アメリカのバイデン大統領がついに大統領選挙からの撤退を決断した。
私は、少し嬉しい気分でこのニュースを聞いた。
トランプ氏の銃撃事件以降、右派だけでなく左派からも陰謀論的な言説が流れる一方、バイデン氏も自らの老いを認めず周囲の意見に耳を貸さない状況が続き、アメリカがどんどん悪い方向に向かう様子を暗澹たる気持ちで眺めていたので、撤退決断のニュースを聞いて久しぶりに救われた気分になったのだ。

日本時間の22日未明に発表された声明文で、バイデン大統領はこれまでの実績をアピールした上で次のように述べている。
『大統領として仕事をできたことは、私の人生における最大の栄誉でした。再選を目指すつもりではありましたが、党と国家の利益にとって最善なことは、私が選挙戦からは撤退し、残された任期は大統領としての職務を全うすることに集中することだと考えています。私は国民に向けて、今週後半に決断の詳細を説明するつもりです。』
テレビ討論会で精彩を欠き、身内からも撤退論が強まる中でも大統領再選に強い意欲を見せていたバイデンさん。
しかし最後は、自分の置かれた立場を客観的に判断して撤退を決断した。
いかにも常識的なバイデンさんらしい。
老醜を晒す最悪の事態をギリギリで回避し、世に蔓延る「辞めない老害老人たち」に模範を示した。
選挙に負けても側近の意見も聞かずに過激な支持者たちを扇動して議事堂襲撃という民主主義の破壊を企てたトランプ氏とは全く違う良識ある政治家としてホワイトハウスにその名を刻むだろう。

そのうえでバイデン氏は、ハリス副大統領を自らの後継として支持することを表明した。
これを受けてハリス氏も民主党の大統領候補に名乗りをあげ、「指名を勝ち取るつもりだ」と強い意欲を示した。
これにより、民主党の候補者選びはハリス副大統領を中心に展開することになる。
果たして対抗馬が出るのか、どのような手続きで候補者を一本化するのかなどについては、これからしばらく様子を見る必要がありそうだが、有力候補とみなされていた州知事らが相次いでハリス支持を表明しており、8月19日から予定される民主党全国大会でハリス氏が正式に民主党の候補者に選出される可能性は高そうだ。
撤退の決断が遅すぎたとの批判は当然あるが、私はそうは思わない。
銃撃事件以来トランプ氏に集まっていた注目を民主党に奪い返す効果は少なくともあるだろう。
誰が正式な大統領候補になるのか、民主党がこのピンチをチャンスに変えられるかが試される。

カマラ・ハリス氏、59歳。
1964年、ジャマイカ出身の経済学者であるドナルド・ハリスとインド出身の内分泌学研究者であるシャマラ・ゴパラン=ハリスの娘として、カリフォルニア州オークランドで生まれた。
検事から州の司法長官、そして上院議員に当選し、2021年に女性初の副大統領に就任した。
まさに、多民族国家アメリカのダイバーシティを象徴するような人物だが、副大統領としての評価はかなり厳しい。
主に担当した違法移民問題では目立った実績を上げることはできず、世論調査でも不支持が支持を大きく上回っている。
当初1期で辞めると言っていたバイデンさんが再選に固執した背景にも、ハリス氏ではトランプ氏に勝てないという事情があったとも言われる。
あの知名度の高かったヒラリーさんでさえ実現できなかったアメリカ初の女性大統領というのはとてつもなく高いハードルと言えるだろう。

それでも私は高齢のバイデンさんが撤退を決め、若く多様性を象徴するハリス氏がトランプ氏の対抗馬となることを歓迎したい。
狂信的なトランプ支持者は誰が対立候補であってもトランプ氏に投票するし、反トランプの強い意志を持つ有権者もトランプ氏以外の候補に投票する。
勝敗の鍵を握るのは人口の2割程度の無党派層であり、今後のキャンペーン次第では若いハリス氏の方がバイデン大統領よりも浮動票を集め、トランプ氏の再登板を阻止できる可能性があると考えるからである。
トランプ氏は嘘つきであり、デマゴーグであり、個人崇拝主義者である。
彼がもし再び大統領に選ばれることになれば、アメリカはもはや民主主義国家ではなく、ある種の“独裁国家”に変容してしまうと私は考えている。
だから、何としてもトランプ氏の勝利を阻止してほしいのだ。

