<きちたび>熊本県の旅2024🇯🇵 「公害の原点」水俣病を今に伝える2つの資料館を訪ね高度成長期の闇を見つめ直す

🇯🇵 熊本県/水俣市 2024年11月22日

退職後の恒例となった学生時代の友人たちとの年に一度の団体旅行。

今年の目的地は鹿児島だった。

久しぶりの九州なので、数日前乗りして天皇家のルーツ「日向三代」について学ぶため宮崎方面を周遊したいと計画していたが、あいにく風邪が長引き予定を変更せざるを得なくなった。

それでも鹿児島集合の22日には体調もかなり改善したので、岡山から新幹線で熊本に入り、途中の「新水俣駅」に立ち寄ってから鹿児島入りすることにした。

水俣といえば言うまでもなく、昭和の高度成長期、日本社会を揺るがした公害問題の原点とも言える水俣病で世界的にその名を知られるようになった町である。

岡山から熊本駅まで乗った「みずほ」は普通の新幹線だったが、熊本駅で乗り換えた「さくら」は1列4席のゆったりとしたレイアウト。

シートがとてもおしゃれで、背もたれが木製だった。

新幹線よりも飛行機を愛する私でも、少し「乗り鉄」気分になってしまう。

何もない街外れに作られた九州新幹線の「新水俣駅」。

立派な駅だけど利用する客は少なく駅の周辺は新幹線が到着した直後とは思えないほど閑散としていた。

路線バスの本数も極めて少なく水俣の街を効率的に回るためレンタカーを借りることにした。

ただし、大手のレンタカー会社はこの駅では営業していないようで、駅前にある「モーモーレンタカー」に飛び込みで行ってみる。

一番安い軽自動車が12時間2650円。

タクシーで街まで往復するよりも安い!

レンタカーでまず向かったのは「水俣市立水俣病資料館」。

1993年の開館以来今年で120万人が来館したという公的な施設で、同じ敷地に「水俣病情報センター」が併設されている。

想像していたよりも立派な施設である。

資料館前の海を望む丘の上には「水俣メモリアル」と題されたアート作品が1996年に作られていた。

『水俣メモリアルは、人命の尊さや公害の悲惨さを訴え、再び災禍を繰り返さないことを誓う水俣市民の心を象徴する場として建設しました。』

モニュメントに添えられたプレートにはそんな水俣市民の意思が表明されていたが、奇病が初めて報告されてから正式に公害病と認められるまで水俣市民を二分する激しい対立が起きたことを今回知った。

資料館が建つ一帯は「エコパーク水俣」と呼ばれる広々とした埋立地で、野球場や陸上競技場、公園、さらには道の駅までが整備されている。

この手の埋立地は日本各地で見られるのだが、水俣の「エコパーク」はちょっと訳ありだ。

実は、水銀を含む工場廃液を水俣湾に流す排水溝があった場所で、埋め立てることにより汚染されたヘドロを地中に閉じ込めているのがこの広大な「エコパーク」なのである。

この場所は単に、日本における公害の原点とされる「水俣病」を今日に伝える施設ではなく、長年にわたって病気と工場の関係を認めず隠蔽し続けた加害企業「チッソ」や企業城下町・水俣の体質を象徴する場所なのだ。

資料館の中に入るとまず目につくのが加害企業であるチッソ水俣工場の全景を写した写真パネルである。

『明治41(1908年)、チッソ水俣工場ができました。その後、チッソは日本経済を支える大企業に成長、それにともなって人口も増加し、工業都市へと発展した水俣市は、経済的にも社会的にもチッソに大きく影響されていきます。』

