先週末から始まったTBSの日曜劇場『VIVANT』。
主役級の大物キャストをずらりと並べ、2ヶ月半に及ぶモンゴルロケを行った桁外れの大作としてこの夏一番の注目を集めている。
初回を視聴した限りでは、Netflixでの世界マーケットを強く意識し過ぎて、脚本の魅力に欠ける印象を抱いたが、私が注目したのはドラマの舞台となるのが中央アジアの架空の国家「バルカ共和国」だということだった。
多くの日本人にとってほとんど関心を持ったこともない中央アジアを舞台に何をやろうというのだろう?
来月、中央アジアのカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンの3カ国への旅を計画している私は興味津々である。

中央アジア旅行の出発まで1ヶ月となり、私もそろそろ本格的に旅の準備を始めることにした。
飛行機やホテルの予約はすでに済ませているが、現地に行って何をするのか?
それを考えるためにも、私にとって全く未知の国である中央アジア諸国について勉強する必要がある。
そこで図書館に行って数少ない関連本を何冊か借りてきた。

その中からまず最初に読み始めたのがこの本である。
『カザフスタンを知るための60章』
明石書店が刊行する「エリア・スタディーズ」シリーズの一冊で、各分野の専門家がカザフスタンについて解説してくれている。
カザフ草原で繰り広げられた遊牧民たちの興亡の歴史は、世界史が得意だった私もほとんど習ったことのないことばかり、この地域が日本人にとって完全なエアポケットであることを改めて実感した。
この本の中から、まずは総合地球環境学研究所の窪田順平教授が書いた「気候変動とカザフ草原の歴史」という文章を引用させていただく。
ユーラシア大陸中央部には、東はモンゴルから中国西北部を経て、中央アジア、西アジア、アラビア半島、さらにはアフリカ大陸へと連なる広大な乾燥・半乾燥地域が広がっている。地球を宇宙から眺めた衛星画像を見ると、この乾燥・半乾燥地域はベルト状に連なり、「イエローベルト」とでも呼ぶのがふさわしい。このイエローベルトの周囲、特にその北側は草原が連なっていて、イエローベルトを縁取っている。イエローベルトもすべてが砂漠というわけではなく、氷河をいただく天山山脈などの高山からの融雪水を水源とする河川に潤されたオアシス都市が点在し、その周囲には灌漑農地だけでなく、草原が広がる。こうした草原を舞台に、さまざまな集団が遊牧を営み、移動し、時にオアシスに住む人々に対し略奪を繰り返しながら、地域の歴史を刻んできた。
この広大な乾燥・半乾燥地域は、気温や降水量といった気候の変化に敏感な地域であり、「乾燥」と「半乾燥」とがわずかな気候のゆらぎによって入れ替わる。草原もその拡がりは一定ではなく、気候の変化に応じて拡大・縮小する。また、この地域は乾燥・半乾燥地域とひとくくりにされがちだが、高山と草原、オアシス、砂漠といった景観が展開し、その生態系は思いのほか多様である。その多様性を作り出す要素の一つは、降水量の東西の季節性の違いである。
カザフスタンよりも東に位置するモンゴル高原は、東からのモンスーンの影響が強く、夏雨型気候である。夏雨のもたらす恩恵は大きく、モンゴル高原の草原の生産力は他と比べて大変大きい。この草原の大きな生産力は、家畜の群れの中に去勢オスの存在を許容する。開放的な地形と相まって、去勢オスを多く含む家畜の群れは移動の原動力となり、かつては騎馬集団の軍事的優位性を支えた。都市は政治的な機能が強く、モンゴル高原では経済的な発展を遂げた都市はむしろ少ない。一方、降水量が少なく、山地の多い西アジアでは、農耕民と牧民は別々の集団として分化することで限られた水資源と生物生産を活用し、両者をつなぐ都市における交換経済が発達した。現在カザフスタンに相当する地域は、それらの中間にあって、豊かな草原は存在するが、冬雨型気候のため夏の乾燥が強く、モンゴル高原に比べると生産力は劣る。それを濃厚で補完する多様な農牧複合が存在した。また、天山山脈など山岳地域の高標高地には、中国のユルドゥズ高原や、カザフスタンのアス高原といった豊かな草原が存在する。夏はこうした高標高地の草原を利用し、冬は標高が低い地域に居住する、標高差を利用した移牧は、現在でも見られる。
引用:「カザフスタンを知るための60章」より
島国に生きる私たち日本人にとって、テレビで見る草原の暮らしはのどかで雄大な印象しかないが、実際のところ気象条件が変化することに対応して移動を強いられる不安定なものだということがわかる。
中央アジアの草原地帯を舞台に、東西の大帝国が興亡を繰り返したのも気候の変化による影響があったということだろう。
