これまで何度も沖縄を訪れた。仕事だったり、リゾートが目当てだったり。考えてみれば沖縄でまともに観光した記憶がない。
妻は首里城に行ってみたいというので、まずは首里から観光を始めることにした。

「ゆいレール」の終点、首里駅から徒歩で首里を巡る。
首里は、1429年から1879年まで450年間続いた琉球王国の都だった。
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10分ほど歩くと、龍潭という池越しに首里城が見える。龍潭は、王国の創始者、尚巴志(しょうはし)が中国から来た冊封使の勧めを受けて城の北西に造った人工湖だ。

ここから見る首里城は一番美しいと言われるが、実は1970年代までここにはお城ではなく琉球大学の無骨な建物が建てられていた。1945年の沖縄戦で首里城は完全に焼け落ち、戦後跡地に大学が作られたのだ。
沖縄の本土復帰が実現した後、大学は別の場所に移転し首里城が再建された。誰の判断か知らないが、良い判断だったと私は思う。日本には「城址」のまま更地となっている場所が各地にあるが、やはり歴史的建造物は元あった場所に建て直した方がいい。

龍譚を過ぎ緩やかな坂を上がっていくと、世界遺産「玉陵」に到着する。琉球王国・第二尚氏王朝の王族たちが眠るお墓だ。
それにしても日本人のどれほどの人が、琉球王国のことを知っているのだろう?

第二尚氏王朝の歴代の王や王妃の棺の写真が小さな資料館に飾られていた。
7代63年続いた琉球初の統一王朝・第一尚氏に代わり、1469年に即位した尚円王に連なる王統で、明治政府が強制的に沖縄県を設置したいわゆる「琉球処分」によって琉球王国が消滅するまで410年間続いた。

この資料館に展示してあった1枚の写真に目が止まった。
尚典。
彼は最後の琉球国王尚泰王の長男で、琉球処分の結果、明治政府の命令により家族で東京に移住した。父の死後に侯爵となり、貴族院議員も務めた人物だ。
池上永一氏の小説「テンペスト」には彼の祖父の尚育王や父親の尚泰王が登場する。
私はこの「テンペスト」も読んでおらず、琉球処分という史実についてもほとんど知らない。中国の「ラストエンペラー」のことは映画で知っているのに、琉球最後の王についてはまったく知らないのだ。これは日本人として問題ではないかと感じた。

尚育王、尚泰王、そして尚典氏も、ここ玉陵に眠る。
今回の旅行を機に、琉球王国のことを勉強してみようと思った。琉球を知ることは、日本人があまり目を向けてこなかった日本のある側面を知ることに繋がるだろう。

玉陵を出て首里城公園を進むと、沖縄のシンボル「守礼門」に至る。
琉球王国時代、中国からの使者である冊封使を国王がこの門で迎えた。
門に掲げられた「守禮之邦」と書かれた額。この言葉は中国皇帝からの詔勅にあった文言で、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」というくだりから来ているのだという。琉球はその建国以来、明らかに中国の影響下にあったのだ。

首里城を訪れる際、ぜひ見たいと思っていたのが琉球舞踊だ。毎週水・金・土・日の4日間、1日3回無料の舞台が開かれる。
最初の回は午前11時ということで、15分前に公演が行われる系図座という建物に赴いた。

4つの演目で30分ほど。ちょうどいい長さだ。
日本舞踊に似たところもあるが、やはり異国を感じる。衣装も艶やかで日本に比べてやはりはっきりとした色使いが印象的だ。

王宮での舞踊から庶民の舞いまで見物できて料金は無料。別に面白いわけではないが、沖縄文化に触れるために「国立劇場おきなわ」のチケットを買おうかと思っていたので、ちょっと得した気持ちになった。

そしていよいよ首里城正殿へ。
2000年に開かれた沖縄サミットの年、この場所に大型クレーンなどを持ち込み生中継で番組を作ったことがある。サミットでは首里城の北殿で各国首脳を招いた晩餐会が開かれた。
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「あの時の総理は、森喜朗さんだったんだ」と館内に展示されていた写真を見て思った。
私はなぜか、小渕さんが総理だったと勝手に記憶していたのだ。人の記憶とは、本当にいい加減なものだ。

正殿の印象も、私の記憶とは大きく違っていた。
こんなに金色が鮮やかだっただろうか?