水俣市の中心部の地図で町の変遷を確認すると、青で示されたチッソの関連用地が拡大するにつれ、それに隣接する場所に市街地が広がっていく様子がよくわかる。

昭和の高度経済成長期に日本各地に誕生した企業城下町。

それが水俣市であり、公害を生んだ背景もそこにある。

チッソのおかげで、水俣に電気が来て鉄道も開通した。

賑わう街の写真には、チッソのおかげで好景気に湧き、明るい笑顔を見せる市民たちが写っている。

ちょうど今、TBSの日曜劇場で放送中のドラマ『海に眠るダイヤモンド』で描かれる炭鉱の島・端島と同じような活気をこの写真から感じた。

そんな希望に満ちた水俣の町で異変が起き始めたのは昭和29年、1954年のことである。

ある漁村で、突然猫が狂い死にする怪現象が起き、猫が全滅してネズミが大量発生していると、漁業者から市に相談が寄せられ、それが新聞に取り上げられたのだ。

水俣市は住民にネズミ駆除剤を配布しただけで、原因を探る動きは見られないまま時間が経過した。

そして猫の怪死から2年後、ついに人間にも影響が現れ始めた。

1956年の4月下旬、水俣市月浦地区に住む5歳と2歳の姉妹に奇病が発生した。

姉妹の診察に当たったチッソ付属病院の細川一病院長は5月1日、熊本県の水俣保健所に対し「脳症状を呈する原因不明の疾病が発生し、これまでに4人の患者が入院」と報告。

この情報は4日に、熊本県の衛生部長に伝えられた。

これが水俣病の端緒とされる。

私が資料館を訪れた時、地元の小学生と思しき集団と遭遇した。

学校の授業で水俣病について学んでいるようで、展示内容を熱心に熱心にメモしている。

その時1人の生徒が、不意に「こんにちは」と言った。

誰に挨拶しているのかと思って周囲を見るが、私の他には誰もいない。

「この子、私に挨拶をしたのか?」と思った次の瞬間、すれ違う生徒たちが全員私に「こんにちは」と声をかけていくのに気づいた。

この後訪れた鹿児島でも同じように挨拶してくれる子供たちに出会ったので、南九州では今も、知らない人にも挨拶する教育が行われているんだと思う。

人と人の繋がりが希薄になる世の中で、この地域には古き良き日本の美徳が残っている・・・資料館での予期せぬ挨拶は私の心に爽やかな風を吹かせてくれたと感じた。

しかしそんな地域でも、水俣病患者たちは激しい差別に晒された。

水俣病はチッソ水俣工場から海に排出されたメチル水銀が原因だったが、加害企業のチッソは長期に渡りその事実を認めず、企業城下町である水俣の市民たちの多くも患者たちに誹謗中傷を浴びせた。

『行政に何の責任があるのか。原告全員敗訴、万歳万歳だ』

『死亡すれば皆水俣病だ(とは)、笑わすなよ』

未認定患者の救済に取り組む団体には心ない嫌がらせのハガキが届き、患者たちは病気と同時に地域から爪弾きにされて精神的、経済的にも苦しむことになる。

ネットによるバッシングがなかった時代にも、人間は自分とは異質な存在を攻撃する習性を持っていた。

水俣病資料館を訪れて最も私の心に残ったのは、「なぜ排水はとまらず、被害が広がったのか?」と題された1枚のパネルだった。

そこには、次のように書かれていた。

排水を止めることは、会社の操業を止めること。そうなれば、会社が倒産し、社員が失業し、また、会社や社員が品物を買っている店も潰れてしまう。その結果、この地域の人々の経済的な豊かさが失われてしまう。併せて、他の工業生産に必要な材料が不足し、国民全体の経済的な豊かさも得られなくなってしまう。そうした中で、排水の停止を主張するならば、工場などの中で疎まれ、大事な仕事から外されてしまう・・・。

あなたなら、当時、こんな気持ちにならなかったでしょうか。「他人の命や健康よりも自分の暮らしを守る事が大事」という考えがあって、「全ての人の命や健康が一番大事」という事を、本当に忘れていないと言えるでしょうか。

私たち人間は、水俣病において、大きな過ちをおかしてきたことを率直に認め、水俣病の経験と教訓を基に、これからの将来をどのように生きていくのか、一人ひとりが今、問われているのです。

水俣病で命を失った罪なき人々の写真を前に己の胸に手を当てて考えてみると、チッソ関係者や水俣市民とは全く異なる問題ではあるが、自分の利害のために他人の犠牲に目を瞑ったことが私の人生にもいくつもあった、そんな気がする。

人間は自分の痛みには敏感だが、他人の痛みには鈍感ですぐに忘れてしまう生き物なのだ。

ウクライナ、ガザ、そして能登。

今、地球上で起こっているさまざまな痛みをどれだけ自分のこととして考えることができるか、水俣病の教訓はそれを私たちに問うている。

水俣病に端を発した一連の社会運動によって、日本では公害による被害はほとんど聞かなくなった。

しかし経済のグローバル化に伴い、水俣と同じような水銀汚染は、私たちの目に見えないところで世界各地に広がっている。

公害は先進国から新興国へ、そしてさらに途上国へと輸出され、そこで生み出された材料をもとに私たちの豊かな暮らしが成り立っているのだ。

水俣病資料館の見学を終えた私は、その足で月浦地区に向かった。

そう、1956年に初めての水俣病患者が報告されたという水俣市内の漁港である。

整然と漁船が並ぶ港からは、水俣病で迫害された過去を感じることはできない。

しかし当時患者たちが味わったであろう疎外感を象徴する場所が、月浦地区の丘の上にあった。

「水俣病歴史考証館」。

漁港から細い山道を登り、丘の上の住宅地を抜けたとてもわかりにくい場所にその民間施設は立っていた。

その日は私以外に訪れる人もおらず、ひっそりとしている。

レンタカーで乗りつけた私の姿を見て、ひとりの男性が集会所と書かれた建物から出てきて別棟にある考証館の鍵を開けてくれた。

どうやらここは1969年の水俣病訴訟開始を受けて、支援者たちが「患者・家族の拠り所」を作ろうとカンパを募り、1974年に設立された「水俣病センター相思社」の拠点らしい。

