昨日に続き、来月訪問するカザフスタンについてお勉強。
さまざまな遊牧民たちが自由にカザフ草原を駆け回っていた時代は終わり、ロシア革命後のカザフスタンはソヴィエト連邦を構成する共和国としてモスクワの影響下に組み込まれた。
この時代にどのようなことが起きたのか?
それを教えてくれるのが、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの地田徹朗助教による「ソ連時代の開発と環境」である。
環境変化の予測については自然的なものであれ人為的なものであれ不確実性がつきまとう。不確実であるがゆえに、開発の結果として生じる環境変化についてさまざまな予測がなされる。開発を推進する側は当然ながら楽観的な将来予測をしながら自らの立場を正当化する。その予測が甘かったと気づく頃には、環境問題は手遅れになってしまうことも少なくない。カザフスタンについて言うならば、アラル海危機やセミパラチンスク核実験場周辺地域での放射能汚染がこのストーリーに最もよく当てはまる。
アラル海危機について言えば、アムダリア川とシルダリア川の中流域での大規模な灌漑・水利開発を直接的な原因として1960年から徐々に進行していった。ただし、灌漑地の拡大によるアラル海の死滅については古くは帝政ロシア時代からその可能性について言及されていた。1960年よりアラル海の水位低下と塩分濃度の上昇が始まり、1965年よりアラル海での漁獲量は顕著に低下してゆく。1970年代中葉には複数のアラル海岸の漁村が廃村となり、漁民の出稼ぎ労働が始まる。1970年代の末には干上がった湖底堆積物が風に乗って飛散することでアラル海周辺住民に健康被害をもたらすようになった。環境被害に留まらず、アラル海周辺住民の社会・経済に与えた被害の大きさゆえに、アラル海危機は「災害」だったと定義し得る。
セミパラチンスク州南部に設置された核実験場では、1949年から1989年までの40年間に約460回にもおよぶ核実験が繰り返し行われてきた。特に、1962年までは大気圏内(地表・空中)核実験が行われており、実験場の周辺地域のみならず、数百キロ離れた地点にまで放射性物質が飛散して一般市民への健康被害をもたらした。特に、核実験場からほど近い村々(核実験場から35キロメートルのサルジャル村が最も近い)の住民の健康被害は凄まじく、がんの罹患率は通常の7倍。放射線に起因する女性の染色体異常は、生まれてくる子供たちの先天性障害の引き金となった。このような恐るべき健康被害が生じたのは、元をただせば放射能と人間の健康との因果関係に関する無理解ということになる。セミパラチンスク市に住民の健康状態への放射能の影響をモニタリングする「秘密」の研究機関が設けられたのは、1957年になってのことである。
しかし、科学的な環境変化の予測の不確実性の問題は何も社会主義国家特有のものではない。乾燥地帯での過灌漑による砂漠化問題は中東やアフリカでも起きているし、核実験による健康被害についてもアメリカのネヴァダ州の事例が有名である。しかし、ソ連時代の環境問題で特徴的だったのは、その規模の大きさと長期間の放置だったと言えるだろう。では、なぜソ連ではこれら環境問題への対策がかくも遅れてしまったのだろうか。その理由を理解する上でキーワードとなるのが「社会主義的近代化」である。
