来月のカリブ海旅行が迫ってきた。
だから、ほとんど知らないカリブ海の歴史を勉強しているのだが、黒人奴隷の子孫たちだけでなくインド系の人たちも大勢カリブ海諸国に住んでいることを知った。
インド人といえば、私が尊敬する人物にインドの巨人マハトマ・ガンジーがいる。
先日、NHKの「映像の世紀バタフライエフェクト」でガンジーと彼の不服従運動に影響された人々を扱った番組を見た。

映像の世紀バタフライエフェクト「塩の行進〜ガンジーの志を継ぐ者たち」。
イギリスによる苛烈な植民地支配から非暴力でインドを解放に導いたガンジー。
しかし、皮肉にも独立を巡ってヒンズー教徒とイスラム教徒の対立が激化し、両者の和解を訴え続けたガンジーは自身の熱狂的な支持者だったヒンズー活動家によって暗殺される。
死の数日前、ガンジーは次のような肉声を残していた。
『私の命を狙う人を憎む必要はありません。私のことを守ろうとして彼を犯罪者扱いしてはいけません。そうした考えはあなた自身への裏切りです。彼の心を変えるにはみなさんの力が必要なのです。』
彼が終生貫いた非暴力不服従による大衆運動は、アメリカの黒人指導者キング牧師、フィリピンのアキノ上院議員、そしてミャンマーのスーチー女史に受け継がれていく。
イギリスの植民地だった南アフリカで弁護士をしていたガンジーが、祖国インドに戻ったのは1915年。
第一次世界大戦を戦っていたイギリスは、将来の自治を約束して植民地だったインド人に協力を求めていた。
ガンジーもその約束を信じてインド人に志願を勧める活動を行うが、戦後その約束は十分に守られず、ガンジーはインド独立を目指して独自の活動を始めるのだ。
帝国主義時代のイギリスは世界各地で悪事を働いたが、中でも最大の植民地だったインドは工業製品の一大消費地とされる一方、奴隷制廃止によって不足するプランテーションの労働力を輸出する供給地となる。
カリブ海の歴史を調べる中で、インド人労働者「クーリー」についても知ることとなった。
「クーリー」というと「苦力」と呼ばれた中国人を思い浮かべるが、実はクーリーの主体はインド人であり、カリブ海のプランテーションへ連れていく目的で始まったのだという。
私の参考書である『カリブ海の旧イギリス領を知るための60章』から該当する部分を引用しておく。
クーリーという言葉をご存知だろうか。漢字では苦力という字をあてる。これは、19世紀から20世紀初頭にかけて海外にわたって労働した主にインド人と中国人の肉体労働者を指す言葉である。語源ははっきりしていないが、『日本大百科全書ニッポニカ』では、「タミル語で雇うということばを英語でCooly / Coolie と表記し、それを中国で苦力と表記した」と説明されている。
クーリーの発生は、カリブにおける黒人奴隷制度の廃止と直接的に因果関係を持っている。黒人奴隷性が廃止されても、プランテーション労働の必要性は消滅しなかった。1833年、世界最初に奴隷制を廃止したイギリス政府や資本家たちは、まだ奴隷制を廃止していない国々と対等に経済競争を戦っていくため、大量の安定した労働力が必要だった。そこで注目されたのが、当時イギリス領のインドの下層労働者だった。
こうして、同じイギリス領の東インドからイギリス領の西インドへ、たくさんのインド人が運ばれてくることになった。彼らは、自由意志で、仕事の内容や行き先を理解したうえで、雇用側と契約を交わし、契約条件に基づいて一定期間(年季)の労働の従事する前提となっていたので、契約労働者または年季労働者と呼ばれている。また徒弟とか奉公人といった呼称も使用される。彼らが総称してクーリーと呼ばれるようになったのだ。
インド人契約労働者のイギリス領カリブへの輸送は、1838年、つまり奴隷制の後続制度である徒弟制(奴隷制廃止後の移行措置。4年間もとのプランテーションで労働を行い、衣食住の提供を受けながら労働量の4分の1に相当する給与をもらった)が終了する年から、批判が高まりイギリス領インド帝国政府が廃止する1917年まで、継続した。その間、全体で140万人以上、イギリス領カリブには43万人のインド人が送り込まれた。契約労働者には、インド人のほか、中国人やアフリカ人、多くがポルトガル人からなるヨーロッパ人もいたが、インド人が最も多数であった。
