<きちたび>奈良の旅 2019〜大仏の首が落ちた! 大仏殿が焼けた! 大きいだけじゃない東大寺の歴史に触れる

🔶「旅したい.com」から転載

<奈良>大仏の首が落ちた! 大仏殿が焼けた! 大きいだけじゃない東大寺の歴史に触れる

🇯🇵奈良 2019年11月30日~12月1日

奈良の大仏を見てきました。久しぶりに見ると、やはり大きいです。

でも、それだけではブログも書けないので、東大寺の歴史を調べながらまとめてみることにします。

大仏殿が焼けたのは知っていましたが、首が転がり落ちたこともあったことは今回初めて知りました。

南都六宗と南都七大寺

古都・奈良の朝・・・。

ねぐらから起き出した鹿たちが、交差点を占拠しています。

親子でしょうか?

子鹿の面倒をみる母鹿の姿もありました。

鹿せんべいを売るおばさんに、朝ごはんを催促する図々しい鹿もいました。

鹿がいるだけで、とても非日常を感じる朝の散歩です。

奈良に宿泊した朝、早めに朝ごはんを済ませて2つの世界遺産、興福寺と東大寺をぐるりと散歩しました。

興福寺は法相宗の大本山、東大寺は華厳宗の大本山で、そのほか律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗を合わせて、奈良時代の仏教には南都六宗と呼ばれる6つの宗派がありました。

私たちに馴染みのある後世の宗派に比べると、南都六宗は経論の研究が中心で、複数の学派を兼学するのが普通だったそうです。まだ大陸から伝わったばかりだったので、まずは学ぶところからスタートしたのでしょう。

法相宗は、大乗仏教の代表的哲学の一つである「唯識(ゆいしき)」を学びます。仏教の心理学ともいえる学問だそうです。

かなり難しくて意味がわかりませんが、私が読んだ「奈良県の歴史散歩」には次のように説明されていました。

眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんに)の六識の奥にあるマナ識(自我のこと)とアラヤ識(すべてのものを生みおこす心の本体)の存在を説くのが特徴。この八識から心こそが、すべてのものをつくり出す根本であるというのが、唯識の考えの基本である。インドの高僧無著(アサンガ)と弟の世親(バスバントゥ・天神菩薩)が開いた。2人の師にあたるのが弥勒(みろく・マイトレーヤ)で、実在の人物であるとされており、仏の弥勒菩薩と同一視される。やがて唯識は、玄奘三蔵によって唐に伝えられ、その弟子慈恩大師によって法相宗が開かれた。日本では興福寺と薬師寺を大本山とする。かつて法隆寺や清水寺も法相宗であった。

「奈良県の歴史散歩 上 奈良北部」より

弥勒菩薩やら三蔵法師やらが登場するので多少興味が湧きますが、最初に日本に伝わった仏教というのは、こうした哲学的なものだったということがわかりました。

一方、華厳宗については、このように説明されていました。

華厳経を教義の中心とする宗派で、盧舎那仏を本尊とし、世界のすべての事柄は、縁起によってつながっているという「一即多、多即一」を所説とする。東大寺を大本山とし、新薬師寺・帯解寺・安倍文殊院などが属する。

