<吉祥寺残日録>ウクライナ危機🇺🇦 NHKスペシャルが見事に描いたキーウ占領を食い止めた緊迫の72時間 #230227

1年前の今日2月27日は、ウクライナでの戦争において重要な節目であった。

日本を含め西側のメディアは、ベラルーシ国境からわずか90キロに位置する首都キーウは72時間以内にロシア軍に占領されるだろうとの軍事専門家の見方を伝えていた。

しかし、キーウは陥落しなかった。

絶体絶命だったこの72時間に果たして何が起きていたのか?

昨夜放送されたNHKスペシャル『ウクライナ大統領府 軍事侵攻・緊迫の72時間』は、ゼレンスキー大統領の側近たちを直接取材することでロシアの計画を狂わせた運命の3日間を見事に描いた。

侵攻1年に合わせテレビ各局はキャスターを現地に送ったり相変わらず似たような取材を行っている中で、しっかりとした視点を持ったこの番組はまるで歴史映画のように劇的だった。

特に、ロシア軍侵攻直後の欧米の腰のひけた対応ぶりは私の想像を遥かに超えていて、ちょっと衝撃的ですらあった。

間違いなく私が選ぶNo.1の侵攻1年番組だと断言できるだろう。

この番組から、新しく知った事実を書き残しておきたい。

ロシア軍の侵攻開始直後の様子をゼレンスキー大統領の妻オレーナさんが語った。

『聞きなれない音で目が覚めました。朝5時です。何か悪いことだと思いました。夫の姿が見えなかったので隣の部屋に行くと、彼はもう服を着ていました。「何が起きたの?」と尋ねると、彼は「始まった」と言いました。彼はこの上なく落ち着き、そしてこの上なく緊張していました。彼がスーツを着ているのを見たのはそれが最後でした』

続いて、大統領の右腕アンドリー・イエルマク大統領府長官の証言。

彼は米CIAから侵攻は時間の問題と聞いていたが、この日だという確証はなかったという。

『大統領からの連絡を受け5時15分に執務室に行くと大統領はもういました。私が2番目、その後首相、軍幹部、閣僚、議長などが入ってきました』

そしてプーチン大統領の作戦開始宣言から2時間後、ゼレンスキー大統領は動画を発信し国民に平静を呼びかけた。

『プーチン大統領は「特別軍事作戦」を宣言しました。不安にならず家にいてください。ウクライナの軍や治安機関、防衛部門全体は機能しています』

しかし実際には、侵攻2日前にベラルーシの国防相から「ベラルーシ側からの侵略はありえない」と確約され、ウクライナ軍の主力部隊を東部と南部に集中させていた。

ベラルーシ国境での軍事演習は、東部に部隊を移動させないための陽動作戦と考えていたという。

オレクシー・レスニコフ国防相の証言。

『72時間でロシアはキーウを占領できると考えていました。その証拠に私はロシア軍の司令官らの作戦司令書を見たことがあります。彼らは侵攻開始12時間以内に大統領府周辺を制圧するよう指示されていました。彼らはキーウ周辺のすべての飛行場を占拠する予定だったのです。彼らは飛行場を制圧し強力な拠点を築こうとしていました。そこにロシア軍は次々と増援部隊を送り込むのです』

作戦開始から6時間後ロシア軍のヘリコプター部隊がキーウ郊外のアントノフ空港を攻撃した際、空港を守っていたのは経験のない徴収兵ばかりだった。

一方のロシア軍は精鋭の空挺部隊で、彼らは空港の構造も把握していてすぐに管制塔を占拠された。

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侵攻から12時間40分後、ゼレンスキー大統領は初めてカーキ色のTシャツを着てカメラの前に現れた。

『ヨーロッパそして自由世界の指導者のみなさん、いま私たちを強力に支援してくれなければ、明日戦争があなたのドアをノックすることになるでしょう』

この時、ウクライナの指導者たちは西側諸国の冷たい反応に憤りを募らせていたという。

2014年のクリミア併合以来、ウクライナは西側諸国に繰り返し軍事支援を求めてきたが応じてもらえず、今回のロシア軍の侵攻後もその態度は変わらなかったという。

レズニコフ国防相の証言。

『私はワシントンで携帯型の地対空ミサイルの提供を依頼しました。返事は「不可能」でした。「ではどうすれば?」と、答えば「塹壕を掘る」でした。欧米は「武器供与はロシアを刺激し侵攻を招く」と』

