普天間基地

移転に揺れる普天間基地を見に行った。
普天間基地を遠目に見下ろすニュースでお馴染みの光景は、宜野湾市の嘉数(かかず)高台公園にある展望台から撮影されている。

この展望台は1992年に作られた。世界平和を願う地球儀がモチーフだという。

展望台の3階からは普天間基地に駐機するオスプレイが肉眼で見える。
基地の右手には、2004年に米軍ヘリが墜落した沖縄国際大学、基地の奥には先日ヘリコプターの窓が落下した普天間第二小学校もある。ニュースの現場が私の眼前に広がっているのだ。

展望台には地元宜野湾市が設置したボードがあり、普天間基地の概要が記されている。
『 普天間飛行場は1945年の米軍占領と同時に土地が強制接収され、米陸軍工兵隊が本土決戦に備えて滑走路が建設されました。その後、基地の形態を変えて、本土復帰後においては国の提供施設として米国海兵隊により普天間飛行場として使用されています。』
そして、興味深い数字も・・・。
基地従業員数 204人、 地主数 3874人。基地が返還されると、これらの人たちは間違いなく影響を受ける。この人数を多いと見るか、少ないと見るか?
戦後70年以上、基地のある生活を強いられてきた人たちに大きな変化が訪れようとしている。

展望台には、こんな案内板も・・・。
「普天間飛行場の跡地利用に係る取り組み」。辺野古への移転が予定通り進むと480万平米の土地が戻ってくる。その広大な土地を使って地域経済の活性化を図ることは可能なのか?
宜野湾市は「普天間未来予想図」という動画を毎年作っているという。

しかし、動画を拝見する限り、跡地利用策はまだ漠然としているように見える。これで街に賑わいが作れるのか、目玉が足りない印象を受ける。
「未来基金」を作って、地元の若者を留学させるなどのプランが案内板に書かれているが、それで基地返還後の沖縄経済を支えることができるだろうか?

展望台のある嘉数高台は、昭和20年4月8日から16日間続いた激戦の舞台だ。日本軍は首里に置いた司令部を防衛するため、その北方に当たる高台に地下陣地を築き、米軍の主力部隊を迎え撃った。

公園の茂みには今も「陣地壕」の入り口が残っている。

日本軍は嘉数高台に「反射面陣地」を築き、米軍の戦車部隊に激しく抵抗した。
この「嘉数の戦い」での日本軍の戦死傷者は6万4000人と言われ、沖縄に投入された総兵力10万人の半数以上が損害を受けたとされる。

展望台の近くには守備隊が立てこもった「トーチカ」が保存されている。
北側に向かって開かれた小さな銃眼が2つ。鉄筋コンクリート製のトーチカは激しい銃撃を受け、表面が激しく損傷している。

裏側には日本兵が出入りするための穴が開いているが、これが狭い。
せっかくなので、私もトーチカに入ってみたが、膝をついて潜り込まないととても中に入ることはできない。

トーチカの内部は、およそ2m四方の広さ。ここに3人の兵士が入って敵に対する。

兵士たちの任務は、目の前の敵をただただ撃退することだ。それができなければ、死が待ち受けている。戦闘を前に、兵士たちはトーチカの中で何を思っただろう?

しかし、そんな戦時の切迫感は今は微塵も感じられない。
私が訪れた日、嘉数高台公園では祭りが開かれていた。沖縄は今、桜の季節だ。この三連休、沖縄の各地ではお祭りが開かれ、ステージではお笑いコンテストが行われていた。

嘉数高台で戦史に残る激戦を繰り広げた日米両国は戦後、日米安保体制を構築し、かつての激戦地に海兵隊が常駐する基地を置いてきた。
その普天間基地の返還に日米が合意したのは1996年。あれからもう20年以上がすぎた。
沖縄と日本とアメリカの複雑怪奇な関係。
それぞれの文化と感情が複雑に絡み合いながら、どのような未来に繋がっていくのだろうか?
<関連リンク>
⑥「万国津梁」アジアをつなぐ架け橋「浜辺の茶屋」で見た沖縄の豊かさ
<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

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