「奈良県の歴史散歩 上 奈良北部」より

「一即多、多即一」とは、まるでラクビーのようです。

ちなみに、奈良時代に平城京の周辺にあって朝廷の保護を受けた7つの寺を「南都七大寺」と呼ぶのだそうです。

東大寺や興福寺に加えて、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺。

法隆寺は少し平城京から離れているので、唐招提寺を代わりに入れる場合もあるようです。

そんなお勉強をしたうえで、南都六宗の大本山の一つであり、南都七大寺の一つでもある世界遺産・東大寺にお参りしましょう。

最初にお断りしておきますが、東大寺には初日の夕方と翌日の朝と2回にわけて訪れたので、記事の中に朝と夕方の写真が順不同で出てくるので悪しからず・・・。

南大門と金剛力士立像

東大寺には、南側から入るのが正式ルートです。

たくさんの鹿たちがお出迎え。

おみやげ物屋が並ぶ石畳の参道の奥に見えるのが・・・

東大寺の正門「南大門」です。

中国では建物の南を正面にする習わしがあり、古代日本も中国文化を模範としたため、正門である南大門はほかの門よりも大きく作られました。

高さは約26m。

近くから見上げれば、確かに圧倒される大きさです。

南大門の正面に掲げられた額には、「大華厳寺」と書かれています。

文字通り、華厳宗の大本山であることを表しているのでしょう。

現在残っている南大門は1199年に再建されたもので、すごく年季が入っていて、国宝にも指定されています。当時の中国・宋の技術を導入して建てられたそうです。

この南大門で必見なのは、こちら・・・

東大寺を守護する「木造金剛力士立像」。

日本最大の木彫仁王像であり、国宝です。

1203年に運慶・快慶ら奈良の仏師20人が総出で69日間で完成されたと言われています。

口を開いた「阿形(あぎょう)」が836.3cm。

「阿吽(あうん)」の「阿」です。

阿吽とは、古代インドでは宇宙の始まりから終わりまでを表す言葉とされ、阿(a)は全く妨げのない状態で口を大きく開いたときの音で、始まりを意味します。

一方、口を閉ざした「吽形(うんぎょう)」は842.3cm。

「阿吽」の「吽」は、口を完全に閉じたときの音(m)で、物事の終わりを意味しています。

仁王像はどこのお寺でも目にするので珍しくはありませんが、東大寺の金剛力士像は近くから見るとその大きさに圧倒されます。

そして筋骨隆々としたその肉体美。

それぞれ3000個もの部材を使用した寄木造とは思えない流れるような像です。

南大門を抜けた先、右手にあるのが東大寺の本坊です。

11世紀後半以降、上皇や天皇が高野山参詣の際に御所として使ったり、1195年の大仏殿落慶供養会では源頼朝の宿所となりました。

1877年には明治天皇が宿泊したこともあり、それを示す石柱も建てられていました。

ちなみに、この本坊では写経もできるようです。

大仏殿は世界最大の木造建築物?

参道をさらに北へ進むと、右手に池が現れます。

「鏡池」です。

鏡池の名の通り、鏡のように周囲の風景を水面に映し出します。

参道の先にあるのが中門、その背後の大きな建物が大仏殿です。

大仏殿を守るように建つ中門(ちゅうもん)は、1716年ごろ再建されたと伝えられる国の重要文化財です。

中門は基本的に閉じられていて、ここから入ることはできませんが、大仏殿を拝むことはできます。

入場料を払いたくないという人は、ここから参拝も・・・。

ただ、一年に一回、元日の0時から8時までは中門が開き、まっすぐ大仏殿に入ることができるそうです。

中に入りたい人は、中門から廻廊沿いに左手に進むと入場門があります。

ここで入場券を買います。

入場料は、大仏殿だけなら600円、東大寺ミュージアムとのセット券だと1000円となります。

私は行きませんでしたが、東大寺ミュージアムは南大門を過ぎた左手、本坊の正面にあり、仏像などを見ることができるようです。東大寺に伝わる古文書などを閲覧できる東大寺図書館も併設されていて、東大寺のことを詳しく知りたい方には必見の施設でしょう。

ゲートを抜けると大仏殿がドーンと見えてきました。

寺社仏閣はやはり年を取ってから来なければその価値はわかりません。小学校の修学旅行でも来たはずですが、当然のごとく何も覚えていませんでした。

写真ではうまく伝わりませんが、大仏殿・・・やはりでかいです。

もちろん国宝で、「東大寺金堂」というのが正式名称のようです。

近づくと、ますますその大きさに圧倒されます。

大きさについては資料によっていろいろなので、とりあえずウィキペディアの数字を使うと、正面の幅が57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。

