🇯🇵 石川県/輪島市 2024年9月29日
石破茂総理誕生を前に能登の被災地に初めて足を運んだ。
1泊2日の駆け足旅であったが、いろいろ考えさせられた有意義な旅だった。

若い時から世界中を旅している私だが、能登半島を訪れるのは今回が初めてである。
能登というととても遠い印象を持っていたが、2003年に開業した「のと里山空港」を利用するとわずか1時間。
能登は知らぬ間にずいぶん近くなっていた。

しかし、羽田〜能登間を飛ぶフライトは1日1便のみで、空港に着いてからの交通手段も限られている。
能登半島は今も各地で通行止めとなっているようだが、レンタカーが一番便利だろうと考え、トヨタレンタカーで小型車を予約した。
その、つもりだった。
しかし能登空港に到着してアプリを立ち上げてみると、肝心の予約画面が出てこない。
焦って予約時の画面を表示すると「予約はまだ成立していません」と書かれていた。
ちゃんとチェックせずに予約できたと勘違いしたらしい。
そう思った私はすぐに代替策を考えた。
トヨタレンタカーのカウンターは行列ができていたので、別のレンタカー会社に空いている車はないか確認してみた。
しかし他の2社もすでに予約でいっぱいだという。

レンタカーがダメならバスに乗るしかない。
そう考えた私はすぐに外に飛び出してバス停を探した。
時刻は10時過ぎ。
輪島行きの特急バスは9時38分に出て、次は12時30分、珠洲行きのバスも9時50分に出発して次は12時50分である。
10時台には穴水行きと金沢行きのバスがあるが、私が目指す方向ではなさそうだ。
一瞬、途方に暮れる。
元はと言えば、私がちゃんとレンタカーの予約を確認しなかったのが原因だが、1日1便のフライトとバスの時間がズレているというのはどういうことなのか。
このまま空港から動けないまま2時間以上バスを待たねばならないのか。
この使えないバスの時刻表に、次第に腹が立ってきた。
その時だった。
時刻表をしっかり見直すと、特急バスのほかに1日2本だけ「路線バス」と書かれた別のバスがあることに気づいた。
その1本目は10時36分の輪島駅前行きである。
私は元気を取り戻し、空港内にあるインフォメーションの女性に確認すると、確かにその時間に輪島行きのバスがあるという。
よし、とにかくこのバスに乗って輪島に行こう・・・能登の旅はのっけから計画が崩れ、行き当たりばったりの旅となってしまった。

バス停で30分ほど待っている間、空港のすぐ近くにレーダーのようなものが立っているのに気づいた。
1日1便の「のと里山空港」は、民間旅客用というよりも軍事的なニーズに支えられて作られた空港なのかもしれない。
能登半島は、北朝鮮やロシアに向けて突き出した防衛上とても重要な位置にある。
ただ、能登空港に軍用機の姿はなく、1本だけある滑走路も地震によって歪んで波打っているため、離着陸の際には機体が激しく揺れるのを感じた。

輪島行きの路線バスは、定刻から数分遅れで姿を現した。
バス停で待っていた人たちはほとんど、この前に来た金沢行きの特急バスに乗ってしまったので、輪島行きの路線バスに乗ったのは私ともう一人の男性の2人だけだった。

どこから来たのか、バスには2人の先客がいて、私を含め4人の乗客を乗せたバスはほとんど対向車のいない山間の道をゆっくりと走っていく。
かつては七尾線が輪島まで乗り入れていたが、2001年に廃線となり、今ではこのバスが唯一の庶民の足である。
慢性的な赤字と運転手不足から全国的にバス路線の廃止が相次いでいるが、このバスもいつまで持ち堪えられるだろうと心配になった。

能登空港を出発すると、倒壊した家屋が目に飛び込んできた。
テレビでは散々目にしているはずの光景ではあるが、実際自分の目でそれを見ると、思わずドキッとしてしまう。
テレビやネットで見るのと、現地に足を運んで自分の目で見るのとでは、感じ方に天地の差がある。

土砂崩れも至る所で目撃した。
交通を確保するために土嚢を並べ、土砂が道路に流れ出るのを辛うじて食い止めてはいるが、剥き出しになった斜面には倒れた木々がそのまま放置され、抜本的な対策はまだ取られていないようだ。

道路沿いを流れる河原田川には、先日の豪雨によるものとみられる痕跡が随所に残っていた。
河原の草や木は下流に向かって全てなぎ倒され、橋には大量の流木が引っかかったままとなっている。
正月の震災から9か月、ようやく片付けを済ませ新たな一歩を踏み出そうとしていた人たちを無情にも今度は濁流が襲ったのだ。