案内してくれた男性に「どうしてわざわざこんな不便な場所に作ったのですか?」と聞いてみると、「本当は街中に作りたかったんだけど当時は誰も貸してくれずやむなくこの辺鄙な場所に拠点を構えたのだ」と教えてくれた。

当時は日本でも社会主義がもてはやされた時代、この施設にもコミューンのような昔懐かしき左翼の臭いが残っている。

入場料500円を払って考証館の中に入れてもらうと、いきなり手漕ぎ船や古い漁具が展示されている。

最初に水俣病の犠牲者となったのは、先祖代々の方法で目の前の水俣湾で魚を獲り毎日それを食べて暮らしていた漁民たちだった。

戦後36年間、チッソ水俣工場から海に排出されたメチル水銀は食物連鎖によって水俣湾に棲息する魚介類の体内に濃縮され、それを日々食べていた猫や人間に重度の運動障害などをもたらしたのだ。

この考証館では、市営の資料館に比べて加害企業チッソの責任を追及する内容の展示が目立つ。

たとえば、こちらの木製の小屋。

「ネコ実験の小屋」と題されたこの小屋は、チッソ附属病院の細川博士らが猫を使って奇病の研究を行った施設の実物だという。

もともとは工場廃液が原因ではないことを証明するために始めた実験だが、1959年10月、廃液を餌に混ぜて与えた「ネコ400号」が水俣病を発病する。

しかしその事実はチッソ幹部によって隠蔽され、細川博士らの研究も中止されるというチッソの責任を象徴する展示物なのである。

黒い布に「怨」の白文字が染め抜かれたこちらの旗。

水俣病訴訟を戦う患者たちが各地でシンボルとして掲げた旗である。

遺影を先頭に「怨の旗」を掲げて行進する患者家族の姿は、今では美化されることの多い高度成長期の負の側面を象徴する写真だ。

物事には常に光の部分と影の部分がある。

ことさらに昭和を懐かしみ、平成を「失われた30年」と蔑む論調を目にすることが多いが、こうした昭和の汚点を踏まえてその後の日本が作られたことも我々はきちんと理解しておくべきだ。

また、このビンの中に入っている物体は問題の排水口付近で採取したヘドロだという。

水銀を含んだ工場廃水が海に流された「百間排水口」付近には4mものヘドロが堆積していた。

ヘドロに含まれる水銀濃度は最高で2000ppmにも達した。

このヘドロを取り除き埋め立てる工事が行われたが、相思社では証拠隠滅を防ぐため自ら排水口に足を踏み入れヘドロを採取、こうしてビンに詰めて展示することにしたのである。

今更社会主義を礼賛する気など毛頭ないけれど、社会の公正のため権力を監視し弱者の視点から問題を検証する精神はいつの時代にも絶対に必要だと私は考える。

考証館の帰り道、あのヘドロが採取された「百間排水口」に行ってみた。

そこはコンクリートで護岸が固められ、写真とはだいぶ様子が違っていたが、その場所が先ほど訪れた市営の水俣病資料館と水俣駅の間、水俣の市街地の一角に位置していることに驚いた。

そして水俣病の加害企業チッソは社名を「JNC」に変え、今も水俣駅のすぐ目の前、町の一等地に今も昔のまま広大な敷地を所有していた。

つまり、今も水俣は旧チッソの企業城下町なのである。

チッソの歴史を調べてみると、明治時代に創業し戦前には世界有数の化学メーカーに発展した「日本窒素肥料」及び15大財閥に数えられた「日窒コンツェルン」を受け継いだ由緒ある大企業で、旭化成や積水グループ、信越化学といった日本を代表する化学メーカーや自動車のマツダもこの財閥から派生した企業群だということを知った。

現地を訪れて初めて気づくことは実に多い。

私が生まれ育った頃に大きな社会問題となった水俣病は、今の人からすれば単なる歴史かもしれないが、知れば知るほど社会の矛盾、人間の本性が凝縮したような問題なのである。

社会の格差が広がり寛容さが失われつつある今の日本で、水俣病の教訓は再び重要な光を放ち始めているようにも感じた。

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