今では草原に国境線が引かれ、かつてのように自由気ままに他民族の居住地を奪うことはできなくなったが、この地域に暮らす人たちにとって気象の変化は我々以上に重要なんだということをまず心に刻んでおきたい。

中央アジアの歴史についてはまだわからないことも多いようだが、中国や中東、西洋などの文献と遺跡の調査などから少しずつ明らかになってきている。
現在わかっている最も古い民族はイラン系遊牧民のスキタイで、紀元前8世紀ごろの古墳が発見されている。
続いては、京都外国語大学の堀川徹教授による「遊牧国家の興亡」からの引用。
中央ユーラシアの草原地帯では、スキタイなどのイラン系遊牧民にかわって、やがて、アルタイ語族に属す言語を母語とする遊牧集団が有力となってくる。中国史料によれば、紀元前2世紀前半に、モンゴル高原、中国の北辺、そして、カザフスタンから新疆のオアシス地帯にいたる広大な地域を支配下においた匈奴、紀元2世紀半ば以降モンゴル高原を本拠地とした鮮卑、それにかわって5世紀に優勢となった柔然などがその主たるものであった。
柔然の支配を脱して、この時代に丁零勅勒がアルタイ山脈を西に越えた草原に高車国を建てたと伝えられるが、勅勒という漢字はテュルク(トルコ)の音を写したと考えられ、5世紀後半からテュルク諸語を母語とする遊牧集団のカザフスタンへの流入が本格化したようである。
中国の史書では6世紀以降、鉄勒と総称されるテュルク系遊牧民が、モンゴル高原からカザフスタン、さらにドン川方面にまで広く分布していたと伝えられ、草原地帯のテュルク化が、中央ユーラシアのオアシス地帯よりかなり早い時期から進展していった様が伝わってくる。柔然を倒して552年に建国した突厥も、やはりテュルクの音を写したものであるが、モンゴル高原からカザフスタン・ヴォルガ川流域、中央アジアのオアシス地帯を支配下において強勢をほこった。568年には、使節団をビザンツ帝国に送ったことが、答礼使として天山山中のユルドゥズ渓谷を訪れたゼマルコスの報告によって知られている。
突厥は中国を統一した隋の攻撃を受けて東西に分裂し(583年)、東突厥は630年に唐の攻撃を受けて壊滅するものの再興を果たす。一方、カザフスタンは西突厥の支配領域に組み込まれる。当初、ユルドゥズ渓谷を本拠地にしていた西突厥は、やがて拠点をカザフスタンの南部、天山西部北麓に移して最盛期を迎えた。627年(629年説もある)に秘かに唐を出立してインドへ向かった玄奘三蔵は、この地で当時の君主、統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)に会って護衛を付けてもらい、無事にヒンドゥークシュ山脈まで旅することができたというから、西突厥の勢力は中央アジアのオアシス地域にまで、深く浸透していたと見なすことができる。
7世紀中葉以降、西突厥は唐の攻撃を受けて衰退する。唐は天山西部北麓に砕葉城を築いて草原地帯へも勢力を伸ばしたが、8世紀に入ると、この地域では突騎施(テュルギシュ)が優勢となり703年頃には砕葉城を攻略した。しかし、アッバース朝とのタラス河畔の戦(751年)で唐が敗れた後に、天山西部北麓で勢力を振るったのは、やはりテュルク系のカルルクであった。8世紀中葉に、東突厥にかわってモンゴル高原を中心に草原地帯を支配したウイグル国家は、840年頃にキルギスの攻撃を受けて崩壊し、その部民の一支がカルルクの支配地域に到来したと中国史書は伝えている。その後登場するカラハン朝は、起源について不明な点が多いものの、カルルクを中心として、到来したウイグルなどを取り込んで成立した国家と考えられている。10世紀中葉にはイスラームを受容し、999年にサーマーン朝を滅ぼしてパミール高原の東西にまたがる国家を建設する。
8世紀末から9世紀初頭頃に、カザフスタン東北部にはテュルク系のキマクがモンゴル高原から進出する。その西方支族と目されるのがキプチャクで、11世紀以降、以下で述べるオグズなども包含して、カザフスタンの全域からさらに西へと勢力を拡大させていった。バルトリドが指摘するように、彼らは国家建設をしておらず、「キプチャク」の語は、むしろ草原地帯のテュルク系遊牧民の総称として用いられたのである。カザフスタン草原のテュルク化は、ここに最終段階を迎えたと言ってよかろう。もっとも、カザフスタン南部のオアシス都市には、依然としてイラン系の住民らが数多く居住していたと考えられる。