昨夜放送されたNHKスペシャル『混迷の世紀 パラレル・アメリカ〜銃撃事件の衝撃 分断のゆくえは〜』を見た。
番組では、私が知らなかったトランプ支持者たちの活動や意見がいくつか紹介される。
それは単なるイデオロギーの違いを超えて、思考ではなく信仰、トランプ氏という神に選ばれし強きリーダーの主張に盲目的に服従する人たちの姿だった。

中でも私が戦慄を覚えたのは、ワシントンの官僚組織を自らの支持者に入れ替えるというトランプ氏の公約。
現在大統領が指名できる政府の要職はおよそ400人だが、トランプ氏はこの数を大幅に増やそうとしていて5万人規模になるのではないかと伝えられている。
トランプ氏のブレインたちも参加して保守系シンクタンクが作成している「プロジェクト2025」という計画書には、「(議会の承認なしに)FBIの部署を廃止できる」など大統領の権限を大幅に強化して、それを実現する官僚を育成しようというプランが盛り込まれているという。
ヘリテージ財団「プロジェクト2025」の総責任者ポール・ダンス氏は次のように述べる。
『大統領が政府を掌握するためには同調する官僚が必要です。しかし前回のトランプ大統領の就任時は足並みをそろえられませんでした。多くの官僚が反トランプだったため一種の機能不全になったのです。トランプ氏が再任された時に官僚機構をどう管理するかは非常に重要なのです。』
シンクタンクでは官僚養成のためのeラーニング動画サイトを立ち上げ、トランプ支持者たちに学ばせている。
兵士としてアフガニスタンに従軍した経験を持つアルゲイロさんは、自ら官僚になって、ウクライナ支援に消極的なトランプ氏を支えたいと考え半年前からこのサイトで学んでいるという。
『政府の支出は大きくなっているのに国民には還元されておらず、国民のためになっていません。それが今の問題です。官僚機構を利己的なものから国民のものへと変える必要があるのです』
自らの意のままに動く官僚を養成する。
それは、まるでかつてのナチスドイツのようであり、習近平体制の中国のようだ。
すなわち独裁者が必ず求める入り口であり、アメリカを個人崇拝の「独裁国家」に変える危険な匂いを感じる。
こうしたトランプ陣営の計画を、ジョージタウン大学のドナルド・モイニハン教授は強く批判する。
『専門性も知識も乏しい人材ばかりになると、より政治化され、透明性の低い政府になると思います。官僚が大統領に忠実で、憲法よりも大統領を守ることを第一に考えるような状況では透明性が薄れていくのです。彼らはトランプ氏に仕えていると考えており、良い公共サービスを提供することよりも指導者を守ることに全力を傾ける。より権威主義的な政府を生み出すことになるのです。』
まさに、その通りだと私も思う。

その一つが、保守の理念を同世代に浸透させようと活動する「ターニングポイントUSA」という若者たちの団体。
代表を務める30歳のチャーリー・カーク氏は、伝統的な家族観や愛国心に基づいた社会を築くべきだと参加者に呼びかける。
『楽な人生を望むなら左翼になればいい。彼らは学費を負担し、学生ローンを免除し、無料で物を与えてくれる。私たち保守派はより冒険的な人生を送るのだ』
『今のZ世代は最も保守的な若者になろうとしています。その中で皆さんは大きな役割を果たしています』
この団体は全米に3500もの支部を持つまでに発展、トランプ氏の掲げる「アメリカ第一主義」を熱烈に支持し活発な選挙運動を展開している。
コロラド州で活動する21歳の参加者は・・・
『振り子が左に大きくシフトして、私たちの世代は混乱と不安定さしか知りません。私たちの未来のためにトランプ大統領を誕生させることが大切なのは明白です。トランプ氏は世間が思うほどひどい人間ではなく、国のために戦っていますトランプ政権は完璧ではありませんでしたが、私たちが誇りや安心感を見出すことができました。』
4年前バイデン政権誕生の原動力となった若い世代が保守化している背景には経済的な問題があるという。
バイデン政権下で進んだ急激なインフレは若者たちの生活を直撃し将来の希望を奪っているのだ。