ミハイロ・ポドリャク大統領府顧問の証言。

『欧米のパートナーは3日か4日で私たちがいなくなると考えていました。「ウクライナはおそらく立ちゆかなくなる、ウクライナは独立を守りきれないだろう」と。「同情し涙します。でもとりあえず見守ります。待ちます」と。すでに私たちが攻撃を受けている時点でも、ウクライナに対するパートナーたちの態度が大きく変わることはありませんでした。「ロシアが怖いのでウクライナを諦めた」と言っているのに等しいのです』

ゼレンスキー大統領の命も狙われていた。

ロシアによる暗殺計画が進行していたのだ。

オレクシー・ダニロフ国家安全保障・国防会議書記の証言。

『2月22日、極秘情報が記されたレッドフォルダーが届いた時、私はすぐ午後7時15分にゼレンスキー大統領に電話しました。「あなたの命が狙われています」と。それからはレッドフォルダーが届くたび彼に命の危険があることを報告しました』

24日に軍事侵攻が始まるとキーウ市内に潜伏していたロシアの工作員たちが一斉に蜂起した。

建物の屋上には攻撃目標を記した印をつけて回る。

『身近にいる人の誰が工作員かわからないのです。常に緊張状態にありました』

大統領暗殺の試みはわかっているだけで13回に及んだ。

ポドリャク大統領府顧問の証言。

『キーウには大勢の工作員が潜伏していました。ウクライナ保安庁の特殊部隊などは大統領府周辺での破壊工作を制圧するのに必死でした。自動車に爆弾が仕掛けられ、破壊工作が行われていました。ロシアのスナイパーを拘束したり排除したりしました』

オレクシー・アレストビッチ大統領府顧問(当時)の証言。

『大統領府につながる地下通路に工作員が入るという情報もありました。私たちは常に大統領府で攻撃の恐怖にさらされていました。大統領が死んだら、士気の背骨が折れることは明らかでした。彼個人への同情だけでなく、国の士気に大きなダメージを与えます。銃や防弾チョッキ、弾薬などが配られました。最悪の場合、大統領府の全員が殺されると考えていました』

ゼレンスキー大統領は政権の幹部やスタッフらおよそ100人と共に大統領府の地下壕に避難することになった。

大勢の市民が避難しようと混乱が広がる中で、ゼレンスキー大統領はすでに国外に逃亡したという噂も広がった。

侵攻から32時間後には、国防相や大統領府長官のもとにロシア側から降伏を求める電話がかかってきた。

侵攻2日目の午後4時45分、プーチン大統領はウクライナ軍にクーデターを起こすよう呼びかけた。

『私はウクライナの軍人に訴えます。ネオナチにあなたの子供や妻、そして高齢者を人間の盾として使わせないでください。あなた自身の手で権力を掌握してください。あなた方と合意する方が簡単だと思われます。キーウに居座りウクライナの人々を人質にする麻薬中毒者でネオナチのならず者よりも』

一方、欧米諸国はゼレンスキー大統領にキーウから脱出すべきだと提案してきたという。

与党「国民の奉仕者」幹部ダビド・アラハミア氏の証言。

『欧米のパートナーたちは「ここにヘリコプターがあります。さあどうぞ」、とても積極的でした。30分おきに「街は包囲されている。すぐに脱出すべきだ」というのです。欧米は亡命政府を準備していました。ロシア人に国を乗っ取られたら、私たちは西部リビウかポーランドに行き、そこで「侵略に反対非難する」と言うことになるはずでした』

ダーシャ・ザリブナ大統領府報道官の証言。

『いろんな人がここに来て、「諦めよう。その方がいい」と言ってきました。それは欧米のパートナーだけではありませんでした。さまざまな人がいろいろな話をしましたが、本質は同じで「諦めろ」でした』