「世界最大の木造建築物」と呼ばれています。

中国あたりにはもっと大きい建物がありそうだなと思って調べてみると、中国ではないですが、いくつかもっと大きい木造建築物がヒットしました。

スペインのセビリアに2011年4月に完成した「メトロポールパラソル」という博物館などが入る建物は、幅150m、奥行き70m、高さは26m。アメリカのオレゴン州にある飛行船格納庫は、幅90.2m、奥行き304.8m、高さ51.8mもあるという情報もあります。

東大寺の公式サイトには、「世界最大級の木造建築」という表現が使われていました。

そもそも奈良の大仏は、743年、聖武天皇の発願により制作が開始されました。

そして大仏殿がほぼ完成し盛大な開眼供養が行われたのは752年、奈良時代のことです。

実は、創建された時の大仏殿は今よりもさらに大きなものでした。

「東大寺要録」によれば、その大きさは、幅は29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)。

今よりも横幅が今の1.5倍、そのかわり高さは今より少し低かったことになります。

大仏殿は2度焼失した

こうして今から1300年以上前に建てられた大仏殿ですが、実は過去に2度、戦乱に巻き込まれ燃えてしまったのです。

奈良時代に作られた大仏殿が最初に焼失したのは、1180年。

平重衡による南都焼討によって、他の主要施設もろとも東大寺はほぼ全焼したのです。

平清盛が権力を握っていたこの時代、東大寺など奈良の寺社は皇室との関係を盾に平氏に従わず、ついに清盛の命を受けた重衡らの軍勢が奈良に攻め込んだのです。東大寺など有力なお寺は強力な僧兵を抱えていましたが、平氏軍が放った火は東大寺や興福寺をはじめ奈良の町の大半を燃え尽くしました。

清盛は東大寺の荘園や寺領すべてを没収し、寺の再建も認めない厳しい処置をとりましたが、翌年その清盛が謎の高熱で死亡します。人々は仏罰と噂し、息子の平宗盛は寺の再建を認めることにしました。

僧の重源を中心に勧進という資金集めが行われ、源頼朝の援助もあって、東大寺は1195年に大仏殿は元の大きさのまま再建されたのです。

大仏殿が再び焼けたのは室町末期の1567年、三好三人衆と松永久秀の戦いでのことでした。

これは織田信長が上洛する前、畿内一円を支配していた三好一族の内部抗争。三人衆も久秀も三好政権の幹部でした。

東大寺周辺で市街戦が展開され、東大寺に陣を布いた三人衆軍に松永軍が奇襲をかけ、東大寺が戦場となりついには大仏殿まで炎に包まれたのです。

「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれます。

この時は、戦国時代ということもあり、大仏殿の再建はなかなか進まず、江戸時代になって、僧の公慶が勧進活動で寄付を集め、ようやく1709年に再建されたのです。

江戸時代に再建された現存する大仏殿が創建当時より小さくなった理由は、この時の資金不足が原因だったのです。

2度も焼失した大仏殿ですが、その前に立つ「八角灯籠」は大仏開眼の752年ごろに作られたものと考えられています。

浮彫りの菩薩には天平時代の作風が・・・。

金属製灯籠としては現存最古で、国宝に指定されています。

何度も首が落ちた大仏さま

それでは、大仏殿の中に入ってみましょう。

大仏殿に上がる石段は、一段ずつが高く、かなり急です。

大仏殿の中に入ると、いきなり目の前に「奈良の大仏」が・・・。

高さ16m、顔の長さだけで5.28mあるそうです。

正式名称は「盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像」、国宝です。

盧舎那仏は、あらゆる場所を照らす太陽を象徴し、その光明によって人々を導く仏とされます。

聖武天皇の時代、奈良の都では天平文化が花開いていた一方、疫病や飢饉が多発し、藤原広嗣の乱が発生するなど社会不安が増大していて、大仏には仏教によって国を鎮める願いが込められていました。

資金集めには、当時人々に人気があった行基が勧進役に起用され、幅広い人たちから寄付を募りました。3年がかりでの大仏制作にはのべ260万人が関わったとされ、文字通り国を挙げての大プロジェクトだったのです。

では、どのようにして大仏は制作されたのでしょうか?