バスは30分あまりで、終点の輪島駅に到着した。
輪島駅と言っても、今は駅としては使われておらず、「ふらっと訪夢」という名の道の駅になっている。
ここまでの料金は690円。
Suicaは使えず、完全な現金の世界が能登にはまだ広がっている。

さて、レンタカーがない中で珠洲まで行くのは無理そうだし、輪島の街をぶらぶらしてから、予約している和倉温泉の旅館に向かうしかなさそうだ。
輪島に向かうバスの中でそう決めて、輪島駅に着くと案内の女性に和倉温泉への行き方を聞いてみた。
彼女によれば、輪島から和倉温泉に直接行けるバスはないので、穴水までバスで行き、そこで「のと鉄道」に乗り換えて「和倉温泉駅」まで行くのがベストだという。
穴水までのバスは、12時30分、13時30分、15時35分があると教えてもらい、2時間ほど輪島市内を歩いてから13時30分のバスに乗ることに決める。

この日のスケジュールが決まったことで、輪島駅からGoogleマップを頼りに地震で焼けた朝市通り方面を目指す。
輪島の駅前に立つホテルも破壊されたまま今も休業が続いていた。

街角には、解体作業員募集の張り紙も貼られていた。
かつて土建国家と言われ、地方に行くと多くの人が公共工事に頼って生活していたが、財政難から公共事業費が削減され少子高齢化が進んだため、こうした災害が起きた際に頼りにできる人材が日本社会から急速にいなくなっているのだ。

大通りを歩いていても、地震で倒壊した住宅や商店がそこかしこに残されている。
輪島といえばいつも朝市通りの映像ばかり見せられてきた気がするが、それ以外の通りでも大半の住宅が何らかの被害を受けているのだ。

その被害家屋の数の多さは私の想像を超えていた。
津波の被害が目立った東日本大震災の現場では、波によって根こそぎ住宅が流されるという被害が多かったが、輪島では地震の揺れによって倒されたままの住宅が目立つ。
どうして9ヶ月経っても、瓦礫が手付かずで残されているのか?
私の中に大きな疑問が湧き上がってきた。

調べてみると、罹災証明書で半壊以上と判定された家屋については、被災者には「公費解体」と「自費解体」という2つの道が用意されていることがわかった。
「公費解体」は文字通り、行政が所有者に代わって家屋の解体を行なってくれるというありがたい制度で、申請が認められれば、所有者は一切解体費用を負担する必要がなくなる。
そのため多くの被災者が公費解体を希望し、なかなか順番が回ってこないということになり、全ての被災家屋を解体するには長い月日を要するのだ。
一方の「自費解体」は被災者が自分で解体業者と契約し支払いも済ませた後で、かかった費用を還付してもらえるという制度だ。
業者さえ見つかれば早期に家屋を撤去して新たに家を建設することが可能になる反面、一時的に所有者が費用を負担しなければならず、また行政が定めた解体費用までしか補償されない。
リスクを考えれば、時間がかかっても公費解体を待ちたいという被災者が増えるのは容易に想像できることである。

そして一番の問題は、被害の規模に比べて、輪島市内で目撃する重機や作業員の数がものすごく少ないということだろう。
こんなペースでやっていたのでは、家の解体だけで何年もかかってしまう。
解体作業の中核を担っているのは「石川県構造物解体協会」という団体だそうで、石川県との協定に基づいて市や町と契約を結び、解体作業にあたっているらしい。
現在の日本の防災基本法では、各自治体が災害対応の責任を担うことになっているため、業者は各市町村と個別に契約を結ばないと解体作業に取りかかれないのだ。
自ずと地元企業が優先となり、スピードも遅くなる。
石破さんが提唱する国主導の「防災省」ができれば、この辺りは確かに改善しそうだと感じた。

こうしてぶらぶら歩いているうちに、立入禁止の看板が立てられたエリアに行き着いた。
どうやらこの界隈が朝市通りがあった場所のようだ。
このエリアは一帯が地震発生時に起きた大規模火災で消失したため、広い範囲がすっきりしていた。
メディアでも注目されたため、優先的に残った瓦礫も撤去されたように見える。

まるで陸前高田の「奇跡の一本松」のように燃え残った一本の木がポツンと立っていた。
少しデータが古いが、輪島市で公費解体の申請件数は7月時点で6000件、そのうち実際に解体を終えたのはわずか2.6%にとどまっているという。
それから2ヶ月経っているので、この比率はもう少し改善しているかもしれないが、おそらくそのほとんどはこの朝市通りに集中し、他のエリアは後回しになっているように見える。
公費解体の申請はその後も増え続けていて、能登全体ではすでに石川県の想定を上回る2万6000件の申請が出されているという。