1838年に最初のインド人労働者を運搬した航海は、「グラッドストンの実験」と呼ばれている。このグラッドストンとは、19世紀イギリスを代表する自由党政治家で首相を4回務めたウィリアム・エワート・グラッドストンの父ジョン・グラッドストンのことである。グラッドストン家はリヴァプールの貿易商で、1800年代から急速にガイアナとジャマイカに砂糖プランテーションを取得した。つまり同家は、古くからのプランターではなく、奴隷貿易が廃止される頃に参入してきた新しいプランターであったが、1820年代には、イギリスの西インド利害関係者の中でも最有力者になっていた。ジョン・グラッドストンは、奴隷制廃止においては、イギリス政府と粘り強く交渉を進めて、奴隷の市場価値の半分近くの損害賠償を奴隷所有者に支払わせている。
彼は、奴隷制廃止後の労働者問題についても、早期に行動を開始する。彼は1836年1月、カルカッタの船会社ジランダー&アーバスノット社に、同社がモーリシャス諸島(カリブを凌ぐ砂糖生産地として急成長していた)にベンガル人を労働者として輸送していることについて問い合わせ、同様のことをカリブに対してもできないか、相談している。この後グラッドストンは、自分が所有するヘスペラス号をカルカッタに送り、1838年1月には同船ともう1隻が437人のインド人契約労働者を載せて、ガイアナに向かって出港した。これが、カリブに送り込まれた最初のインド人労働者であり、彼らはグラッドストンのプランテーションを含む砂糖農地に送られた。
ただしこのグラッドストンの行動には、黒人奴隷制廃止を達成したばかりの奴隷制廃止運動家たちが、一斉に懸念や非難を示し始めた。早くも1837年7月10日には、イギリス議会で奴隷制廃止運動のリーダーだったトマス・ファウエル・バクストンがインド人契約労働者の待遇について質問を行い、1838年7月にはブルーム卿が禁止を求めている。また奴隷制廃止運動家の一人ジョン・スコーブルは『ヒル・クーリー』を著して、カルカッタ北方の丘陵地域の人々が貧困や社会的差別の重圧から契約労働者とならざるを得ない状況を描き、グラッドストンに対しても攻撃を行った。この結果、イギリス政府は1840年いったんインド人契約移民を停止する。
しかし、インドでは、1842年にモーリシャス諸島への移民を再開する法律が制定され、インド各港にモーリシャス移民代理業者が設置され、政府の監督下に労働移民が行われることになった。モーリシャスでの砂糖生産が拡大する一方でカリブでの砂糖生産が弱体化することを危惧したイギリス政府は、カリブへの労働移民も再開することを決定し、カルカッタとマドラスにイギリス領カリブ向けの移民代理業者を設置した。
1857年にはインド大反乱が起こるが、これによって多くのインド人が難民となり、労働移民になる人々も増加した。こうして1850年代後半から60年代にかけてインド契約移民は増加した。
インド政府は1871年、それまでのクーリー諸法を統合し、クーリーの制度を完全な国家の監視下に改めた。まずクーリーの代理業者は、すべてインド帝国政府の許可制とし、またカルカッタ、ボンベイ、マドラス3港のみに置き、出港前に移民を出身地ごとに登録し、移民船も免許制とした。またインド政府は、この3港に移民保護官を置き、代理業者に、移民の確実な同意を得ること、旅程や職務内容・待遇の周知徹底、適切な衣服、給与の提供などを義務付け、保護官に監視させた。さらに移民のリクルーターも免許制とし、目的地ごとに免許を発行した。そのほか、全移民は医師による診断を受け、移民に適さない移民については故郷への帰還費用を代理業者に負担させるなどした。
インド人契約労働者は、19世紀後半に砂糖生産を本格化した南アフリカのナタールにも送られた。ガンディーがここでインド人労働者の悲惨な状況を目の当たりにし、弁護士として彼らを救済するため雇用主と法廷闘争を行ったことや、この体験をもとにインド独立運動につながるサティヤーグラハ運動を開始したことは、ガンディーが自伝で書いている。その後インド国民会議派を中心にクーリー制度廃止の要求は高まり、1912年にはゴーパール・クリシュナ・ゴーカレーがインド立法評議会に契約移民廃止動議を提出し、1917年インド帝国政府は契約移民の停止を決定する。