私が参考にした「奈良県の歴史散歩」には、このように書かれていました。

  1. つき固めた土のまわりに、石を組んで高さ2.5mの土台を築く
  2. 土台の上に木柱の骨組みを作り、その外側を木や割竹で覆うようにカゴを編み上げ、表面に粘土や砂を混ぜた土を何度も塗り重ねて、大仏の原型を作る
  3. 表面に漆喰を塗った大仏の原型から、外型(漆喰の表面にさらに土を塗って乾燥させたもの)と中型(原型の表面を3~5cm削ったもの)を作る
  4. 外型を固定すると同時に作業の足場を作るため、外型のまわりを土で埋めて動かないようにする
  5. 外型と中型の間に生じた隙間に溶けた青銅を流し込む
  6. このような作業を、下から順に8回に分けて行う
  7. 鋳造が終わると、上から順に盛土と外型を取り除く
  8. 砂金と水銀を練り混ぜた金アマルガムを大仏の表面に塗り、水銀を蒸発させて鍍金を施す
  9. 大仏の背中に光背を作る

しかし、こうして最先端技術を駆使して作られた仏像も、大仏殿同様、破壊と再生の歴史を歩んできたのです。

9世紀前半には大仏が傾き、855年には地震のため大仏の頭部が落下しました。

平氏による南都焼討と三好・松永の戦いで大仏殿が2度焼失した際にも、大仏は大きく破損し、頭部から肩の部分などは江戸時代に再建されたものです。創建当時に作られた部分は、腹部から下や台座などにごくわずかに残っているだけです。

大仏の背後に置かれた「光背」。

仏の体から発せられる光明、すなわち「後光」です。

横から見ると、こうやって固定してあるんですね。

真後ろから見ると、こんな感じ。

普段見る機会がないので、ちょっと面白かったです。

大仏殿の中には・・・

広々した大仏殿の中では、他にもこんなものを見ることができます。

大仏の左隣に座るのは、「虚空蔵菩薩」。

広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩だそうで、そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらすとして信仰されています。

大仏に右手には、「如意輪観音」。

意のままに智慧や財宝、福徳もたらし、煩悩を打ち砕くとして信仰される観音菩薩だそうです。

如意輪観音の奥に立つのは「多聞天」。

毘沙門天の別名で、四天王の一尊とされる武神です。

多聞天の脇にある柱から突然子供が出てきました。

この柱には大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が空いていて通り抜けられるということで、子供たちには大人気です。

創建当時の東大寺を再現した50分の1模型も置かれていました。

大仏殿が今より大きく、それを挟むように東西に高さ100mほどある七重塔が立っています。

そのまま残っていたら、さぞ壮観だったことでしょう。

大仏殿の外にはちょっとユーモラスな木像が置かれています。

江戸時代に作られた「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」です。

賓頭盧尊者とは・・・?

説明書きにはこう書かれていました。

『 仏弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある十六羅漢(らかん)のうち、第一の聖者である。説法に優れ、「獅子吼(ししく)第一」と呼ばれたが、釈迦にとがめられたほどの神通力の持ち主でもあったという。彼には種々の伝説があり、中国ではそれをもとに、聖僧として食堂(じきどう)に彼の像が安置された。日本ではその像を伽藍の前に安置し、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰がある。ここから「撫仏(なでぼとけ)」とも呼ばれている。』

ということで、江戸時代から多くの人に撫でられたため、どこか丸みのあるユーモラスな像になったのでしょう。

東塔を再建する計画も

大仏殿の東、若草山の麓にも東大寺の境内は広がっています。

2日目の朝は、そちらをぶらぶら歩いてみることにしました。

鏡池の手前を右に曲がり、紅葉した木々と池の向こうに大仏殿を見ながら石畳の道を進みます。

今年は暖かい日が続いたため、12月になってもまだ紅葉真っ盛りです。

奈良公園では鹿たちと記念撮影を撮る観光客たち。

気持ちのいい朝散歩です。

公園の一画がフェンスで囲われ、「東塔院跡発掘調査中」と書かれています。

創建当時、七重塔があった場所でしょうか?

