<きちたび>沖縄3泊4日の旅③  博物館で見る沖縄の歴史「港川人」から「琉球処分」まで

日本人で沖縄の歴史をきちんと知っている人はどれほどいるのだろう?

お恥ずかしながら、私はほとんど知らなかった。だから、博物館に行ってみた。

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沖縄県立博物館・美術館。

2007年にオープンした複合文化施設だ。

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高い天井。なかなか立派な施設だ。

山川出版社編「沖縄県の歴史」の記述を引用しながら、このブログを書いてみたい。

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まず私の興味を引いたのは「港川人」。

この復元模型は最新の研究成果を踏まえて2014年に作られた。

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約2万年から2万2000年前の沖縄で暮らしていたとみられる人類で、沖縄本島最南部の港川で全身骨格が発掘された。全身骨格が残っている人骨としては日本で最古のものである。

「沖縄県の歴史」にはこんな記述がある。

『港川人が住んでいた最終氷期の琉球列島は、台湾やアジア大陸と陸続きでトカラ海峡まで細長い陸橋を形成していたといわれている。港川人はこの陸橋を渡ってきたと考えられている。港川人が南アジアからやってきたことや、縄文人の先祖の一つになったことは人類学では一般的な見方となっている。』

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1967年にアマチュア考古学研究者によって発見された港川人。現代を生きる我々日本人とどんな関係があるのか、まだ解明されていないことが多い。

それでも、琉球列島からは最近、人骨や石器、土器の発掘が相次いでいるらしく、日本の古代史を塗り替える大発見があるかもしれない。これまで全く知らなかった沖縄の考古学にも、少し注目してみていきたいと思う。

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続いて私が注目したのが、薩摩藩の琉球侵攻だ。この歴史も学校で習った記憶がない。

14世紀以来、中国の明朝の冊封体制下にあった琉球に、薩摩藩は軍船100艘3000人余りの兵を送り込み侵略した。1609年のことだ。鉄砲隊の威力に圧倒された琉球側は、徹底抗戦することもなく和睦を乞い降参した。明国へ援軍の要請も行わなかった。

琉球王国の尚寧王は鹿児島に連行され、さらに駿府で大御所の徳川家康、江戸で二代将軍秀忠に謁見した。幕府は尚寧王一行を徳川政権へ「御礼」を述べるための外国使節として迎えた。

そして薩摩藩は尚寧王を島津家の一家臣と位置付け、15ヶ条の「掟」を課すなど琉球統治に乗り出す。

こうして琉球は、中国との冊封・朝貢関係を維持しながら、薩摩藩の支配を通して日本の幕藩体制にも組み込まれる複雑な国家運営を強いられることとなった。これを「日清両属」という。

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幕藩体制に組み込まれた琉球は、使節を徳川将軍のもとに送るようになる。この使節は「江戸上り(のぼり)」と呼ばれ、将軍の代替わりごとに派遣された「慶賀使」、琉球国王が変わるたびに派遣する「謝恩使」の二つがあった。

「沖縄県の歴史」にはこんな記述がある。

『異国風の衣装に身を包み、銅鑼・太鼓・ラッパなどを演奏しながら行列していく様子は、遠藤の人々の耳目を集めた。使節団の来日は、一般の人々にとって琉球を意識し、琉球文化に触れる数少ない機会であった。江戸に往還する使節一行を見るため大勢の見物人が集まり、使節の到着前から行列を紹介した出版物が売り出されるなど、琉球ブームとなった。』

行ってみれば、平昌五輪の美女応援団のようなものだ。いつの世も変わらないミーハー精神。

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そして何と言っても私たちが知らなければならない歴史は「琉球処分」だ。

どのように独立国「琉球王国」は日本に併合されたのか?