立入禁止エリアの周辺をぐるっと歩いてみる。
焼け残ったビルは朝市通りのシンボルとして度々テレビでも紹介されていた。
しかしこの界隈には重機がたくさん入っていて、すでに整地された箇所もある。
行政としても輪島観光の中心地だった朝市をいち早く再開させたい思惑なのだろう。

しかし、隣接するエリアは今も手付かずのまま。
瓦礫といえども私有財産なので行政が勝手に取り壊すことはできず、どこかで線引きしながら限られたマンパワーを朝市通りに集中せざるを得ないのだろう。

海側の道を回って、立入禁止エリアの反対側にやってきた。
こちらも完全に焼け野原で、残っている住宅は見当たらない。

そんな一角に全く被害を受けていない真新しい家が2軒建っていた。
やはり新築の家は地震に耐えたのかと一瞬思ったが、地盤にもヒビひとつなく、これはどう見ても震災後に建てられた住宅だろうと考え直した。

ただ、この真新しい建て直されたばかりの家のすぐ先には川があった。
地震のせいか、9月の大雨のせいかはわからないが、川の護岸が随所で破壊されていて、濁流が地震の被害から徐々に立ち直り始めた市街地に流れ込んだのだ。

川の対岸に渡ると、洪水によって使い物にならなくなった家財道具が道端に置かれていた。
川の両岸には隙間なく土嚢が積み上げられている。
輪島を襲った地震と洪水。
「二重被災」は人々から再起の気力を奪っていく。

私が訪れたのは日曜日だったため、浸水した家屋では一斉に後片付けに追われていた。
中にはボランティアと見られる人たちもいるが、その数はごくわずか。
大半の家では、住民たちが疲れた様子で泥水に浸かった家具を家の外に運び出していた。

川から流れ出した泥が路地に溜まり、日光に照らされて固まっていた。
風が吹くと土埃が舞い上がる。
ようやくの思いで片付けを終えても、護岸が復旧しなければいつまた濁流に飲み込まれるかわからない。
考えれば考えるほど、気持ちが落ち込んでしまうだろう。

漁港にも足を運んだ。
いくつもの断層が一斉にずれ動いた今回の能登地震の特徴は、海岸線が数メートルも隆起してしまったことである。
これは数千年、数万年に一度という大規模な地殻変動だというから、それに遭遇した人たちは本当に運が悪い。
平地の少ない能登では、漁業が地域経済に占めるウェートは高く、漁港が使用不能になったのは大きなダメージとなった。
夏には応急復旧が終わり、漁船の出入りができるようになったというが、震災前の状態まで漁業が回復するにはまだ数年はかかるだろう。

こうして輪島の被災地周辺を回りながら、私はランチが食べられそうな飲食店を探した。
ところが、予想した以上に営業しているお店はなかった。
そんな中、1軒人だかりができているお店があったので覗いてみる。
「中浦屋」
明治創業の能登を代表する老舗和菓子屋さんらしい。

輪島朝市名物「えがらまんじゅう」。
もちもちとした生地にくちなしで色づけされた餅米をのせ、中には黒のこし餡・・・これは1個食べてみたかったが、あいにくすぐに食べられるものがなく、お土産用の冷凍のものはあったが持ち歩くには不適切らしく断念した。

代わりに買い求めたのは「丸ゆべし」。
『秋に収穫される旬の柚子の中身をくりぬき、その中に秘伝の味付けをした餅米を詰め、それを数回蒸して約半年間も乾燥させる、という古くからの製法で一つ一つ丹念に作られる手作りの銘菓』だそうだ。
そのため、1個が3000円近くする高価なお菓子だが、頑張って店を開けているのを少しでも応援しようと、妻へのお土産として一つ買い求めた。

中浦屋のお隣では、「輪島朝市むすび。」という名でおむすびを販売していた。
私が選んだのは「輪島朝市名物!炊き出しおむすび」。
とても小さなおむすびで250円はちと高いが、何も食べるものがない街ではこのおむすびもありがたい。
このおむすびが、この日の私の昼ごはんとなった。

こうして1時間半、朝市通り周辺の現状を見て回った後、バスの時間を気にしながら是非とも行ってみたい場所があった。
震災当初、連日のようにテレビで紹介されていた横倒しになったビルである。
9月1日に放送されたNHKスペシャル『MEGAQUAKE巨大地震 “軟弱地盤”新たな脅威』を見て、このビルが専門家たちに新たな警鐘を鳴らしていることを知ったからだ。