調べてみると、戦乱で焼失した東塔を再建する計画があるようです。時間はまだかかりそうですが、ぜひ実現してもらいたいと思います。

その先に進むと、道が徐々に上り坂になりました。

まず見えてきたのは、国宝も「鐘楼」です。

禅師栄西によって、13世紀に再建されたものとされています。

752年に鋳造された国宝の梵鐘は、高さ386.5cm、重さは26トン。

中世以前に作られたものとしては日本最大の鐘です。

「奈良太郎」とも呼ばれ、京都の知恩院、方広寺の鐘と並んで「日本三大名鐘」に数えられます。

除夜の鐘は一般の人でも参加が可能で、当日この鐘楼の前で整理券が配られるそうです。

鐘楼の近くには、鎌倉時代に東大寺を再建した重源を祀る「俊乗堂」があります。

ここには重源の像である国宝の「木像俊乗上人坐像」が安置してありますが、まだ時間が早すぎて拝むことはできませんでした。

さらに、近くには東大寺建立時に勧進活動を行なった行基を祀る「行基堂」もひっそり建っていました。

「お水取り」の舞台、二月堂へ

再び若草山の方向に石段を登っていくと・・・

目の前に現れたのは、国宝の「法華堂」。別名、「三月堂」とも言います。

もともと東大寺の前身である金鐘寺の一堂だったそうで、東大寺創建よりも古い建物だと考えられています。

私は入りませんでしたが、法華堂の本堂には、天平時代の仏像が多数安置されているそうで、本尊の「不空羂索観音」などその多くが国宝です。

法華堂の南に建つのが、「手向山八幡宮」。

奈良時代、八幡神の助力で大仏が鋳造されたので、九州の宇佐八幡神を大仏の守護神として招いたのが始まりだそうです。その後、東大寺の守護神として尊崇されましたが、明治の神仏分離令によって独立した神社となりました。

紅葉の美しさが一際目を引きます。

古くから紅葉の名所として知られ、菅原道真もここで歌を詠んでいるそうです。

中には舞台のようなものがあり、月に一回、雅楽の演奏が行われると日本語と英語で案内が書かれていました。

境内の一番高いところにあるのが「二月堂」です。

毎年旧暦の2月に行われる「お水取り」で有名です。

急な階段を登って、お水取りの舞台となる2階へ上がります。

階段の脇にはずらりと寄進者たちの石碑が並んでいました。

石段を上ると視界が一気に広がります。

頭上の大きな飾りが印象的です。

お堂に沿って舞台の方へ進んでいくと・・・

天気がいいこともあって、素晴らしい眺めです。

東大寺の伽藍の向こうに奈良の街並み、さらには信貴・生駒の連山まで望むことができました。

「お水取り」本番となる毎年3月12日の夜、お松明を持った僧侶がこの舞台を振り回します。

あの大きな松明は、長さが8m、重さは70kg。

お松明の火の粉を浴びると健康になるということで、多くの信者が舞台の下に陣取り、燃えかすを持って帰ってお守りにするそうです。

奈良の代表的行事として知られる「お水取り」は正式には「東大寺修二会(しゅにえ)」といい、二月堂の本尊である十一面観音に犯した過ちを懺悔し、天下泰平や五穀豊穣、人々の幸せを祈る「十一面悔過会(けかえ)」という法要なのです。