オレクシー・アレストビッチ大統領府顧問(当時)の証言。

『私は脱出を提案したひとりです。私は大統領に「降伏するのではなく、よりよい司令部に移動するだけです」と伝えました。このまま死んでしまうか、国の象徴であり総司令官として別の場所から防衛を指揮し続けるかどちらかでした』

こうした差し迫った状況の中で、ゼレンスキー大統領は地下壕に避難していた100人全員を呼び集めたという。

与党幹部アラハミア氏の証言。

『大統領は次のように述べました。「20〜30人だけ残します。そうすれば60〜70日間は食料がもつでしょう。ここに長く籠城できることになるのです」と。最悪なのはインターネット回線が切れ、ロシアに捕まったか誰にも分からなくなることです。「国民にメッセージを伝え続けられるよう衛星回線を手配してほしい」と頼んだのです』

ダニロフ国家安全保障・国防会議書記の証言。

『みんなお互い「またね」と言って気がつくとハグをしあっていました。女性たちはみんな泣いていました』

そしてゼレンスキー大統領は側近たちに残るかどうか自分で決断してほしいと言ったという。

側近たちは家族に残る決意を伝え、息子宛のメッセージを動画で残したものもいた。

こうして侵攻開始から37時間あまりが経過した25日の午後6時30分、ゼレンスキー大統領は4人の側近と共に地下壕を出た。

自分たちは逃げない、ロシアには屈しないという決意を世界に伝えるため、大統領府前の広場からあの鮮烈な動画を発信したのだ。

『みなさん、こんばんは。与党幹部がここにいます。大統領府長官もここにいます。首相もいます。大統領府顧問もいます。そして大統領もここにいます。私たちはここにいます。私たちの軍隊もここにいます。市民もここにいます。みんなが我が国の独立を守っています。これからもずっとそうあり続けます。ウクライナを守る人たちに栄光あれ! ウクライナに栄光あれ!』

アレストビッチ大統領府顧問(当時)の証言。

『機銃掃射の煙がまだ空に見えていました。警護の担当者は慌てましたがそれでも彼らは出て行き撮影したのです』

侵攻開始から3日目。

屈服しないウクライナに対しロシア軍は一層攻撃を激化させ、ウクライナの町は次々に攻撃にさらされ占領された。

ところが侵攻から57時間後、ロシア軍の侵攻スピードが落ちてきたとする一報が伝えられる。

その背景にウクライナ軍が密かに進めていた作戦があったという。

侵攻初日のロシア軍のミサイル攻撃は、ウクライナの防空システムを破壊し制空権を奪うことを最優先に考えていた。

しかしウクライナ軍は1ヶ月ほど前から戦闘機や防空ミサイルなどの兵器を通常の配備地点から秘密裏に移動させていたという。

『侵攻初日から毎日、ロシア軍がミサイルをどこからどこへ何発撃ったのか記録しています。どこで何が起きているかすべて分かっています』

ダニロフ国家安全保障・国防会議書記の証言。

『敵が予想もしないような途轍もない作業が行われました。最初の頃、敵は狂ったようにミサイル攻撃を行いました。彼らはこの攻撃でとどめを刺せたと信じていました。しかし敵は重要ではない場所にミサイルを発射していただけなのです』

レズニコフ国防相の証言。

『私たちはさまざまな場所で戦略的に演習を行っていました。我が軍の部隊はウクライナ各地を移動していました。常に移動していたので、攻撃を受けずに済みました』

与党幹部アラハミア氏の証言。

『1ヶ月の間に情報を漏らさないように非常に限られたグループで作業し、私たちの武器・弾薬を分散させました。そのおかげで助かったのです。振り返ってみると最も賢明な判断だったかもしれません』