一方カザフスタンの西部では、8世紀末に天山西部地域で集団を形成し、この地に到来したオグズが強力であった。オグズに属すセルジューク族は、シルダリア下流域へ移住したのちイスラームに改宗し、カラハン朝の領内からイラン東北部のホラーサーン地方へ進出した。1055年にはイスラーム世界の中心地バグダードに入城し、さらに西アジア全域へと勢力を広げていく。小アジア半島へと進んだ一族は、ビザンツ帝国を圧迫して十字軍遠征の引き金となるが、彼らに従って小アジア西部に所領を得たオスマン朝は、14世紀以降バルカン半島へと勢力を拡大し、1453年にはコンスタンティノープルを征服して大帝国を築くことになる。
カザフスタン西部は、しばしばヴォルガ川以西を拠点とする勢力の影響を受けた。強勢を誇ったテュルク系の大ブルガルを追い払ってコーカサス山脈北部からヴォルガ川西岸地域を支配したのは、同じくテュルク系のハザルで、西突厥の衰退に乗じて7世紀中頃にはカザフスタン西部へと勢力を拡大した。ハザルに敗れたブルガルは、一部がバルカン半島方面へ移動してスラブ化し、一部はヴォルガ川中流域に落ち着くことになる。10世紀には、ヴォルガ川下流域からドナウ河口にかけてペチェネグが優勢となるが、やがて11世紀中頃よりキプチャク(ロシア語でポロヴェツ、ラテン語ではクマン)がヴォルガ川流域から黒海北岸へと進出したため、この地域もカザフスタンと合わせてキプチャク草原と呼ばれるようになったのである。
中央ユーラシアの東方では、10世紀に入ると契丹が強力となって遼を建国し、中国の北部をその版図に入れた。遼が金の攻撃を受けて瓦解すると、一族の耶律大石は契丹の軍団を率いて中央アジアに西遼(カラキタイ)を創建し、1141年には、セルジューク朝・カラハン朝の連合軍を破って覇権を確立した。西遼はカザフスタン南部をも支配下に入れたが、1210年、新興のホラズムシャー朝に西トルキスタンを奪われ、モンゴル高原を追い払われたナイマン族の王子クチュルクに国を簒奪される(1211年頃)。
1203年にモンゴル高原を制覇したチンギス・ハンは、西の境界にあたるアルタイ山脈沿いに、北から長子ジョチ、三男オゴデイ、次男チャガタイの所領(ウルス)を設定した。中国の金に対する攻撃が一段落した1218年に、ホラズムシャー朝に派遣した使節団がシルダリア北岸の町オトラルで、スパイの嫌疑をかけられて殺害される事件が起こった。これをきっかけに中央アジア遠征を決意したチンギスは、先遣隊にクチュルクを討たせると、翌19年にオトラルを包囲する一方、1220年には首都のサマルカンドを征服してホラズムシャー朝を滅ぼした。次いでモンゴルは、チンギスを継いだオゴデイの時代に、東ヨーロッパに至る西方遠征(1236〜42年)によって、中央ユーラシアの草原地帯(キプチャク草原)を完全に掌握した。カザフスタンは、東部と南部の一部がそれぞれオゴデイ家とチャガタイ家の所領に組み入れられた以外、ほとんどがジョチ家の所領に編入された。この地に移住したモンゴル人は、しかしながら多数を占めるキプチャク人に同化されてテュルク化していったのである。
引用:「カザフスタンを知るための60章」より
匈奴、鮮卑、柔然、突厥、契丹、セルジューク、オスマン、そしてモンゴル。
高校時代の世界史に登場した民族の名称が懐かしい。
しかし学校で習うこうした遊牧民の名前はほとんどが中国史やイスラム史の一部であって、彼らがどのような人たちだったのかはほとんど教えてもらったことはなかった。
遊牧民にとって家畜の餌となる草原は命の糧。
勢力が拡大するにつれ他の民族が暮らす新たな草原を奪いにいくというのはある意味では必然だったことがわかる。
絶え間ない草原の奪い合いは、遊牧民たちの戦闘力を養い、強いリーダーが現れる度に最強の武装集団として周辺国に襲いかかることになったのだ。

こうしてさまざまな部族による栄枯盛衰の末、15世紀になると現在のカザフ人の祖先がこの地に定住するようになった。
ここからは、早稲田大学高等研究所の野田仁准教授による「カザフ・ハン国の成立とジュンガルとの戦い」を引用する。
カザフスタンの原型とも呼ぶべきカザフ・ハン国が成立したのは、15世紀後半のことと考えられている。当時、カザフ草原(キプチャク草原)を含む中央ユーラシア北部の草原地帯では、モンゴル帝国の系譜に連なる遊牧政権が割拠していた。その一つとして、チンギス・ハンの長子ジョチの後裔がハンの称号を帯びて打ち建てた政権とそれが率いた民は、ウズベク・カザク、のちにカザク(以下、カザフと表記)と呼ばれるようになった。初代のジャニベグとギレイ以来の歴代のハンたちによる政権はカザフ・ハン国と呼ばれ、少なくとも19世紀初頭までは彼らの子孫がこの地で権力を持っていた。このような経緯から、カザフ社会を構成する父系氏族集団には、モンゴル帝国時代に由来するジェラユル、ドゥラト、ケレイなどの名称が今もなお残っている。