東大寺修二会は752年の東大寺開山当初から始まり、毎年絶えることなく続いてきました。

やはり火を使った儀式は時代を超えて人々を興奮させる魔力があるのでしょう。

参拝を終えると、北側の階段から降りました。

屋根付きの長い階段で、とても風情があります。

二月堂の下には、「閼伽井屋(あかいや)」という小さな小屋があります。

目立たない建物ですが、実は「お水取り」ではとても重要な役割を果たすのです。

3月12日の深夜、この小屋で汲んだ「香水」が二月堂の本尊に備えられます。

この水は、若狭国小浜にある遠敷(おにゅう)神社から送られてきた水とされています。若狭では「お水送り」の行事が行われ、奈良で「お水取り」の行事が行われるのです。

全国の神々が東大寺に招かれた際、若狭の遠敷明神が漁に夢中になって遅刻し、そのおわびとして本尊に納める水を送ると約束したという故事に由来しているそうです。

日本の神話って、どこか間が抜けていてそのゆるさが魅力ですが、そんな行事が1300年も続いているというのも考えてみるとすごいことです。

正倉院は東大寺の北

東大寺の主な施設は、こんなところです。

だいぶ歩き疲れたので、ホテルに戻ることにしたのですが、一ヶ所どうしても確認しておきたい場所がありました。

子供の頃から教科書で習った有名な「正倉院」です。

来た時とは別の「裏参道」を下っていきます。

このみちも石畳、両脇にタイプの違う塀が続き、感じのいい道です。

水田のようです。

位置から判断すると、ここも東大寺の土地のようです。

調べてみると、「二月堂供田(くでん)」と呼ばれ、お寺で使うお正月の鏡餅やお水取り行事で使用されるお供えの餅を作るための「餅米」を栽培する田んぼだとわかりました。

さらに進むと、大仏殿の裏手に出ました。

広々とした公園のようですが、ここはかつて東大寺講堂があった場所だそうです。

講堂は僧侶たちが集まり、仏教の研究などが行われた施設ですが、3度にわたり焼失し、ついに再建されませんでした。現在は、芝生公園として穴場スポットとなっていますが、講堂の礎石は昔のまま残されているそうです。

そこを少し西に進んだところにあるのが、お目当ての正倉院です。

もともと東大寺の正倉(倉庫)で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの宝物を中心に所蔵されていますが、明治時代に東大寺から内務省に所管が移され、現在は宮内庁が管轄しています。

正倉院の内部は見ることはできず、建物だけなら平日の10時から15時まで見学することができるそうです。

私が行ったのは週末のしかも10時より前だったので、見られたのは塀や門だけで、校倉造の外観すら見ることはできませんでした。

正倉院から南に下っていくと、「東大寺戒壇堂」という建物があります。

正式に僧侶になるための「戒」を授ける儀式を行う場所です。

聖武天皇が唐で行われていた「受戒の制」を取り入れようと中国から鑑真を招き、東大寺で自らも戒を受けました。その時作られた戒壇の土を大仏殿の西南に移し、ここに受戒のための施設が初めて作られたのです。

「戒律」という言葉は一般的に使われますが、「戒」とは修行者自らが仏教者として守らなければならない戒め、「律」は僧侶集団である僧伽(そうぎゃ)の集団運営のための規則だそうです。

僧尼たちが守るべき「具足戒」は、男性の僧は250、女性の僧は348もあり、殺さない、盗まないという基本的なものから日常生活の細かな規則まであります。

東大寺戒壇院創建の後、筑前国(福岡県)の観世音寺、下野国(栃木県)の薬師寺にも戒壇が設けられ、僧になるにはその三戒壇のいずれかで受戒しなけれならないと決められました。

ホテルをチェックアウトする時間が近づいたので、戒壇堂からホテルに向かいます。

白壁が続くいい路地です。

振り返ると、東大寺の伽藍の向こうに若草山が見えました。

東大寺をぐるりと巡る奈良の朝散歩。

京都とは一味違う静かで落ち着いた時に魅了されました。

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