平成と大正

変な台風が日本列島に接近している。

八丈島の東側からどんどん西に回り込んできて、関東の南を抜け、東海に上陸、そして西日本へと、東から西に進む台風だという。

進路が通常のスライスではなく、フックなのだ。偏西風は一体何をしているのだろう。

おかげで隅田川の花火大会も順延となり、連日35℃を超えたクソ暑さも一気に和らいだ。

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そんな週末の土曜日、一冊の本を読んだ。

毎日新聞社編『大正という時代 「100年前」に日本の今を探る』。大正改元から100年目となる2011年に毎日新聞が企画したもののようだ。

この本の主旨を一言でいうならば、「平成と大正は似ている」ということだ。

はて、大正ってどんな時代だっけ? あまり印象のない時代である。

大正デモクラシー、関東大震災・・・、後なんだっけ?

 

本の冒頭、明治学院大学の原武史教授と京都大学の佐藤卓己准教授の対談の中で、三島由紀夫の小説「春の雪」の話が出てくる。三島は登場人物にこんなことを言わせている。

『 明治が「清らかな偉大な英雄と神の時代」なのに対し、大正はカフェーや女性専用車が登場した、いわば女性重視の「軟弱な、情けない時代」だと嘆くのです。 単独で行動することが多かった明治天皇に対し、大正天皇はしばしば皇后と一緒に馬車に乗り、沿道で民衆に目撃されています。女性の地位向上や一夫一婦制の確立が、明治とは異なる大正という新しい時代の幕開けとなっていました。』

明治、昭和天皇に比べて陰が薄い大正天皇。私もほとんど知識がないが、どうやら今の天皇に似た印象のリベラルな天皇だったようだ。身体が弱く、皇后を伴って御用邸で過ごす時間が長かった。そして、大正10年には皇太子を摂政として、自らは政務から身を引いた。

平成天皇は本当によく働く天皇だったが、プライベートを大切にし一貫してリベラルな姿勢を貫いた点では大正天皇を継ぐ面も多かった。

それでも戦前はやはり天皇が絶対的な社会だったので、大正天皇のそうした考え方が大正という時代に大いに影響したのは間違いないだろう。

 

この本の中から気づいた平成と大正の類似点をあげてみる。

関東大震災が発生したのは大正12年(1923年)だった。死者行方不明者10万5385人、30万近い家屋が倒壊又は消失した。平成23年の東日本大震災の死者行方不明者は1万8400人あまりである。

ラジオ放送が始まったのが大正14年だ。今では聞く人も少なくなったラジオだが、メディアといえば新聞・雑誌しかなかった当時、ラジオこそが画期的な新メディアだった。平成に誕生しメディア状況を一変させたインターネットと重なる。

そして世界史的に見れば、大正は第一次世界大戦とロシア革命の時代であった。第一次大戦は国家総動員による総力戦という新たな戦争スタイルを生み、その結果起きたロシア革命は共産主義というまったく新しい思想を世界にもたらした。その中で日本は、日清日露戦争は明治、満州事変から太平洋戦争は昭和、その間で大正期の日本国内は落ち着いた時代だった。ただ、中国への21カ条要求、シベリア出兵、共産主義者の逮捕など昭和へとつながる芽は確実に育ちつつあった。

果たして平成の世界情勢はどうだったか?

大正に生まれたソビエト連邦は平成3年に崩壊した。共産主義という20世紀の世界を二分した壮大な実験は、その総本山の崩壊によって神通力を失った。同時に対立軸を失った世界の中で、自国優先のポピュリズムと宗教対立に根ざしたテロが台頭する。その中で日本は、平成の30年間平和を守り落ち着いた時代が続いたが、世論の右傾化は確実に進んでいる。

こうしてみてみると、確かに平成と大正は似ている。

後世から振り返った時、私たちが大正を知らないように、平成という時代も歴史教科書ではあまり扱われないと考えられる。個人的に言えば、平成は比較的いい時代だったと思っているが、いい時代というのは歴史に残らないものなのだろう。

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しかし、その落ち着いた大正の後、昭和の激動期がやってくる。それは私たち平成を生きる人間として、心しておかなければならない。

世界恐慌が昭和4年、満州事変は昭和6年の出来事だ。

この大正から昭和への転機に何があったのか? 日本女子大の成田龍一教授が対談の中に気になる指摘をしていた。

『 今まではわりと単純に、「大正期」が終わって昭和となる過程を、デモクラシーが抑圧され、その結果、戦争の時代に入ったと考えられていましたが、果たしてそうでしょうか。「大正期」から戦争期への推移は、むしろデモクラシーゆえに戦争体制=総動員体制が作り上げられていったという側面がある、いやこの局面を重視して考えてみたいということです。

戦争や動員の体制は、社会編成を変えていく動きですね。今までの社会の仕組みでは利益を得られなかったり、平等からは著しく阻害されていた人たちが、戦争のための動員、あるいは戦争のための体制づくりの中に、ある種の平等感や社会的上昇のルートを見出し、そのことによって自発的に参加していく。

旧来の社会編成の打開ですが、そのベースとなるのは「大正期」を通じて登場する、「主張する民衆」です。「主張する民衆」の主張をどの方向に導くかをめぐり、つばぜり合いがあって、その一つの方向性によって、戦争体制、戦時動員体制という形で帰着したのだろうと思います。

すなわち、デモクラシーが崩壊したのでなくて、デモクラシーがそうした新たな体制への条件を作り出していったと考えた方が、歴史過程に即した説明になるだろうと思います。』

大正デモクラシーが昭和の戦争体制を作ったというのだ。

ちょっと目から鱗。

『 たとえば日比谷焼き討ち事件や米騒動に参加してきた人たちが、自警団に加わり、朝鮮人の虐殺に関与しました。』

私の脳裏には、「ネトウヨ」という言葉がよぎった。

平成の次に時代が「戦争期」でないことを望まずにはいられない。

 

 

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