この政権は、ハンの墓廟が置かれたサライシュク(カザフスタン西部)、のちにトルキスタン(同南部)を中心として、東のモグール遊牧民や西のノガイ(マンギト)族などを編入しつつ発展し、16世紀には、南のブハラ・ハン国と工房を繰り広げ、ロシアとも交渉を持つようになっていた。タウェケル・ハン(在位1583〜98年)の治世には、タシュケントを攻め落とし、サマルカンドに迫ることもあったのである。
17世紀から18世紀前半にかけてのハン国の歴史は、東から勢力を展開してきたモンゴル系のジュンガル(オイラト、カルマクともいう)との戦いに彩られている。強大な騎馬軍団を誇った遊牧政権ジュンガル帝国は、カザフスタン東部やイリ地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)を根拠地として、東は中国(清)と戦い、チベットを制圧し、西は中央ユーラシアの草原と都市を攻略し、ロシアとも戦火を交えるに至った。カザフのジャンギル・ハン(1652年死去)をはじめとするハンたちは、ジュンガルへの対応に苦悩が尽きなかった。
事実、東部カザフスタンを中心にして多くのジュンガル時代の遺跡が残されている。とりわけよく知られているのはアブライキト(現在のウスチカメノゴルスク郊外)の仏教寺院跡であろう。
『ジェティ・ジャルグ(七つの法典)』と呼ばれる慣習法の集成などで知られる英主タウケ・ハンが1718年に没した後、カザフ・ハン国を統一する君主は現れず、ハン国は次第に分裂し、「ジュズ」と呼ばれる部族連合が人々の集団意識の拠り所として現れるようになった。カザフ社会には小・中・大の三つのジュズがあり、1726年のオルダバスにおける有力者たちの会盟では、小ジュズのアブルハイル・ハン(〜1748年)が全軍の指揮官として選ばれたという。折りしも1723年から数年間にわたり続いたジュンガルの猛攻は、「アクタバン・シュブルンドゥ」(裸足での逃走)という句によって、苦難の時代として語り継がれている。ジュンガルの君主ツェワンラブタンが率いる軍勢は、家畜を掠奪し、多くの人々を捕虜にした。もちろんカザフ側も手をこまねいていたわけではなく、バトゥル(勇士)の称号を持つ戦士たちが異教徒から祖国を守るべく戦った。カバンバイ、ボゲンバイ、ナウルズバイなどの歴戦のバトゥルたちの戦功は、叙事詩の中で語り継がれた。相次ぐ戦いの痕跡は、現在のカザフスタンにいくつか残っている「ジュンガルとの戦いの地(カルマク・クルルガン)」という地名からもうかがうことができよう。
こうしたジュンガルの圧迫により、カザフは周囲の勢力との交渉を持つようになった。とりわけロシアとの関係は深まった。アブルハイル・ハンは、ジュンガル、トルグート(ヴォルガ・カルムイク)、バシュコルトなどの周辺勢力との緊張関係を打開し、自らの権威の向上も目論んで1731年にロシア皇帝に臣従を誓うに至った。またアブルハイルは、少し後のことになるが、イランから中央アジアへ侵攻していたナーディル・シャーとも接触を試み、混乱していたヒヴァ・ハン国のハン位にも関心を持っていた。他方、中ジュズや大ジュズからもロシアへの使節が相次いだ。カザフスタン南部を中心とする大ジュズでは、トルキスタンやタシュケントなどの都市がジュンガルに占領され、ジュンガルが派遣した代官によって間接的な統治を受けるほどの打撃を受けていたのである。
1740〜42年にもジュンガルの勢いは増し、カザフは猛攻を受けた。大ジュズのハンの命は奪われ、のちの名君として名高い中ジュズのアブライ(〜1780または1781年)も、この時、ジュンガルの陣中に囚われの身となった。この滞在中に、ガルダン・ツェリンやアムルサナらのジュンガルの君主と知己を得たことは、その後のジュンガル帝国解体の際に、ジュンガル軍がカザフの領内に潜伏することにもつながっていった。1745年以降、ジュンガルの勢力は分裂を始め、東方の清による遠征の結果、ジュンガル帝国は滅びた。カザフは故地を回復し、さらに遊牧地を東に伸ばしジュンガリア(新疆北部)に達するが、これは、ジュンガル帝国の遺領の一部を受け継いだとも言えるだろう。
引用:「カザフスタンを知るための60章」より
「ジュンガル」という帝国名は聞いたことがなかった。
しかし何度も猛攻を仕掛けてくる敵から部族を守るため、カザフの王はロシアを頼った。
国境など関係なく草原を自由に駆け巡っていた遊牧民たちは時代と共に徐々に近代国家の影響下に置かれるようになったのだ。
そして中央アジアは、中国とロシアという強大な国家の間に挟まれた地政学的に窮屈な場所へと変貌していく。

