<吉祥寺残日録>憧れだったテレビ局時代の先輩の訃報を聞いてから、なぜか悪い夢にうなされる #240411

その人は、テレビマンになったばかりだった若き日の私が憧れ、目標にした先輩の一人だった。

テレビの報道記者として、新聞記者とは違う映像的なニュースが得意で、他の人たちとは違う角度から時代を切り取る独特のセンスの良さに魅せられた。

やがて、報道局を離れていくつもの番組を成功させ、情報番組には欠かせない敏腕プロデューサーとして制作現場を率いる最高幹部に上り詰める。

しかし、人の運命というのはわからないもので、ある嵐の日に不慮の事故に遭い、誰も予想しない形でテレビの一線から退くことになった。

あれからもう10年以上が経っただろうか。

先日、その先輩が亡くなったという報せが岡山にいた私の元にも届いた。

事故の直後から言葉も喋れず、車椅子での生活を送られていたので訃報を聞いても驚くことはなかったが、その日以来、なぜか夜中に変な夢を見るようになった。

テレビ局を辞めてからほとんど見ることのなかった悪夢である。

時には寝ながら大声でうめいて、妻が驚いて声をかけてきたほどだ。

その時、夢の中で私は誰かに追い詰められて、大声を出して相手を威嚇しようともがいていたのである。

どうして、こんな悪夢を見たのか?

それは間違いなく、テレビ局時代の私が常に大きなストレスを抱えていたためだと思う。

テレビの世界には大いなる夢とやりがいがあるのと引き換えに、抱えきれないほどの問題が降りかかってきて心が休まることはなかった。

昨日の夕方に開かれたお別れの会に顔を出した。

退社以来ご無沙汰していた昔の懐かしい顔がたくさんそこにはあった。

私と同年代のすでに退職した人もいれば、まだ現役で会社の幹部になっている後輩たちもいる。

さらには先輩が立ち上げた番組でMCを務めた大物司会者たちも出席していて、お別れの会とは思えないほど笑いが絶えない賑やかな会となった。

私の姿を見つけて多くの人が話しかけてきた。

コロナの時期に会社を辞めてからもう4年。

ぷっつりと音信不通となった私の近況をみんなが知りたがった。

その度に、毎月東京と岡山を往復していること、年老いた親たちの見守りをしながら畑仕事を始めたこと、去年からは時々海外旅行に出かけていることなどを話すと、多くの人が「いいですね」と反応した。

退職後、ゴルフ三昧だったり大学で教えているといった人は少なくないが、畑仕事をしているという人はあまりいない。

ちょっと新鮮な感じがするのだろう。

「元気そうですね。ちっとも変わらない」

後輩たちは私を見て口を揃えてそんなことを言った。

お世辞もあるだろうが、実際に私が楽しそうに見えたに違いない。

「ノーストレスだからね」

私はこの言葉を何度も繰り返した。

テレビの世界で生きる人間にとって「ノーストレス」という状態がいかに魅力的に響くか、私も知っている。

私は40年近いストレスフルな月日を経て、無事にノーストレスな日々を手に入れたのだ。

私は結局、会が続いていた3時間弱の間、ずっと誰かと話をしていた。

最近の会社の様子も聞くことができたが、私が予想していた以上に窮屈になっているらしい。

私はある意味、いい時にテレビ局を辞めたということかもしれない。

どんなに大変でもクリエイティブな苦労はストレスが少ない。

自分が望まないような管理的な仕事が増えれば増えるほど、悪い夢にうなされることも増えるだろう。

今のテレビ局を引っ張っている後輩たちが、ストレスに押しつぶされることなく、私のようなのどかな日々にたどり着けることを願うばかりだ。

憧れだった先輩の死。

テレビを愛しほとんど家には帰って来なかった先輩が、怪我をしたことで晩年穏やかな時間を一緒に過ごすことができたという家族の挨拶が妙に心に残った。

心よりご冥福をお祈りしたいと思う。

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