インド人契約労働者は、砂糖生産地として遅く開発されたトリニダードとガイアナに特にたくさん送り込まれ、現在も両地域の人口の3割程度を占める。トリニダードのノーベル賞小説家ナイポールや、2010〜2015年トリニダードで初の女性首相となったカムラ・パサード=ビセッサー、そしてガイアナの主任大臣や大統領であったチェディ・ジェイガンなどは、こうしたインド人移民の子孫であり、モーリシャス共和国の初代首相シウサガル・ラングーラムも、インド人労働者の子孫である。
引用:『カリブ海の旧イギリス領を知るための60章』より
ここには、「クーリー」たちの苦難の生活ぶりは描かれていないが、多少の給与は得られたとしても奴隷の代わりに働かされる過酷さは変わりはない。
こうしたイギリスによる活動の結果、現在のカリブ海諸国では黒人とインド系がマジョリティーを占めることになったのである。
こうして黒人奴隷からインド人契約労働者へと労働力を転換したプランテーションだが、その後、時代の大きな変化に翻弄されることになる。
19世紀は、世界各地で砂糖生産が拡大し、競争が激化し、砂糖価格が下落し続け、砂糖産業の利潤も下落し続ける時代であった。奴隷解放後のイギリス領カリブは、このような厳しい環境の中で、砂糖生産を続けていかなければならなかった。
イギリス領カリブの砂糖生産は、1800年頃までは世界的に見ても大きなプレゼンスを持っていた。また当時のイギリスは、ほぼイギリス領カリブ産砂糖のみを輸入していた。これは当然で、イギリスは17世紀以来航海法と呼ばれる法律により、植民地に外国との直接貿易を禁じる一方で、植民地の生産する作物を本国市場で特恵的に扱うことを約束していたからである。このような植民地の貿易体制は重商主義の一環であり、近世ヨーロッパにおいて一般的なものだった。
しかし19世紀に入ると、イギリスでは自由貿易主義が高まり、植民地生産物の本国における特恵的な扱いについても批判が高まった。その結果まず1825年から、イギリス領カリブ産砂糖とそのほかのイギリス領(モーリシャス諸島など)産砂糖の関税が同率化され、さらに1846〜54年には外国産砂糖とイギリス領産砂糖の関税が同率化された。こうしてイギリス領カリブ産砂糖は、イギリス市場で他地域の砂糖と対等に競争しなければならなくなった。
一方で世界的に砂糖の生産拡大が進み、1850年代には熱帯・亜熱帯のキューバやブラジル、ジャワで甘薯糖(サトウキビを原料とする砂糖)生産が増大、寒冷地のヨーロッパでも甜菜(サトウダイコン)糖生産が急激に伸長する。他の中南米諸国やフィリピン、ハワイなどでも、19世紀後半に甘薯糖生産が拡大する。19世紀のうちに、世界の砂糖生産量は10倍にも増加し、砂糖価格は4分の1以下に下落した。
イギリス領カリブの砂糖は、本国市場での特恵的扱いを失った後、合衆国市場やカナダ市場に活路を求めるが、合衆国はハワイやキューバで砂糖生産を行っている合衆国企業の利害を優先するようになり、カナダは市場規模が小さかった。その結果19世紀末には、イギリス領カリブでは砂糖生産を断念する島も現れ、淘汰と集中の時代を迎える。
1900年頃を境にモントセラト、ドミニカ、セントヴィンセント、グレナダで砂糖生産がストップした。この直接的原因は、1896年にイギリス政府が設置した「英領西インド砂糖生産の苦境を調査する政府委員会」(ノーマン委員会)の勧告である。同委員会は97年前半に現地調査を行い、8月に報告書を出したが、そこでジャマイカ、セントキッツ、アンティグア、バルバドス、トリニダード、ガイアナでの砂糖生産の継続とそれへの支援を勧告する一方、それ以外の島での砂糖生産の停止と他作物への転換を推奨した。この時期の砂糖生産は、蒸気動力による圧搾ローラー、搾汁濃縮のための真空多重効用缶、結晶とモラセス(糖蜜。糖汁の中の結晶しない成分)分離のための遠心分離機、機械・化学的知識を持つ高給取りの技術者を備えた中央製糖所で、集中的に大量のサトウキビを加工するようになったおり、中央製糖所を建設するに足るだけのサトウキビの生産量がない島は、砂糖生産を断念するほかなかった。
最も古い植民地バルバドスでは、奴隷解放前には砂糖生産が衰退していたが、奴隷解放後は元奴隷がプランテーションに定住して労働力を提供し、また現地資本も比較的豊富で複数の機械化工場が設立され、むしろ生産力を回復した。アンティグアやセントキッツには、1900年代にイギリス政府からの財政支援で、中央製糖所が設立された。
