22世紀の民主主義

ここで、「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」という副題の意味がようやくわかった

選挙などという民意を反映しない20世紀型の民主主義から脱却し、新しいデジタル技術を使った22世紀型の民主主義を構想しようという提言である。

去年だっただろうか、NHKで「17歳の帝国」というドラマが放送された。

これはまさにAIを使って民意をリアルタイムで汲み取り、AIの政策提言を基に17歳の総理大臣が政策を決定していくという物語だった。

成田さんの主張はそれとよく似ているが、政治家さえ必要なくなり、これまで政治家が担っていた役割はマスコットとしてのネコやゴキブリ、デジタル仮想人に置き換えられていくというのである。

日頃からデジタル的な思考をしている人たちにとって、限られた特定の政治家が国民の代表ヅラをして独断で政策決定する現在の選挙や議会の仕組みは昭和の遺物を見る気分なのだろう。

事実、本の最後「おわりに」の中で、成田さんはこんなことを書いている。

もともと私の専門は民主主義とも選挙とも政治とも関係ない。データやソフトウェア、アルゴリズムなどのデジタル技術と社会制度・政策の共進化である。「意思決定や資源配分に使われるアルゴリズムをデータ駆動にデザインする手法」を作って、学術論文やソフトウェア、オープンデータなどにしている。

その視点から振り返ると、ふと疑問が湧く。私たちが日々使う商品やサービスは、ここ20〜30年で別世界になった。情報・コミュニケーション・データ技術が作り出したこの激変が、人の手で作り出された天変地異であることに異論を唱える人はいないだろう。すばらしいことだ。

ただ、反省しなければならないこともある。そうした技術発展を公共領域、特に民主主義や選挙に反映していくことに人類は驚くほど失敗してきたことだ。投票や選挙のやり方は何十年間もほぼ変わっていない。日本ではネット投票すらいまだになぜか議論中で、政党が党内選挙でネット投票を導入すると先端的な試みとして報道されたりする。何かおかしい。懐かしいセピア色の昭和が堂々とのさばっている今の選挙や政治の仕組みは異常である。病的である。

日本のような国の政治・選挙制度には競争も外圧もない。なので、当然といえば当然の停滞なのかもしれない。

引用:22世紀の民主主義

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政治システムを根本から作り変えるというのはまさに革命である。

明治維新のようにガラリと政権が入れ替われば、全く違った政治が始まる。

しかし、太平洋戦争後の進駐軍でさえ、戦前の日本の政治家たちを全て入れ替えることはできず、結局満州での悪行で暴利を貪った岸信介のような人間が堂々と総理大臣になったりしたのだ。

歴史を振り返っても、素晴らしい政治が行われた時代というのはほとんどない。

権力者は常に腐敗し、その在位期間が長くなればなるほど闇も深まるというのが歴史の教えだ。

アルゴリズムによって行われる政治だって、そのアルゴリズムを作る人やその人に指示を出す人の影響から逃れることはできないだろう。

全ての人が満足できるような政治はそもそも存在しないのだと考えた方がいい。

より良い政治を求めて試行錯誤する中で編み出された仕組みが民主主義なんだと思う。

大切なのは、現状が不完全であることを認めたうえで少しでも良い政治を目指して努力を重ねること、新しいテクノロジーも積極的に取り入れながら絶えず模索し続けることなんだと私は思う。

既得権を持った政治家がまともな仕事をしないのであれば、ネコやゴキブリに置き換えるというアイデアには全面的に賛成である。

<吉祥寺残日録>24年ぶりの1ドル=135円台!歴史的な円安は世界一の超高齢国・日本の実力なのか #220614

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