ちょっと長くなるが、「沖縄県の歴史」から琉球処分の経緯を引用させていただく。

『アヘン戦争を契機に東アジアの国際秩序は再編成の過程に入り、清国を中心とする伝統的な冊封進貢体制と欧米列強の主導する万国公法的秩序が衝突するようになった。新旧の国際秩序の狭間にあった琉球王国は、国際秩序の再編成過程の激動に翻弄され始め、伝統的な「日清両属」の立場を揺さぶられる事態に直面した。明治新政府が国境画定に着手したからである。

明治5年(1872年)9月14日、一方的に琉球王国を琉球藩とし、国王を藩王と称して尚泰に冊封詔書を交付した。琉球建藩・尚泰冊封の措置が、琉球併合へ向けて用意周到に案出された第一の布石であることを、琉球当局は事前に察知していたが、明治政府の救済によって財政破綻を回避したばかりであったため、冊封回避の有効な対応策を講ずる余地はなかった。

国王尚泰の代理として上京した伊江王子・宜湾親方らは、冊封詔書の受領と引き換えに、薩摩藩の賦課した重税の軽減と慶長年間に奪取された道の島(奄美大島など)の返還を要請し、副島外務卿から善処する旨の回答を得て、意気揚々と帰任した。翌明治6年8月に副島外務卿と会見した琉球使節の与那原良傑も、琉球の「国体政体永久に変わらず」との現地を得て帰任し、琉球の人心を安堵させた。しかし、明治政府は空約束によって琉球当局をコントロールしながら、琉球併合のための第二の布石を準備していた。

尚泰冊封の一年前(1871年)に、日清両国は領土不可侵などを約束した日清修好条約に調印、明治6年にいたって批准書を交換し対等な外交関係を樹立したものの、他方でこの間に、明治政府は台湾東南部に漂着して殺害された琉球人の仇を討つと称し、台湾東南部を国際法上の無主地とみなして密かに台湾出兵を計画していたのである。明治政府の台湾出兵計画に対して、琉球当局は再三反対の意思を表明し、欧米諸国も非協力的な態度を明示した。しかし、翌明治7年、西郷従道に率いられた5000人の日本軍は、清国へ通報することなく独断で台湾東南部へ遠征し占領した。清国当局は直ちに日清修好条約違反の背信行為として日本外務省に抗議文を提出した。

日本軍の台湾出兵を契機に、日本と清国は開戦の危機に直面した。北京に置ける日清談判は難航したが、最終的には駐清イギリス公使ウェードの調停によって北京議定書が締結され、清国側の「撫順金」など50万円の支払いを条件に日本軍は撤兵、開戦の危機はひとまず回避された。明治政府は出兵計画の当初から台湾処分の後に琉球処分を予定し、談判中は琉球の所属論争を回避したが、北京議定書の中に台湾出兵を「保民の義挙」、遭難琉球人を「日本国属民」と明記させ、間接的に「琉球=日本専属」論の論拠を獲得するに至ったのである。

明治8年7月10日、明治政府の命により琉球へ乗り込んだ松田道之は、北京議定書を論拠として琉球藩を日本専属と言明し、琉球当局に対して清国との通交関係の停止を要求した。琉球当局は日清両国を「父母の国」と称して「両属」の立場に固執し、清国に対する国際的信義を強調して、松田と論争を繰り返すとともに、通交停止命令の撤回を要請した。「日清両属」に固執する琉球当局と「日本専属」を強要して「両属」を否定する松田との論争は2ヶ月に渡ったが、決着するには至らなかった。

この間、琉球社会の内部では、清国との通交を断ち日本の専属国となるか、従来通り「日清両属」の国是を死守するか、二つの選択肢を巡って論議が沸騰したが、いずれの選択肢も琉球国存続のための戦術として提起されていた。日本専属を容認する少数派の主張は「日清両属」に固執する主流派の大義名分論に圧倒され、琉球当局も直ちに明治政府の命令を遵奉するわけにはいかず、東京の政府当局へ直接陳情したいと松田に要望した。