こうして兵力を温存したウクライナ軍の反撃が始まり、さらにロシア軍兵士の多くが戦争の理由を理解しておらず士気が低かったこともロシアにとっては誤算となった。

ロシア兵の中にはパレード用の軍服で侵攻したものもおり、中には侵攻直前にキーウのレストランに予約の電話をかけてきた兵士までいたという。

ロシア兵が予約したウクライナの伝統料理を食べられる有名レストランは、ウクライナ大統領府からわずか2.5キロの距離にある。

番組ではこのレストランを取材し、予約の電話を受けた女性は予約は200人でルーブルでの支払いはできるかと聞かれたと証言した。

女性が「できない」と答えると、ロシア兵は「そうか、でもすぐにルーブルを使うことになるだろう」と言ったという。

女性がスマホに残っていた兵士に再び電話をかけてみると、「後ほど」というメッセージが返ってきた。

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ウクライナ各地で、市民が戦車の前に立ちはだかった。

予想もしなかった抵抗を前にロシア兵たちは戸惑った。

欧米諸国からも見放されて国家が崩壊する瀬戸際だったウクライナは、奇跡的に踏みとどまり、危機的な3日間をこうして乗り切ったのだ。

与党幹部アラハミア氏の証言。

『ロシア人は私たちの社会の仕組みを理解していません。私たちは民主的な社会を持っています。彼らはウクライナをロシアの一部だと思い込んでいるのです。私たちがなぜ戦っているのか、何のために戦っているのかを分かっていないのです』

レズニコフ国防相の証言。

『自分たちの国を守ろうとみんなが立ち上がったのです。武器を持った人たちからキュウリやトマトの瓶詰めを持ったおばあちゃんまで』

ポドリャク大統領府顧問の証言。

『侵攻当初、こうした多くの人たちがいなければウクライナは決して立ちゆかなかったでしょう。職業や立場に関係なく自ら行動する人々が現れたことでウクライナは抵抗できるというわずかな希望は確信に変わりました』

イエルマク大統領府長官の証言。

『私たちが勝つためには世界を納得させなければなりません。私たちは身を守り勝つために全力を尽くすことができると、それを世界に示せたときに私たちは武器の支援を受け始めたのです』

侵攻から3日目、欧米各国はウクライナへの軍事支援を相次いで発表した。

侵攻開始から72時間が過ぎ、ゼレンスキー大統領はTシャツ姿で再びメッセージを発表した。

『大変な夜でした。ウクライナ人は自分たちの国を守るために立ち上がりました。私たちの生命と自由、未来の世代のための戦いほど大切なものはないのです。そして私たちを助けてくれる人たちがいます。これはもう現実なのです。ウクライナの皆さん、私たちは何を守っているのかはっきりと分かっています。私たちは必ず勝利します。兵士のひとりひとりに栄光あれ! ウクライナに栄光あれ!』

フィリピン革命の時も、イラクがクウェートに侵攻した時も、アメリカは危機に陥ったリーダーたちに国外脱出を提案してきた。

今回も同じ提案をしたのだろう。

しかし、もしもあの時、ゼレンスキー大統領が首都に残る決断をしなければウクライナの情勢は全く違っていて、もう今頃は全土がロシアに併合されていたに違いない。

世界第2位の軍事大国が首都に迫り、どこにいるのかもわからない暗殺者が自らの命を狙う中で、コメディアン出身のゼレンスキー大統領がなぜここまで勇気ある行動ができたのだろう?

それは彼が権力欲に取り憑かれた政治家ではなく、自分に何ができるかを理解し国民の気持ちが理解できるプロのプロデューサーだったからだったように感じる。

日本人の中には、あの時ゼレンスキー大統領がアメリカの提案を受け入れ国外に脱出していればこれほど多くの国民が犠牲になることもなく戦争は終わっていたと考える人がいるかもしれない。

しかし私は、時には命よりも大事なものがあると考える。

それは生きる意味であり、誇りであり、人間としての矜持だ。

どんな体制であろうと生きていたいという人は当然いるだろうが、私はどうしても侵略者の下で屈辱的に生きることには耐えられないのだ。

もしも中国軍が日本列島に迫ってきた時、果たして岸田総理や日本国民はどんな決断を下すのだろう?

ウクライナのような誇り高き決断が私たちに下せるのだろうか?

この番組を見ながら思わず我が身のことを考えてしまった。

<吉祥寺残日録>ウクライナ危機🇺🇦 世界で始まる「新冷戦」の時代!プーチンは「核兵器による威嚇」で禁断の領域へ #220228

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