カザフと中国との関係については、同じく野田仁准教授が「カザフ・ハン国と中国・清朝」という原稿を寄稿している。
衰退するジュンガル勢力に対して、清は大軍を派遣した。最後の実質的な君主であったアムルサナはロシアへ逃亡し、ここにジュンガルの遊牧政権は完全に滅びたのである。その過程で、清の軍勢は、かつてジュンガルに服属していたカザフにも接触を始めていた。その代表がアブライをはじめとするハン一族であり、彼らは清軍の勧めに従って、清に降伏し、使節を派遣することとなった。カザフからの初めての使者が清の都である北京に赴いたのは1757年のことである。
アブライと、やはりハン一族のアブルフェイズらは清朝皇帝の属民となることを求め、貢物として良馬を献じた。使者が乾隆帝の許を訪れる様は、宮廷画家のカスティリオーネの筆によって鮮やかに描かれている。これに対して清の皇帝は、カザフの投降を喜び、爵位を授けることに同意したのであった。アブライが受けたハン(汗)の位を筆頭に、王、公、台吉(タイジ)の爵位を受けたカザフ・ハン一族は、清朝との関係を基盤として、貿易にも携わることになる。ただし、彼らはすでにロシア帝国に対しても臣従を誓っており、むしろ両者の間でバランスを取る双方向的な外交を展開しようとしていたと見ることができよう。その後も数年おきにカザフのハン一族は自らの子弟を正使とする使節団を派遣し、爵位保有者が世を去れば、清の地方官が弔問に訪れるような関係が成立していたのである。さらにカザフからも代替わりに伴う爵位の継承を認めるよう要請が出された。清朝はカザフの君主たちの系譜をすべて把握しているわけではなかったから、たとえばアブライの死後、その子ワリーの継承に対して、別の系統の一族であるダイルが横槍を出した時のように、混乱が生じることもあった。
一方で、清朝の側からすれば、爵位を通じてカザフ遊牧民を管理しようとしていたと言える。清は、カザフが清朝に属するとみなす一方で、西北辺境にカルンと呼ばれる哨所を置き、これを結んだ線を防衛線とし、その内と外を区別していた。領内に居住していた一部のカザフがニル(佐領)として編成されたことを除けば、カザフは清の領域の内外にまたがって牧地を持つあいまいな立場に留まっていた。とくに冬季に境界(カルン線)を越えて清の領内へと移動するカザフは徴税の対象となり、清は巡察部隊を派遣して厳しく取り締まる体制を取っていた。
19世紀になり、ロシア帝国の攻勢に対し、カザフのハン一族の中には、清朝領内に逃亡する、あるいは清の現地官僚に保護を求める者もいた。ワリー・ハンの子、グバイドゥッラが、すでにロシアが新しくカザフ草原に展開しつつあった統治体制の中で役職に就きながらも、爵位の継承を求めて清の軍隊と接触を試み、失敗に終わったのはその一例である。結局、清はカザフからの保護の期待に応えることはできず、結果として、ロシアの国境は東へ、南へと広がり、カザフの遊牧地は露清の二帝国によって分割された。1864年の「タルバガタイ条約(中俄勘分西北界約記)」締結を契機とする露清による国境画定の中で、カザフは境界線によって分断され、その帰属・国籍も分かれることとなった。
ただし、この時、1864年以降の新疆における相次ぐムスリム反乱の中で、清の支配は極めて限定的になっており、カザフも国境を跨いで移動を繰り返し、反乱に身を投じる者も少なくなかった。ロシアがイリ地方を占領していた時期(1871〜81年)には、ロシア帝国の臣民としてその統治を受けるなど、その国籍も目まぐるしく遷り変わっていた。イリ地方が清に返還された後、改めて帰属の整理がなされ、清朝領内のカザフの居住地は、アルタイ、タルバガタイ、イリの三地区と定まる。興味深いことに、1884年に新疆省として再編されてもなお、トレの称号で呼ばれるハンの末裔を中心として、有力者たちがそれぞれの地区ごとに世襲の爵位を与えられ、地区の牧民を統率する体制は変わらず、清は彼らを通じて馬税の徴収を行なっていた。
辛亥革命後に成立した中華民国政府にも、いち早く1912年にカザフの有力者たちは使節を派遣していた。これに対して、新疆省において実権を握った楊増新(1864〜1928年)は、貴族たちへの優遇策を採った。楊の推挙を受けて、民国政府の蒙蔵院が郡王以下の世襲の爵位を封じ、あるいは千戸長をはじめとする非世襲の称号を与えたのである。とくに1917年に郡王に封じられたエリンと、シャリプカンの兄弟が著名である。彼らは、公爵を継承しアルタイ地区のカザフを率いていた一族(アブルフェイズの子孫)に生まれた。シャリプカンはソ連と交渉し、民族教育のための教材を調達することに奔走し、近代民族教育に足跡を残した。エリンと、やはりハン一族出身の妻ハディワンは、国民党政権と関係を持っていたが、中華人民共和国成立後も新疆省人民政府顧問を務めた。