図書館から特定の本を排除しようという運動も広まっている。
同性愛など未成年に有害な本を公立図書館から排除する運動は「禁書」と呼ばれ、これまでに異議申し立てがあった本は4200冊に及ぶという。
中には名著とされてきた「アンネの日記」も含まれる。
この運動を主導するのが保護者たちで作る保守系団体「自由を求めるママたち MOMS for LIBERTY」。
共同創設者であるティナ・デスコビッチさんの口から出た言葉に私は強い衝撃を受けた。
「自由とは“好き勝手する”ではなく、“正しいことをする”という意味です。」
なるほど、トランプ派の人々が考える「自由」とは、他者の自由を認めず、自らの価値観に従わせるということなのか。
「自由」という言葉には、人それぞれの「自由」の解釈があるということを私に再認識させる印象的な一言だった。
この団体は、コロナ禍でのマスク着用やワクチン義務化に反対することから設立された。
子供を思う「親の自由と権利」が最優先されるべきという団体の主張にトランプ氏が賛同、「プロジェクト2025」を進める保守系シンクタンクから資金援助を受け、トランプ氏を支持する若者たちの団体「ターニングポイントUSA」とも連携しているという。
こうしてトランプ支持者たちが推進する「禁書」の運動は、ナチスドイツが行った「焚書」を思い起こさせる。
多様な考え方にアクセスできる環境は民主主義社会の根幹であり、それを権力が妨害する行為はまさに「独裁国家」への道と言わざるを得ない。

トランプ大統領の誕生以来深まり続けるアメリカ社会の分断は、言論空間だけでなく保守派のための経済圏も作り上げようとしている。
起業からわずか1年あまりで上場を果たした新興のECプラットフォーム「パブリックスクエア」は、LGBTQに寛容な従来の商業施設やECサイトに違和感を抱く保守層を対象に急成長を遂げた。
「パブリックスクエア」のホームページには、『Our Mission』として次のように説明されている。
新しい種類の市場へようこそ。伝統的なアメリカの価値観を尊重する企業から、家族が必要とするすべてのものを購入できる場所。
パブリックスクエアは、商業の力を通じて文化を回復することを使命としています。これはボイコットではなく、より良いものに切り替えるのを助けることです。私たちは、アメリカが私たちの家族が何世代にもわたって繁栄するための素晴らしい場所であり続けることを確実にするために、この旅にあなたをお迎えできることを光栄に思います。
参加を希望する企業には保守的な価値観を尊重することを条件としている。
自由を尊び、小さな政府を目指し、中絶に反対して家族のつながりを重視することなどである。
自分とは考えの違う人とは接触せず、それぞれの価値観の中だけで生きられるパラレルワールドがどんどん構築され膨張していくアメリカ。
トランプ氏が再び大統領になれば、さらに大規模に社会の変容が進むことになるだろう。

銃撃事件の直後、共和党全国大会で正式な大統領候補となったトランプ氏は、39歳のJ・D・バンス上院議員を副大統領候補に指名した。
2016年、ラストベルトに住む白人貧困層の実相を描いた「ヒルビリー・エレジー」を出版したベストセラー作家で、当初はトランプ氏を痛烈に批判していたものの、一転して熱烈なトランプ支持者に転じて2022年トランプ氏の支援を受けて上院議員に当選した人物である。
その主張は、トランプ氏の「アメリカ第一主義」をさらに先鋭化したもの。
トランプ氏の銃撃事件もバイデン政権の責任だといち早く非難した。
今日のバイデン大統領の撤退表明を受けて、バンス氏は「大統領選から撤退するならば今すぐ大統領をやめるべきだ」とバイデン批判のトーンを強めている。
議会では今後ことあるごとに共和党がバイデン辞任を求めることになるだろう。

若いバンス氏は、その経歴から見てもトランプ氏同様、権力志向の極めて強いポピュリストという印象を受ける。
まだどのような人物か見定める必要はあるが、トランプ氏の暴走を助長することはあっても伝統的保守だったペンス前副大統領のように時にはブレーキ役を果たすことはまずないだろう。
情緒的なトランプ氏が大統領になり、イエスマンばかりの側近たちに囲まれて、官僚もトランプ氏に盲目的に従う支持者ばかりになった時、アメリカはどんな国になってしまうのか?
考えるだけで恐ろしい。