「近代化」そのものの定義はさまざまだが、本章では差し当たり、可視化・可算化された自然環境および人工資源を合理的に利用することの追求とでも定義しておく。ウェストファリア体制下での国家による領土権の確立、産業革命と急激な工業化による資源・食糧需要の加速度的な増加、植民地帝国の興隆による貿易のグローバル化、他方での本国でのナショナリズムの高揚などを経る中で、本国・植民地を問わずして、産官学が一体となり支配する領土と住民についてあまねく知り、合理的に管理・統治する必要が生じたことが、ここで言う「近代化」の端緒である。「近代化」の流れは19世紀ヨーロッパに始まり、20世紀には世界中を席巻することになる。ソ連における「社会主義的近代化」もこの流れの中に位置づけることができるのだが、しかし、社会主義体制下のソ連においてはイデオロギーにその行為が規定される。ソ連では、階級差は公式に消滅し、個人の利益に国家の利益が優先し、民族や地域ごとの経済的差異の最終的な消滅も目指されていた。この目的のために自然環境を最大限合理的に利用して経済発展を図ろうとした結果が、中央アジアにおける綿花や稲作のモノカルチャーという分業化であり、そのための農業開発だった。中央アジアにおける労働力余剰を活用するためにも可能な限り灌漑地を拡大するという外延的な農業発展が必要とされた。また、核武装による国防力強化や灌漑による経済発展という国家の利益が優先され、爆心地に近いカザフ人牧民やアラル海周辺の漁民の個別の利益は勘案されなかった。核実験場周辺の住民が放射線被害の人体実験に利用されたと言っても否定はできまい。
他方、20世紀における「近代化」とは、人間が自らの行動を常に省みつつ、つくり合えてゆくという性質を持つ(再帰的近代化)。「自然改造」というソ連の開発理念が、中央アジアにおける農業・水利開発の理論的基礎を提供した。それによると、社会主義ソ連だからこそ、自然環境を合理的に改造して全人民的な利益を最大化できるはずだった。当初、自然改造による環境負荷の問題はほとんど勘案されていなかったが、1960年代になると、自然改造の結果として生じる負の影響をも考慮した上で開発立案を行うべきだと「自然改造」理念の内容が改められた。これはソ連における再帰的近代化の結果である。しかし、社会主義体制だからこそ合理的な「自然改造」が可能であるとの看板は、イデオロギー的制約によりペレストロイカの時期まで捨てることができなかった。その結果、「自然改造」で生じた環境問題をさらなる「自然改造」で上塗りして解決することが目指されていたが、その新たな「自然改造」を行うためにはフィジビリティや環境負荷を正確に計算する必要があった。しかし、これは前述した科学の不確実性ゆえに不可能だったのである。アラル海危機の究極的な解決策とされたシベリア河川転流構想が頓挫した理由はここにある。構想が学術的検討に付されているうちに灌漑地はひたすら広がっていった。同様に、放射線により健康を害した市民のデータが蓄積される間も核実験は間断なく実施された。
ソ連が環境問題や自然保護に関心がなかったわけではない。むしろ、社会主義体制の優位性というイデオロギー的な理由から積極的な関心があり、1950年代後半以降、自然保護や環境保全に関する法律や環境汚染に対する規制や罰則も順次整備されていった。しかし、アルマトゥやウスチカメノゴルスクなどの鉱工業都市で悪化した大気汚染問題が解決されることはなかった。生産計画の達成を至上命題とするソ連の企業にとって、公害対策の設備投資を行なうインセンティブはそもそもなかったのである。独立後の社会・経済混乱により農鉱工業の生産活動そのものが低下したことで、イノベーションを伴わずして環境状況は部分的に好転したが、構造的な転換がなされたわけではなく、ソ連時代の環境問題は今日まで影響を及ぼしている。
引用:「カザフスタンを知るための60章」より
アラル海とセミパラチンスク。
カザフスタンを訪れるにあたり、私も訪れたいとアクセスの方法を探ってみた。
しかしどちらも観光地ではないため交通手段が限られていて、おまけにアラル海はカザフスタンの北西部、セミパラチンスクは北東部の離れた場所にあって、日程的に今回は断念せざるを得なかった。
セミパラチンスクに関しては核実験場跡を巡るローカルツアーも見つけたが、現地の空港を出発する1泊2日のバスツアーになんと20万円というあり得ない価格が設定されていて唖然とした。