楊増新は、他にも税の減免などを通じて、カザフやその他の少数民族と宥和的な関係を持つことを試み、貴族たちを中心としてカザフを軍隊に編成することに成功したと言われる。楊の立場から見れば貴族たちを利用したということになるが、それでもカザフ・ハン家の末裔が最後まで政治的な力を持っていたのは、この中国新疆であることは間違いない。ただし、カザフが弾圧を受けたとされる盛世才の時代を経て、東トルキスタン共和国の動乱の時期においてはハン一族の目立った役割は知られておらず、その後の社会主義化の時代を迎えることになる。1949年の時点で新疆におけるカザフ人は44万人を数えていた。
引用:「カザフスタンを知るための60章」より
一方、ロシアとの関係については北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの宇山智彦教授が「カザフ草原におけるロシア統治」で解説している。
カザフ・ハン国とロシア帝国が密接な関係を持つようになったのは、1731年にアブルハイル・ハンがロシア皇帝に臣従を誓った時からだが、これはカザフ草原がロシアに完全に従属し領土となったことを意味するわけではない。アブルハイルの狙いはむしろ、ロシアの後ろ盾を得て行動範囲を広げ、ハン国内の他の有力者や近隣の諸政権・諸民族との関係を有利にすることにあった。その後もアブライがロシアと清朝に二重の臣属を誓いつつ巧みなバランス外交を展開したことに見られるように、カザフ人の実質的な自立性は保たれていた。
しかし1781年頃にアブライ・ハンが亡くなると、カザフ・ハン国の分裂傾向に拍車がかかり、ロシアの介入が強まった。そしてロシアは1822年に中ジュズの、1824年に小ジュズのハン制を廃止し、管区庁などの統治機構を漸次導入していった。管区などの長を務めたのは旧ハン家の者たちを含むカザフ人だが、ロシア人の補佐役に監視され、またオムスクとオレンブルグの総督・知事・長官などロシアの官僚・軍人の監督下に置かれた。ロシアの支配に不満を持つカザフ人も少なくなく、中でもアブライの孫ケネサルは反乱(1837〜47年)を起こし、ハン国再興のために自前の行政・司法・徴税機構を作りながら転戦したが、次第にロシア軍に追い詰められ、最終的にはクルグズ人との戦いで倒れた。
こうして19世紀半ばまでにはカザフ人に対するロシアの支配が確立していったが、実はこの時期になっても、カザフ草原という地域がロシアの厳密な意味での領土なのか、国境がどこにあるかは曖昧であった。ロシアが人と物の流れをコントロールしたのは、カザフ草原の北部に点在する要塞とそれらを結ぶ要塞線を通してであり、南方は明確な境界線がないまま、ウズベク系のコーカンド・ハン国、ヒヴァ・ハン国などの領域に接続していた。カザフ草原西部を管轄していた中央官庁は外務省であり、要塞線が南部にまで延びていった1850年にようやく、内務省管轄に移された。
カザフ草原南部は1850年代から60年代前半に徐々にロシアに併合・征服されていき、67年にタシュケントにトルキスタン総督府が設置されると、その管轄下に入った。併合・征服の過程では、コーカンド・ハン国の圧政に反発したカザフ人がロシア軍を助けた面もある。北部・中部の統治制度も同時に見直され、68年の臨時統治規定による新しい制度では、地方行政を担当する郷長も、慣習法による裁判を行なうビーも選挙で選ばれ、部族的な社会原理の解体が図られた。郷長などには現地人が選ばれるものの、その上の郡長のポストはロシア人などヨーロッパ系がすべて占めるという、ロシア人行政官と現地民行政官の二層構造が成立し、両者の間には十分な信頼関係がないことが多かった。
1860年代後半以降のロシア統治の特色の一つは、イスラームへの不信であった。従来、ロシアはカザフ草原への進出と統治の仲介者として、ロシア中央に近いヴォルガ地域の出身で、カザフ人と同じムスリムであるタタール人を重用し、とくに18世紀末のエカテリーナ2世の時代には、タタール人が宗教活動を通してカザフ人を文明化することさえ期待した。しかし19世紀半ばになるとイスラームとタタール人への不信感が増し、タタール人が中心となっていたオレンブルグ・ムスリム宗務協議会の管轄からカザフ草原の大部分を外した。行政官の一部は、カザフ人のロシア正教化さえ構想した。しかし正教の布教がカザフ人ムスリムを刺激して騒乱を招く可能性を危惧する声も強く、本格的な正教化は実行されなかった。一般に、ロシア帝国の民族政策を論じる際に同化政策を強調する研究者が少なくないが、実際は個々の民族の民族性や地域性を考慮に入れた個別主義的な政策を取ろうという傾向も顕著で、同化と異化の側面が混ざり合っていた。