松田はひとまず要望を受け入れ、同年9月、琉球側陳情団を伴って帰任した。池城親方らの陳情団は着京後直ちに行動を開始し、以後3年間東京で琉球救国運動を展開、政府当局へ琉球存続の嘆願書を提出し続けたが、その都度拒否された。その間に、池城は使命を果たせず悶死した。池城の命を受けて密かに帰国した幸地朝常は、明治9年12月清国へ密航し、福建当局へ琉球国王尚泰名の密書を提出、進貢使迎接のための接貢船派遣が日本側の干渉によって不可能となった事情を陳述して救援を要請した。

清国側も琉球の進貢停止問題を重視し始め、対応策として、国際会議招集案、対日強硬策、現状維持策などが提起されたものの、いずれも対日外交の基調(日清提携)を堅持しつつ、琉球問題を外交交渉によって処理する方針であった。

駐日公使の何如璋は明治11年10月7日、正式に寺島宗則外務卿へ質問と抗議の書簡を提出し、その中で進貢停止命令を暗に「隣交に背き弱国を欺く」背信行為として非難した。寺島外務卿はこの書簡を「暴言」として逆用し、撤回しなければ交渉に応じないとの態度を堅持したので、日清交渉は停頓した。他方で、明治政府は琉球当局の懸命の請願や清国当局の抗議を一切無視して、50年代に締結された琉球の対外条約の継承、司法権の接収、熊本鎮台分遣隊の派遣など、琉球併合のための既成事実を着々と準備した。

この間、在日の陳情団は琉球の立場を日本国内の世論に訴えるとともに、駐日各国公使へも琉球救国請願書を提出し、明治政府の進貢停止命令を琉球の存亡に関わる問題として国際世論に訴えた。琉球問題の国際化を恐る明治政府は、在京の琉球人に退去を命ずるとともに、琉球併合過程を加速させるため松田道之を再度琉球へ派遣した。明治12年1月26日、琉球陳情団とともに那覇へ到着した松田は、琉球当局へ再度対清関係停止命令の遵奉書を提出するよう命じた。しかし遵奉書は提出されず、松田は予定通り直ちに帰京した。最終決着を急ぐ明治政府は、3月3日、松田に三度琉球への出張を命じた。命を受けて、松田は折り返し3月25日、100人余の内務官僚や警察官、数百人の熊本鎮台分遣隊を率いて那覇港に姿をあらわし、3月27日首里城に乗り込んで琉球藩の廃止と沖縄県の設置を宣言した。4月4日、廃琉置県が内外に布告され、最後の国王尚泰とその一族郎党はまもなく東京へ連行された。500年にわたる琉球王国の歴史は、ここに名実ともに消滅したのである。』

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日本人なら、この琉球処分の歴史は心に刻んでおかねばならないと感じる。太平洋戦争に至る日本の対外侵略の第一歩は琉球だったとも言える。

琉球内部では士族層や役人層を中心とする抵抗が続く。旧琉球藩の首脳は新県政への協力を拒否し、清国の援助を待つ方針を堅持した。これに対して県当局は主要人物を次々に逮捕・拷問し、力による統治を推し進めた。

一方、明治政府による琉球処分により日清関係も緊張した。妥協点を探る日本は、琉球の分割案を提案する。沖縄本島以北を日本領、先島諸島を清領とする案だ。日清の交渉は琉球分割で一旦は合意したが、琉球側の命がけの対清工作により実現しなかった。

こうして琉球問題は日清戦争の一つの導火線となり、日本の勝利によって琉球は完全に日本の領土に組み込まれた。

その間、琉球の人たちの意思が反映されることはなかった。

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<関連リンク>

沖縄3泊4日の旅

①「ステーキ」と「軍用地主」アメリカとの複雑怪奇な関係

②日本人の知らない琉球王国の歴史に己の無知を知る

③博物館で見る沖縄の歴史「港川人」から「琉球処分」まで

④「非武の島」琉球を「基地の島」沖縄に変えたのは誰か

⑤沖縄基地問題の原因は私たち日本人の心の中にある

⑥「万国津梁」アジアをつなぐ架け橋「浜辺の茶屋」で見た沖縄の豊かさ

<参考情報>

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