輪島市の中では比較的広い道路が交わる交差点。
そのビルは、地震直後の姿そのままに、まだそこに倒れていた。
隣にあったはずの家屋は完全にビルに押し潰され、2人がここで亡くなっている。
神戸の震災でも多くのビルが倒れたが、それはビルを支える柱や梁が揺れに耐えきれず断裂して倒壊したものが大半だった。
ところが、輪島のこのビルは柱や梁といった構造部分に形状が変わるほどの大きな損傷は見られない。
そのため、地震や建築の専門家が強い関心を持って、このビルの倒壊したメカニズムを調べているという。

専門家が注目したのは、「杭基礎」と呼ばれる部分である。
現在建てられているビルのほとんどは、強度の高いコンクリートなどで作られる「杭基礎」を地中深くに打ち込むことで建物を支えているのだが、問題のビルではこの重要な杭基礎が根元から折れ、ビル全体が地面にめり込んでしまっていたのだ。
杭が壊れて人が亡くなったケースは日本では初めてだと見られ、その原因は輪島の軟弱な地盤にあると専門家は考えている。

輪島の中心部は川が運んできた土砂が堆積してできた軟弱な土地だが、こうした軟弱地盤は地震の揺れを何倍にも増幅させてしまうのだ。
調査の結果、倒れたビルが立っていた場所は、揺れを2.5倍以上増幅する超軟弱地盤だったことが判明した。
専門家たちによるシミュレーションによれば、地震発生からおよそ16秒で杭のほとんどが破損し、支えを失う形で30秒後にビルがゆっくり倒れていったと分析された。

輪島ではこのビルだけでなく、鉄筋コンクリート造りの建物の実に4分の1が傾いた。
専門家はその多くで、杭基礎の破壊が原因だったと考えている。
地盤については学術的にもまだ未解明なことが多く、コストの問題も大きいことから、現在の耐震基準では基礎については十分に考慮されていないという。
まさに建築の盲点が能登の地震で浮き彫りとなった形だ。
そして、輪島と同じような軟弱地盤は全国に広がっていて、特に東京や大阪、名古屋といった大都会では広大な軟弱地盤の上に多くの人たちが今も暮らしている。

最大の軟弱地盤を抱える首都圏が首都直下地震に襲われると、最大17万5000棟の家屋が倒壊すると試算されているが、この想定には杭基礎のことは考慮されていない。
9ヶ月経っても変わらない輪島の惨状は、東京の未来を警告しているのだ。
半島の先端で交通の便が悪く、大企業も存在しないから復興のスピードが遅いという指摘も確かに一理あるだろう。
しかし、被害を受けた面積や被災者の数は、近い将来起きるとされる南海トラフ地震や首都直下地震とは比べようもない小さな規模である。
能登でできないことが、数千万人が巻き込まれる巨大地震でできるはずがない。
新首相に就任した石破さんには、持論である「防災省」を立ち上げるなど、災害大国日本にふさわしい新たな災害対応の仕組みを作ってもらいたいと思う。

一部の業者やボランティアに頼るのではなく、仕事を失った被災者を政府が雇って復興事業を担うマンパワーとして活用する仕組みができないかと私は常日頃考えている。
被災者は体育館でごろ寝という常識を変えて、高齢者や子供はインフラが整った場所に二次避難してもらって、地域の復興のために働きたいという住民を組織化して専門スタッフの下で瓦礫の撤去やインフラの整備を手伝ってもらうのだ。
被災者が重機の扱い方を習い免許を取得すれば、数ヶ月のうちには貴重な戦力になるのではないか。
一時的に外国から工事現場に慣れた労働者を受け入れるという方法もありだと思う。

今のままでは、次の巨大地震で日本はかつてないダメージを受けることになるだろう。
昔の日本人は村単位で助け合い自力で生活を再建したが、現代人は自分では何もできないし、しようともしない。
ただ行政に頼り文句を言うばかりで、自分の力で何とかしようという精神が足りない。
特に、都会の人間はそうだ。

私は東日本大震災以来、いざという時にどのように行動するか、自分なりに時々考えるようになった。
東京と岡山で二拠点生活を続けているのも、ある意味その日に備えて避難場所を自分で確保しようという考えからである。
今回駆け足ながら、輪島の被災地を訪れて、地震の怖さ、復旧の遅さを目の当たりにしたことは貴重な経験だった。
一人でも多くの日本人が、能登に足を運び、自分の問題として地震を考えるようになれば、被害を少しは減らし復興を早めることにつながるだろうと改めて感じた。
<吉祥寺残日録>能登半島地震から半年!想像を上回る復旧の遅さは迫り来る巨大地震後の破滅的な混乱を警告する #240702