気になって調べてみると案の定、昨年塗り直し工事が行われたばかりだった。
首里城公園の公式サイトに「漆塗り直し作業終了のお知らせ」というのが出ているが、日付を見ると昨年の12月19日となっていた。本当に塗りたてのピカピカなのだ。

それにしてもこの色使い、やはり日本文化とはほど遠い。
琉球の文化は、完全に中国文化圏に属していたことを否応無く感じる。

南殿から建物の中に入る。入り口で靴を脱がなければならない。
建物の内部をじっくり見学するのは初めてだ。こちらも最近補修されたように見える。

畳敷きの日本的な空間があるかと思うと・・・

庭は完全に南国風で・・・

そして玉座が置かれ様々な儀礼や祝宴が行われた「2階御差床(うさすか)」は完全に中国風に作られていた。

正殿をはじめとした首里城の建物は、沖縄戦ですべて消失し1992年に再建された。そのため、首里城址は世界遺産に認定されたが、その場所に建つこれらの建物は世界遺産ではない。
それでも見学コースを整備して琉球の歴史を伝えようとする努力が実って、私が訪れた日も多くの観光客で賑わっていた。中国や韓国からの観光客がとても多い。

観光客の誘導に当たる係員も昔の衣装に身を包み、被写体としても一役買っていた。
こうした細かい気遣い、基地経済を脱却し観光で生きていくためには不可欠であろう。

一通り見学を終え、首里城を出て駅に向かって坂を下る。道端にツワブキの花が咲いていた。沖縄のツワブキは本土のそれに比べてゴツい。
外から見上げる首里城の城壁は、想像よりもずっと高く威圧感がある。なぜ島津兵にあっさり負けてしまったのか、不思議なほどだ。

そのまま駅に向かって歩いていくと、古民家を活用した1軒の料理屋さんがある。
「琉球茶房あしびうなぁ」。
実は前夜、那覇最初の夕食をこの店で食べた。

築60年の古民家。砂利が敷き詰められた石庭のような庭を囲んで席が設えてある。
夜でも気温は20度前後。寒くはない。

実はこのお店、2年前仕事で那覇を訪れた際、ランチで連れてきてもらった店だ。その時の印象が良かったので、今回妻を連れてきてあげようと思ったのだ。
庭にはちょうど寒緋桜が咲いていた。

私はまず泡盛を頼んだ。「咲元古酒」の1合(600円)。
私は泡盛の知識がないので、店の人に聞き、ちょっと匂いの強めのものを選んだ。

料理は沖縄料理がいろいろ食べられる「中山第一御膳」(2000円)を注文。まずは前菜三種が運ばれてきた。
島らっきょう、スーチカー、もずく酢だ。

スーチカーとは、豚肉の塩漬けのことだと言う。

続いて2段のお重が・・・。
後列左手から、ラフテーと島豆腐の炊き合わせ、アーサとむき海老のかき揚げ・芋くじあんだぎー、くーぷいりちー。
前列左手から、ミミガー酢、島蛸の刺身と海ぶどう、じーまーみ豆富だそうだ。
あまり沖縄料理を食べ慣れない私には、名前を聞いてもにわかに何であるかがわからない。東南アジアの料理の方が沖縄料理より詳しいというのも日本人として問題な気がしてくる。

緑の方が「アーサとむき海老のかき揚げ」。アーサとはアオサのことらしい。
茶色は「芋くじあんだぎー」。「ンムクジアンダギー」と読む。芋くずと蒸し芋を練って油で揚げたもので、おまんじゅうのように甘い。

こちらが「くーぷいりちー」。イリチーというのは「炒め煮」のことでクープは昆布、つまり昆布の炒め煮で、お祝いの席には欠かせない沖縄の郷土料理なのだそうだ。

「じーまーみ豆富」は落花生で作る。ジーマーミとは沖縄の言葉で落花生のこと。落花生の絞り汁に芋くじを加えて豆腐にする。胡麻豆腐に近い食感だ。

知らない食べ物を食べたがらない妻は「ゴーヤーちゃんぷるー」(700円)を注文。

もう一つ「ぼろぼろじゅーしー」(480円)も頼んだ。
「ジューシー」は炊き込みご飯のようなものだが、「ぼろぼろ」とは何だろう?
後で調べて「ボロボロジューシー」とは、汁気の多い雑炊のことだと知った。普通の炊き込みご飯風のものは「クファジューシー」と呼ぶらしい。
確かに「おじや」風と言うか「猫マンマ」風と言うか・・・。
いかに私が沖縄料理の知識がないか、再認識した夕飯だった。

せっかくなので、最後にもう一品頼むことにした。

「山羊刺」(1100円)。
山羊は沖縄を代表する食材とは聞いていたが、実際に食べたことがなかったのでトライすることにした。正直、私はあまり好きではなかった。馬刺しのようだが、もっと硬い。
ネットで調べると、沖縄でも山羊肉はスーパーなどには流通しておらず、料理屋で食べるのが普通らしい。あるサイトにこんな言葉を見つけた。
『 沖縄県民は大きく2つに分けられる。
ヤギ肉が好きである者。
そうでない者だ。』
なかなかいいフレーズだ。基地反対か容認か、ではなくヤギ肉でも二分される沖縄県民。しかしこちらはいたって微笑ましい。

沖縄には何度も来ているはずなのに、沖縄のことを何も知らない。そのことを、今回の旅ではっきりと再認識することができた。
ウチナーンチュ(沖縄人)とヤマトンチュ(日本人)。
その溝は、私自身の心の中にあったのだ。
まずは沖縄をもっと知ることから始めたいと思う。
<関連リンク>
⑥「万国津梁」アジアをつなぐ架け橋「浜辺の茶屋」で見た沖縄の豊かさ
<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。
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