<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇 自らの生き方を貫いた92歳の義母が天国に旅立った瞬間、天高く昇って行く白雲を見た #241229

今年の12月は慌しかった。

東京で孫娘の誕生日祝いをしたり、テレビ局時代の後輩たちと酒盛りしたりした後、5日から岡山に来て昨日28日まで滞在した。

最初のうちは夫婦でのんびり庭木の剪定などして穏やかに過ごしていた。

私が子供の頃からある松や槙の木を、妻の要求に応じてチェーンソーを使ってかなり大胆にぶった切る。

素人仕事なので松も槙もかなり貧相な姿になってしまったが、縁側に立つと庭越しに向こうの山が見えるようになり、それはそれで悪くはない。

ところが・・・

妻は昔から「私が木を切ると人が死ぬ」とよく口にしているのだけれど、残念ながら今回もそれが現実となってしまった。

老人ホームで穏やかに暮らしていた義母、すなわち妻の母の食欲が落ち、口から食事をしなくなったと連絡が入ったのだ。

定期的に義母を診てくれていた医師が点滴をしようとすると、義母はキッパリとそれを拒否したという。

義母はこのところ足腰が弱くなってベッドでほとんどの時間を過ごしてはいたが、頭は最後までしっかりしていて、医師に対して「自然のままにしておいてほしい」とはっきりと自分の意思を伝えた。

生前から延命治療は絶対に受けたくないと周囲に語っていた義母の意思を家族も受け入れ、4人の子供たちもその気持ちを理解していて誰も異論を挟まなかった。

12月11日の出来事である。

1週間もすると水分もほとんど摂らなくなり、医師からは「長くてクリスマスまで」と伝えられた。

12月半ば、妻と一緒に義母の施設を見舞った時、苦しそうに悶えながら息をする姿を見て、これはあと数日、とてもクリスマスまでは持たないだろうと感じる。

しかしその苦痛をなんとか乗り越えると、義母は落ち着いて静かに眠るようになった。

妻はその頃から毎日施設に赴いて終日見守るようになり、県外に暮らす弟妹たちも代わる代わる最後のお別れをするために駆けつけた。

そして義母の仲が良かった妹が歩行器を押しながら娘たちに付き添われてお見舞いに来た日には、奇跡的に元気を取り戻し、嬉しそうにおしゃべりしたという。

食べ物も水も口にしないまま頑張って最後の命を燃やした義母。

そんな義母の呼吸が止まったと突然の知らせが届いたのは12月25日、まさにクリスマスの日の午前中だった。

運悪くその日に限って、妻は親知らずの抜歯準備のために1泊2日で東京に戻っていた。

混雑する大病院の予約がようやく取れたのがたまたま25日で、それをキャンセルするとまた2−3ヶ月待たなければならないため、後ろ髪を引かれながら東京に戻っていた間に義母は旅立った。

「この日だけはやめて欲しいけど当たりそうな予感がする」と妻は直前まで東京行きを躊躇していたが、妻の予感は今回も見事に当たってしまった。

昔から妻の悪い予感は恐ろしいほどよく当たるのである。

義母の訃報を知らせる妻の電話を受けたのは午前11時ごろ。

私は計画していた北海道旅行をしぶしぶ取りやめ岡山で留守番をしていて、「ゴミ捨て場」と呼んでいる自宅から一番離れた畑で野焼きをしている最中だった。

数年前から伐採した木や剪定した枝などを運び込み、文字通りゴミ捨て場として使っていた畑をこの冬きれいに片付けようと一念発起し、野積みしていた廃材を焼却炉で燃やしていたのだ。

前の日に見舞った際には義母は穏やかな状態が続いていて、少し不意をつかれたような驚きを覚えた。

ふと空を見上げると、一筋の白雲が義母が亡くなった岡山市内の方向から天に向かってまっすぐに立ち昇っていた。

前年に夫を見送り「自分の役割は終わった」と口にするようになった義母。

この世代の女性には珍しく大学の法学部を卒業した才媛で、時代が許せば今年のNHK連続テレビ小説『虎に翼』さながらに司法の世界で活躍しても不思議ではない優秀な人だった。

人一倍観察眼が鋭く、優しく微笑みながら口にする一言は常に批評家精神に富み、自らの死に対しても最後まで冷静でどこか第三者的に評価しているところがあった。

ガンで胃を全摘した後、何度も自宅で倒れて両脚に金属の棒を入れるなど幾度となく大きな手術を受けながらも、わがままな義父を残して死ぬとみんなに迷惑をかけると執念で92歳まで生き抜いた。

延命治療は望まず自然のままに死にたいという強い信念を最後まで貫いた見事な人生だったと思う。

人間にとって、決して長生きが目標ではない。

自分はどう生きたいのか、その信念を心に持ちながら自らの人生をコントロールできた人は、思い残すことのない穏やかな最期を迎えることができる。

そんなことを義母は教えてくれたような気がする。

27日に行われた告別式の会場で、義母が生前に彫った木製のブローチが形見分けとして家族に配られた。

子育てが一段落した頃から習い始めた木彫りだけれど、最後は生徒を集めて教えるほどの腕前となったそうで、家には義母が彫った数々の作品が残されている。

専業主婦として子育てや介護に明け暮れた人生は、若き日の義母が夢見たものとは違っていたかもしれない。

しかし自らの運命をしっかりと受け止めて果たすべき役割を全うした晩年の義母からは、後悔の気持ちなど微塵も感じられなかった。

それこそが残された家族にとって何よりのプレゼントであり、だからこそ葬儀では家族みんなが笑顔で義母を天国に送り出すことができたのだ。

私も最後まで自分らしい生き方を貫きたい。

そんな気持ちを抱きながら、感謝と共に謹んで義母のご冥福をお祈りしたいと思う。

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