ロシア統治が経済面でもたらした成果としては、都市の建設・整備、鉄道建設(1894年にシベリア鉄道がオムスクまで開通、1906年にオレンブルグータシュケント鉄道が開通)、鉱山・油田・炭田開発などが挙げられるが、全体的に開発のテンポは緩慢だった。むしろ遊牧民にとっては、行政的な移動制限や土地の没収により牧地を自由に選ぶことができなくなって悪天候への耐性が減り、ジュト(家畜の大量死)が頻発したことの打撃が大きかった。ロシア帝国自体が慢性的な財政難に悩まされていたことは、行政の質にも影響した。現地語を知らない少数のロシア人行政官・軍人が、少ない予算で仕事をし、現地社会の把握はおぼつかない状態であった。ロシアが導入した郷長などの選挙制は、現地民の部族間・派閥間争いの場に転化し、選挙結果をチェックするはずのロシア人行政官はしばしば地位を悪用して賄賂を得た。
19世紀末以降顕著になる現象として、ロシア系農業移民の飛躍的な増大が挙げられる。元来政府は中央アジアへのロシア人の移住に抑制的だったが、ロシア中央部での飢饉の際などに生じる移民の波に抗することはできず、20世紀に入る頃には、ロシア中央部での土地問題解決・農民運動抑制と中央アジア支配の強化という一石二鳥を狙って、移住を奨励するようになった。特にカザフ草原の北部や南東部には多数の移民が流れ込み、アクモリンスク州では1911年に人口の57.9%をロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人が占めるに至った。これは遊牧民が利用していた土地のさらなる没収につながり、社会的緊張を高めた。
1905年革命の成果として翌年ロシアにドゥーマ(国会)が開設されると、カザフ人を含む中央アジア諸民族にも限定的な選挙権・被選挙権が与えられたが、07年には早くも剥奪された。全般的に、19世紀のロシアによる中央アジア統治では、初代ステップ総督コルバコフスキー(在位1882〜89年)の態度に見られたように、帝国権力の優位性の確信と中央アジア人に対する父権主義的な保護の姿勢が組み合わさっていたが、20世紀初めには帝政の危機が深刻化し余裕がなくなると同時に、中央アジア人への不信がますます強くなり、義務の面でロシア人と中央アジア人を同化する志向と、権利面で異化・差別を強める志向の矛盾が目立った。第一次世界大戦期に戦線後方での労役を命じる勅令が準備もなく発せられ、中央アジア各地での蜂起とそれに対する残酷な鎮圧を招いた1916年反乱の悲劇は、ロシア帝政の劣化の帰結、翌年の帝政崩壊の前触れであった。
引用:「カザフスタンを知るための60章」より
自由で民族的な尊厳も持っていたであろうカザフ人が少しずつロシア帝国に飲み込まれていく。
帝国主義の時代、世界各地で目撃された光景である。
1917年のロシア革命により帝政ロシアが崩壊すると、カザフの人たちはまた違ったモスクワとの関係を強いられた。
宇山智彦教授の「ロシア革命とアラシュ・オルダ」からの引用。
1917年の二月革命による帝政崩壊は、自由の訪れとして広く歓迎されたが、国家の崩壊と混乱の始まりでもあった。この難局にあたりカザフ人の利益を確保する活動を率いるのに必要な経験と能力を持っていたのは、旧来の部族指導者やイスラーム知識人ではなく、ボケイハン、バイトゥルスノフ、ドゥラトフをはじめとする近代知識人であった。彼らはロシアの臨時政府を支持するとともに自前の政治運動を始め、4月以降順次、各州で地域の代表を集めたカザフ人大会を開いたほか、5月にモスクワで行なわれた全ロシア・ムスリム大会にも参加した。7月に開かれた第一回全カザフ大会はカザフ人独自の政党結成を決議し、この党はやがてアラシュ党と名づけられた。「アラシュ」はカザフ人の伝説上の始祖の名であり、カザフ民族の雅称や、戦いの際の鬨の声としても使われていた言葉である。アラシュ党綱領案は民主連邦共和国ロシアの中での自治を掲げ、カザフ人独自の宗務局の設置、カザフ語および慣習を用いた裁判、地元での兵役、カザフ語で教える中等・高等教育機関の設置、カザフ人への土地配分が終わるまでのロシア系移民の停止などを構想していた。
ボリシェヴィキがロシア中央の政権を奪取した十月革命後の無秩序と内戦状態は、それがカザフ草原に及ばないうちに自治を実現する必要をカザフ知識人に痛感させた。12月の第二回全カザフ大会はカザフ人・クルグズ人地域の自治と、ボケイハンを議長とする「臨時人民評議会アラシュ・オルダ」(事実上の自治政府)の創設を決議し、セミパラチンスクを臨時の首都とした。しかしボリシェヴィキのソヴィエト政権はカザフ草原にも広がり始め、18年春にアラシュ・オルダは同政権との相互承認を模索したが、不調に終わった。