テレビ局時代であれば、当然コーディネーターと車を手配して取材しただろうが、隠居の身としてはちょっと高すぎると判断した。
もう一つ、ソ連政府がカザフスタンで行った壮大なプロジェクトが遊牧から農業への大転換であった。
専修大学の野部教授による「遊牧地域からソ連の食料基地へ」を引用させてもらう。
ロシア帝国の崩壊後に成立したソヴィエト体制は、カザフスタン農業の様相に決定的な影響を与えた。かつての辺境の遊牧農業地帯は、ソ連の中でも最も有力な食料基地の一つへと変貌したのである。だが、それは、多くの犠牲を伴った試行錯誤の過程であった。
1920年代のカザフスタンは、ネップ(新経済政策)の下で、緩やかな耕種農業の発展と定住化の進行が観察された。北部には、帝政時代から続くロシアからの農業移民により穀物生産が定着した。耕地の拡大は、放牧地を減少させ、飼料の確保をより困難なものとした。多くのカザフ人は、この問題の解決のため冬営地の周辺で耕種生産を開始した。このことは、定住化を促進させ、かつての通年的な遊牧は、次第に季節的な移動放牧にとって変わられた。少数ながら、完全に定住に移行する者も現れていた。
1929年からの全面的集団化は、こうした緩やかな過程に終止符を打った。集団化とは、個別農民経営を統合してコルホーズ(集団農場)を創出することであり、土地・農具・家畜の共同化を伴った。その実施に際しては、連邦中央から下達された集団化率目標の達成が最優先され、コルホーズに関する具体的な説明はほとんど行われなかった。集団化に応じない者は「富農(クラーク)」であるとされ、財産の没収、追放などの弾圧を受けた(他の地域から「富農」としてカザフスタンに追放された者も多かった)。農産物の政府への義務的引渡量は引き上げられたが、生産現場の混乱や不純な天候により、農業生産は著しく落ち込んだ。さらにカザフスタンでは、カザフ人の定住化が集団化の前提条件として強制された。
カザフ人は、家畜の屠殺により定住化および集団化に対抗した。家畜飼養頭数は、全面的集団化期に壊滅的と言ってよいほどの激減を記録した。このような抵抗は、大飢饉をカザフ人にもたらすこととなった。一説によれば、集団化による飢餓の犠牲者は220万人にものぼり、このうちカザフ人は145〜175万人にも達したと見られている。この事態は、「1931〜33年のカザフスタンにおける飢饉」として現在に知られている。カザフ人は、当時の人口の約4割前後を失ったのであり、その回復には実に40年もの歳月を必要とした。また、飢饉の過程では、国境を越えて中国・モンゴルへ逃亡するカザフ人が続出した。現在のカザフスタン政府は、彼らの末裔に対して「歴史的祖国」に帰還するよう各種の優遇措置をもって呼びかけを続けている。
カザフスタンにおける集団化の戦略は、莫大な人命が失われた悲劇の後に、ようやく修正が加えられた。旧来の氏族を単位としたコルホーズの組織、血縁者に基づく作業班の編成が行われた。放牧地の利用においても、旧氏族的関係が活用された。こうしてコルホーズというソヴィエト制度と伝統的関係の共生が試みられたのである。
1945年から開始された処女地開拓は、カザフスタン農業のさらなる変貌のきっかけとなった。処女地開拓は、フルシチョフのイニシアチヴによって始められた全国家的なキャンペーンであり、穀物不足の短期間での解決を目的に、1956年までのわずか3年間で3230万ヘクタールの土地が開拓された。このうち約1900万ヘクタールがカザフスタンに位置しており、新しいソフホーズ(国営農場)を組織することにより開拓が進められた。カザフスタンは、開拓によりソ連の中で、ロシア、ウクライナに次ぐ穀物生産国となった(個々の年では、ウクライナを抜くこともあった)。