しかし19世紀以降イギリス領カリブの砂糖生産の真の中心となるのは、トリニダードとガイアナである。ナポレオン戦争後にイギリス領となった両地域は、それ以前は綿花やココア、コーヒーなども育てていたが、イギリス領になってから砂糖モノカルチャーが進展した。
トリニダードとガイアナにおいても、奴隷制廃止・イギリス自由貿易・国際競争激化の時代に砂糖生産を拡大させていくことには、大変な努力が伴った。ガイアナの砂糖プランテーションの数は、徒弟制の終了後インド人契約労働者の本格的な導入が始まる1850年代までに半減し、また1870年代の砂糖関税廃止以後にも淘汰と集中が進む。トリニダードも、1880年には101領地が存在し約50家族または企業が経営していたが、92年には砂糖生産企業は29社になり、1901年には20社、1917年には13社、1930年には11社にまで減少する。
一方イギリスは、この間、もっぱらヨーロッパの甜菜糖を輸入するようになっていた。19世紀後半に甜菜糖生産は40倍にも増加するが、これには人為的背景があった。甜菜糖生産国では、国内で販売する甜菜糖には物品税が課税されていたが、輸出する際にこの物品税を割り増して払い戻しており、この多額の戻し税(バウンティ)が生産効率の向上や輸出の追い風になっていた。戻し税のおかげで生産コストを下回る価格で輸出されたヨーロッパの甜菜糖は、自由貿易のイギリス市場を席巻し、そこからほぼ完全にイギリス領カリブ産砂糖を駆逐してしまった。
第一次大戦前夜のイギリスは、砂糖をドイツとオーストリアから54%、ベルギー、オランダ、フランスから16%輸入しており、イギリス領カリブからは2%しか輸入していなかった。しかしイギリスは、開戦後ドイツ・オーストリアと敵国となり、またフランス等が戦場となって甜菜糖の輸入が途絶し、苦境に立たされる。この後イギリスは一転して、イギリス帝国産の砂糖に依存するようになった。戦後も帝国特恵を継続し、イギリス領カリブの砂糖生産は再生していく。
引用:『カリブ海の旧イギリス領を知るための60章』より
自由貿易を謳い市場解放する国と補助金を使ってしたたかにシェアを伸ばす国。
なんだかグローバル化を熱心に進めた日本の姿を見るようである。
イギリスの砂糖政策の失敗は、いつの時代も人間のやることに大差はないということの証のように見えてしまう。
第一次大戦をきっかけに帝国内の砂糖産業優遇に舵をとったイギリス。
これによってイギリス領カリブの生産者たちは安定した立場を得るが、同時に現地で生産した原料糖をイギリスに輸入・精製・販売する砂糖商社も急成長する。
その代表が、テイト&ライル社とブッカー社であり、両社は主要生産地であるジャマイカ・トリニダード・ガイアナで砂糖プランテーションを次々に買収、1930年代にはほとんどの農地を独占するようになった。
伝統的な古いタイプのプランターは、領地を売却して廃業するか、サトウキビ栽培に特化して大工場に納品するかの選択を迫られ、現地の労働者は低賃金で不安定な雇用状態に置かれた。
皮肉なことに、植民地での砂糖生産を守ろうとしたイギリス政府の政策が現地の人たちの不満を生み出し、労働運動が活発化して、やがてそれが政治的要求につながっていく。
第二次大戦後、イギリス領カリブの島々は次々に独立を達成し、外資排除の世論を受けて砂糖産業の国有化を進める。
しかしこれまた皮肉なことに、国有化後の砂糖産業は政府の補助金なしでは経営できず生産量も減少の一途を辿るのだ。
英連邦内での市場が保証されていたにもかかわらず、独立後数十年のうちに、イギリス領カリブの砂糖産業はほぼ消滅してしまったのである。
かつて白人プランターたちが暮らしていた豪邸は「グレートハウス」と呼ばれたが、彼らの没落とともに、ほとんどは解体されるか放置され、荒れ果てた姿を晒しているという。
まるで映画「風と共に去りぬ」でも見るような波瀾万丈の一大叙事詩。
「グレートハウス」の中にはごく一部、ホテルやゴルフクラブに改修されたり、史跡として整備されて残っているというので、今回のカリブ旅行で機会があれば、ぜひそうした豪邸を眺めてかつての栄光を偲んで見たいと思っている。