チェコスロヴァキア軍団の反乱をきっかけにソヴィエト政権の勢力が後退し、ロシアのうちウラル以東の地域を反ソ派の白軍がほぼ掌握したのち、18年6月にアラシュ・オルダはようやく政権としての本格的活動を始めた。しかし状況は厳しかった。隣接地域を支配した白軍政権の一つである臨時シベリア政府は、元来カザフ知識人と縁の深いシベリア自治運動から発していたが、民族自治を否定する右派が優勢となり、後には更に復古主義的な全ロシア政府(自称)に取って代わられた。それでも、帝政期に兵役から除外されていたカザフ人を率い、武器も不足するアラシュ・オルダは、内戦の中で白軍諸政権と連携せざるを得なかった。
アラシュ・オルダはカザフ人の間では広く支持されたが、徴税や民兵の徴募をめぐって反発を受けることもしばしばあった。交通の分断に伴い、地方ごとの指導者の自立傾向も目立った。十分な活動を展開できない状況の中、民族自決権を標榜するソヴィエト政権に一定の望みを託したバイトゥルスノフは、19年3月に同政権側に移った。白軍の劣勢・敗北に伴い他の指導者たちもソヴィエト政権を承認し、20年3月にアラシュ・オルダは消滅した。それでも、内戦期ロシア各地の自治政府の中では比較的長命であった。
なお、コーカンド(現ウズベキスタン東部)で17年11月に成立したトルキスタン自治政府でもカザフ人の活躍が目覚ましく、初代首相のムハメドジャン・トゥヌシュバエフ、第二代首相のムスタファ・チョカエフは共にカザフ人だった(2人はアラシュ・オルダのメンバーでもあった)。しかし同政府はわずか3ヶ月でソヴィエト政権に倒された。
亡命したチョカエフらを例外として、元アラシュ・オルダ派のほとんどはソヴィエト・ロシア(22年からはソ連)に残った。ソヴィエト政権下での「自治」はアラシュ・オルダが構想したものよりはるかに制約が大きかったものの、バイトゥルスノフらはカザフ自治共和国(当時のロシア語名はギルギス自治共和国)設立準備に加わり、シベリア諸県からの北部地域割譲要求に抗して自治共和国の領域を守った。元アラシュ・オルダ派は間もなく政治から排除されたが、教育、文学、言語、ジャーナリズム、保健衛生といった、帝政期から取り組んでいた分野で引き続き活動した。トゥラル・ルスクロフ、サケン・セイフィリンといった、十月革命前後からボリシェヴィキに加わっていたカザフ人たちも、彼らには敬意を持っていた。
ソ連での政治的抑圧が強まるに伴い、彼らの多くは1928〜29年に逮捕されて強制収容所に送られ、36〜38年の大テロルの時には、作家ムフタル・アウエゾフなど少数の例外を除き、反革命や「日本のスパイ」など虚偽の罪状により処刑された。信念と行動力により一時代を担った知識人たちの壊滅は、カザフスタンにとって計り知れない損失となった。
引用:「カザフスタンを知るための60章」より
スターリンの大粛清によって処刑された知識人に代わり、モスクワやレニングラードの高等教育機関でマルクス・レーニン主義のイデオロギーを叩き込まれたカザフ人の若きエリートたちだった。
1936年12月、カザフ共和国はソ連の連邦構成共和国に昇格し、カザフスタン共産党も創設された。
しかし、カザフ共和国の政治機関は一部を除いて実質的にソ連中央からの委任事務の執行機関という役回りであり、独自で意思決定できる事項はかなり限定されていた。

ソ連時代のカザフスタンで何が起きたのか?
それはまた別の記事で引用させてもらおう。
1991年のソ連崩壊後、独立を勝ち取ったカザフスタンだが、ソ連共産党幹部だったナザルバエフ氏がそのまま居座り、30年にわたって独裁体制を敷いた。
だから、カザフスタンはいまだにロシアの影響下からは抜け出せていない。
これもロシアと中国に挟まれた地政学的な宿命だと言わざるを得ないだろう。
しかし遊牧民国家の長い興亡の歴史を振り返ってみれば、ロシアとの関係もたかだか300年の歴史に過ぎない。
大国に翻弄されながらバランス外交を模索してきたカザフの人たちが今後どのような決断を下していくのか?
これは世界のパワーバランスにも影響を及ぼす重要なファクターになりそうな気がする。
<吉祥寺残日録>65歳の誕生日プレゼントは中央アジア旅行!未踏のカザフスタン・キルギスタン・ウズベキスタンへ #230302
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