ただし、新たな穀倉地帯となったカザフスタン北部は、降水量が極めて少なかった。安定した穀物収穫のためには、水分保持のための特別な農業技術を厳格に適用することが必要であった。こうした農耕の質的な向上は、その必要性が常に訴えられていたが、量的な課題の達成を最優先する計画経済体制においては、実現が極めて困難であった。この結果、カザフスタンの穀物生産は、希少条件に大きく左右される極めて不安定なものとなった。それは、ソ連全体の穀物生産および輸入量をも大きく変動させることになった。
開拓は多くの放牧地を耕地に変えたため、カザフスタンの畜産は、耕種部門における飼料生産と密接に関連したものへと変わった。牧羊中心であったカザフ畜産は、牛、豚、家禽をより多く飼育するロシア的なものへと変貌したのである。北部における牧羊は縮小し、開拓地の南のより乾燥した地域に新しい牧羊ソフホーズが組織された。畜産は、技術教育を受けた専門家が中央の指示に従って管理・運営する部門へと変わり、農村の伝統的権威・生活様式の多くが消滅していった。このような変化を根拠に、処女地開拓は、集団化以上の影響をカザフ人社会に与えたと指摘する研究者も存在する。
カザフスタンは、ソ連全体に穀物・食肉を供給する食料基地となった。農業には優先的な投資が行われ、補助金等による手厚い保護が行われた。カザフスタンの農業生産力は拡充を重ね、1980年代後半においては、域内の穀物生産の半分以上、食肉生産の2割以上が他共和国に供給されていた。1960年代以降、周辺地域では、カザフスタンからの食糧供給を前提として、農業生産の再編が進められた。たとえば、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンは、綿花栽培への専門化を著しく進展させた。
カザフスタンは、ソ連の共和国間分業体制において、極めて重要な役割を果たした。農業の国内経済に占める役割は高く、それは1990年にはGDPの約4割に達していた。その主体となったのは、経営当たり1万ヘクタール以上の作付面積を持つ大規模なソフホーズであった。「大規模」「国有化」といった「社会主義農業」の特質は、ロシアよりも、カザフスタンにおいてより明瞭な形で実現されていたのである。同時に、中央からの指令に基づいて運営されるソフホーズおよびコルホーズでの半世紀以上の労働は、農民から自ら考え創意工夫をする習慣を奪った。彼らは、最小限の教育と職業水準を持つだけの雑役夫に変えられてしまったのである。1980年代後半には、こうした状況の改善、農業の効率向上の必要性が感じられるようになり、農業改革が議論されることとなった。
引用:「カザフスタンを知るための60章」より
社会主義経済の光と影。
もしも今も遊牧生活を続けていればカザフスタンの人たちの生活水準は中世のまま取り残されていたかもしれない。
しかし、モスクワのエリートが立案した目標をただ押し付けられ、伝統的な暮らしも生業も手放さざるを得なかった人たちの無念はよくわかる。
このような過去を持つカザフの人たちがロシアによるウクライナ侵攻をどのような気持ちで見つめているのか、歴史を知れば知るほと気になるところだ。

そしてソ連の崩壊によって、カザフスタンは独立を果たす。
あれから30年あまり。
ロシア人の間では今もソ連時代の上下意識が残っていて、周辺国を自分の意のままにしたいという感情が強いことがウクライナの現状が示している。
独立後のカザフスタンは30年に及ぶナザルバエフ独裁体制の下、資源大国として経済成長を続けている。
しかし、ソ連時代に移住したロシア人移民が人口の20%を占め、ウクライナ紛争と同じ構造の火種をカザフスタンも抱えていることがわかる。
もしも自分がカザフ人だったら、ロシアと中国に挟まれた地政学的な条件を活かしてどのような国づくりを進めていくのか?
そんな視点も持ちながらカザフスタンを歩いてみたいと思う。
<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕「カザフスタンを知るための60章」(2015年/明石書店)で学ぶ“遊牧民国家”興亡の歴史 #230719